江戸名所巡り 第五回 両国界隈(前編)

7月17日(火)、21日(木)、21日(土)の三日間、両国界隈を巡りました。

3月から始まった江戸名所巡りも今回で5回目となりました。熱中症が危ぶまれる中、有志の皆様が集まり、JR浅草橋駅東口を10時に出発しました。

神田川に架かる浅草橋を見ながら進むとすぐに柳橋に着きました。手前に創業安政元年の亀清楼があります。大相撲の横綱審議会が開かれる所です。橋の欄干には柳橋芸者を表す簪のレリーフがあり、進むと赤や緑、青と簪の色が変化していきます。

柳の樹もありました。橋を渡った所に柳橋と両国広小路の説明板があり明暦の大火で10万人に及んだ死傷者を出した事で橋と火除地としての広小路が造られたことが記されてありました。

10時半頃、大橋(両国橋)ばたの広重の絵と両国花火の絵を見ながら説明を聞きました。武蔵と下総両国に架かる大橋で両国橋と呼んだという話に大きくうなずき納得するのでした。江戸庶民を楽しませた花火は、最初は凶作や疫病の死者の慰霊と悪疫退散を祈願してここ両国で始まりとの事です。玉屋が川上,鈎屋が橋の下流を受け持ち花火を打ち上げたそうです。

その後、交通事情などにより現在は隅田川花火大会となり少し上流で行われています。

明暦2年(1656)創業の大木唐辛子店がありました。

両国橋西詰一帯の広範囲に幕府の米蔵があり、矢ノ倉といいました。米を搬入する為に水路が彫られました。これが後世まで残された薬研堀という事です。

薬研堀不動院へ道を進みました。不動尊の幟の間を登りました。御本尊は紀州根来寺に安置されていたが秀吉の根来攻めにより東国に逃れ隅田河畔に安置されたのが始まりとの事です。みんなでお詣りしました。庭には弘法大師の像がありました。

賀茂真淵の旧宅跡の説明板がありました。国学の振興に尽力した人です。

明治座の横を通り浜町公園に着きました。熊本藩細川家の下屋敷跡です。木陰がとても嬉しいです。加藤清正を祀っている清正公堂がありました。

2,3分すると新大橋がありました。明治45年に架けられた新大橋は関東大震災(大正12年)の折、火災を免れる人々が橋詰の派出所の巡査の誘導や適切な処置(燃えやすい荷物を捨てた)により多くの人々を救い人助け橋と呼ばれるようになりました。その説明板と避難記念碑を見ました。

そして現在の新大橋を渡りました。中央に橋の由来や広重の江戸百景のレリーフがありました。前回歩いた場所に新大橋跡がありましたが、あの場所が江戸時代の橋の場所です。

橋を渡り切り公園に入ると安宅丸由来碑がありました。北条氏が造船した舟で400人の水夫が200本の艪で交代して漕いだと言われています。米4000石(1万俵)を乗せられました。その後、豊臣・徳川の手に渡り、御船蔵のこの地に繫がれましたが家光の時代に新造船にとってかわられ解体されたとの事です。白鳥の親子の置物にほっとしながら水分補給をしたりして次へと進みました。

15分余り歩いて少し離れた菊川駅前に長谷川平蔵宣以の住居跡がありました。池波正太郎の小説で鬼平犯科帳の主人公のモデルでもあります。火付盗賊改加役の役宅として使用し49歳でこの地で逝っています。叉、拷問の手洗さは町民を恐れさせましたが、松平定信に意見書を出し受刑者救済の授産所を実現させたという話もあります。

平蔵の孫の代には、遠山金四郎の屋敷となっていたというのもちょっと面白い話です。

又、同じ場所に戻ってきました。

途中,新大橋通りを右に折れ12時13分頃に真言宗弥勒寺に着きました。行基作といわれる本尊弥勒菩薩から弥勒寺としました。江戸名所図会から当時の大きさが分かり驚きました。杉山検校の墓もあります。

すぐに臨済宗要津寺がありました。芭蕉句碑に前回の芭蕉庵での事などを思いだしました。12時半すぎに初音森神社に着きました。ここでは安政年間の幟立が残っていて印象的でした。

江島杉山神社には直ぐに着きました。ここは鍼術杉山流の祖である杉山和一が幕府より2700坪の宅地を賜った際に信仰していた江島弁才天を勧請したのが始まりです。検校のレリーフもあり盲人教育の開祖を云われ、点字の説明が表示されていました。境内の奥には江ノ島弁才天を模した洞窟が造られていました。

40分頃、赤穂浪士が討ち入りした後、最初に渡った橋である一の橋を渡りました。

立派な春日野部屋の前を通りました。一階が稽古場、2階が大部屋、三階は11代春日野親方の自宅という事です。最近は栃ノ心(大関)が注目されています。

赤穂浪士休息の地の説明板や石尊垢離場跡説明板を見て進みました。俳諧、茶事に通じていた赤穂浪士の大高源吾の「日の恩やたちまち砕く厚氷」の句碑を見ました。

 

いよいよお楽しみの昼食です。ももんじ屋は火曜日がお休みだったのですが木、土曜日は享保3年(1718)創業のももんじ屋に入った方が多くいらっしゃいました。山くじらすき焼と書かれた店の中の2階の部屋に入りました。ランチ1350円とお手頃で猪肉の好き焼と鹿肉のローストの薄切りが少々ついていました。50分位、ゆっくり出来てほてった身体を冷やす事が出来ました。

 

火曜日には、昼食は江戸NOREN12店で好きな店を選んで入り楽しむ事が出来ました。ほてった身体を冷たいもので冷やそうとした人もいました。

塩分補給に明太子と高菜のお茶漬けもなかなか美味でした。土俵が真ん中に造られているのは、さすがに両国駅前だと感じました。

 

後編に続きます。

 

 

 

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鎌倉街道上道 第十九回  飯田から深沢

7月10日(火)、14日(土)前回、解散した相鉄いずみ野線ゆめが丘駅を10時に出発しました。

 

関東地方はいつもより早い梅雨が明けて夏空の青と白雲が印象的でした。夏草の原っぱを抜けようとしていた時、お坊様二人の姿や何人もの人が集まっていました。石像物を移動させるとの事でした。昔の石像仏が集められ新しい道や街が造られていくのでしようか。

 

前回、歩いた鎌倉街道を正面に見て左に曲がりました。それから3分位で左馬神社に着きました。石塔を見て鳥居をくぐり前回も左馬神社はありましたが、この辺りに集中してあり全国に11社しかないとの事です。

 

5分の滞在でしたが静けさの中で領主飯田五郎家義が勧請したとも言われていて、1590年には領主筧為春が社殿を修復したという境内を歩きました。いずみ野線、横浜地下鉄の高架を潜り進みます。

10時20分頃、富士塚公園に入りました。飯田五郎家義の館跡です。木陰で源頼朝に従った相模の武士団の話を聞きました。

次の琴平神社に行くまでに双体道祖神がありました。鳥居までも段々があり社殿までも叉、階段がありました。神紋は天狗羽団扇です。

観音様を両脇の天狗が守っている石像があるのは曹洞宗巨木山東泉寺です。飯田家義の墓が建てられていました。

下飯田の交差点名を通りました。所々に地元の無人野菜売り場があります。ミニトマトを購入した方が何人もいらっしゃいました。

水田の中を通る時の風が心地よく、おたまじゃくしを沢山見る事ができました。蓮田もありました。

11時過ぎ、台座にいくつもの庚申塔が埋め込まれている二階建て庚申塔を見ました。10分位歩きました。森の向こうに変わった高層ビルが見えています。どなたかがドリームランドのあとの建物だと教えてくれました。

俣野神社に入りました。平氏方の大庭景親の弟で俣野五郎景久がこの辺りにいたとの事です。鳥居を進むと夏祭りの準備中でした。

俣野五郎景久の守護仏の十面観音が納められている観音堂の前に立ちました。交差点名も真にその通りのものでした。庚申塔も沢山集められていました。

12時頃、うだ川橋を渡りました。暑いけれども水田からの風を感じながら進みました。右手の草むらに雉が歩いていました。旧鎌倉街道の道筋の説明板が建っていました。

曹洞宗龍長院に着きました。林の中の庚申塔や、不動明王の姿をしたものがあり珍しく感じました。

近くに八坂神社があり祇園守の紋を見ました。叉、見ごたえのある石造物群がありました。道路拡張の為に鳥居だけが残されていましたが、その側に鎌倉街道西道の説明板がありました。

しばらくの間、25分位でしようか頑張って歩き東海道の歩道橋を昇りました。藤沢バイパス出口とあります。

歩道橋を降りると待望のお昼の場所に着きました。そば処しら石さんです。冷やしそば茶が美味でおかわりをしながら注文した物を待ちました。出しが薄味で盛がたっぷりでした。

