第二部14回  四谷・新宿界隈を巡る(前編・午後の部)

丸の内線四谷三丁目から新宿御苑駅まで一駅乗りました。1分ですが歩くと20分位かかったでしようか。駅に降り立ちすぐ近くに浄土宗大宗寺に入りました。右手に江戸六地蔵の三番目で座像の大きな地蔵は、銅造地蔵菩薩とあり胎内から小地蔵六体と寄進者の名簿が発見されました。

この新宿御苑一帯は内藤家の下屋敷があり、この大宗寺は寛文8年(1668)に六代当主の内藤重頼より寺領7396坪の寄進を受け寺域を拡大し甲州街道内藤新宿の中心に位置しました。閻魔堂の閻魔様と奪衣婆を覗き思わずぎよっとしました。切支丹灯籠の尊像はマリア様を象徴しているとのことです。内藤家の墓所にも入りお詣りさせていただきました。塩かけ地蔵は別名「いぼ取り地蔵」で塩を疣に付けると疣がとれその時には塩を奉納します。成受院にいりました。此処にも奪衣婆がいました。

少し歩くと正受院です。入口の堂には奪衣婆がいました。

墓塔の千手観音は珍しく元禄16年(1703)のものです。梵鐘は宝永8年(1711)のもので戦争中に供出され戦後にアメリカより返還されたものです。

13日は小雨が降ってきました。隣の浄土宗、成覚寺に入りました。ここは新宿宿の遊女の投げ込み寺でした。遊女は死ぬとさらし木綿や米俵に包まれてこの寺に運ばれました。子供合埋碑がありました。旅籠の飯盛女(遊女)が死んだ際に霊を供養しました。子供とは旅籠の主人が飯盛女を子供と呼んでいたからです。ここ成覚寺に葬られ数は約3千人との事です。白糸塚は天明期に遊女の白糸と鈴木主水が情死したという悲恋物語を坂東秀花が演じて大当たりをしたので橋本屋が建立しました。旭地蔵は玉川上水の北岸にあったものを明治12年に移したもので遊女と客の心中者18名を供養し戒名も刻まれています。恋川春町墓は蜀山人と並ぶ劇作家で句碑もありました。

花園神社には10分位歩きました。奉納名も立派な朱色の名前が並んでいる芸能浅間神社も在りました。側には藤圭子歌碑があり、きれいで淋しそうな顔が浮かびました。芭蕉句碑の「春なれや名もなき山の朝かすみ」を見ました。災禍消除の祈願の石灯籠もありました。本殿にお詣りしました。赤社殿と銀杏の黄色があでやかで花園神社にふさわしい風景となっていました。大鳥居の側の狛犬は銅製の唐獅子像で角があります。江戸末の文政4年(1821)の奉納です。

5分位で伊勢丹の前の追分交番前まで来ました。甲州街道と青梅街道の追分です。ここで買物タイムです。江戸時代にも団子屋があり追分辺で人々は一休みしたことでしよう。私たちはちよっとお高いけれど美味しそうな団子や大福を並んでお土産として買いました。

10分~15分で御苑近くの雷電稲荷神社にお詣りしました。花園神社境外社でこの辺りに江戸から2里の一里塚がありました。

すぐ側に曹洞宗、天竜寺がありました。天竜寺は徳川秀忠を生んだ西郷局の父の菩提寺でしたが局が秀忠を産んだので西郷局の菩提寺にもなりました。江戸には日本橋・本所・芝・浅草寺・上野・小石川・市谷の七個所で市民に時の鐘として時刻を知らせていました。内藤新宿は遠くて音が届かず、あらたに赤坂田町の成満寺とこちらの天竜寺を加えて九所にしました。

12~3分、歩き新宿南口に着きました。何度も通ったことがあるにもかかわらず、このような馬水槽があったとはなぜ気づかなかったのでしょうか。赤大理石の水槽で「みんなの泉」と呼ばれていました。明治35年にロンドン市より東京市に寄贈されたものです。前面上部は馬用、下部が犬猫用。人は反対側にあります。

13日には3時を少し過ぎましたが17日は2時50分に終わりました。皆様、2022年の春まで度々コロナで休みましたが、その後、年末まで沢山の場所を巡る事ができました。新年も江戸の町を楽しく巡りたいと思います。

一年間ありがとうございました。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第二部14回 四谷・新宿界隈を巡る(前編・午前の部)

12月13日(火)、17日(土)、半蔵門駅に10時前に集合しました。13日は小雨の中の出発でした。

半蔵門の名は服部半蔵の屋敷があったからという事は誰もが知っているところです。駅から少し南下し5分位で最初の訪問地の平河天満宮に着きました。祭神は菅原道真が主神で八幡宮と東照宮(家康)が相殿の神とのことです。徳川秀忠が慶長11年(1606)に江戸城拡張の折、現在地に移したとのことです。銅鳥居の穴は大東亜戦争の米軍機機銃掃射の跡です。

6~7分進みました。麹町3丁目と4丁目にさしかかると貝坂です。ビルの壁面の黒い石板に大観堂学塾跡と彫られてありました。

高野長英は叔父の玄斎(医者)の養子になりました。江戸で蘭学を学び長崎でシーボルトの鳴滝塾で医学と蘭学を学びました。文政3年(1820)から天保元年(1830)に麹町貝坂に大観堂学塾を開いたのでした。天保10年(1839)の蛮社の獄で小伝馬町の牢獄に入れられますが牢屋敷火災で逃亡し嘉永3年((1850)に見つかり果てたとの事です。

享保元年(1716)創業の「いづみや」という酒屋の前を通り過ぎると道路の向こう側には上智大学の高いビルが建っていました。

11時半過ぎに浄土宗、宝蔵心法寺に入りました。推古天皇の頃、三河国に秦法寺として創建されました。

慶長2年(1597)に千代田区内に移り家斉の側室である阿美の方の帰依から勢力を持ったとの事です。明暦の大火で城内にあった寺社は外堀外に移転されましたが心法寺は残されました。現在もその大きさを感じながら拝見しました。門を入り塩地蔵の頭には尖った塩が盛られていました。開山当寺の三河の秦宝寺から本尊と一緒に来たという梵鐘を眺めました。冬紅葉が最後の美しさを見せてくれそのあでやかさに目を奪われました。庚申塔の青面金剛は宝暦2年(1752)のものですが、きれいな状態の姿をみることができました。又、稲垣氏寄進の大淨水盤のその大きさから目を引きました。

