第二部 三回 江戸城外堀を巡る(前編)

12月10日(火)、12火(木)、14日(土)の3日間、東京のまだまだ美しい紅葉の中を歩きました。10時にJR飯田橋駅をスタートしました。

西改札口を降りて本日の予定などを聞き、右に折れた所に牛込橋があり、牛込見附跡がありました。明治35年に撤去されましたが阿波徳島蜂須賀阿波守が築いた御門や石垣があり、3千から1万石の旗本が3年交替で勤番していました。

真直ぐ進むと神楽坂ですが周りの何カ所か見学してからという事で、日本歯科大学をぐるりと廻り5分で東京大神宮に着きました。明治33年、大正天皇が皇太子の時、初めて神前結婚式が行われました。これを参考に東京大神宮(当時は日比谷大神宮)の神官が神前結婚式を実施し世間に広まったとの事です。

飯富稲荷へお参りして飯田橋方面へと戻りました。その折り、向こうの信号辺りですが、幕末に清川八郎の発案で組織された江戸の警護集団の新徴組が駐屯していた庄内藩酒井家中屋敷があった所との説明がありました。

飯田橋の駅の近くに「東京農業大学開校の地」があり、徳川育英会が明治24年に設立したとありました。初代学長があの榎本武揚なのです。

外堀に住むゴイサギを見ながら歩道橋を渡りました。飯田橋の由来は開府前の江戸でこの辺りの長老、飯田嘉兵衛が家康を案内し、その功に対して、この一帯を飯田村と命名したとの事です。明治23年に鉄製の橋が架けられました。

 

目白通りと分かれて東西線、大江戸線の上辺りを歩いて行くと10分位で筑土八幡宮に着きました。江戸名所図会では平安時代に慈覚大師が小さな祠を建て伝教大師作の阿弥陀如来を祀ったのが始まりとの事です。鳥居の裏側に刻まれている「従四位下行豊前守丹治直人直邦」の行に注目しました。豊前守より従四位下が上だという事を示しています。

猿と桃の珍しい庚申塔や狛犬、金太郎や一寸法師などを作曲した田村虎蔵の碑も見ました。古い江戸時代の神輿もガラス越に見る事ができました。

この辺りは武家地なので元々、町名はなく坂道にそれぞれ名前が付いています。瓢箪(ひょうたん)坂を上がりました。

大きな赤い鳥居が見えてきました。木々の紅葉がまだ残っていて美しい風景の中に入っていきました。本殿も右手にあるカフエやマルシェも近代的な建物なので時間があれば楽しみたいと感じました。

小田原北条氏に属していた牛込氏(大胡氏)が家康より領地を安堵され旗本となったとの事です。おかっぱ頭の狛犬は加賀白山狛犬で江戸中期に流行ったそうです。北野神社の神楽殿は蛍雪神社となりました。

絵馬の奥に進みました。八耳神社は太子堂でしたが耳の病気を治す信仰となりました。神楽坂の東照宮と言われた葵神社と出世稲荷神社の三つが並んで鎮座していました。

神楽坂のメインの通りに向かいました。音楽の友社の前を通り東西線の駅を過ぎると神楽坂のオレンジ色の旗が華やかに迎えてくれていました。ポストの横にコボチヤン像が立っています。読売新聞の四コマ漫画コボチャンを描いていた植田まさし氏が住んでいたとの事です。

神楽坂上から少し奥にいった所に小さな寺内公園がありました。マンションと住宅地の中ですが元は行元寺の境内でした。最初は武士だけが仇討ちを認められていましたが、ここで農民が初めて仇討ちをした所とのことです。

神楽坂の通りを少しずつ下っていきます。相馬屋は1648年創業との事です。四百字詰原稿用紙を作ったとの事で、講師は石川啄木を例に挙げて文士たちにとってこの店の原稿用紙の価値がどれだけのものであったかを説明しました。

 

木曜日、土曜日は先に善国寺に入りました。日蓮宗鎮護山善国寺は家康から山号、寺号を賜りました。江戸三大毘沙門天の一つです。他は芝の正伝寺、淺草の正法寺です。石虎は嘉永元年(1838)のもので英国式水準点の几号が彫られています。毘沙門天は多聞天とも言い多くの願いを聞いてくれるとの事で参拝者を多く集めています。

すぐ右に折れ見番横町に入りました。現在は約25名の芸妓がいるそうです。芸者衆の手配や稽古を行う場所で火曜日、木曜日は三味線の音が聞こえてきました。小さな稲荷神社があり松枝と一番有名な料亭名が角に刻まれていました。この横町は約100Mとのことです。

芸者さん達の履物や小間物を扱う「助六」を見ました。

 

粋な黒塀で有名な「かくれんぼ横町」を少し見学しました。お安いランチでも2200円位からで名のある天麩羅屋さんは天丼が3500円位です。格子戸の内側に小さな庭も見え日本情緒をかもし出しています。

しかし私達の大半の人たちはリーズナブルで美味しい元の通りに戻り昼食を楽しみました。一時間位の休憩で、おせんべい屋やホテルのパン屋の買物を楽しみました。神楽坂の雰囲気をちょっぴり味わった後で毘沙門天に集合しました。

後編に続きます。

 