50分間位の休憩の後、午後のスタートです。鉄砲宿の地名がありました。私達は講師の話す物語に耳をかたむけました。大鋸引の森家に飼われていた「おはん」という蛇の悲話と、「おはん」を撃った鉄砲の名人が泊まった小屋があった所が鉄砲宿と呼ばれたとの事です。

14時半頃、柄沢神社の庚申塔を見ながら鳥居を潜りました。建久4年(1194)に頼朝が入間川で狩りをした時に寄ったとの記述がある所です。境内には鐘楼もありました。

社殿の彫刻が立派でもっとしっかり拝見したいと思いましたが先を急がなければなりません。

10分位歩くと曹洞宗無量山慈眼寺に着きました。玉縄城主北条綱茂が開基で寺紋は三鱗です。平氏満という飯盛旅籠屋の小松屋の隠居の小さな墓がありました。

こちらで目を見張ったのは大きな寄木があり樹齢が300年ということです。モチの樹、タブの樹、スダジイの樹の根本が融合していました。叉、本堂脇には欅と桜の寄木もあり私たちは鑑賞しながら木陰の涼しさを味わいました。山門の龍の浮彫も立派でした。

本堂の右手にある梵鐘は上州藤岡の住人が「現世安穏、後世善処」の梵鐘を江島寺に寄進し、その後、慈眼寺に寄進されたとの事です。現世も後世もこうありたいものです。最後にもう一度、山門の龍をしっかり見て後にしました。

20分位後に日枝神社の階段を昇る元気が出ずに、代表の方がお詣りをしてくださいました。下に集められている道祖神や庚申塔を拝見して先に進みました。

15時半頃、浄土宗戒法山二伝寺に入りました。1505年鎌倉玉縄北条氏により創建され寺紋は三鱗です。叉、戦国時代から江戸初期にかけての高僧の幡随院白道の墓もありました。

六地蔵も拝見して坂道を通り少し階段を上がると平良文、少し離れて忠通また少し離れて忠光の墓がありました。三つ塚と呼ばれている父子の墓です。

 

15分位進むと村岡城址公園に着きました。平良文以下、忠光、忠道、景成、是政五代の村岡氏居城跡です。

良文は921年に醍醐天皇より鎮守府将軍に任ぜられ相模国の国司を兼任しました。忠通の子の是通の子孫が三浦、鎌倉、大庭、梶原、俣野、長尾の鎌倉党の各氏の祖になったとの事です。将来の栄枯盛衰が待っているのですね。現在は子供たちの公園となり脇に忠魂碑が建っていました。

村岡東という地名を東方へと、どんどん歩きました。左手に武田製薬の大きな工場がありました。20分位歩き地下道を通り抜けました。JR東海道本線を横断したのです。まっすぐ鎌倉街道を歩きました。

16時半頃、町屋橋を渡りました。真言宗泉光院に入りました。こちらは江戸時代に入ってからの開山で傾いた萱の樹が珍しく、徳本名号塔も見て説明を聞きました。本堂を拝むときに大きくさがった数珠を引くとかたかたと音がして、一回りさせるとの事でした。

16時45分頃まで、頑張って歩きました。いつの間にか鎌倉市に入っていました。上町屋天満宮に着きました。938~47年に平良文の霊場に天神を祀ったのが始まりで上町屋の鎮守です。「南無仙元大菩薩」や「食行身禄供」の富士講の石碑がありました。小さな本殿にお参りし次へと進みました。

17時近くにおしろい花が咲いています。私たちは行程の長さに疲れていましたが本日最後の場所へと歩きました。

広々とした空地の奥へと進みました。洲崎の戦いで戦死した者の供養塔がとても分かりにくい右手の岩山の奥にありました。一時、青蓮寺に移すと住職の枕許で元に戻してほしいと泣いたといいます。元に戻し、以降は「泣塔」と呼ばれました。洲崎の戦いは一夜の内に65回も斬り合いがあったと太平記に記されています。悲しい物語を聞くと共に見えにくい供養塔を眺めました。

17時少し過ぎてしまいました。モノレールの駅が奥に見えてきました。

湘南モノレール深沢駅から上り下りに別れて乗り帰宅の途につきました。

皆様、大変お疲れさまでした。これからの夏休みをどうかお元気にお過ごしください。次回で鎌倉街道上道がいよいよ終了致します。一抹の寂しさを感じますが、鎌倉を目指して九月に元気よくお会いしましょう。

 

 

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江戸名所巡り 四回  深川・清澄界隈を巡る(後編)

深川、清澄界隈の後編です。

50分位の昼休みを取り午後の部がスタートしました。永代通りを西方に進みました。

10分位で渋沢栄一邸跡に着きました。明治9年から12年間こちらが本邸でその後に兜町に本邸を移した後は別邸として利用したとの事です。小さなポケット公園のようになっていて大きな木が一本、説明板の側に象徴的に立っていました。

細い橋を渡るときスカイツリーが綺麗に見えました。

すぐに佐久間象山砲術塾跡がありました。砲術塾を開いた松代藩下屋敷があった場所です。説明板の写真は日本人には見えない顔付です。勝海舟も入門しました。後には木挽町にて塾を開き吉田松陰や坂本龍馬等が門下生となります。まるで大河ドラマの世界です。

又、10分位、歩くと黒御影石に赤穂義士休息の地とありました。大高源五は俳人で、同じ其角の門下である竹口作兵衛の棟上式の日が赤穂義士の討ち入りの日だったのです。本懐を遂げた一向が永代橋にさしかかった折に、準備していたあたたかい甘酒かゆを皆にふるまったそうです。

ここに立派な永代橋が架かっていたのですが、20年が経ち橋梁改修を目前にした1807年9月20日に12年ぶりに富岡八幡宮の祭礼の日、多くの群集の重みで橋が崩れて死傷者1400人を超える大惨事になったそうです。資料の永代橋の絵の何と大きく美しいことでしようか。

5分位で紀文稲荷に着きました。オレンジ色の鳥居はみかん色を表しているかの様でした。こちらに紀伊国屋文左衛門の舟蔵があったとの事です。

紀伊国屋文左衛門は綱吉御側用人の柳沢吉保と結びつき材木、みかん、塩鮭などの商いで富を得たのでした。

すぐに御船橋を渡りました。しばらくして伊能忠敬の住居跡がありました。1795年〰1814年の間、八丁堀に転居するまでの住居跡です。

首都高を潜るとすぐに真言宗豊山派の法乗院です。見たこともない面白い場面に出会いました。日本最大の閻魔大王が賽銭によって話しだします。

夫婦円満、家内安全、浮気封じ等々何でもアドバイスしてくれますが、その内容を聞くと漠然としたもので余り良く分からないままで去るしかありませんでした。

一階には江戸時代に描かれた地獄極楽絵が展示されていました。

曽我五郎足跡石には子供をこの石に乗せると健康で親孝行になるそうです。

隣にある浄土宗心行寺にも入りました。とても古そうな(1324)五重層石塔が奥まったところにありました。すらりとした影窓院地蔵も拝見しました。

宝篋印塔は名妓が川口直(清元の北州)のために建てたものです。湯吞みが供えてありました。

境内を出ると小津安二郎生誕の地の説明板がありました。伊勢松坂の豪商、小津家の子孫です。一族に本居宣長がいるということを聞き驚きました。紳士的で穏やかな表情が思い浮かびます。何と言っても映画東京物語での原節子、笠智衆を思い出します。

13時半頃、深川一の八付近に採茶庵跡がありました。杉山杉風は蕉門十哲に数えられ、芭蕉を経済的にも支えた人です。

芭蕉は奥の細道に旅立つまえに、しばらく採茶庵で過ごし門人と別れを惜しんだとのことです。

5,6分進むと、滝沢馬琴生誕の地がありました。(1767~1848)南総里見八犬伝は余りにも有名です。説明板のしたに銅製の本が積まれてあり、凝った造りに感心してつぎに進みました。

また、4,5分で日蓮宗本立寺に着きました。間宮林蔵顕彰碑がありました。地理や算術語学力の才能にたけ、北方の島の地図を作り、また幕府の隠密として働き知識、見解の高さで重用されました。間宮海峡の名として私たちはずっとその名を目にする事でしよう。

手に軍配を持ち子供を抱いている不思議な石仏を眺めながら加藤清正が朝鮮から持ち帰った鬼子母神という説のある事を聞きました。

14時近くにコンクリートの壁の参道を浄心寺へと入っていきました。

墓地の狭い通路の奥にある遊女の合葬墓を見ましたが洲崎遊郭の遊女貸席組内が建立しました。この殺風景な墓に胸がつまる思いでした。

伊達宗村寄進の石燈籠がありました。また、河越の時の鐘として使用されていた行伝寺の梵鐘も見ることが出来ました。

浄心寺を後にして数分歩きました。間宮林蔵の墓は植木の奥に凜と立ち供花もありました。64歳でここ深川で没したとの事です。

すぐそばの浄土宗雲光院に入りました。こちらは家康の側室阿茶局の墓があります。局により建立された雲光殿は大火で1682に現在の地に移転しました。。側室でありながら家康の影の政治的ブレーンとはどんな人だったのか興味が湧いてきます。本堂の脇から入って、ちょっと離れた場所から墓を拝見しました。