四谷駅を通り四谷見附跡の説明板で城門を警備する事から「見付ける」とか「監察する」ことから由来した言葉です。

外堀公園を通り過ぎ11時半頃に新宿歴史博物館に入りました。入館料は300円です。15分間で急ぎ階段を降り常設展示を見て廻りました。江戸市中や内藤新宿模型など見応えがありました。入口付近には四ッ谷見付け橋高欄は大正2年(1913)10月に開通した四ッ谷見付け橋の欄干の美しい造りを観ました。15分~20分の見学の後、2~3分で津の守坂にさしかかりました。

植木屋が多く新しい植木を運び「新木坂」の名が生まれ荒木と記されていて現在の荒木町の名が残っています。その西側に松平摂津守の上屋敷があったので「津の守坂」と呼ばれました。

路地を下り5分~6分進むと金丸稲荷神社に着きました。高須藩松平家(岐阜県3万石)上屋敷に在った神社で天和3年(1683)の創建です。高須藩は尾張徳川家の親戚で高い地位にあり十代藩主の松平義建には子供が多く尾張藩主、高須藩主、会津藩主、桑名藩主を輩出し高須四兄弟と呼ばれました。会津の松平容保はここで生まれたのです。ナツメの木が隅にありました。この木は日露戦争の旅順攻略でロシア将軍ステッセルと乃木希典が会見した水師営の民家にあった所のナツメの木です。実が下に落ちていて拾った人がいました。

どんどん下に降りていきました。津の守弁財天があり下の池が笞(ムチ)の池といいます。家康が鷹狩りの時に乗馬用の笞を洗ったことから名付けられました。そしてこの池は高須藩松平家上屋敷の庭園の地だったのです。明治時代には景勝地として花街があったとのことです。

柳新町通りを行き四谷三丁目駅近くで本日のお昼となりました。ここで50分の休憩をとりました。

午後の部に続きます。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

    面白歴史講座                      第一回 大河ドラマ「どうする家康」を楽しく見る知識

中央区掘留区民会館において12月6日10日の2日間徳川家康の全体像について学びました。新しい大河ドラマ「どうする家康」を観る際の予備知識を入れる事ができました。

松平家の系図、徳川家康の系図を始め正室側室の名前とその子供などが詳しく解り益々興味がわいてきました。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る(鎌倉編の2日目、27日)

二日目の27日(日曜日)は8時半に江ノ電、藤沢駅に集合しました。宿泊組9名と当日参加組の5名で14名でのスタートです。江ノ島電鉄で6駅目の腰越駅まで13分で行けました。

降りるとすぐに古義真言宗の満福寺です。義経が頼朝に宛てた腰越状を書いた所です。弁慶がまず草案を考えました。その時に墨の水を汲んでといわれる池がありました。青空に白い富士山が見えていました。

2~3分で小動神社に入りました。「こゆるぎ神社」の名の由来は弁慶が地団駄をふんだら地面が小動きした事によるとの伝承があります。他にも風がないのに揺れる美しい松の「小揺るぎの松」があったとの話もあります。美しい青の海と七里が浜を展望台から眺めました。

江ノ電の腰越駅に戻り長谷駅まで5駅で14分間、乗り、すぐに海に向いました。7~8分で海浜公園に着き実朝の歌碑を囲み記念撮影をしました。由比ヶ浜と海が美しく輝き実朝が宋に向けて船出を夢見た事に思いを馳せました。今夜、大河ドラマで実朝が悲劇に見舞われます。

実朝は「世の中はつねにもがもな渚こぐあまの小舟のつなでかなしも」と詠みました。漁師の何気ない日常の風景を見ながら世の中が常に変らずにあってほしいとの意味です。

10時には海と別れて道路を鎌倉まで歩きました。長谷寺には寄らずに右に曲がりしばらく行くと左手に甘縄神明社の参道入口がありました。神社の御神体が源義家の守り神といわれ頼朝、政子、実朝らがたびたび参拝しました。御家人の安達盛長が守護に当りましたので屋敷も此処にありました。

通りに出て又、鎌倉方面へ10分位歩くと主馬盛久の頸塚がありました。平家滅亡後、平家の武将の主馬は北条氏に捕えられ斬首された場所です。

寸松洞という鎌倉彫の立派な屋敷を過ぎて10分位すると問注所跡の石碑がありました。頼朝は幕府内に政所、侍所、問注所の三大行政機関を設けたのですが正治元年(1199)に問注所を幕府屋敷外に移したのが現在の問注所跡です。直ぐに裁許橋を渡りました。問注所で判決を受けた罪人が処刑場に引かれて行く時に渡ったことから裁許橋と呼ばれました。

11時6分頃に刑場のあった場所に六地蔵があり、芭蕉の句碑「夏草やつわののどもが夢の跡」の句碑を松尾百遊が建てたのもありました。殆ど読めなくて残念でした。11時11分頃に古代東海道から右へ曲がるとすぐに江ノ電の線路を渡りました。和田塚駅です。

すぐの左手の土を盛った場所に和田一族戦没地の石碑がありました。建保元年(1213)に幕府内の抗争により北条義時と和田義盛の間で武力衝突(和田合戦)があり和田の敗死した屍を埋葬したとの塚です。

11時半頃に海岸橋に出ました。海を背に5分程進むと一の鳥居です。江戸初期の姿を残す鳥居です。当時の美しい雪景色の絵を講師が掲げました。すぐに畠山六郎重保の墓がありました。ここは重忠の子供の屋敷跡です。明徳4年(1393)建立の室町時代の宝篋印塔です。京都での平賀朝雅との酒宴で喧嘩になり鎌倉に帰ったのちに平賀の内室の母である牧の方は北条時政と共に畠山父子をだまし討ちの形で先に重保をそして二俣川で父の重忠を殺害したのです。