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第二部 第二回 江戸城内堀を巡る (後編2)

歩きはじめた所に梨木坂が有り、井伊家の裏門あたりだったとありました。お濠の内側の柳の井を見ました。永田町一丁目一番地の標記のある国会前の静かな公園へと入っていきました。

 

 

 

桜の井戸は井伊家(加藤清正の屋敷だった)前にあり、清正が掘ったと伝えられています。

ハナミズキの紅葉の中を進みました。少し高くなった所に日本水準原点標庫がありました。日本全国の統一された標高決定の為に基準を保護する為に明治24年(1891)、ローマ風神殿建築に倣い石造りで建てられたものです。時計塔を過ぎると井伊家のものだという石灯籠がちらりと見えました。

国会議事堂の前を横切り今度は和風庭園の中に入っていきました。

公園を出ると霞が関中央官庁の案内図がありました。まさにここは日本国の中枢なのです。霞が関旧跡とは中世にこちらに関所があったと云う事です。

3、4分で目を見張る建物が現れました。旧法務省本館の美しい煉瓦造りの洋館にうっとりです。明治に東京を近代的景観都市にするという官庁集中計画の一環として建てられた当時の司法省です。ドイツ・ネオバロック様式との事です。その植え込みの中に米沢藩屋敷跡の家紋がありました。笹に雀で二羽が阿吽の口をしているではありませんか。

警視庁が見え桜田門が見えてきました。どんどん進み、国の重要文化財で正式には外桜田門といいます。大手門と併せて大名登城の表玄関でした。講師が語る桜田門外の変の話を聞きました。大老が急ぐと何か異変ではないかと思われるのでキザミ足という歩き方で小さく進んだ事から攻撃しやすかったとの事です。

櫓門を潜ると皇居前広場です。黒松と芝生の広い広場を行くと左手に二重橋がありました。前回の二の丸公園にあった物のレプリカのランプがしっかりと見えています。石橋と奥の鉄橋が二重橋との事です。外国人の方も日本人に入り混じって写真スポットのようです。

今は入れない坂下門が見えます。その横には江戸城の一番の絶景がありしばし味わいました。濠と奥に富士見櫓があり右手の丑三つ櫓と蛤濠が見えます。後に一つもビルがないのですから昔の人が見てた風景そのものです。

現在の上皇陛下のご成婚記念の公園は水の上の橋や噴水が多くあります。

すぐに和田倉門跡があり、和田はわだつみの「わだ」で海の傍の倉という事です。西の丸から大名小路曲輪へ送水した上水道の石桝がありました。お濠には大きな白鳥がいて近づいてきました。大きなビルを見ながら広場を進むと楠木正成像がありました。丁度。皇居前広場の道を隔てた公園の中央辺りに、木曜日は青空に映えて高く凛々しくそびえていました。こちらも外国人の写真スポットの場となっています。

 

この茶色いビル辺りが林大学学頭宅跡で、隣が安藤広重生誕の地です。

 

馬場先門の交差点の近くにGHQの本部跡のビルがそびえる様にありました。

いよいよ、日比谷公園です。土曜日の方は順序を変更いたしました。地図を見て入るとまずレトロな人と馬の水飲み場がありました。アメリカ合衆国の民間匿名有志から昭和27年に日本新聞協会に寄贈された平和の鐘、昭和16年にイタリアか東京都に寄贈されたローマ牝狼(ルーノロマーナ)の像も見ました。その後、日比谷見附跡と伊達政宗終焉の地に感慨深く見ました。

古代スカンジナビア碑銘譯はバイキング文字でかなり面白く眺めました。

 

しかし長くは見られず次へと進みました。南極の石は無造作に通りにはみ出して置かれてあり、ヤップ島の石貨はあまりにも大きく、真ん中にまるい穴があるから貨幣だと云われても俄には信じ難いものがありました。公園の端まで移動し烏帽子石の下の不(水準点)を確かめ日比谷公会堂を見上げました。昭和35年、日本社会党の浅沼稲次郎が暗殺された所です。

石路の花が咲いている奥に松本楼がありました。こちらには本多静六博士の首掛け銀杏が色付いていました。松本楼の店主が孫文を助けたという話を聞きました。孫文夫人の弾いたピアノがレストランの通路に今も置かれています。少し進むと京橋の欄干がありました。

奥の門を出ると大岡家上屋敷跡がありました。大岡忠相は75歳で宝暦元年(1751)、この上屋敷で亡くなりました。旗本で大名までになったのは忠相だけだそうです。傍に弁護士会館のビルがあり今の世も法曹界に関わるビルがある事に感じいりました。

今回は4時から4時半に終わり、お約束の3時半を大きくオーバしてしまいました。皆様大変お疲れ様でした。

 

空澄むや何を見つめる特攻像     豊治

 

母像の涙跡濃し神の留守

汽車寒しクワイ河マーチ耳奥に    慶月

 

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第二部 第二回  江戸城内堀を巡る(後編1)

11月12日(火)、14日(木)、16日(土)の三日間、都心の紅葉の中を気持ちよく歩きました。10時、九段下駅を出発しました。地上に出ると首都高の下に俎橋(まないたばし)がみえました。