又、吉原遊郭をつくった庄司甚内の墓もありました。

5分位歩き江戸深川資料館に着きました。建物の中で一息つき下町を再現した地下へと降りました。屋根の上の動いて鳴く猫が迎えてくれました。長屋住まいの平均的な広さは四畳半だなんて現在の私たちには考えられません。ちよっと良くて六畳、一家が暮らす広さです。土蔵や船宿も再現されています。観覧料は400円、江戸の下町の生活を垣間見ることができました。

大鵬のコーナもありました。20分ですが楽しむ事が出来ました。

次は浄土宗霊厳寺です。中央区の埋め立て地の霊厳島にあった寺です。明暦の大火の折に何万人もの人が犠牲になり幕府の火事対策により現在地に移り深川の発展の基点となったといわれます。

 

大きくて座っている江戸六地蔵の一つがありました。松平定信の墓は大きな玉垣の中にありました。

又、法然上人の幼名である勢至丸の像も見ました。定信は白川藩主で天明7年(1787)に老中で寛政の改革を進めた人です。

4,5分位で浄土宗本誓寺へと入りました。綱吉から20石の朱印地を授かり浄土宗の触頭の一つです.迦楼羅像はカルダ(インド神話の神が仏教に取り込まれ守護神となった姿)は朝鮮の高麗時代の作とされています。

龍の水盤は、リラックスしている姿が面白く、私たちを和ませてくれました。

15時、清澄庭園を見学しました。本日のメインの一つです。しかしながら30分では、ゆっくり巡ることは出来ず、要所要所を抑えて見て廻りました。

元禄期に紀伊国屋文左衛門の屋敷があったそうですが、享保には久世家の下屋敷となり、明治に岩崎弥太郎が買い取りました。全国の名石や池を見ながら進みました。大きな芭蕉句碑も印象的でした。凉亭は池に突き出すように建てられています。明治4年の建物ですが震災と戦災から免れました。

23日は七夕の笹と短冊がありましたので私たちの願いを一筆したためました。

又、4,5分で臨川寺に着きました。碑が三つ並んでいました。梅花仏は芭蕉十哲の一人の各務支考の碑で墨直しの碑も玄武仏碑もすべて芭蕉に対する各務らが建立した碑なのです。屋根方向を見ると蛙の銅像があり私たちを笑わせてくれました。

黄色い派手な建物は三野村家跡です。三井財閥の大番頭だったかたは洋館に住んでいたのですね。小栗上野介が処刑された時にその家族を会津に逃がし、その後もずっと保護をしたという事でした。

16時前に万年橋を渡りました、名所図会にも美しい風景が描かれています。小名木川には川船番所が万年橋の北詰に設置されていました。美しい眺めはドイツのケルン橋を参考にしたとの事です。

芭蕉庵旧地や展望庭園を見て廻りました。

又、大正時代の津波で芭蕉が愛好した蛙の石像が発見されたという芭蕉稲荷を詣り、また反対側にある正木稲荷は、船乗りの目標となる征木の大木があったとの事です。

そしてこの辺は赤穂浪士ゆかりの道とされています。本懐をとげ47人が永代橋を渡り袂で一息入れたと伝わっています。

路地を曲がり通りを少し歩きました。次回の名所巡りで現在の新大橋を渡りますが、江戸時代の新大橋の場所はここでした。

芭蕉記念館に着きました。少し瘦せた芭蕉の木が迎えてくれました。芭蕉が詠んだ草木を配した小さな庭園を巡ることが出来ました。また希望者は、200円で2,3階の芭蕉に関する品々を鑑賞しました。

7,8分歩き本日の最後の深川神明社に着きました。23日は悪いことを祓う茅の輪くぐりが出来ました。

お詣りをした後、道に出ますと伊藤深水生家の標記がありました。

神明社の門前で生まれた一(はじめ)の雅号は深川の水にちなんで深水としました。女性の美しさを創りだした画家と言われています。今年4月に亡くなった朝丘雪路は娘でとても可愛がっていた事は有名な話です。

近くの駅の森下駅へ急ぎました。本日も盛沢山で大変お疲れ様でした。

 

まがごとも青葉の蔭に八幡宮  豊治

翁見る現世の河船遊び

池涼し文左衛門の遥かなる   慶月

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江戸名所を巡る 第四回  深川・清澄界隈(前編)

六月、江戸名所巡りもはや4回目を迎えました。19日(火)、21日(木)はお天気に恵まれ23日(土)お昼頃から雨になりました。

梅雨の真只中ですので仕方のない事です。本回は31ケ所を巡ります。10時、木場駅を出発しました。

木場とは木置場のことで、寛永と明暦の大火による江戸再開発の折に木材商が集められた所です。

真っ赤な新田橋を渡るとすぐに洲崎神社がありました。津波がここまで来たという波除碑がありました。

神紋は江島弁天と同じ波に三鱗でした。

下木塲碑前を通り潮見橋を渡りました。

三十三間堂旧跡のプレートがあり、浮彫りにされている建物は真に京都の三十三間堂の様に見えました。こちらも名所図会と広重、両方に表されています。弓の競技である通矢が行われていました。

鉄で造った日本最古の橋という旧弾正橋(八幡橋)は明治11年のもので島田弾正の屋敷があったので付けられた名です。現在地に大正12年に移されとの事です。橋の下は公園になっていました。

昭和の佇まいの木造の家を曲がると、その名も数矢小学校がありました。三十三間堂の通し矢から付けられた校名と思われ、私たちを何とも楽しい気持ちにさせてくれました。

裏手の方から富岡八幡宮へ入りました。横綱力士碑は初代から現在までの名を見る事ができました。

貞享元年(1684)勧進相撲が行われたとの事です。

左手に回ると最初の花本社は芭蕉を祭神としたもんです。七渡神社や木場の角乗り碑、神馬、次々と見事な碑や奉納物が並んでいます。

本殿が見えましたがまずは左右の碑から説明を受けました。昭和天皇が民を慈しむ歌碑、関東郡代の伊奈忠宥が奉納した灯篭、巨人力士等身碑はなんと2メートル26センチの円柱が立っていました。大鳥居から向かって左側はまず伊能忠敬の銅像で平成13年に建立されたものです。

忠敬は現在の門前中町に居住しており測量に出かける時には必ず、この宮に参詣したとのことです。

日本一の神輿も見ました。ダイヤモンドが埋め込まれている場所を我々は目を凝らしてみるのでした。紀伊国屋文左衛門が奉納したものが関東大震災で焼失し、平成3年に佐川急便社長が奉納したものです。

ここでお休み処があったので御手洗いと水分補給をしました。力持碑や力石も沢山集められていました。社殿は再建や修繕を繰り返し昭和31年に鉄筋コンクリートとなりました。末社を拝見して次へと進みました。

深川公園の中に入りしばらく進むと深川不動堂の梵字が壁一面にある建物の参道へと進みました。成田山東京別院です。どんどんと太鼓が響いています。吨枳尼天尊も祀られています。

日清戦争戦勝記念の石造り灯明台がそびえていました。明治31年に竣工したもので奉納者の名や団体名の刻まれた石板で覆われています。

叉、富岡八幡宮別当寺の別当寺である永代寺跡の碑が側にありました。明治の初め神仏分離で廃寺になりましたが29年、塔頭の一つである吉祥院を永代寺として現在はその名を留めています。

さて参道には両側のいろいろなお店がならんでいます。15分だけですがお買い物の時間をとりました。歴史のある店として梅花亭と伊勢屋の名が上がりました。それぞれ急ぎ買い物をしました。梅花亭は江戸末期の創業で、平たいどら焼きには驚きました。又、日本で最初の焼き菓子という亜米利加まんじゅうを買った人もいます。

富岡八幡の門前町に、気っ風のいい深川名物の辰巳芸者を産んだと聞きました。男性はきっとその姐さんに憧れを抱いているのでしよう。成田山の赤い鳥居のような門で集合し昼食の深川飯屋さんの門前茶屋に11時45分頃に入りました。

平日はランチ価格で蒸籠深川飯980円とお得でした。それにしても量の多い事。先月のお蕎麦と反対ですねと講師が笑わせました。

後編に続きます。

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鎌倉街道上道 第十八回 瀬谷から飯田

6月5日(火)、9日(土)、相鉄線瀬谷駅から10時に出発しました。両日共にお天気に恵まれ暑い日差しの中を歩きました。

住宅地の道の真中に三角地が設けれら地神塔がありました。初めて見る地神塔はとても珍しく、春分、秋分に近い戊の日に祀る講があったとのことです。

そのまま、街道を進みました。大きな屋敷が目立っています。

5,6分で道路の案内標記があり。右へと曲がりました。

真言宗新義派西福寺は1535年の開山で次に行く左馬神社の別当寺でもあり、樹々が茂った参道を進みました。六地蔵の向こうに樹齢1000年以上というスダジイが支えられながら立っていました。茶筅塚、山王堂や仏足石を拝見しました。