約一時間の昼食休憩でハンバーガ屋さんか回転寿司を選んで入りました。12時45分に信号前に集合しました。

琵琶橋は今ではコンクリートとなりましたが昔は擬宝珠のある朱塗りの木橋だったとのことです。道筋に弁財天を祀る祠があったのでこれに因んで名づけられました。下馬碑があり若宮大路では上、中、下の三橋の前で下馬するのが鎌倉武士の礼儀であったとの事です。その為に三橋の前には「釘貫(クギヌキ)」と呼ばれる馬繋用の正方形の広場がありました。

大路から東に入り10分位、進むと日蓮宗妙本寺に着きました。

文応元年(1260)に比企能本(能員の末子)により開かれました。立派な山門を潜ると右手の方に一幡の袖塚が在りました。比企氏の乱後に小御所の焼跡から見つかった亡骸に一幡の着衣の小袖の文様が残っていた事から骨を供養しました。大河ドラマの中の何とも愛くるしい一幡を思い浮かべて胸が詰まりました。その奥にずらりと並んだ比企一族の墓が並んで居ました。大きな五輪塔は加賀前田家内室の墓です。

祖師堂の左脇の石段を登ると竹の御所の墓がありました。父の頼家が殺害された後もひっそりと邸内で住んでいました。実朝が殺されて京から迎えられた13歳の九条(藤原)頼経と竹の御所(源媄子、ヨシコ)28歳で結婚しますが4年後に男子を死産し自身も亡くなります。

本堂から一旦下がり坂道を登った所に蛇苦止堂があります。比企能員の娘で頼家の夫人となり比企氏滅亡で一族と共に没した若狭局(讃岐局とも)を妙本寺の鎮守として祀っています。

7代執権の北条政村の娘が病気で蛇のように苦しんでいる時に政村の写経と八幡宮長官の祈祷で治ったとの事です。直後に政村は堂を創建しました。右手の方には若狭局が身を投げたといわれる井戸があり、これも祀られています。そしてその頃からあった大樹の銀杏が色付いていました。

1時45分頃、頼朝が裏鬼門除けに建てた夷堂の近くにあった夷堂橋の石碑の前に立ちました。若宮大路をどんどん上がり10分位で北条時房の屋敷跡に着きました。

最後に訪ねる政子と実朝の墓のある寿福院へと急ぎました。八幡宮の手前を左に折れすごい人混みをかき分ける様に進み鉄の井を曲りすぐ西に進むと鎌倉五山の三位である寿福院です。広い境内をただひたすら奥上へと登りました。そのずっと奥に母(政子)と息子(実朝)の墓の「やぐら」がありました。日曜日でもあり、人だかりが出来ていました。虚子の墓をチラリと見て寿福寺を後にし八幡宮の前での解散となりました。

丁度3時になっていました。大河館へ行く人、宝物館を見学する人、買物をして帰る人、それぞれに別れて帰路に着きました。皆様、大河ドラマに因んでの企画はいかがでしたでしょうか。来年も楽しい企画をできたらと思っております。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る(鎌倉編の1目目)

5月に伊豆を旅しましたが今回はその完結編の鎌倉です

11月26日土曜日JR鎌倉駅東口に9時50分に集合し金沢八景行きのバスに10時5分発の乗車予定でしたが一本早いバスで十二所神社まで乗りました。15分から20分くらいかかりましたがその間に雨が小降りになっていました。

10時20分に鎌倉幕府政所別当を務めた大江広元を祀る稲荷社は石段に赤い鳥居があり参道の奥に小さな社がありました。石段を登りお詣りしました。かつて十二所に屋敷を構えていたといわれています。

橋を渡り大江広元邸跡に数分で着きました。

元のバス通りに戻り鎌倉幕府四代将軍、藤原頼経の祈願寺として建立された明王院の入口に立ちました。ここは幕府の鬼門の方角にあたるので、鬼門除祈願寺として五大明王を本尊とし五大堂と呼ばれていたとのことです。

私たちはここには入らず鎌倉殿の十三人の内の重要人物である梶原景時屋敷跡を目指しました。細い道を行き右に曲がると住宅も少なくなり大きな鯨のモニュメントのある建物を過ぎると行き止まりの辺りに梶原の井戸があり、その先は個人の持主という事で立入禁止となっていました。この辺りに広大な屋敷を構えて朝比奈の切り通しの押えになっていたのではと講師が説明しました。

又、もとのバス通りに戻りせいんすい橋を渡りました。足利公方邸跡を過ぎ10分位で天台宗,大蔵山観音院杉本寺がありました。現在は杉本観音の別称で呼ばれています。奈良時代(8世紀)に藤原房前と行基が開きました。坂東三十三観音霊場の一番です。三十三番は千葉県館山の補陀洛山那古寺で源頼朝や実朝も熱心な観音信仰者でした。十一面観音菩薩三体が本尊で行基、慈覚、恵心僧都作と伝えられています。その上、前立に運慶作の7尺の十一面観音像が寄進されたと伝わっています。

歌の橋に差し掛かったのは11時20分頃でした。翌朝に処刑される渋川兼守は十首の歌を荏柄天神に奉じました。それを知った実朝は歌に感動し罪を赦したとの事です。兼守は二階堂川に橋を架け、この橋は今も「歌の橋」と呼ばれています。

11時半頃、文覚上人屋敷跡に立ちました。文覚は京で北面の武士でしたが問題を起し伊豆の奈古谷(修禅寺の近く)に流され伊豆の蛭が小島に流されていた頼朝と巡り会い頼朝に平家討伐の蜂起を促したのです。

