江戸名所巡り 四回  深川・清澄界隈を巡る(後編)

深川、清澄界隈の後編です。

50分位の昼休みを取り午後の部がスタートしました。永代通りを西方に進みました。

10分位で渋沢栄一邸跡に着きました。明治9年から12年間こちらが本邸でその後に兜町に本邸を移した後は別邸として利用したとの事です。小さなポケット公園のようになっていて大きな木が一本、説明板の側に象徴的に立っていました。

細い橋を渡るときスカイツリーが綺麗に見えました。

すぐに佐久間象山砲術塾跡がありました。砲術塾を開いた松代藩下屋敷があった場所です。説明板の写真は日本人には見えない顔付です。勝海舟も入門しました。後には木挽町にて塾を開き吉田松陰や坂本龍馬等が門下生となります。まるで大河ドラマの世界です。

又、10分位、歩くと黒御影石に赤穂義士休息の地とありました。大高源五は俳人で、同じ其角の門下である竹口作兵衛の棟上式の日が赤穂義士の討ち入りの日だったのです。本懐を遂げた一向が永代橋にさしかかった折に、準備していたあたたかい甘酒かゆを皆にふるまったそうです。

ここに立派な永代橋が架かっていたのですが、20年が経ち橋梁改修を目前にした1807年9月20日に12年ぶりに富岡八幡宮の祭礼の日、多くの群集の重みで橋が崩れて死傷者1400人を超える大惨事になったそうです。資料の永代橋の絵の何と大きく美しいことでしようか。

5分位で紀文稲荷に着きました。オレンジ色の鳥居はみかん色を表しているかの様でした。こちらに紀伊国屋文左衛門の舟蔵があったとの事です。

紀伊国屋文左衛門は綱吉御側用人の柳沢吉保と結びつき材木、みかん、塩鮭などの商いで富を得たのでした。

すぐに御船橋を渡りました。しばらくして伊能忠敬の住居跡がありました。1795年〰1814年の間、八丁堀に転居するまでの住居跡です。

首都高を潜るとすぐに真言宗豊山派の法乗院です。見たこともない面白い場面に出会いました。日本最大の閻魔大王が賽銭によって話しだします。

夫婦円満、家内安全、浮気封じ等々何でもアドバイスしてくれますが、その内容を聞くと漠然としたもので余り良く分からないままで去るしかありませんでした。

一階には江戸時代に描かれた地獄極楽絵が展示されていました。

曽我五郎足跡石には子供をこの石に乗せると健康で親孝行になるそうです。

隣にある浄土宗心行寺にも入りました。とても古そうな(1324)五重層石塔が奥まったところにありました。すらりとした影窓院地蔵も拝見しました。

宝篋印塔は名妓が川口直(清元の北州)のために建てたものです。湯吞みが供えてありました。

境内を出ると小津安二郎生誕の地の説明板がありました。伊勢松坂の豪商、小津家の子孫です。一族に本居宣長がいるということを聞き驚きました。紳士的で穏やかな表情が思い浮かびます。何と言っても映画東京物語での原節子、笠智衆を思い出します。

13時半頃、深川一の八付近に採茶庵跡がありました。杉山杉風は蕉門十哲に数えられ、芭蕉を経済的にも支えた人です。

芭蕉は奥の細道に旅立つまえに、しばらく採茶庵で過ごし門人と別れを惜しんだとのことです。

5,6分進むと、滝沢馬琴生誕の地がありました。(1767~1848)南総里見八犬伝は余りにも有名です。説明板のしたに銅製の本が積まれてあり、凝った造りに感心してつぎに進みました。

また、4,5分で日蓮宗本立寺に着きました。間宮林蔵顕彰碑がありました。地理や算術語学力の才能にたけ、北方の島の地図を作り、また幕府の隠密として働き知識、見解の高さで重用されました。間宮海峡の名として私たちはずっとその名を目にする事でしよう。

手に軍配を持ち子供を抱いている不思議な石仏を眺めながら加藤清正が朝鮮から持ち帰った鬼子母神という説のある事を聞きました。

14時近くにコンクリートの壁の参道を浄心寺へと入っていきました。

墓地の狭い通路の奥にある遊女の合葬墓を見ましたが洲崎遊郭の遊女貸席組内が建立しました。この殺風景な墓に胸がつまる思いでした。

伊達宗村寄進の石燈籠がありました。また、河越の時の鐘として使用されていた行伝寺の梵鐘も見ることが出来ました。

浄心寺を後にして数分歩きました。間宮林蔵の墓は植木の奥に凜と立ち供花もありました。64歳でここ深川で没したとの事です。

すぐそばの浄土宗雲光院に入りました。こちらは家康の側室阿茶局の墓があります。局により建立された雲光殿は大火で1682に現在の地に移転しました。。側室でありながら家康の影の政治的ブレーンとはどんな人だったのか興味が湧いてきます。本堂の脇から入って、ちょっと離れた場所から墓を拝見しました。