こちらにも瀬谷八福神が祀られていました。

青梅の大きな実を見ながら次へと進みました。出て向かい側に左馬神社があり、鳥居をくぐりました。この辺りだけある神社で七つ位あるとの事です。神仏習合の名残りの鐘付堂があります。又、神紋は村上源氏の紋である笹竜胆でした。庚申塔、地神塔、道祖神が集められていました。

北新自治会館は火の見櫓も兼ねているようです。

日蓮宗の宗川寺へ入りました。1625年建立で檀家の名を取ったとの事でした。御手洗いをお借りしてゆっくり拝見しました。紋は鶴(富士門流)と鷹の羽根と巴(寄進者)との事です。

ここで一番印象に残ったのは、鐘付堂の下に穴があったことです。雨水が溜まるので音が良いとの事です。是非一度、聞いてみたいものだと思いました。

そして見事な夫婦銀杏を見て寺を後にしました。

大きな通りは中原街道といいます。東海道が整備されるまで、とても重要な道でした。家康が関東に入る際に通ったそうです。

お昼頃、準用河川の相沢河を通りました。市町村が管理する短い河川という訳です。

全通院勢至堂は1797年創建で本尊は勢至菩薩です。明治から昭和にかけて文教場があったとのことで子育ての仏様として親しまれていました。

大きな藤棚があり鮮麗の藤という名で昭和62年に奉納され立派に葉が茂り実が下がっていました。

下瀬谷を再び歩きます。ブルーベリーの畑の横を通り日向山団地を過ぎて大きな通りを進み昼食には、いつきラーメン店と中華料理店に入りました。気温が上がりほてった体もほっと一息つくことが出来ました。

1時過ぎ午後のあるき隊の始まりです。文化9年の道標には南大山道、北八王子道とありました。

赤い屋根の柳明神社は廃寺になった鎌倉郡観音24番札所の大石寺跡に、村境の伊勢山に祀れてていた神明社を遷しました。

江戸柳明古地図の大きな案内板がありましたが夏草が勢いよく茂っていました。下方に「かまくらかみのみち」とちゃんとあります。そうです、私達は高崎から歩いて来たのです。

住宅地を過ぎ東海道新幹線の高架を潜りました。夏鶯が鳴いていました。静かな緑豊かな道通っていきました。

日蓮宗本山、本興寺は赤い仁王門が立派です。1336年の建立で日蓮の遺骨を武蔵池上から甲斐の身延へ送る一行が宿としました。

手入れの行き届いた樹々の中を本堂まで進みました。箒目のついた庭にしやらの花が落ちて何とも風情がありました。本堂の上方を見ると彫刻が細かく驚嘆しました。

しばらく歩きました。バス停に中屋敷とありました。

飯田神社に着きました。祭神は源義朝で飯田五郎家義が祀ったということです。家義は始めから合戦で頼朝に加担したかったが遅れ、機会を狙って加わったとの事です。鐘楼は神仏習合の名残りでこちらにも小振りな物がありました。

又、縄文時代、この辺りは入海といい境川の近くは入江になっていて当時の土器が多く出土したそうです。鳥居を出てすぐに庚申塔と道祖神が集められていました。叉、七観音像がトタンの屋根の中に納められていました。

その後、上飯田団地を通り15時頃、浄土宗無量寺に着きました。本尊は鎌倉扇ケ谷の仏師作の阿弥陀如来像とのことです。

大銀杏を見上げました。寺を後にしても巨大な樹がしばらく見えていました。

長後から戸塚に向かう長後街道の説明を聞きました。

10分位すると大きな屋敷が次々と現れました。製糸業で栄えた家々です。持田家、宮崎家、石蔵も奥に見えています。

小さな日枝神社の後には又、大きな美濃口家がありました。代々、名主でしたが後には村長を務めたと云う事でした。江戸時代から相模を代表する俳人(春鴻)が俳諧道場を後見していたとの事です。美濃口家には芭蕉翁百年忌追悼の巻(写し)をはじめ句会での記録が多く遺されているとの事です。

この大きな屋敷をどのように維持しているのだろうかと、いらぬ心配をしてしまう程立派でした。

10分位、住宅のない道を駅まで歩きました。工事車両が動いていました。

近代的な駅が見えてみました。ゆめが丘駅です。横浜まで20分位で出られるそうです。これからどのように変ぼうして行くのでしょうか。

16時少し前に解散する事ができました。私たち以外はあまり人影がありませんでした。皆さまお疲れ様でした。

鎌倉街道上道もあと二回を残すのみとなりました。皆様と御一緒に7月、9月を心して楽しみたいと思います。

 

箒目に沙羅の花落つ古刹かな

鎌倉へ急くや老鶯追うて来る  慶月

 

 

 

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江戸名所巡り  第三回 後編 水天宮から浅草橋界隈

昼食の神田薮蕎麦を味わい、さあ午後の部のスタートです。

神田須田町から15,6分掛けて元の岩本町まで戻りました。弁慶橋跡とありました。あの弁慶ではありませんよと講師が言いました。江戸城普請の大工の頭領弁慶小左衛門がここの掘割に架けた橋です。明治18年に川は埋められ必要がなくなったので廃材を利用して22年に赤坂見附の外堀に架けられ、現在も赤坂に弁慶橋の名が残っています。

明治になって出来た町名の鞍掛橋の交差点を渡ります。次に馬喰町の交差点も進みます。

新日本橋交番の横に郡代屋敷跡の説明板がありました。勘定奉行が関東郡代を兼ねてこの地に居住した時代もありました。

講師が広重の美しい絵をかざしました。

浅草橋の袂に浅草見付がありました。ここでお手洗いの休憩をとりました。

14時過ぎ吉徳の人形のシヨーウインドーを眺めました。江戸最古の人形店で1711年、三河出身の吉野屋が創業しました。明治に吉徳に変更したとの事です。

久月は1835年、武州足達出身の横山家が雛人形の正札販売を始めました。

2,3分で銀杏岡八幡神社に着きました。源頼義、義家が奥州平定へ向かう折、隅田川に流れてきた銀杏の一枝を岡の上に刺して願ったとの事です。都に凱旋する折、その枝が大きくなっていたので太刀一振りを捧げて八幡宮を勧請したといいます。

通りに戻り、つくだ煮の鮒佐本店の前を通りました。

第一回の日本橋界隈であった店は兄弟が出したという事で、こちらが本店との事です。買い物をすることもなく急ぎ進みます。

直ぐにすがすがしい神社の須賀神社へと入りました。スサノオノミコトと稲田姫が結婚した場所が須賀との事でです。土曜日は御祭りで出店で賑わっていました。

10分位進むと第六天榊神社に着きました。この辺りは米蔵が集まっていた場所で、ここに幕府の学問所と将軍の文庫の書籍を移し、明治に公立図書館を日本で初めて造ったとのことです。

 

2時半を回ったころ、ここで15分位西に歩きました。私達は疲れを感じていたのですが講師は皆さんに是非見て頂きたい所だというのです。

その場所は鳥越キリシタン殉教記念碑でした。慶長8年(1603)来日した宣教師ルイル・ソテーロが家康に謁見し八丁堀に聖堂と修道院を建て宣教を行った。浅草にもハンセン病院と小さな聖堂を建てました。9年後、直轄領のキリシタン信仰禁止令が出て翌年の慶長8年には、ここの信者たちは小伝馬町の牢に入れられ28名が処刑されたという殉教の歴史があったのです。

マルコ喜左衛門、シモン彦左衛門、ヤコブ弥四郎、ダミヤン茂助、、、、悲しくも堂々と散って逝かれた名前です。ビルの手前に現在の教会の十字架が小さく見えました。

15時、小さな甚内神社の前を通りました。高坂甚内は武田家の再興を図り江戸を乱したという罪で罰せられます。

甚内には瘧(マラリア)の持病があり発作が起きている所を捕えられました。処刑の際に瘧(マラリア)で苦しむ人が我を念ずれば治してあげようと言い残したそうです。旗本の家に祀られ多くの人が参拝したそうです。

直ぐに鳥越神社に着きました。前九年の役で源頼家父子がこの辺で陣をはっていて、水鳥が対岸へ渡る姿を見て大川の浅瀬を無事に渡ることができました。付近の白鳥大明神を鳥越大明神と改め地名も鳥越としたとの事です。

 

江戸時代より蔵前で営む蛇善の前を通りました。明治17年にこの場所で商うようになり、その名前たちを見てぎょっと致しました。動物性の漢方薬でマムシをはじめ蛇の数々、赤蛙、ムカデ、猿頭や狐の舌等々は何に効くのでしようか。