荏柄天神前を横切り先に見なければならない永福寺(ヨウフクジ)へ急ぎました。鎌倉宮を過ぎ12時少し前に永福寺の着きました。広々とした空間に驚きながら永福寺跡を散策しました。頼朝が文治5年(1189)に奥州平泉を攻めた後、戦いで亡くなった数万の将兵の鎮魂の為に建てた寺院です。平泉の毛越寺や中尊寺を見て永福寺の建立を思い立ったとされています。大きな池の正面に二階堂、南に阿弥陀堂。北側に薬師堂の跡がありました。

12時半頃、鎌倉宮まで戻り数軒ある食堂で昼食を取りました。

13時15分に荏原天神社に着きました。福岡の太宰府天満宮と京都の北野天満宮と荏柄天神が日本三大天神ということです。

頼朝はここが大蔵御所の鬼門なので鎌倉の守護と決め、歴代の将軍に信仰されました。高い階段を見上げるだけで下からお詣りし次ぎに進みました。

すぐに東御門跡を通り北条義時法華堂跡へと登りました。平成17年(2005)の発掘で瓦葺で一辺が8・45Mのお堂が建っていたことが解りました。

奥の階段の上に毛利季光の墓(大江広元の四男)がありました。父から譲られた相模国毛利荘(厚木市)を基盤とする御家人で承久の乱で武名を上げ安芸国吉田荘の地頭職を与えられました。他には大江広元の墓や島津忠久の墓も在りました。島津忠久は頼朝の子供で母が丹後局で政子の嫉妬を恐れ上方に逃れ産んだとの話があり島津氏の祖となります。

階段を降りると三浦一族の墓がありました。法寺元年(1247)の宝治合戦で北条時頼に攻められ三浦泰村の一族276人は頼朝の法華堂に籠り自害したと伝えられます。その地から60M程離れていますが三浦一族の供養が行われている「やぐら」です。

3分程、西に移動し53段の石段を登ると頼朝の墓がありました。始めは五輪塔でしたが頼朝の子孫を称する薩摩藩主、島津重豪が安永8年(1779)に層塔に変えました。五重の塔の様な屋根は苔むして両脇に供花は秋らしい色で玉垣で囲まれていました。

右隣には頼朝の弟で土佐で殺された源希義所縁の石が敷かれていました。

階段を降りると白旗神社がありました。ここは建久10年(1199)に亡くなった頼朝の遺体が葬られた法華堂と呼ばれ供養されていましたが48年後の三浦一族が安達一族に攻められ自刃し滅びた場所です。

2時頃に大蔵幕府跡に着きました。頼朝、頼家、実朝の三代45年間の御所でした。

道路拡張工事で現在は暗渠になっている筋違橋を過ぎると3分位で宝戒寺に着きました。ここは北条義時の館があった場所で代々の執権はこの小町邸が主たる邸宅でした。

北条氏滅亡ののちに後醍醐天皇の命を受けた足利尊氏が宝戒寺を創建し北条氏の怨霊鎮護を目的としました。

通りを入った所に土佐坊昌俊邸跡がありました。頼朝の義経討伐の命で京都の室町邸を襲うが敗れ六条河原で処刑されました。

2時15分に「さかい内科」横の薬局の壁のタイルに「政所跡」の小さなプレートがあるのみで想像を巡らすにはかなり無理がありました。

すこしずつ八幡宮に近づいてきました。南御門の側に畠山重忠屋敷跡がありました。武士の鑑とされた重忠は鎌倉武士と頼朝の信頼が篤かった人です。

八幡宮の門を入ると流鏑馬の道が真っ直ぐに走っていました。宝物殿の手前に「山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらぬやも」の実朝の歌碑で藤原定家が写し持っていたのを昭和3年に旧鳥居に刻みました。すぐに宝物館が見え美しい紅葉が点在する中を歩くと康平6年(1063)のに源頼義が前九年の役の戦勝を祈願して京都の石清水八幡宮から神霊を勧請した白旗宮です。

若宮、舞殿へと進むと花嫁行列に会い笛や笙の音と共に、しばし雅びな世界を堪能しました。そして大銀杏の子供が育ち黄葉しているのをバックに記念撮影をしました。樹齢1000年を超えていましたが2010年の強風により倒れ切られました。元久元年(1219)、公暁により実朝が殺害されたのは下から13段目との話があります。

丸山稲荷社の横を通り後方の坂路を上り今宮へ着いたのが3時頃でした。承久の乱で後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡へ渡り、土御門上皇は土佐に流され、それぞれ流罪先で崩御されました。その三上皇をお祀りしたのが今宮です。二十五坊跡碑がありました。八幡宮の供僧の人数が25人でこの第四代の別当が公暁でこの坊に住み実朝暗殺後にも逃げ込んだとの事です。

その後、八幡宮の源平池を散策し紅葉を楽しみました。3時半頃に若宮大路に面した泰時と時頼の執権邸跡を見ました。土産物店の中にあり、地下となってしまった部屋を覗く形のガラス張りとなっていました。

それから細道に入り、若宮大路幕府跡に向かいました。実朝の死後、嘉禄元年(1225)から11年間、藤原頼経が政務を執って場所とされています。実際は政治は執権が行ったので文化的行事や遊興行事などが行われていたとの事です。碑の横には大仏次郎の屋敷がありました。

その後、キリスト教会横の細道に入り宇都宮幕府跡の宇都宮稲荷を見て第一日目の行程は終了しました。

皆様、お疲れ様でした。大河ドラマで描かれている時代だけを巡りましたがこの鎌倉にも多くの歴史が存在していたことを改めて感じました。

宿泊組は懇親会の会場へ5時に集まり楽しいひとときをおくりました。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第二部13回  早稲田界隈を巡る(午後の部)

午後の集合場所は夏目漱石誕生の地の案内板の前でした。小倉屋の隣です、慶応3年1月5日(1867・2・9)五男三女の末っ子としてこの地に生まれたとありました。記念碑の横には漱石の俳句の碑もありました。

通りを渡り少し入ると民家の様な浄土宗誓閑寺がありました。梵鐘は近在の住民の寄進により鋳造されたもので区内最古のものということです。銅造りの地蔵の半跏思惟像は文政元年(1818)のものです。本堂の中で拝見することはできませんでした。