3~4分で当時、中坂と呼ばれていた坂に差し掛かる辺りのマンションの中庭の場所に着きました。曲亭(滝沢)馬琴の硯井戸跡です。南総里見八犬伝で有名で日本最初に原稿料で生計を営む事ができた人です。

2~3分で築土神社がビルの下にあり、コンクリートの一階部分に赤い鳥居がはめ込まれたように建っていました。将門の首は、天慶3年6月に京から持ち帰られ祀られたのが津久戸明神の始まりとの事です。首桶は戦災で焼失しました。狛犬は安永9年(1780)のもので千代田区で一番古いものという事です。拝殿の唐破風の上に鳳凰が羽ばたいているのも大変珍しいとの事です。澄んだ水が鏡となった水盤には将門の繋ぎ駒が彫られ印象的でした。

 

 

右奥に世継稲荷神社が田安稲荷とも云われ境内に橙(ダイダイ)があったので世継稲荷と呼ばれたのは笑われますが世継がいかに大事だったかが良くわかります。

和洋女子中高学校の坂を通り濠北方面戦没者慰霊碑が大きなヒマラヤスギの前にありました。ヒマラヤスギの大きな松笠が供えられていました。壁にはボルネオ、インドネシア、ニユーギニア等の地図があり、まずは本日の最初の胸の痛む場所でもありました。

歩道を渡り曲がると日本で一番大きい大鳥居が見えました。ここ靖国神社は明治維新から大東亜戦争までの戦没者約250万人の御霊を祀っています。

大村益次郎像の顔が上野山の方角に向いています。長州藩の医師で日本陸軍の創始者とされています。

二ノ鳥居をくぐり神門を潜ると左手の金属製大灯籠の前に立ちました。台座下部の「不」は几(キ)号水準点を表し、これはイギリス式測量法で明治17年にドイツ式に変わるまで使われていました。

有名な染井吉野の標本木の隣に能楽堂がありました。参集殿は正式参拝する人の建物です。その前を通り抜け軍犬、軍馬、軍鳩の慰霊像を眺めました。ガラスケースの中にビルマ戦線へ持参した道具が並べられていました。パール博士とはA級戦犯が「平和に対する罪」を犯して処刑された事に反対した人です。また、東京裁判での矛盾点や日本に対する理不尽な点を指摘した人です。

海防艦には島の名が付けられていることを知りました。国後、択捉の名前が始めにあり、母の像や特攻勇士之像にも胸がつまりました。幕末に日本を防衛した青銅製の大砲がありました。

遊就館の中では零戦、泰緬鉄道の蒸気機関車等を見てお手洗いも済ませ15分後に集まりました。

戦前まで天皇がお越しになった勅使門を眺め拝殿に進み、かしわ手を打ち、靖国の桜となられた御英霊に哀悼の意を表しました。神酒を買われた方もいらっしゃいました。

 

今月の遺書のコーナーではみこととなられた方の書簡に触れました。

菊花展の前を通り練兵館跡の前に立ちました。斎藤弥九郎が創始した神道無念流です。長州藩と繋がりがあり、桂小五郎が塾頭をしていた時期があったとの事です。古地図で斎藤左馬を見つけました。

まっすぐ東に進み、3,4分で大妻女子大にさしかかる所に看板が有り、塙検校和学講談所跡とありました。寛政5年(1793)に塙保己一が開設し「群書類従」「武家名目抄稿」等を編纂しました。保己一の四男の次郎が後を継いでいましたが惜しくも「廃帝の前例調査」と誤解され暗殺されたとの事です。

すこし進むと四方が大妻女子大に囲まれている場所に佐野善左衛門屋敷跡がありました。佐野家は代々、江戸城内の警備をつとめていました。善左衛門政言は「鉢の木」で有名な常世の子孫で佐野家の家系図を返してくれない事や賄賂を渡しても昇進しない事から若年寄りの田沼意知に切りつけ切腹、家名断絶となりました。

お堀を少し北上し11時50分頃に千鳥ガ淵戦没者墓苑へ入りました。大東亜戦争で海外で死亡した日本人の軍人、一般人の身元不明の遺骨が安置されています。昭和34年に造られ現在、35484あまりの遺骨が納められています。一本、100円の白菊や黄菊を献花させていただきました。

ユリの木の並木が黄葉していて時々、種も落ちていました。道路の向こう側に美しい英国大使館が見えています。ジョギングの人たちの中を進んで行くと半蔵門が見えてきました。左手に服部半蔵の屋敷があったことから半蔵門と云われています。交番の辺りに高札場があったとの事です。

そして門の反対側の道路は甲州道中がありました。国立劇場や最高裁判所もあります。

 

12時半頃に三宅坂の前に渡辺崋山生誕地がありました。江戸末期の蘭学者、画家でした。幕府の政策を批判したとして蛮社の獄で蟄居させられ自殺しました。

 

4~5分で昼食の場所である国会図書館に入りました。新館で手続きをして一日会員となり6階の食堂へ急ぎました。食券を買い定食や図書館カレーを楽しみました。

後編に続きます。

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江戸名所巡り 第二部 第一回 江戸城内堀を巡る(後編)