旧浅草蔵前には天文台跡がありました。天明2年(1782)高さ9・3メートルの築山の上に5・5メートル四方の天文台が築かれ観天儀で天体の角度を測定したそうです。あの伊能忠敬も学んだところです。

蔵前をどんどん橋の方へ歩きました。河岸を埋めて櫛形に船着き場を設けました。年貢米を収納する幕府の米蔵が建てられていました。一瞬スカイツリーが大きくはっきり見える場所がありました。

首尾の松とは寛永年間に隅田川が氾濫した時に家光の前で譜代大名の阿部豊後守忠秋が馬で激流を渡ったので、かたわらの一本の松を首尾の松として賞したという事です。その後は吉原通いを舟で渡る游客がその首尾をこの松に願ったそうです。現在の松は七代目という事です。

通りの反対側に廻り首尾の松の向かい側に来ました。浅草橋御倉跡碑がありました。幕府の御米蔵がすらりと並んでいたのです。

15時40分、本日最後の楫取稲荷神社に着きました。米蔵造営の石を熊本から運んでいたのですが遠州灘で海が荒れ遭難しそうになった際、稲荷の御加護で安全に航海できたのでここに勧請したとの事でした。

お狐はかなり風化していて金網に包まれていました。16時頃、本日の40ケ所を全部巡り終え蔵前駅より帰路に着きました。

今回は余りにも多くの物を見聞し少々頭の中が混乱しております。皆様、大変お疲れ様でした。

「日本の真中の路地や茄子実る」  幸子

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江戸名所巡り 第三回前編 水天宮から浅草橋界隈

5月24日(木)、26日(土)、29日(火)の三日間はお天気に恵まれ、江戸名所巡りの三回目を歩きました。

本回は40箇所を訪ねるという講師に驚きながら10時に新しくできたコンクリートの水天宮へと向かいました。

元は筑後久留米9代藩主の有馬頼徳が自領の水天宮を1811年、赤羽の上屋敷に祀ったのが江戸での始まりです。主祭神は壇ノ浦で海に沈んだ安徳天皇で水の犠牲になった為に漁業や船乗りに信仰され、又、子供の守護神、安産の神様となりました。

神紋は珍しく椿で安徳天皇が海で亡くならず筑後川畔の姫と恋仲となり、千寿院の境内に寄りそう美しい椿に因んでいるそうです。

水天宮のお使いである河童を見て水をかけ、頭のお皿をなでました。又、子宝犬には自分の干支と子犬、親犬を撫で孫の成長を願いました。

宝生流能楽の技を藩主が競わせた際にこの弁才天に願いをかけ、見事に勝利したという学業や金運に御利益があるというのにもお詣りしました。

次に信号を渡った目の前にある菓子の重盛永信堂を訪ねました。大正6年創業100年の老舗「人形焼き」も有名ですが空豆が入っている贅沢煎餅が一番人気との事でした。私たちも希望者はそれぞれ購入しました。

交差点を渡るとすぐに露地を曲がり茶の木稲荷がありました。下総国佐倉藩の堀田家中屋敷の屋敷神で社の周りに茶の木を植えていたので茶の木稲荷となったとのことです。

人形町今半が見えてきました。玉ひでもあります。

宝暦10年(1760)の創業で御鷹匠に生まれた初代が軍鶏専門店として創業しました。秀吉さんから玉秀の屋号となり妻が考案した親子丼は人気があり、現在に続いています。

すぐに谷崎潤一郎の生家跡があります。細雪の四姉妹が浮かんできますが、その作品の芸術性の高さは国内外で知られています。

10時半過ぎに日本橋小学校に着きました。26日(土)は丁度運動会で賑わっていました。こちらは元姫路藩酒井氏の屋敷跡で西郷隆盛は明治4年に参議となり2633坪の広い屋敷に書生15人、下男7人、猟犬数匹と住んでいたということです。明治6年に下野するまでとのことです。

日本橋人形町を進むとすぐに蛎殻銀座跡の立看板がありました。銀座とは江戸時代、銀貨を鋳造した役所があった所です、ここ人形町に移され明治まで置かれたから蛎殻銀座と呼ばれていたそうです。

そしてこの辺りは火消の「は組」があった場所で目立つ時計台の下にからくり人形がありました。

大観音寺の本尊は鎌倉時代の廃寺となり行方不明になったのが江戸時代鶴岡八幡宮前の「鉄の井」から頭部のみが掘り出され、明治の神仏分離令でこちらに移されたとの事です。鋳鉄製で頭部のみで170センチもあるといいます。流転の菩薩頭を見てみたいと思いました。

馬頭観音や韋駄天、願いの地蔵尊があり、それぞれにお詣りをしました。

交差点を渡り富士そばの前を進みます。この辺りは元吉原で明暦の大火で焼失したところです。

玄冶店跡の石標がありました。京都の名医岡本玄冶は将軍秀忠に招かれ幕府の御典医となり家光の信頼も篤かったとの事です。1500坪の屋敷を拝領しました。その後、多くの店を建て芝居の役者や渡世人宅にも使われ玄冶店と呼ばれました。

店の前を通っただけですが「うぶけや」は刃物職人の喜之助が創業した、うぶげも良く切切れる鋏、よく剃れる剃刀、よく抜ける毛抜きで銘が「兼忠」だったそうです。いつか買ってみたいものです。

シヨ-ウインドーには鋏や包丁が並んでいました。

10時50分頃に三光稲荷神社の赤い現代的鳥居を潜りました。1603年、絹布と木綿の問屋の海岸を埋め建て貸家を建ててその鎮守としたとの事です。

現在は猫が行方不明になった時に立願すると良いそうで境内に招き猫がありました。

そして11時頃、江戸三森の一つという椙森神社に着きました。他の二つは新橋の烏森神社と今日、お昼前に行く神田の柳森神社です。

平将門の乱の際、藤原秀郷が戦勝祈願し勝利の後に白銀の狐を収めたそうです。富籤は現在の宝くじのようなもので盛んな所でした。水色の屋根の横に富籤塚が立っていました。

すぐに江戸屋がありました。京都御所御用達の刷毛の元で修行し七代将軍家継の時代にお抱えとなり、屋号を将軍から賜りました。大奥の御化粧刷毛や小間物の御用を務めました。私達は早速、買い物タイムです。私は水筒用と急須用のブラシを求めましたが高級な大奥用のリス毛の刷毛を購入した方もいらっしゃいました。

この辺りには広重の絵にあるような大店の大丸があった所だと講師が説明しました。

次は於竹大日如来井戸です。大伝馬町の名主の馬込家の召使の「お竹さん」は大変情に厚く、一人の行者が訪ねたところ「お竹さん」から後光がさしました。馬込家は庵を作り庵主としました。

綱吉の母からも女性の鏡と褒めたたえれらたとの事です。

宝田恵比寿神社の小さな建物がありました。馬込家が三河国から家康に随行して三伝馬(両替、駅伝、水陸運輸)の役を賜わりました。宝田恵比寿神社は、馬込家にあった宝田村の鎮守だったそうです。江戸中期には、ここでべったら漬けが売られたそうです。現在も10月にべったら市があるとの事です。

11時半頃、身延別院で油かけ大黒天にお詣りしました。水の代わりに菜種油をかけると商売繁盛するという京都伏見にある大黒様を長谷川一夫夫妻が勧請したとの事です、つやつやの神様でした。

中央区の十恩スクエアは旧十恩小学校の跡地に出来ていて建物と公園からなっています。ここは小伝馬町牢屋敷跡で刑の執行まで拘禁した施設です、入牢者は200年間に数十万にのぼるそうです。牢屋敷の模型や江戸中に巡らされた上水道の跡も見ました。外の公園に出てお手洗休憩をして又説明を聞きました。第一回江戸名所で入った石町の時の鐘がここに移されていました。

大きな石の吉田松陰碑には「身はたとひ武蔵野野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂」が刻まれていました。

長唄三味線の一派の桝屋記念碑がありました。

そして一向はすぐ側の高野山真言宗大安楽寺へ入りました。牢屋敷があった場所に富豪の大倉氏と安田氏の寄進で明治15年に創建されました。延命地蔵の台座の字は山岡鉄舟の筆ということです。

水天宮通りを進みます。

数分進み小伝馬町から岩本町に入りました。お玉が池種痘所跡の説明板が壁にありました。安政5年に伊東玄朴や大槻俊斎ら蘭学者82名が資金を出し勘定奉行の川路義詮の屋敷内に種痘所を作りました。後に東京大学医学部になりました。

通りを曲がればお玉池稲荷がありました。桜ケ池という不忍池より大きな池がありましたが茶屋の「お玉」という娘が身を投げた事から「お玉が池」となりました。池の辺に勧請した稲荷です。

