江戸名所巡り 第七回  𠮷原界隈を巡る(前編)

10月9日(火)、11日(木)、13日(土)の三日間、江戸時代から明治の始めまで、あの吉原が存在していたという場所を巡りました。

先月とうって変わり、うす曇りまたは秋晴れの中を歩く事ができました。10時、東武スカイツリー線浅草駅前を出発しました。浅草寺脇のベンガラ色の通りを浅草神社へと進みました。

浅草寺をちらりと左に見て神社の鳥居をくぐりました。すぐ右手に蕋雲(ズイウン)女子人麻呂歌碑がありました。柿本人麻呂を慕う江戸の新吉原の遊女粧太夫が人麻呂の歌を万葉仮名で歌碑に書き献納しました。「ほのぼのと明石の浦の朝霧に鳥かくれゆく船をしぞ思う」。

神木の槐(エンジュ)を見ました。推古天皇の時代(628)隅田川で漁をしていた兄弟が観音様を見つけてこの樹の切株に安置したと言われています。その後、幾度も涸れては叉、生えてこの槐の木は続いているとの事です。

 

檜前浜成、竹成の兄弟とその主である土師仲知が祭神ですが、この三人が観音に深く帰依し、自邸を寺に変えたのが浅草寺の始まりとのことです。

 

 

新門辰五郎が妻のために伏見稲荷社内にある被官稲荷を勧請しました。江戸ではヒをシと発音し仕官を願う人や浪人が多く参拝したとのことです。町火消組頭の辰五郎の娘は徳川慶喜の妾だったので、辰五郎は常に慶喜の警護をしていたそうです。

 

一葉観音は工事中の為に見る事が出来ませんでしたが蓮の花びらを舟にして櫂を持った童顔の観音様をちゃんと拝見したいと思いました。

山東京伝机塚の碑がありました。京伝は浅草や吉原を題材にした戯作を多く書いた人で親が買ってくれた机を生涯大切にしたとの事です。弟は兄を偲び、その机を埋めて碑を建立しました。

二天門から出てふり返り門を鑑賞しました。慶安2年(1649)浅草寺の東門として建立されましたが、その後に観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられています。現在は持国天と増長天の二天像に変わり名称も二天門となりました。ずっと先にスケイツリーが見えています。

すぐに花川戸公園に着きました。履物屋さんが多くあった場所でその碑がありました。昔、旅人を石枕と大石で殺していた老婆がいました。999人殺した時に観音様が稚児の姿になり現れて、娘が稚児の身代わりになり死にました。老婆は悲しみ悪業を悔やみ池に身を投げたといいます。

何の変哲もない池が造られていてその側に助六の歌碑がありました。団十郎の立派な歌よりも講師は助六寿司の話をします。助六の女が揚巻という名前でしたから稲荷寿司と巻き寿司の助六寿司が誕生したとの話ばかりが残り、助六寿司が早く食べたくなるのでした。

10時40分頃、浄土宗九品寺の大きな阿弥陀如来像を見ました。反対側に沓履地蔵尊と小さな可愛いほほえみ地蔵を見ました。門が閉まっていて入れず次へと進みました。

10時50分頃に言問橋の手前の隅田公園がありました。東京大空襲の霊よやすらかにの碑に我々は手を合わせました。この公園からスカイツリーがとても綺麗に見えます。少し休憩をして水分補給などをしました。

正岡子規の句碑「雪の日の隅田は青し都鳥」の字体に見とれながら寒々とした、それでも青い川に白のカモメが浮かんでいるという、しばし句の世界に入りました。子規は東京でもいろいろな場所で句をつくっています。

花の碑「春のうららの隅田川~」を見て誰もが歌いたくなったのではないでしようか。鳩がしきりに木の実を食べています。黒く熟している実でした。

竹屋の渡し跡がありました。ここをまっすぐに行ったところが三囲神社ということです。講師が美しい絵をかざしました。宵闇の中でしようか美女が河のほとりに佇んでいます。芸者の小万ではないかとの事です。

11時過ぎに待山聖天に着きました。海抜10メートル足らずの待乳山にある天台宗の本龍院です。出世観音ののっぺりしたお顔が印象的で蓮のつぼみを一本持っていらっしゃいました。江戸末期の築地塀が残っていて瓦としっくいが重ねてあり、どっしりとした塀に見入りました。

こちらの紋である二股大根と巾着がめだっています。立派な大根が売られているのが印象的でした。銅造りの宝篋印塔は天明元年(1781)蔵前の札差等16名が奉納したものです。ほぼ完全な形で残された唯一のものとして、貴重な歴史的な物とされています。

道灌稲荷の狐の顔を見て、糸塚(長唄の三弦の名人の遺志)や江戸初期の歌人の戸田茂睡碑を見ながら進みました。モッコクの木の赤い実が目を惹きました。

隣接した所に池波正太郎生誕の地の碑がありました。大川(隅田川)、待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものと記していたとの事です。

少し歩いたところに浅草歌舞伎発祥の地がありました。マンションの隅に小さな碑を見ました。日本橋堺町の中村座が火事で焼け江戸市中を避けて北町奉行の遠山金四郎の計らいで浅草の門外の地に移されたとの事です。この様な風景だったと、広重の絵を私達は眺めました。現在の風景の何と味気ない事でしようか。

叉、待乳山聖天まで戻り左に曲がりました。11時半頃に山谷堀公園に着きました。

吉原までの舟が出ていてその名を山谷船とか親不孝船と呼ばれていたとの事でした。又、山谷堀の両側に船宿が並び客で賑わっていたそうです。

トクサの中にある子規句碑は「 牡丹載せて今戸へ帰る小舟かな 」とあり待乳山で詠んだとの事です。

紙洗橋がありました。この辺に再生紙を作る人々が住んでいました。紙を溶かしてさます事を「冷やかす」と呼びその間に吉原に行き遊女をからかうので、遊女をからかう客を「ひやかし客」との事から「ひやかし」の言葉が出来たとの面白い話を聞きました。

5~6分進むと地方橋とあり地方(ジカタ)とは舞踊で音楽を受けもった人々のことで立方は踊り手のことです。

12時少し前に地方橋通りを歩き丁度昼頃に浄土宗春慶院に着きました。右の塀沿いに奥へ入ると高尾太夫の墓がありました。仙台藩主、伊達綱宗とのロマンスで知られる吉原の遊女です。「君はいま駒形辺りほととぎす」との恋の句、辞世の句は「寒風にもろくもくずる紅葉かな」。19歳でなくなっています。何と短命だったのでしようか。供花の白菊が悲しみをそそりました。

側の曹洞宗東禅寺には江戸六地蔵の2番として宝永7年(1710)に建立された地蔵が私たちを見降ろしていらっしゃいました。左手奥には明治のアンパンの元祖である木村安兵衛夫妻の座像がこちらも高い場所にありました。

細い通りに駿馬塚跡がありました。平安中期、源義家が奥州討伐の途中、ここで愛馬を葬った塚です。付近の人々がこの塚に馬頭観音を祀り覆屋を設けて大切に守っているとの事です。奥まった所にありました。

本日のお昼は日本堤1丁目の土手の伊勢屋です。火曜日、木曜日は残念ながら築地市場が豊洲市場に移転の為、お休みでした。土曜日はとても混んでいましたが、根気よく30分以上ならび店に入ってからもかなり待ちました。天ぷらの匂いを十分嗅いだ後、有名な天丼を味わいました。

後編に続きます。

 

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