1時過ぎに北の丸公園からスタートしました。科学館の奥に吉田茂像が立っていました。思ったより体格がいいですねとの声が聞こえてきました。

像の目の前に花水木の紅葉がきれいでした。5分位歩くと北白川宮能久親王の銅像が向こうを向いて立っていました。幕末に輪王寺宮を相続され上野寛永寺の門跡となられました。明治にドイツ留学で兵学を学ばれ明治10年に帰国後陸軍少将、中将を経て近衛師団長として台湾で亡くなられました。

美しい煉瓦造りの国立近代美術工芸館がありました。明治洋風建築に目を見張りました。昭和20年一部将校のポツダム宣言受託を阻止するクーデターが8月15日未明に発生しました。森赳(タケシ)師団長は従わなかった為に射殺されたというその場所です。その当時の階段を見上げました。当時の歴史の舞台をため息とともに見る事ができました。近衛師団とは皇居の警護と天皇の儀仗兵として任せられた陸軍の師団です。全国から優秀な人が集められ、それはとても栄誉でもあったとの事です。

通りの右手に近衛歩兵第二連隊記念碑がありました。また、少し進むと今度は第一連隊の碑がありました。「たとえ魂となりても永久に皇居を守護し奉らん」とありました。

 

武道館はオリンピックの準備でしょうか改修工事中でした。1964年9月の東京オリンピック前に落成し法隆寺の夢殿のデザインと知り胸が熱くなったのは筆者だけではないと思います。

田安門に出ましたが、その手前にある弥生慰霊堂には19日にやっとお詣りできました。弥生神社は警視庁、消防庁の殉職者を祀っている所です。

田安門をくぐる前にまた、幕府の幕を意味する白壁の二本線(二つ両)を見上げました。田安家は将軍の親戚である御三卿の一つです。現存する江戸城の門で最も古い門と聞き大きな蝶番(ちょうつがい)をしっかり見ました。

橋を渡りながら講師は濠の石垣がこちらは上と下で真ん中は土塀になっている鉢巻き石垣と腰巻き石垣になっているとの説明がありました。石の少ない関東なので本丸と違いこちらはこのようになっているのです。

靖国神社の常明燈台が見えてきました。全国の石で造られているという事です。品川弥次郎像は吉田松陰の松下村塾生で明治の政治家です。大山巌元帥像は日露戦争当時の陸軍大将で男性の方々はうんうんと頷いていらっしゃいました。

田安門を右手に折れ、蓮の濠を見ながら九段坂を進みました。九段会館の手前に蕃書調所跡がありました。江戸時代の洋学の研究所で、当時一流と言われた人たちを多く出したとの事で東京大学の前身という事です。

 

東日本大震災で被害が出た九段会館が建て直されていました。会員さんの中でこちらで結婚式を挙げられた方がいらっしゃいました。並木のエンジュの樹に実がさがっていて手が届きました。この辺りの並木は、このエンジュとユリノキが多いとの事です。

清水門は中世に清水寺が有り、江戸時代に清水家の屋敷になりました。田安門と共に重用文化財となっています。門を入り左手に曲がり石段を昇りました。昔のままの階段は段差が大きく奥行きもあり非常に疲れました。ここでお手洗いと水分補給の休息を5分位取りました。ベンチの奥にスダジイの実が沢山落ちていたので拾う方もいらっしゃいました。椎の実は苦みがなく炒ると美味しいそうです。

憲兵司令部跡の白いビルを見ながら進みました。竹橋門あとには環状線が通っていました。竹橋事件では明治11年、下士官・兵士の反乱で多くの人が刑を受けたという事です。

広い歩道が歩きやすくお堀を右手に歩いて行くと江戸時代そのままの緑青色の擬宝珠があるきれいな橋がありました。平川橋と平川門です。

平川門でも警察官の見張りがありました。木曜日は少しだけという事で内側の不浄門を見せてもらい、19日(土)は荷物検査を受けて不浄門を見ました。城で亡くなった人や罪人を出した門です。

 

春日局と小栗叉一郎(小栗上野介の先祖)との話を聞いて近くに大奥があったとの事に思いを駆せる事ができました。大奥には3000人から4000人位の女性が居たとのことです。11代将軍の家宜には50人以上の側室がいて子供が55人もいたそうです。

すぐに一ッ橋がガード下にありました。薄暗い場所でとても残念な風景になってしまい、石垣の一部が残されていました。

関東大震災の火事で焼け残った銀杏の断面を驚きをもって眺めました。右手の三の丸の石垣が大きく凹み広くなっています。江戸城の鬼門(先に神田明神)に当たる場所で和気清麿像がこの鬼門に向かって目を光らせていました。

気象庁と消防庁の前を通りました。4~5分で将門塚へ着きました。将門は藤原秀郷の矢に倒れ首は京都に送られました。将門の胴体はこちらに埋められた後に、京都から首を持ち帰り併せて埋めたのですが京から首が飛んで戻ったという話さえ作られました。少し薄暗いのですが供花も多く線香がくゆり、お参りの人が続々と来られています。サラリーマンが左遷されても本社に帰れるようにとの願いの蛙の置物が所狭しと置かれています。