土曜日は解放されていた玄武館跡がありました。小さな広場に石碑とベンチのみで当時を偲ぶものはありませんでした。千葉周作は寛政5年(1793)に陸前気仙村の馬医の子供として生まれました。古い因習に捕われない北辰一刀流の流儀を開きました。坂本龍馬も関わりがあったという道場です。

 

午前の最後の柳森神社には数分で着きました。ちよっと変わった(他を抜く)という意味から狸の像それもお腹の大きいものが狐の場所に居たのです。家光の側室の柱昌院の出世人生に因んだものだそうです。富士塚や力石の数々もありました。

 

 

お詣りしたら、さあお楽しみの神田薮蕎麦に向かいます。

すぐに万世橋の堂々として石柱を水面にリバーサイドレストランがすらりと並んでいますが私たちは神田へと急ぎました。

12時40分頃、到着しました。24日は次々と皆,入る事ができましたが26日の土曜日は並んで順番を待ちました。

一枚のせいろが670円、濃い目のそばつゆにちょっとつけて頂きます。

山かけそばも美味だってと聞きました。おかめ蕎麦には何と小さな松茸が入っていました。やはり50分から1時間はかかってしまいました。ゆっくりと日本酒を味わうのが通と云われますが私たちは先を急ぎます。

後編に続きます。

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鎌倉街道上道 第十七回 町田から瀬谷

5月8日(火) 19日(土)10時に町田交番前の絹の道の道標前よりスタートしました。8日は小雨には降られましたがだいたい順調に歩く事ができました。

ちよっと賑やかな商店街を通ります。町田では評判の乾物屋を商う店の前も通ります。西の新宿と言われたりもしますが、とても便利な街です。

大きな町田図書館を過ぎると町田天満宮です。

旧称は菅原神社でしたが昭和39年飯縄神社、日枝神社を合祀して町田天満宮となりました。牛を撫で七福神の境内社、赤い鳥居の出世稲荷にもお参りしました。毎月1日は骨董市で賑わいます。

金森の住宅地の鎌倉街道だとされている道路を進みます。

10時半過ぎに金森杉山神社に着きました。祭神は日本武尊で多摩川の西から鶴見川本流・支流の間に多く分布しています。多摩川から東側から元荒川までは氷川神社、元利根川以東は香取神社が多いと説明があり地図を見ながら成程と思うのでした。

庚申塔、日待塔、道祖神、光専神の古い石造物が並べられていました。光専神は咳の神様としてお参りしたと言われています。

又、太平洋戦争で米軍がこの樹を目標に降下し、厚木飛行場を空襲したという御神木を見ました。

10分位で天満宮の階段を上がりました。江戸時代には「時宗久保」との地名で呼ばれていたとの事です。小さな宮の横に有名な「東風吹かば」の石碑がありました。

水分補給をして又、出発しました。鶴金橋の信号を渡ります。鶴間と金森の境の橋という事です。

又、10分位で次の杉山神社に着きました。

三回廻って祈願すれば成就するという銀杏の木がありましたが、その様な時間を与えられず、せめて手を触れて大木から気を貰いました。

黒土の畑の中を通りました。じゃがいもの花が咲いていました。

桑の実をちょっと味見させてもらいました。

レタスが立派に育っています。

11時半近くに曹洞宗の常楽寺に着きました。本尊は平安時代の阿弥陀三尊という事です。

数分で八坂神社につきました。宮司は町田市能ケ谷の池田氏でこの方は能ケ谷神社や杉山神社など幾つもの神社の宮司をなさっています。

庚申塔が二基並んでありました。

柏の葉の若葉も美しく茂っていました。若い葉が出てから古い葉が落ちる事から子孫を継ぐという意味で、五月の端午の節句の柏餅の葉はこれでなければならないとの事です。

熊野神社には11時45分頃に着きました。これまでの小振りな神社と違い権現造りの屋根の青と柱の赤も新しく、石畳のある境内もゆったりとしていました。この辺りの地形が熊野那智大社の地形に似ている事から勧請したとの事です。

12頃に昼食を取るフアミリーレストランのココスが見えて来ました。注文してから料理が来るまでちよっと時間がかかりましたがボリユームのある昼食を頂きました。1時にはスタートしました。

2019年度に向けての南町田拠点創出まちづくりという工事が進行中でした。

鶴間小学校を過ぎ川沿いを歩き鶴瀬橋を渡り古義真言宗の観音寺に着きました。

昔は金亀房と呼ばれていましたが宝暦年間に観音堂を建て安置した後、この辺りの大火を免れたので寺号を観音寺と改めたという事です。

塀伝いに進むと新田義貞公鎌倉進撃路の看板が立っていました。上道はまさに鎌倉進撃への道だったのです。

しばらく進むと高札場がありました。慶応4年切支丹の禁止を定めたものが中央の物です。下鶴間村のこの辺りに建っていたとのことです。

大山道(矢倉沢往還)に「是より西大山七里という鶴間村宿の道標がある旧家を見学しました。新田氏所縁の高下家で義貞が剣を捧げている銅像や、入口には阿夫利神社分霊社がありました。

新田軍の大きな進撃路も示されており、私達の歩いた道をおさらいの様に辿って眺めたりしました。阿夫利神社分霊社に今、お参りすると雨が降ると困るので入りませんでしたが、なかなか立派な注連飾りでした。

境川を渡ると五貫目道祖神がありました。元の場所は現在地より300メートル西方の境川橋手前に祀られていて北は世田谷・青山、西は伊勢原・小田原、南は戸塚・鎌倉に通ずる三方分岐点として旅人の道標となっていた道祖神でした。二代目とは云え、とても古そうにみえました。

1時過ぎに厚木街道の横を通り産廃処理業の多い場所を歩きました。日経新聞の横浜別館の大きな建物がありました。

車用と人用の隧道を抜けると若宮八幡神社に着きました。稲荷社には鈎を加えた狐の紋が彫られていました。

2時30分過ぎに歩いた所は、瀬谷から相沢に抜ける場所を牢場坂と呼ばれていました。1449~52年、上杉定正の家臣の山田氏が居を構え牢獄を置いた事から名付けられました。

瀬谷という地名通リ出ました。

髭文字が見えました。日蓮宗妙光寺です。


 


山田氏が隣村の恩田村万念寺の和尚との賭けに勝ち、梵鐘と半鐘を得たということです。

その時の鐘を持ち帰る際に一つイボが擦り減ったという跡も見て、私達は半信半疑で眺めたのでした。


力士荒磯の記念碑がありました。日清戦争で力士義勇軍として従軍した伊勢ノ海部屋の力士でした。

鷹匠長田白政の立派な墓がありました。源義朝の殺害に直接かかわっていませんでしたが子孫が家康の鷹匠を務め、永井氏と改めるようにと云われ後には大身の旗本になりました。

3時頃、北向き観音堂に着きました。小さなお堂の中に7体の石地蔵が向き合っていらっしゃいました。

近くに浄土宗善昌寺がありました。こちらも瀬谷八福神の一つです。

善昌寺の金の字が光っていました。室町時代の1533年に開山しました。甲斐源氏所縁の岩崎氏が一族を弔うために建立しました。三菱の創始者の岩崎弥太郎もこの一族という事です。

中屋敷跡は公園になっていました。この辺りは緑が多く、大きな屋敷がありました。竹製の塀が長い屋敷があり瀬谷銀行跡とありました。昭和10年鎌倉銀行と合併し16年に横浜銀行に統合されたとの事です。

中屋敷地蔵尊を見て、おもむきのある中屋敷町の通りを歩きました。静かな緑陰の中を進みます。鎌倉街道歩きをしていて嬉しい時を感じる瞬間です。

右手には木造の名主らしき家もありました。名木の欅が何本もあります。市民の散策コースとして親しまれている、この場所に河津桜やミカイドウ、カルミヤを植樹したとの大きな標記がありました。

しばらくして瀬谷神明社に着きました。神殿の屋根に特長があり鞭掛けが突き出している場所を見てたしかめました。

西南の役から太平洋戦争までの241柱が刻まれた忠魂碑がありました。台座は相模国分寺の礎石を譲りうけたとの事です。大正5年の内閣総理大臣寺内政毅の書です。

10分位で日枝神社がありました。拝殿の正面を支えている柱の表面が真っ平でなく内側に三角に刻みこまれている几帳面です。

樹齢300年とも400年とも言われている欅がありました。太平洋戦争の時にこの樹を目標に突入の訓練をし特攻隊で生き残った方がここで戦友を偲んでいるそうです。

中川橋を渡りました。

金網に囲まれて見え辛かったですが大門大六天の篆書の碑が珍しいものでした。

 