又、吉原遊郭をつくった庄司甚内の墓もありました。

5分位歩き江戸深川資料館に着きました。建物の中で一息つき下町を再現した地下へと降りました。屋根の上の動いて鳴く猫が迎えてくれました。長屋住まいの平均的な広さは四畳半だなんて現在の私たちには考えられません。ちよっと良くて六畳、一家が暮らす広さです。土蔵や船宿も再現されています。観覧料は400円、江戸の下町の生活を垣間見ることができました。

大鵬のコーナもありました。20分ですが楽しむ事が出来ました。

次は浄土宗霊厳寺です。中央区の埋め立て地の霊厳島にあった寺です。明暦の大火の折に何万人もの人が犠牲になり幕府の火事対策により現在地に移り深川の発展の基点となったといわれます。

 

大きくて座っている江戸六地蔵の一つがありました。松平定信の墓は大きな玉垣の中にありました。

又、法然上人の幼名である勢至丸の像も見ました。定信は白川藩主で天明7年(1787)に老中で寛政の改革を進めた人です。

4,5分位で浄土宗本誓寺へと入りました。綱吉から20石の朱印地を授かり浄土宗の触頭の一つです.迦楼羅像はカルダ(インド神話の神が仏教に取り込まれ守護神となった姿)は朝鮮の高麗時代の作とされています。

龍の水盤は、リラックスしている姿が面白く、私たちを和ませてくれました。

15時、清澄庭園を見学しました。本日のメインの一つです。しかしながら30分では、ゆっくり巡ることは出来ず、要所要所を抑えて見て廻りました。

元禄期に紀伊国屋文左衛門の屋敷があったそうですが、享保には久世家の下屋敷となり、明治に岩崎弥太郎が買い取りました。全国の名石や池を見ながら進みました。大きな芭蕉句碑も印象的でした。凉亭は池に突き出すように建てられています。明治4年の建物ですが震災と戦災から免れました。

23日は七夕の笹と短冊がありましたので私たちの願いを一筆したためました。

又、4,5分で臨川寺に着きました。碑が三つ並んでいました。梅花仏は芭蕉十哲の一人の各務支考の碑で墨直しの碑も玄武仏碑もすべて芭蕉に対する各務らが建立した碑なのです。屋根方向を見ると蛙の銅像があり私たちを笑わせてくれました。

黄色い派手な建物は三野村家跡です。三井財閥の大番頭だったかたは洋館に住んでいたのですね。小栗上野介が処刑された時にその家族を会津に逃がし、その後もずっと保護をしたという事でした。

16時前に万年橋を渡りました、名所図会にも美しい風景が描かれています。小名木川には川船番所が万年橋の北詰に設置されていました。美しい眺めはドイツのケルン橋を参考にしたとの事です。

芭蕉庵旧地や展望庭園を見て廻りました。

又、大正時代の津波で芭蕉が愛好した蛙の石像が発見されたという芭蕉稲荷を詣り、また反対側にある正木稲荷は、船乗りの目標となる征木の大木があったとの事です。

そしてこの辺は赤穂浪士ゆかりの道とされています。本懐をとげ47人が永代橋を渡り袂で一息入れたと伝わっています。

路地を曲がり通りを少し歩きました。次回の名所巡りで現在の新大橋を渡りますが、江戸時代の新大橋の場所はここでした。

芭蕉記念館に着きました。少し瘦せた芭蕉の木が迎えてくれました。芭蕉が詠んだ草木を配した小さな庭園を巡ることが出来ました。また希望者は、200円で2,3階の芭蕉に関する品々を鑑賞しました。

7,8分歩き本日の最後の深川神明社に着きました。23日は悪いことを祓う茅の輪くぐりが出来ました。

お詣りをした後、道に出ますと伊藤深水生家の標記がありました。

神明社の門前で生まれた一(はじめ)の雅号は深川の水にちなんで深水としました。女性の美しさを創りだした画家と言われています。今年4月に亡くなった朝丘雪路は娘でとても可愛がっていた事は有名な話です。

近くの駅の森下駅へ急ぎました。本日も盛沢山で大変お疲れ様でした。

 

まがごとも青葉の蔭に八幡宮  豊治

翁見る現世の河船遊び

池涼し文左衛門の遥かなる   慶月

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