さてこちらは酒井家の上屋敷跡でもあります。大老四家の一つで家康の三河時代から譜代の家柄で松平家の分家筋で大手門のほぼ正面にあったというのは信頼の証といえます。

本日の工程は、ここで終了となりました。

3時20分頃、すぐそばの大手町駅に到着しました。明るいうちに家に帰れるとおっしゃる方、ラッシュに会わないとおっしゃる方、また、買物をしようとおっしゃる方、皆様方の笑顔の内にお別れができました。来月の江戸城の後半も楽しみだと地下鉄へ乗り込まれました。みなさまお疲れ様でした。

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ラグビーや熱戦続く秋の夜

秋うららシャッター頼む外人さん

清水門出づれば蓮の実のたわわ    豊治

江戸の世へ蛇穴に入る田安門      慶月

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江戸名所巡り第二部第一回江戸城内堀を巡る(I)

令和元年10月から第二部が始まりました。これより江戸の中心部を巡ることになりました。10月8日(火)、10日(木)はまだ暑さが残る中を歩きましたが12日は大型台風19号の直撃を受け、19日(土)に延期となりました。

丸の内線東京駅北口改札に10時に集合し地上に出ました。

新丸の内ビルやラグビーの派手なモニュメントを過ぎ、リーフデ号のオブジェを見ました。1600年4月に豊後国に漂着したときは乗組員110名程いたというのに助かったのは24名だったそうです。その中のウイリアムアダムス(三浦按針)とヤンヨーステンは徳川家康の外交顧問として活躍しました。この像はヤンヨーステンの屋敷が近くにあった事からオランダの首相より贈られたとの事です。ちなみにハウステンボスに復元されたリーフデ号があり乗ることができるそうです。

信号を渡り赤レンガの東京駅をみながら鉄道の父と言われている井上勝(野村弥吉)像を見上げました。長州五傑の一人でイギリスで鉄道技術を学び、安心安全な鉄道網を敷く事に貢献しました。

ビルの間を少し歩き道三橋跡の説明板の前に立ちました。家康が江戸に入国し江戸城を築く際、物資補給路の堀を造り、その堀にかかっていた橋の事です。この道三とは今大路道三の事で日本医学中興の祖と言われた人で、堀筋に屋敷があったことからこの名で呼ばれたとの事です。

明治42年(1909)堀が埋めたてられ橋も姿を消しました。ビルの上部にクレーンが見えました。丁度、この辺りが伝奏屋敷、評定所跡と説明を受けました。今の最高裁判所の様な所との事です。

正面に大手門が見えてきました。荷物検査を終えて江戸城(皇居)の中へと進みました。

内側は高麗門になっています。中に入ると右手に渡櫓門があり、正面の石垣の鏡石は魔を入れない為に大きく五角形や六角形に造られたとの事です。江戸城の石材は、そのほとんどが伊豆半島の物という事です。

入園票を一人一人もらい進みました。十月桜が咲いている三の丸尚蔵館の内を15分程見学しました。大正天皇、昭和天皇の即位の時に各国や地域、財閥から贈られた物で大きな壺や像、日本画の屏風が目を引きました。

すぐに同心番所がありました。大名が駕籠から降り供の数を減らす大手三の門跡を通り同心百人が詰めていたという百人番所と呼ばれる長い建物がありました。

御三家はここで降りるという中ノ門跡を通りました。柱の跡が丸く残っています。

私たちは江戸時代そのままの大きめの石畳を踏みしめて進みました。

そして身分の高い同心や与力が警護している大番所が3番目に現れました。

石垣の鏡石を見ながら進むと前方に立派な櫓が見えてきました。富士見櫓は江戸城に現存する唯一の三重櫓で15・5メートルの高さです。八方正面櫓とも呼ばれました。天守が焼失した後は将軍はここより両国の花火を見たそうです。

大嘗祭が行われる建物の白木の屋根が見えています。大嘗祭の儀は11月14,15日で急ピッチで建設されていて、儀式の後、建物は取り壊されますが、その前に一般に公開される事も検討中との事です。

真っ直ぐな道がありました。ここがあの有名な松の大廊下跡です。本丸御殿の畳敷の廊下の襖戸に松と千鳥が描かれていました。元禄14年(1701)、浅野内匠頭長矩の刃傷事件が起こった場所です。

明るく開けた場所を散策しました。古い種類の梨が落ちていたので拾う人もいましたが19日は実が一つもなく、最後の一つでしょうか烏がついばんでいました。

皇居正門の石橋の電灯(明治20年の物)がすすきの奥にあり、その美しさと立派さに驚きました。現在の物は同じ物を造り昭和62年に交換したとの事です。

大火で焼けたままの石や、表面にすじや点々で模様が入っている石などを見てホウと感心しながら進みました。

武蔵野の雑木林が残されている場所を通り、小堀遠州作の庭園(復元したもの)を観賞しながら諏訪の茶室を過ぎました。都道府県の木が植えられている場所では通りにある木だけですが見て進みました。