元の通りに戻り夏目家があったというゆるやかな夏目坂を進みました。この辺りの名主である漱石の父が夏目坂と自分の姓を付けて呼んでいたのが人々に広まりましたと漱石の随筆「硝子戸の家」で書かれてあります。

すぐに日蓮宗本松寺に着きました。天正19年(1590)創建で承応2年(1653)に日念上人が開山しました。現在は小さな本堂があるのみでした。

すぐに日蓮宗感通寺がありました。 松平越後守の下屋敷跡ということです。 笹部桜の説明板が目を曳き木を見上げました。 大島桜の交配種で、笹部新太郞(明治20年生)が昭和35年に自宅の庭で芽生えた桜を丹精して育てたとの事です。 この木は池上本門寺からの枝分けとのことです。 吉野桜が木綿ならば笹部桜は絹であると評価された花を一度は見たいと皆様と思うのでした。

昭和45年の万博で日本館に展示されたさざれ石がありました。 昭和20年の空襲で亡くなった慰霊塔の観音像がありました。 上杉謙信所縁の毘沙門天は硝子戸の中で目をこらしても光って全くわからず残念でした。

通りを進み若松町を左に曲がってしばらくすると宝緑稲荷がありました。 穴八幡の境外末社という事です。 狐の尾や耳が大きくて屋根にも狐が居ました。力石にも注目しながら後にしました。

2~3分で臨済宗法身寺がありました。寛永8年(1631)の創建で江戸時代には虚無僧寺で江戸番所であったとのことです。虚無僧は幕府の命により番所で通行証をもらい尺八を吹きながら行脚し各藩の動静を探る間者だったということです。

私たちは時代劇の虚無僧を思い浮かべましたが幕府の間者とは俄には信じ難いことでした。こちらには大和田健樹終焉の地として案内板がありました。「汽笛一声新橋を・・・」の鉄道唱歌の作詞者です。

4~5分で日蓮宗幸国寺に着きました。区の有形文化財の山門は向って右脇に番所が設けられたものです。江戸後期の建築で田安家の屋敷から移築されました。その前に目立つ題目塔があり寛政4年(1792)のものです。加藤清正が幸せな国を目指す事を願い出て開山されました。豪商の伊勢屋(加太氏)が明治5年に造立した供養塔で三面に唐獅子一面にはライオン像が彫られていました。そして此処には石川忠房の墓がありますが墓地に入ることは出来ず人物像の説明がありました。500石の旗本で勘定奉行、道中奉行を兼ねて文化11年に留守居役に。道中奉行の時に安中宿の人馬軽減をしたので生き神さまとして祀られました。槙の実がなっていて味見をしました。

暫く歩きました。市谷薬王町との地名があります。江戸名所図会には薬王寺がありましたが今はなく、地名や信号の名に残っています。薬王観世音菩薩の前を通り臨済宗月桂寺に入りました。

喜連川島子は小弓公方の子孫である足利頼純の娘として塩谷惟久の正室となります。絶世の美女との誉れが高く豊臣秀吉の関東下向のさいに寵愛をうけました。秀吉は島子に喜連川の地に3500石を与え、島子は後に弟にこれを譲り喜連川藩ができます。そののち島子は家康からも召され三女の振姫が嫁ぐ際に老女として会津に赴きました。明暦元年(1655)に88歳で亡くなり院号が月桂寺でしたので月桂寺と寺号を改めたということです。

秀吉と家康にも関わった島子の生涯に思いを馳せました。切支丹灯籠は上の部分が欠けていましたが珍しい形を鑑賞しました。

念仏坂を下り浄土宗安養寺に入りました。明暦2年(1656)に現在地に移りました。こちらは上部が欠損している板碑型の庚申塔を拝見しました。延宝5年(1677)のもので下部の三猿が浮き出ていて目を曳きました。

安養寺坂をのぼり進むと青峰観音が通りに面して祀られていました。この辺りに市谷監獄の首切り場があったとの事です。最後に斬首になったのは高橋お伝だったとの事です。

7~8分位で天台宗自証院に着きました。尾張藩主徳川光友の正室である千代姫の生母であるお振の方(自証院)を供養するために創建されました。大火で焼失した時、戸山山荘の建物を移築したから檜に節目が多かったので「ふし寺」「瘤寺」と呼ばれました。

元は日蓮宗でしたが不受不施禁教令により天台宗に改宗しました。そのさい尾張藩から堂宇の寄進があったとの事です。梵字が刻まれている阿弥陀三尊板碑がきれいな色をしていました。地蔵座像二基も拝見しました。

通りを右に曲がり案内板だけがある小泉八雲旧邸跡の前にたちました。東京で初めて庭を構えた所で5年間住んだとのことです。少し前に行った終焉の地の公園をおもいだしました。八雲は自証院付近の風景を好みよく散歩したとの事です。葉にかくれそうな説明板を見て過ぎました。

又、坂があり暗闇坂とありました。くらやみともくらがりとも云われたとありました。浄土宗西迎寺は本日最後の訪問です。太田道灌を弔う為に江戸城の紅葉山に延徳2年(1490)に創建されました。寛永年間に四谷に移転したとのことです。中に入ると右に阿弥陀如来像があります。元禄7年(1694)のもので緑青が美しい仏様でした。

貞享3年(1686)の梵鐘は龍頭が二つあり梅鉢の御紋が入っていました。大地蔵は2メートルの高さで穏やかなお顔に皆様ほっとされた様子でした。

この辺は舟町といいます。由来は舟板を造る木材が切り出されていたからとの事です。火曜日は15時半になりました。土曜日は早く3時少し前に都営地下鉄、こちらの宝蔵院曙橋駅に到着しました。少々暑い中、皆様お疲れさまでした。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第二部13回 早稲田界隈を巡る(午前の部)

11月8日(火)と12日(土)、晴天で少し暑いくらいの両日気持ち良く歩くことができました。 東西線の早稲田口に集合しました。 火曜日は21名のご参加で列が長くなってしまいましたが土曜日は8名で小さくまとまって身軽に行動ができました。