次に曹洞宗の徳善寺に入りました。六地蔵は山門の脇にありました。二体ずつ三基の六地蔵は大変珍しいとのことです。

平成門との額のかかる大きな門をくぐりました。

義民の碑は税額の不当を訴え明治7年から5年間、裁判で戦った村民の徳を碑として建立しました。

アメリカ軍が3キロに渡って造った海軍道路を横切って瀬谷駅に向かいました。

到着は4時を過ぎていました。相鉄線瀬谷駅には4時15分に着き、町田方面と横浜方面に向かう人に別れました。

前回より幾分、楽ではありましたが長丁場を頑張りました。

皆様大変お疲れ様でした。

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江戸名所巡り  第二回 湯島本郷界隈

江戸名所巡りの第二回目は4月の17日(火)、19日(木)、21日(土)の3日間行われました。

若葉の美しい季節となり、お茶の水駅前を10時にとても気持ち良くスタートできました。
まず信号を渡り前回見た太田姫稲荷の元宮の木の前に立ちました。

聖橋を渡りながら景色を鑑賞しながら進みました。湯島聖堂の横を通り右に折れると神田明神ですが門前横のあまざけ屋の天野屋さんの話を聞きました。

 

江戸の後期、丹後宮津藩から兄の敵討ちで江戸に出てきて、人通りの多いこの場所で敵を探しながら糀屋と茶店を構えて今に至っている話と、敵討ちの決まり事などをききました。敵討ちの番付表まであるのですから、何でも番付表にして楽しむという何と面白い時代だったのでしようか。

神田神社という大鳥居をくぐり坂を上がります。神田明神は江戸総鎮守で大きな随身門がまず目に入ります。大己貴命、少彦名命、平将門がご祭神とあります。大黒様の逸話、因幡の白兎などの彫刻や、中国の四神である青龍、白虎、朱雀、玄武が東西南北を守っています。

何ときらびやかな門で、多くの願いを盛り込んだてんこ盛りともいえる飾りを一つ一つ見ました。後ろには将門の馬もちゃんと金色に輝いていました。

大黒様の像がありました。少しおいて、少彦名命が波に乗ってる像があり、一寸法師の話の原型と知りました。

そして拝殿にお参りします。神紋や天水桶。明治天皇臨幸記念碑、石獅子と内側も盛り沢山のものがありました。土曜日は次々と結婚式の儀が執り行われていて、そちらの方にも目を奪われてしまいました。

又、広重の絵の神田明神曙之景の場所にも立ちました。たしかに下が崖になってビルが建っていますが昔の様に海は見えず、ここから美しい曙を見た江戸時代を想像するのみでした。

本殿の権現造の豪華絢爛な横を通り脇にある銭形平次の碑へと移りました。昭和6年野村胡堂が発表したとの事で私たち世代は大川橋蔵の美しい顔が浮かんできます。発起人の碑、平次の碑、平次の横に小さく八五郎の碑もあり笑いが起こりました。

又、国学発祥の碑があり、江戸時代、神田明神の神主家(平田家)で国学の講演会が行われていたそうです。いろはにほへとから、あいうえおの母音、子音などが確立されたのもこの時代と聞きました。

「山茶花の散るや己の影の中」の句碑もあり境内の七つの鳥居もさっと巡りました。藤の花が美しく咲いています。力石があります。

清水坂下の交差点から4、5分で妻恋神社に着きました。日本武尊が三浦半島から房総に渡ろうとした際に荒れた海を鎮めるために海に、弟橘姫乃命が身を投げた話はあまりにも有名です。この地に武尊は妃を祀ったのが始まりで江戸時代に稲荷を合祀したとのことで赤い鳥居も中にありました。

11時過ぎに訪ねた霊雲寺は徳川家の永代祈祷寺として100石の朱印の真言宗の寺です。五代将軍の綱吉より当地を得て浄厳律師覚彦が開創しました。資料の名所図会には江戸の下町生まれの其角の句が書かれていて本堂の大屋根は絵でも大きく、現在は昭和に再建されたもので高々とそびえていました。

門の前の石柱の字に私たちは注目しました。辛い物、匂うもの、酒、肉を食べた者は内に入るを許さないという意味のことが示されていました。

皆さん誰も入れませんねと講師は笑いました。江戸の人々もかなり難しかったのではと感じました。

11時14分、湯島天神の鳥居を潜りました。修繕の記録が刻まれていました。

包丁塚と筆塚が並んでありました。撫で牛がどうして天神にあるのかは良く聞きます。菅原道真が亡くなり、京都に運んでいる時に牛が座り込み動かなくなっというのです。道真がこの場所がいいとの意思を示したと考え太宰府天満宮に祀られたと伝えられています。

撫で牛を私たちも撫でて次へ進みました。奇縁氷人石は江戸で一番古い迷子の石標です。泉鏡花の筆塚を見て梅鉢と牛の親子の神紋を見ました。

青梅の実がなっています。

すぐそばに心城院があり湯島天神の別当院との事です。

江戸名水でまっすぐな美しい髪になるという柳の井を見て水琴窟の美しい音色を聴きました。その後、天神様の境内に戻り講談発祥の碑を見ました。

ガス灯が一基ありました。昭和40年頃に撤去されたのですがその後、明治の文明開化のシンボルのガス灯を設けたとの事です。佐伯孝夫作詞の湯島の白梅の中にも出てきます。

王貞治氏国民栄誉賞記念の努力の碑の力強い字を見る事ができました。

ここからの眺めという広重の雪景色の絵を見て天満宮を後にしました。映画の主題歌、湯島の白梅で全国的に有名になった切通坂は、石川啄木が朝日新聞の夜勤帰りに通ったとのことです。急坂を通り教證寺へ向かいます。

ここには、柳瀬美仲の墓があります。江戸中期の歌人で「はつせ路や初音聞かまく尋ねてもまだこもりくの山ほとぎす」この一首で、こもりくの美仲先生と呼ばれたとのことです。

すぐに旧岩崎家庭園(住宅)に着きました。65歳上は200円です。こちらの地は榊原式部大輔中屋敷跡で維新後は一時、桐野利明が住んだ時期もあったとのことです。その後、三菱財閥の岩崎弥太郎邸となりコンドル設計の洋館は国の重要文化財です。各部屋には暖炉があります。和館も少しですが残されていました。外に出て庭からの洋館を鑑賞しました。芝生の間に和タンポポが沢山小さな花をつけていました。

離れた場所にビリヤード室があり出口に向かうところに牡丹の花が丁度見頃で何とも美しく咲いていました。

無縁坂を登り講安寺へと向かいました。さだまさしの曲が脳裏に流れます。「この坂を昇るたびにいつもため息をついた・・・・忍ぶ不忍無縁坂かみしめるようなささやかな僕の母の人生♪♪」

講安寺は漆喰で塗られた土蔵造りの寺です。家斉の側室お美代の方が落飾後40年余りを過ごしたそうです。石の三重塔が小さく立っていました。

岩崎庭園の周りの静かな通りを歩き麟祥禅院に入りました。春日局菩提寺であり明治時代に哲学館があった所です。山門の扁額をくぐると寺の顕碑の台座に亀ふ(キフ)が彫られてありました。宋代に龍の子供の一人で贔屓(ヒイキ)といい、亀に似ていて大変なことを負担するのを好んだというものです。

家光の乳母になった春日局の墓は死後も江戸の政治をよく見るという意味で丸い穴が開いています。

稲葉氏の紋(元婚家)と葵の紋に局の権力を感じるのでした。

すぐそばに和菓子の壺屋がありました。

寛永年間創業で明治維新の時に徳川様にお世話になったからと店を閉めたところ勝海舟に止められたという話が残っています。最中の甘いこと甘いこと、江戸時代の人は甘いのが好きだったのでしようか。前回の庄之助最中よりすった甘く感じました。

江戸時代の地図を見ながら加賀家と旗本の近藤家の喧嘩の話を聞きました。又、北方には御長屋が幾棟もずらりと並んでいました。江戸詰の人達の住居だったのでしよう。

買い物をすませるとすぐにかねやすに着きました。江戸時代、兼安は口入医師で歯磨きや歯ブラシを扱っていましたが明治以降は小間物屋だったそうです。最近はシヤッターが降りたままです。「本郷もかねやすまでは江戸の内」が有名です。

 

「御府内」は瓦ぶきの家と決められていたとのことです。樋口一葉も買い物に来ていたというかねやすを後に東大を右手に見ながら進みます。

一葉の「ゆく雲」の中に書かれている腰衣観音さまがいらっしゃる法真寺へと左に曲がりました。濡れ観音さまはいつの間にか屋根の中にいらっしゃいました。

一葉らしき像が観音様のわきに造られていました。

 

そばの喫茶の側もどんどん綺麗に飾られていくようです。処分されようとしていた庚申塔を見て魂を抜きこちらの窓辺に置かれたと、いつかご住職が話されていました。彫りもよくわかる全体像と二猿を私たちは見て通り過ぎました。