梅林坂を昇ると天守台がありました。二代将軍秀忠の時(1607)に完成しましたが明暦の大火(1657)で焼失しました。

入園票を返し北桔橋門を見学しながら渡りました。吊り橋を留めていた金具が上方に残されているのを見て、またひとつ歴史を噛みしめたのでした。

歩道橋を渡りすぐに北の丸公園へ入りました。19日には22日に迫っている即位の礼の準備でしようか自衛隊の人たちが規律正しい行進をしていました。

右に曲がるとすぐに科学技術館の白い建物が見えました。本日の昼食の場所です。先の戦争時に東部軍司令部があった所です。メニューは少なくオムライス系とカレー系とお弁当でした。比較的空いている中でゆっくりと頂く事ができました。約50分の休憩を取り売店でもちよっとした置物を楽しみました。

後編に続きます。

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夏期おもしろ歴史講座へのご参加ありがとうございました。

7月8月の江戸名所巡りお休みの二ヶ月間に以前のような歴史講座を行いました。

暑い中を延べ70名の方にご参加を頂きました。

来年も企画する予定ですのでよろしくお願い申しあげます。

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第一六回 江戸名所巡り  奥戸・立石界隈 (後編)

14時前後に商店街の交差点に集まり午後の部のスタートを切りました。皆様はしっかりとエネルギー源を補充いたしました。

5~6分で渋江公園に着きました。セルロイド工業発祥記念碑が子供のモニュメントと共にありました。セルロイドは明治41年に本格的に始まり葛飾区は大正3年より創業し、工業の街として繁栄したとの事です。

約10分位で白鬚神社に着きました。15世紀の建築で葛西の客人大権現と称し大奥の婦人の信仰を集めました。

15分位歩くと真宗高田派の林柔寺に着きました。こちらは徳川家斉の側室である左京の局(月光院)の実家です。7代将軍の家継の生母で教養もそなわっていたので大奥で絶大な力を持っていたとの事です。

四つ木地区センターで15分位お手洗休憩をしてほてった体を休めました。

 

木下川(キネガワ)の薬師と呼ばれている天台宗浄光寺に入りました。こちらには家光のお手植えの松があります。現在は二代目で登美の松の銘は徳川吉宗で碑の字は勝海舟というさすが江戸、これぞ江戸と感じました。庚申塔二基を拝見しながら説明を受け嘉永元年(1548)の銅製灯籠を見ました。

 

山田顕義(日本大学の前身である日本法律学校を創設)と加藤ひな子(我国の女優の育成を行った)の親交を伝える立派な碑を見る事ができました。

ガラスに囲まれた仁王様は寛文3年(1663)の古い物でした。

綾瀬川沿いの環状線の下をしばらく北上しました。6号線の水戸街道に出る手前に「めだかの小道」がありました。土曜日はこの道沿いをあるきメダカやザリガニを見つけながら進みました。

曳舟川の由来の碑がありました。人力によって川の土手から舟を曳く広重の江戸百景を見ました。曳舟とはこういう事だったのかと皆でなるほどと感じた次第でした。

天台宗西光寺が本日の最後の訪問地です。嘉禄元年(1225)に葛西清重の創建で親鸞が東国教下の折、清重の館に泊まり阿弥陀如来を描いて清重に与えました。清重は西光坊と名乗り堂を建てたのが始まりとの事です。葛西清重は頼朝の信頼が厚く後に奥州総奉行になりました。

寺を出てすこし奥まった所に葛西三郎清重墳がありました。昔は墳状になっていたとの事で清重夫婦を葬った所という事です。

四つ木の駅はすぐ近くにありました。サッカーのキヤプテン翼の絵一色の駅で昔、自分の子供たちが夢中になっていたアニメを思い出した方も多くいらっしゃった様です。

久しぶりの江戸名所巡りも無事終了致しました。皆様ありがとうございました。

そして、ここで第一部を終了とさせていただきます。皆様のご協力に厚く感謝申し上げます。

次回からは第二部が始まります。ますます面白い場所を巡る予定です。宜しくお願い申しあげます。

秋日差し大注連縄の照り映える

松越しの爽やかな風大伽藍      豊治

 

地蔵守る河原ありけり曼珠沙華    慶月

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第十六回 江戸名所巡り  奥戸・立石界隈を巡る(前編)

令和元年9月10日(火)、12日(木)、14日(土)の三日間、二ヶ月の夏休みを終えて、第一部の江戸名所16回の日を迎えました。日本橋を出発して実に一年半経過したのです。火曜日は残暑の厳しい中となってしまいました。京成本線小岩駅を10時、皆様のお元気なお顔を拝見する事ができました。

西へ向けて真っ直ぐ進みました。山法師の赤い実がなっていました。20分位進み線路沿いに右に曲がりました。JRのこの線は貨物線だという事です。

少しで細田稲荷神社に着きました。村の鎮守は秋祭りの準備中でした。右手の鳥居に赤字で安政二年十月二日夜の大地震で壊され文久二年に再建された事が示されたありました。

別当寺の真言宗豊山派の東覚寺は線路を渡り反対側にありましたが内には入らず道から拝見するのみでした。新中川に出て土手を歩きました。

 

スカイツリーが見えてきて、三和橋を渡りました。川鵜が一羽物思いにふけっている様でした。

4~5分で八剣神社に入りました。熱田神宮の別宮の八剣神社を勧請し八剣大明神と称しました。全体が修繕中で美しく化粧直しが整うところでした。千木と鰹木があり正面には千鳥破風が二つ重なってあり珍しいとの事です。