駅のすぐそばに落馬地蔵という変った名のついた地蔵がありました。 三代将軍の家光が狩の帰りにこの辺で落馬しましたが調べてみると付近の川から地蔵が発見されました。 そこでその地蔵を祀ったのでした。

その後、駅の東側にある早稲田大学へと向いました。 10時半頃、大隈講堂の時計台の前に来ました。 大隈重信が唱えていた人生125年説により125尺(37・8M)の高さです。 上部は早稲田大学のWになっています。 塔のそばを右に入ると庭園となっていて大学が開いている時は自由に入る事ができます。 入口にはカフェ125があり学生が楽しんでいました。 庭園の敷地は高松藩松平氏別邸跡で維新後、大隈邸となりました。

入口の獅子像は大学創立100周年記念として台湾校友会からの寄贈です。 その他、韓国、中国の校友会から贈られた像や鐘を見ました。 又、先の戦争で亡くなった4000人余の戦没者を供養した苔むした平和記念碑をながめるのは辛い瞬間でした。

日本庭園の奥の少し高くなっている場所に賢妻の誉れの高い大隈綾子像が立っていました。 江藤新作(江藤新平の次男)や小栗忠順の遺児である国子を育てたとの事で学生達にも慕われていたそうです。 庭園を進むと飛騨の古民家も校友会の寄贈とのことで立派な家屋でした。 どこからも時計台が見えて紅葉に色どられた庭園を楽しむ事ができました。 芝生の庭には子供たちが遊び元の入口に戻ってきました。 戦災でも焼け残った唯一の建物を眺めながら大隈重信像のあるゾーンへと進みました。

浅倉文夫作の式帽とガウン姿の像は大隈講堂と対峙していて黄葉の銀杏の木が彩っていました。 右手に入ったところで坪内逍遙記念演劇博物館を見上げました。 逍遙は東京大学を卒業し早稲田大学教授として研究を進め近代日本文学の基礎を築きました。

早稲田大学に隣接してい天台宗宝泉寺です。 大学の敷地の大部分は宝泉寺の境内で重信像辺りに本堂があったとの事です。 梵鐘は正徳元年(1711)鋳造で仏像が彫られています。 高田藤四郎(日行)は富士信仰の為に高田富士を造りその富士塚が見える宝泉寺に葬られました。 モダンな本堂の右脇に上野寛永寺の灯籠が移されていました。

参道にはきれいな花が植わっていて皆の注目をあびていました。

2,3分で日蓮宗法輪寺に着きました。 門にきれいな花手水が置かれていました。 上に色とりどりの日傘が飾られ実に明るく華やかなお寺です。 寺紋が鶴丸なのは日蓮の母方の大野氏の紋です。

道路の向こう側に大きな朱色の鳥居があります。 流鏑馬像の雄々しい像を見て進みました。階段を上がると朱色の随神門は平成10年の再建です。江戸時代は虫封じの祈祷が有名で明治12年には皇太子(大正天皇)の御虫封祈祷が行われました。夏目漱石は癇癪持ちだったので鏡子夫人は癇癪封じの護符をこの穴八幡から受けていました。 神武天皇遙拝所の碑は橿原神社に向いているとの事です。 狛犬の表情がほほえましく私たちをなごませてくれました。

こちらの最後は出現殿です。 法生寺を建設する際に穴から仏様が出てきました。 高田八幡宮を穴八幡と称するのはこの事からです。 出現殿は穴の上に建築した堂で内側を見る事はできませんでしたがどれも新しく立派な建物です。

す ぐ側の別当寺の放生寺へ入りました。 高野山真言宗の寺です。 境内の松の木が光を発し家光の世継誕生の兆しと云われ男子(家綱)誕生となり将軍家の祈願所の格式を得て葵の紋を許されました。 馬頭観音は三面八臂でした。 水掛地蔵や神変大菩薩にお詣りしました。

昼食は学生の町だけあってボリユムのあるお店が多く定食が苦しいくらいでした。

さて午後の集合場所の側に堀部安兵衛が高田馬場の決闘場に行く途中に5合の酒を飲んだ店の小倉屋がありました。 中を見物して安兵衛の名のある清酒を買いました。 早稲田の卒業生の方は早稲田ビールを買っていました。

午後の部に続きます。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第二部12回 高田・池袋界隈を巡る(後編、午後の部)

鬼子母神大門のケヤキ並木は都の天然記念物となっていて樹齢600年以上といわれています。地主の長島氏の寄進によるものですが現在4本のみとのことです。

私たちが立っている参道の場所を広重の浮世絵を講師がかざしていました。料理屋の茗荷屋、左に蝶屋、あやめや、むさしやが並んでいます。子供が持っているのは芒で作ったみみずくの人形です。

2、3人でみみずくを買いにいりました。100円円から2000円,3000円と立派になっていきますが我々はみな1000円のものにしました。

10月13日は日蓮聖人の命日で御会式が行われていました。本堂からは読経の声がひびいていました。境内は出店が並びとても賑やかでした。鬼子母神堂は法明寺の飛地にあり、大きく分けると神社ではなく寺院に分類されますが鳥居があり神仏習合の名残と言えます。鬼子母神像は憤怒の像と言われています。

神木は石榴(さくろ)の木ですが実が一個もありません。早くも鬼子母神がたべたのでしようか。山岡鉄舟碑は達筆で「衆生心水清苦堤影現中」と書かれていました。

子育公孫樹は樹齢700年以上で日宥が植えたと云われます。堂々とそびえていました。武芳稲荷大明神は鬼子母神の地主神を祀った古社でお詣りしました

、そして有名な江戸時代から続く駄菓子屋さんへも立ち寄りました。上川口屋といい元は飴屋で天明元年(1781)創業で東京最古の駄菓子屋です。

3,4分で日蓮宗本納寺に入りました。慶安3年(1650)法明寺22世の日相が開基です。狂歌碑、句碑が沢山ありました。井上家墓は宝篋印塔七基で慶長9年(1603)の墓は関東で一番古いとされています。大鳥神社は神紋が福包とよばれる袋紋で見ているだけでなぜか楽しくなります。狛犬の下に蛙がいます。