すぐに曹洞宗喜福寿寺に着きました。こちらは有名な佐藤紅緑、金田一京助、久保田万太郎の墓があります。

5分後、ようやく東京大学の赤門をくぐりました。11代将軍家斉の息女溶姫が加賀前田家に降嫁した時の御朱殿門があまりにも有名ですが黒門が正門と知りました。安田講堂の前を通り13時40分、新しく改装した学食にやっと着きました。ちょっと豪華に張り込んだつもりでも680円、レシートにはカロリーも出ています。

ゆっくり出来ないままに集合の時間が来てしまい、三四郎池を一巡しました。藤の花が池に垂れて若葉が映り何とも清々しい気持になりました。

東大病院はとても混んでいます。池の端門から出て境稲荷に着きました。

境稲荷には弁慶が奥州に落ちて行く時に立ち寄ったという鑑の井がありました。

15時すぎに日蓮宗大正寺に寄りました。1854年日露和親条約を下田で締結した川路聖謨の墓があります。

突然、東京大学医学部戦没同窓生之碑が現れました。見るとフイリピンレイテ島、ルソン島、ビルマ、マリアナ、アアリユーシャンの名に目を奪われました。日本の大切な頭脳が虚しく彼方に散った事を私たちは忘れてはなりません。

暗闇坂を抜けると弥生式土器発掘ゆかりの地碑があります。縄文式土器は祭事の時の器であり弥生式土器は生活に使用されていたという事が大きな違いだと聞きました。

15時31分、お化け階段を上り下りしました。39段?、40段?一段違うということですが私たちはもう疲れていた確かめる事をする元気もでません。

何と2分で根津神社です。つつじ祭りの最中で私たちはうっとりと見とれてしまいました。

本殿、青銅灯篭、千本鳥居のそばには家宣胞衣塚もありました。夏目漱石や森鴎外が座り想いを練ったとされる文豪想いの石のそばで本日は解散しました。

本日も何と盛り沢山の場所を訪問した事でしようか。益々東京という街に興味が湧いてきます。

次回以降も大変楽しみですね。皆様本日はお疲れさまでした。

 

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鎌倉街道上道  第十六回 乞田から町田

 

4月3日(火)、14日(土)、約30名の皆様と上道第16回を歩きました。小田急線永山駅を10時5分前に出発しました。

坂道を下り左へ進み、木々を配置した中を花壇を見ながらのせせらぎの流れは、現代の造形物ではありますがとても美しく整備されていました。

10時23分、やっと瓜生一里塚跡に着きました。武蔵名勝図会に関戸より乞田を経て、ここまで一里なりとあります。講師は府中から一里といいますがもっと歩いたような気がしてなりません。

せせらぎ公園から前回の終わりの場所のお向かいに着きました。マックの前からのスタートです。

乞田大橋を渡り椋の青く小さな実をみて京王線の高架をくぐりました。それから少し歩き11時近くにスーパーの御手洗いを借りました。

乞田川の支流でしょうか細い川の横を歩き、貝取の名主伊野家の前を通り、11時に大福寺へ入りました。

曹洞宗なのに寺紋は卍が大屋根にありました。地蔵菩薩木立像は行基作とされています。向かい側の貝取神社へもお参りをしました。貝取は、飼取や垣内(カイト)から転訛したという名の由来を聞き、珍しい龍の石造物をみました。とても古そうです。

貝取大通りという緑り豊かな通りは、気持ち良くどんどん進みました。花水木の白い花が満開です。

11時40分頃、日蓮宗妙櫻寺に着きました。建長5年(1253)の創建と古く橘紋でした。

すぐに元の道に戻り、又緑り豊かな綺麗に舗装された道を歩きました。鎌倉古道の標記がありました。

お昼近くになっていましたが、古民家が残されている公園へと入っていきました。

お手洗いと、古民家の有山家、加藤家住宅を見学しました。江戸時代の多摩の農家を移築したものです。小さな竈が土間にあり、囲炉裏の部屋と奥の間、納戸ととても質素です。

古民家から石段を降りてすぐに布田の道に入っていきました。

甲州街道の布田宿(調布市)に通じる道で近藤勇や土方、沖田らが江戸の道場から小野路へと出稽古に来た道です。

10分くらい歩くと小野路を示す札がありました。関屋の切通しも竹林もあり、なかなかの迫力を感じました。このあたりの人々は当然新撰組を支持していました。

百五十年くらい前に思いを馳せて歩いていましたが、しかしすぐに小野路宿の通りに出ました。ここもとても雰囲気のいい通りです。白い土蔵もあります。小字に「ならべい」があるとのことです。新田義貞が鎌倉攻めの折に、ここで点呼を取る為に「並べ」と言ったのが地名になったそうです。バス停の名前にも中宿とあります。

小島家は名主で農民を指導し学問や武術を教え新撰組を支援したとのことです。門構えと奥の緑に見とれてしまいました。

通りの角に里山交流館があります。こちらも名主の細野家を改修したものです。ここで今日の昼食を頂きました。入口にずらりと朝採りの筍が並んでいました。もちろん、購入した方々がたくさんいらっしゃいました。

小野路のうどん定食550円、コロッケ110円を注文しました。うどんは細長く量がたっぷり、だしも独特の味でこちらの郷土の味を体験する事ができました。テーブルの中央に熊谷草の活け花があり、この館に携わっている方々の心根まで感じられて嬉しく拝見しました。

約50分間の休憩をとり午後の部へと出発しました。

すぐ隣の小野神社に入りました。階段を昇ります。小野氏の先祖である小野篁(タカムラ)が祭神です。1403年に僧正珠が寄進を募り小野大明神の梵鐘を鋳造し旅人に時を知らせていました。1480年頃、両上杉氏の合戦で山内上杉の兵により陣鐘として持ち去られ、現在は逗子の海宝院にあるとの事です。

現在、拝殿の軒先にある鐘の姿に私たちは驚きました。

広い通りからすぐに細い道へと折れました。一輪草の群生がありました。

2,3分で小野路一里塚の説明板が立っていました。瓜生から一里歩いたわけです。風土記に「府中宿から二里にあたれる一里塚なり」と記述があります。

近年、町田のサッカー場が整備されつつあり、駐車場や道路に変わりゆく自然をいかに残していけるか、この地に問われている現状です。

一行はこれから貴重な道へと入っていきます。若葉が美しい道です。14:00頃、旧鎌倉街道の真横を歩きました。

鎌倉街道上道で一番長く残っているのではと講師が熱く語っていた場所と思われます。

ほとんど空洞になっている樹でも横から若葉がでています。頑張ってと声をかけて進みます。

途中で川を渡り、また古道に入りました。たらの芽の群生もあります。

鎌倉街道古道、上道の看板がまたありました。少しずつ丘に登っていきます。七国山を登り始めたのです。

突然視界が開けました。七国山は案外低い丘の山でした。畑がいろいろあり菜の花がきれいです。横浜の景色が遠くに見えています。

七国山鎌倉街道の碑があります。七国山を降りていると鎌倉井戸が掘割にありました。新田義貞が鎌倉攻めの時に堀ったものと云われています。深さ4メートルで表面は長い年月の間に崩れているが1・5メートルの所に直径70センチの円柱の井戸が残っているとの事です。

七国山の麓にダリア園があります。こちらで御手洗い休憩をさせて頂きました。喫茶があり冷たい物を飲んだりソフトクリームを食べたりしました。現在の大通りの鎌倉街道に出ました。

今井谷戸の信号を進みます。

右に曲がり小川や植え込みがあるなかよし散歩道を歩きました。町田にはこの様な憩える歩道が所々にあります。

15時半すぎに日蓮宗宏善寺の門をくぐりました。元は真言宗の観音堂でしたが日蓮が佐渡に流される途中に休息し、それ以降、日蓮宗に改宗したとの事です。この様な話を至る所で聞くにつけ、日蓮の力の凄さが今更ながら伝わってきます。高い場所から日蓮像に見られていました。枝垂れ梅にも、もう青梅がなっていました。

5分位で鶏足山養運寺に着きました。山号がなんとも面白い名です。元は天台宗でしたが1567年に浄土宗へ改宗しました。ムクロジの木の実を講師は割って見せました。

16時頃、寺を後にし15分かけて最後の菅原神社へと歩きました。皆さん、かなりお疲れです。万歩計がいつもよりすごいことになっています。力を振り絞り階段を昇りました。初詣の折はここ菅原神社に行列ができるくらいとても賑わいます。

井出の沢古戦場の碑と説明板がありました。この一帯で足利直義と、北条高時の子供の時行が信濃から兵を従えてきて戦った場所です。鎌倉時代終盤の戦いがここであったのです。

もう16時半です。私達は急ぎ町田駅へと向かいました。町田駅前に道標がありました。絹の道とは美しい名前ですね。今の横浜線は、明治時代貨物列車で八王子と横浜を結んでいました。絹を欧米へ輸出する大切な道でした。

絹の道道標を見てすぐ解散しました。本日は起伏もありその上長い道のりでした。本当にお疲れさまでした。

 

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