右手前の石灯籠は安政2年の大地震で倒壊し再建されたが大正12年の関東大地震で倒壊、修理され、さらに平成23年の東日本大震災で一部損壊。加えて平成30年の台風により転倒し復元が不可能となり、ここに移築したとの事です。

すぐに別当寺の真言宗豊山派の宝蔵院に着きました。百日紅がまだまだきれいに咲き誇っていました。

尊皇思想の武内式部の門下で西園寺公城の家臣である本堂良喜が京都を追われ、こちらの宝蔵院に身を寄せていました。良喜の後を追い公城の娘である妙姫が式部から拝領した薬師如来仏を背負い辿りついたのです。二人はここ宝蔵院で匿われました。住職は名鐘といわれた鐘を売り倒幕に荷担したとの事です。師の式部が三宅島で獄死、僧となった二人も良喜は斬首、妙姫は自ら命を絶ったそうです。

私たちは薬師堂の内を見ました。妙姫が背負ってきてこちらに安置されている仏様は暗くてよく見えませんでした。鐘楼は約200年後の昭和38年に再建されたそうです。

お地蔵さまがずらりと並んでいる賽の河原が造られ異様な悲しさをかもしだしていました。幼くして亡くなった子は親をしたって石を積みます。そこへ鬼が来て積んだ石を壊します。それを優しく守ってくれる地蔵たちが並んでいます。彼岸花が咲き始めていました。

5分位で日蓮宗妙法寺の前を通りました。こちらは柴又帝釈天へお参りする人が寄る北辰妙見様として栄えました。日蓮宗らしく手入れの行き届いた庭木が見えました。

環状線7号の奥戸という字が見えてきました。7~8分位進むと奥戸天祖神社がありました。天祖とは伊勢神宮の荘園の神様だったそうで時代と共に少なくなっていったとの事です。連句碑や沢山の力石を見ました。

 

12時過ぎていましたが水分補給とお手洗い休憩をスポーツセンターで10分~15分取りました。

奥戸橋を渡りました。下を流れているのは中川です。奥戸の渡があった所です。参道の長い熊野神社へとはいって行きました。

ご神紋は八咫烏で、陰陽道阿倍清明の五行説(木・火・土・金・水)による敷地を30間の五角形にしました。土曜日は丁度、神事が行われていました。天満宮の撫牛を見て樹齢300年以上の夫婦楠が拝殿の両側にあり大きさに驚きました。

神馬とされている騾馬が飼われていました。神馬の脇から五重塔を見ました。日本一の銅の五重塔という事です。

フィギュアスケートの羽生結弦さんが清明の演技をする際にお詣りしたとのことです。

将軍の御膳所であった南蔵院を右手に見ながら前を通り過ぎました。4~5分で、この地方の地名の由来になった立石のある場所に着きました。

その石は、名所図会にはない鳥居の中に祀られてありました、絵と比べて当時よりかなり小さく見えました。水田や池、沼が多かった亀有から立石にかけては御鷹場になっていました。

毎年11月~2月にかけて将軍以下6,80名で鷹狩りが催されていたとの事です。鶴の鷹狩りが行われていて風俗画や絵馬に示されています。鶴の汁物は将軍クラスでないと口にできない最高のものとされていたとの事です。

空き地の角に帝釈天道標があり。4~5分で出羽三山道標が子育て地蔵の前にありました。

そして商店街に入り一つの願いは叶えるという喜多向観音を見て本日のお昼の場所に向かいました。立石駅から伸びている商店街とその周辺でお店を選び50分間位の休憩を取りました。

後編に続きます。

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第十五回江戸名所巡り 小岩・柴又界隈(後編)

 

参道に歴史のある店で食事をとり、名物の草団子を食べて(買って)13時半前後に帝釈天の仁王門前に集まりました。柴又帝釈天は日蓮宗経栄山題経寺です。

日蓮の自刻の帝釈天像と題目が両本尊との事です。帝釈天にお参りすると小遣銭に不自由しないとの言い伝えがあります。私たちもきっとあやかれる事でしよう。天水桶の稲妻の寺紋が輝いています。その下には猿の彫刻があります。これは日蓮自刻の帝釈天が発見された日が庚申日だった事によります。浄行菩薩は優しいお顔で皆さんに浄らわれていました。この菩薩は法華経の聖者で、日蓮は生まれ変わりと言われました。

本堂の前に四方に長々と伸びている瑞龍の松がありました。日栄上人がこの下に霊泉が湧いていたので庵を設けたという事です。

さて、本堂外壁に施されている日蓮上人一代記の彫刻は大正・昭和の一流彫刻家たちが15年かけて完成させたもので400円の拝観料で、20分間邃渓園の庭を含めて大急ぎで見学しました。立体感とその精密さには驚くばかりでした。大鐘楼は関東一という大きさで青木理学博士の作で昭和30年に奉納されました。

天保年間創業の川魚料理の川甚の横を通り江戸川の土手の上まで登りました。下を見ると草原の向こうに矢切の渡しがあります。とても見晴らしが良く江戸時代の渡し船に思いを駆せました。