雑司ヶ谷茄子がきれいな色をしてぶらさがっています。村には百姓村が在り江戸へ野菜を供給して帰りは人糞などを運んできたそうです。

 次ぎの法明寺に向かい初めて2,3分後、ここには橋が架かっていて旧鎌倉街道枝道でしたと講師がいいました。

東京音楽大学の前を通り南池袋にいり大鳥神社から10分後に日蓮宗法明寺に入りました。

江戸時代には末寺が14ケ寺で朱印が10石。弘仁元年(810)に真言宗の威光寺として創建されました。吾妻鏡では源義家以来、源氏の祈願寺でした。正和元年(1312)に日蓮の弟子である日源が日蓮宗に改宗し室町時代に鬼子母神を安置しました。梵鐘には度量衡が描かれていたので江戸時代には鯨鐘と呼ばれていました。

私たちが訪ねた日は御会式の日でお坊様が小走りで動き檀家の人たちはお飾りを引く準備をしていました。火消しのめ組の法被を着た人とすれちがいあの喧嘩で有名な火消しと思い何だかドキドキしてしまいました。5分位で威光稲荷に着きました。神紋が石榴で神社ではなくて寺院の稲荷ということです。

又、5~6分進んだところに本日のメインの一つである日蓮宗本立寺に着きました。

彰義隊に神木隊(榊原家の榊を分解して神と木)として参加し死亡した榊原藩士の碑がありました。本立寺は姫路城主榊原家の奥方の菩提寺となりました。八代藩主の榊原政岑は高尾太夫を1800両で見受けしました。贅沢を禁止した徳川吉宗の怒りを買い越後高田に国替えとなりました。2年後に政岑が亡くなり側室の高尾太夫は菩提寺の本立寺で尼となり供養を続け84歳で亡くなったとの事です。側室の方々の碑に刻まれた同じ戒名の墓が西方の塀そばにありました。

すぐに木立の中に御野立跡碑がありました。この辺りは軍の演習があったところで明治天皇が御覧になったということです。

サンシャインのビルが見えて来ました。東池袋中央公園の暗い片隅にその慰霊碑は在りました。巣鴨プリズン跡に自然石で「永久の平和を願って」と刻まれています。

東京軍事裁判で7人の処刑が執行された場所です。周辺住民の反対があり具体的表現を避けたとの事でした。手元の資料で7人の詳しい罪状が解りました。

サンシャインのビルから池袋駅に向いました。駅を通り過ぎた所に四面塔と稲荷大明神があり柵の中を覗きました。享保6年(1721)に池袋村講中64人が造立したもので追剥ぎや辻斬りに合った人の供養と道標をかねていました。

さて本日最後の池袋水天宮はすぐ正面に小さくありました。田の神の4体はシャモジを持っていて後から見ると子孫繁栄を示していて皆で笑いながらの解散となりました。

両日とも14時40分から45分でとても早く終了となりました。皆様、お疲れ様でした。

裁判

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第2部12回 高田・池袋を巡る(後編、午前部)

10月15日(土)と18日(火)の2日間、12回目の後半を歩きました。最初の集合場所が解りにくいとの意見があり、18日はJR高田馬場駅、早稲田口改札前に10時としました。

そこから前回解散した面影橋まで15分位を掛けて歩きました。ここでスタートの挨拶をして最初にすぐそばの高田氷川神社を訪ねました。金木犀が香っています。初めは山吹の里氷川神社と称していましたが氷川大明神、明治2年には氷川神社となりました。

歴史は古く平安時代(859~77)の創建で下高田村の産土神です。右手奥に小さく祀れているのは高田姫稲荷です。平安時代、在原業平夫婦が森に迷ってしまい離れ離れになり別々に寝たのですが目が覚めるとそぐ側に寝ていたという逸話が残っています。左側に道祖神社があり猿田彦神が祀られています。狛犬は鬼門の位置に立てられ立派でしたが我々は鳥居の右奥に古い狛犬が置かれてあり、そちらに心ひかれました。

真言宗豊山派の南蔵院もすぐに在り、名作怪談乳房榎ゆかりの地とありました。

「三遊亭円朝の名作の話というのは絵師がこの寺に泊まり込み仕事をしている間に妻の「おせき」は弟子と恋仲となった。その二人は絵師を殺し再婚した。遺児は使用人の手で育てられ板橋の松月院の榎の木の瘤から流れ出る露を飲んで成長し父の霊に助けられながら仇を松月院境内で討つという話である」

石仏が多く馬頭観音が目を引きました。山吹の里弁財天は八臂で頭には蛇がいますがお顔は丸くて愛らしいねと皆でのぞき込みました。奥には三体の阿弥陀如来像があり、いずれも寛永年間のものです。

そして彰義隊士首塚がありました。これは九士の首塚で上野の山の戦いで敗れた残党を葬ったものです。

10分位進むと真言宗豊山派の根生院に着きました。山門は赤門になっていて延宝6年(1678)のものです。万葉仮名で刻まれた無相の連歌句碑がありました。「けふみれば かすみてとおし ふじのやま」「ふじのねは うきしまなれや きりのうみ」

先祖が火消しの家があり鳶口、刺股、半鐘が吊されていました。

5分位で次の真言宗豊山派金乗院に着きました。名所図会の中では金乗院の裏門の辺りに関所跡があり平地だったとのことで、あとは坂であったので宿坂の関と言われていました。

倶利伽羅不動庚申塔は不動明王の持つ剣に倶利伽羅龍が巻き付いたもので剣の先を飲み込もうとしています。

鍔塚(つばつか)は寛政12年(1800)の剣供養塔です。

丸橋忠弥の墓に行く方に登り始めて直ぐに青柳家追悼碑がありました。江戸時代の公事師で公開図書館の祖といわれる青柳文蔵の墓です。仙台出身で亀戸で医者を開業し貯えた富で2万巻の書物を集め仙台藩に献上しました。だれでも利用できる我国初の公共図書館となりました。

家光が死去した慶安4年(1651)に11歳の家綱が四代将軍になってまもなく幕府転覆の陰謀が発覚し大騒ぎになりました。慶安の変です。軍学者の由比正雪を支えたのが宝蔵院流槍の名人、丸橋忠弥でした。新しい政権を樹立し巷にあふれている浪人を救済するという目的があったとの事です。集めた浪人は京都、大坂を入れると約2000人となりました。密告により鈴ヶ森で磔となりました。紀州にあった墓は一族により金乗院に改葬されたという訳です。本姓は長宗我部で丸橋は母方の姓でした。

境内の高くなったところに目白不動堂がありました。新長谷寺にありましたが、昭和20年の戦災で焼失し、近くの金乗院に合併されました。

雑司ヶ谷村の旧家の三氏は朝廷の下級役人でしたが官を辞し乱を避けて一同が同村に居住し誰いうともなく雑士ガ谷と唱するようになり雑司ヶ谷になりました。

鬼子母神表参道入口に入って行きました。ここで本日の昼食となります。

中華と洋食屋があり殆どの方が洋食のランチ¥1000円を頼み100円追加するとコーヒも飲めました。

午後の部につづきます

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第二部 12回  高田・池袋界隈(前編) 午後の部

江戸川公園に集合し目白坂という所を進みました。 3分位で正八幡神社に着きました。 鳥居をくぐり階段を上るとお社がありお詣りをしてから説明を聞きました。 関口水道町の鎮守という事です。 関口水道町が寄進したどっしりとした狛犬を鑑賞しました。

すぐ先に小さな幸神社があり、こちらは覗くだけで進みました。この辺りは鎌倉街道の枝道があったとのことで農作物を江戸に運び帰路は江戸の下肥(シモゴエ)を持ち帰ったことから「おわい街道」と云っていました。一説にはこの辺の長者が金の駒を収め幸神を勧請したとのことでした。

すぐに椿山荘の塀が見えて来まし。江戸時代には上総国久留里藩黒田家の下屋敷でしたが維新後に山縣有朋の邸宅になりました。この辺り一帯は椿が多く椿山と呼ばれていたので椿山荘と命名しました。現在はコロナの為に庭に入る入口も封鎖しておりましたので見学を遠慮しました。

前の道路を渡ると高い高い十字架のあるカテドラル聖マリア大聖堂が在りました。明治32年(1899)、聖母仏語学校の協力を得て附属として建築されました。翌年関口聖母教会として独立しました。現在の大聖堂はドイツのケルン市のカトリック信者の寄付により丹下健三設計で昭和39年(1964)2月に落成しました。内部の天井の明かりを拝見し土曜日は美しいカップルが式に向う姿も見られました。

方向を替えてまた元気よく進むと神田川に向う右側に永青文庫の入口がありました。 熊本細川家の下屋敷で数々の国宝や文化財を所蔵してあります。

胸突坂の階段を降りました。左手に芭蕉庵がありました松尾甚七郎宗房は藤堂家の下級武士として神田川の堀割工事の書役でこの地に4年間携わり水番屋に住みました。後に芭蕉を慕う弟子たちが龍院庵を建てました。その後、焼失し大東亜戦争後に芭蕉庵が建てられました。蛙碑や奥の上がったところに五月雨塚がありました。

川沿いに水神社がありました。神田上水の守護神として妙見菩薩を祀っています。石段がありましたが下で参拝するのみとしました。

そのすぐ側に入口がある肥後細川庭園に入って行きました。清水家、一橋家の下屋敷になり細川家の下屋敷になり明治15年から細川家の本邸となりました。池泉回遊式庭園を見て回り松聲閣という名の大正時代の建物にも入り、二階からの眺めを見ることが出来ました。

5~6分歩くと山吹公園がありました。太田道灌への少女の奥ゆかしい対応が有名ですね。この辺りには実のならない八重の山吹が多くあったそうです。ぽつりぽつりと黄色の山吹がまだ咲いていて皆さん驚いて眺めていました。

神田川の仲之橋を渡り甘泉園公園に入りました。徳川吉宗の子孫の御三卿の清水家の下屋敷庭園です。山吹の井と呼ばれる池からの水を中心とした回遊式庭園で現在は維新後の相馬男爵邸の名残があるとされています。湧きだしている水がお茶に適しているとの評判から甘泉園と名が付けられました。

直ぐに水稲荷がありました。 江戸名所図会では高田塚稲荷とあります。 古くは富塚稲荷、将軍稲荷と呼ばれました。 元禄15年(1702)に大椋の下から水が湧き出し眼病に効くと評判になり水稲荷となりました。 江戸最古の富塚があったとの事ですが思ったよりも小さく感じました。

また、この土地は早稲田大学と土地交換により水稲荷は当地に移転しました。

堀部武庸(安兵衛)の碑が在りました。

土曜日は2時半頃に高田馬場跡に出ました。 寛永13年(1636)旗本たちの馬術の練習場として造られ流鏑馬も行われました。 すぐ側の診療所の前辺りが堀部安兵衛が仇討ちの助太刀をしたとされています。

日蓮宗の亮朝院の立派な門を見上げて中に入りました。 家光が念仏堂を建て明暦元年(1655)に四代家綱は徳川家代々の祈願所としました。 門の上に梵鐘があります。 本堂にお詣りをした後で見学した金剛力士像は石造で区内で唯一ということです。 156センチで少し小ぶりに見えました。 ちょっとおもしろい狛犬にも注目し院を後にしました。

本日、最後の面影橋の碑です。 在原業平が鏡にような水面に姿を映したと、また美しい於戸姫が悲劇を嘆き身を投げた折に詠った歌から名付けられたとの説があります。

面影橋を渡った所で解散となりました。 13日は3時半、17日は2時50分頃になりました。 残暑の中、皆様大変お疲れさまでした。 面影橋という荒川線の駅からそれぞれ帰路につきました。

カテゴリー: 未分類 | コメントする