数名を残して早速降りて見に行きました。矢切の渡しの流行歌の石碑がありました。「つれて逃げてよ・・・・ついておいでよ・・・・夕ぐれの雨が降る矢切の渡し・・・」演歌の歌詞が心にしみてきます。江戸の昔、このように逃げる様にこの渡しを向岸へと渡ったのでしようか。手形を持たない人の渡しですが松戸側、柴又側どちらも同じ土地を所有していた人が渡し場を経営していたとの事です。

土手を降りて少し南下した所に山本亭がありました。大正・昭和初期の和洋折衷の建物で書院庭園も観賞しました。手造りガラスのゆがみも趣きがあり欄間や照明器具、洋門のマントルピースや家具調度品、見るものすべてにため息が出て戦火や災害をよく免れたものだと感心しました。

隣がいよいよ寅さん記念館です。二つの館の共通券を買うと450円で見られます。昭和40年に建設されました。寅さんとその周りの人物像、失われた良き時代に日本人は郷愁を感じるのでしようか。どこかに居そうで今では絶対に見つかりそうにない寅さんをずっと愛してやまないのでしよう。接している山田洋次ミユージアムもぐるっと見てみました。二分の一サイズの昭和レトロの町並も楽しく柴又界隈の心に残る思い出となりました。

帝釈天の中を通り抜け真言宗豊山派真勝院へ入りました。瓦屋根のどっしりとした山門を潜りました。密教では大日如来の知恵を五つに分け五智如来と言います。一つ一つの穏やかな像を拝見しました。万治3年(1660)村の名主が造立したとの事です、風化も少なくしっかりとしたものです。

本堂の前に中国菩提樹が黄色の花を咲かせていました。インド菩提樹はクワ科の常緑高木ですが中国菩提樹はシナノキ科の落葉高木で細長い葉状の苞(ホウ)を出すとあります。午前中と午後、両方の菩提樹を見る事ができ仏様のご意志を感じさえ致しました。

15時過ぎに線路を渡りました。電車が見えるすぐ傍に柴又八幡神社がありました。平安初期の大同元年(800)の創建です。拝殿の右横に柴又観農事績碑を見ました。天明年間の飢饉。洪水で窮状を極めた農民に荒れ地改良を勧め村の復興に努めた名主の七朗右衛門に代官は褒状と銀を村人には褒米を与えました。その後も村人の子孫は、先祖の努力、功績を教訓としてこの碑を建てました。奥まった場所に嶋俣塚という古墳があり、古墳時代後期のもので埴輪や馬具が出土したとの事です。柴又一丁目を進みました。

15時半近くに浄土宗源照寺に入りました。杏葉の紋が入口に輝いていました。こちらには箏曲山田流の始祖で箏浄瑠璃とも言われ新しい音楽を創案し、検校の地位を得た山田検校の墓がありました。浅草山谷の源照寺に葬られましたが関東大震災ののち昭和3年にこの地に移転されました。石の扉のある重厚なお墓でした。

隣にあるのは曹洞宗海島山崇福寺で寺紋は酒井家の剣酢漿草(カタバミ)です。酒井氏は徳川四天王の一人です。その菩提寺という訳で墓所を拝見しました。

5分位で本日最後の青龍神社の怪無池に着きました。大きな池には白い水連が咲いています。よく見るとその上を鷭の親子が歩いていました。父と母と5~6羽の子供たちが可愛くてほほえましく講師の説明よりも気を取られてしまいました。旱魃の時には村人がこの池に雨乞いをしたら雨が降り村人を救ったので榛名神社から神を勧請して青龍神社としたという事です。


 

一路、高砂駅を目指しました。8分位進むと道路の向こう側に立派な山門に鐘楼はあるけれども鐘がない寺がありました。極楽寺の住職が使い込みをして廃寺となり平成に大光明寺として再建しました。

駅の傍の天祖神社も見ながら歩きました。鳥居が住宅の壁に着きそうなぐらいに接近していました。

4~5分で駅に着きました。木曜日の方々は少し遅くなってしまい申し訳ありませんでした。皆さまお疲れ様でした。本日も数々の新しい体験をする事ができました。どうか鷭の子供達が無事に育ちますようにと願いながら帰路に着きました。7月、8月は猛暑が予想されるのでお休みとさせて頂きます・9月第16回(第一部最終回)で元気よくお会い致しましよう。

 

柴又や寅さん旅へ梅雨晴れ間    豊治

虐待の話哀れや汗流る       豊治

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第十五回江戸名所巡り  小岩・柴又界隈を巡る(前編)

令和元年6月11日(火)、13日(木)、22日(土)の三日間,第15回目の江戸名所巡りを行いました。先月解散した江戸川駅10時集合で時間通りに出発しました。

22日(土)は15日が豪雨になつたので日延べしての開催でした。出発してすぐに、喫茶店の前に安永4年の伊予田観音道道標がありました。正面は浅草観音への道、右は船橋へ、左は岩槻の慈恩寺迄七里とありました。

そして5分まっすぐに北上すると道の左手に正真寺境外観音堂がありました。御堂の中の小さな仏壇に祀れていて私たちはガラス越に拝見しましたが一寸八分は余りに小さく輪郭だけで想像するのみでした。どなたかが拝見できただけで良かったとおっしゃっていました。室町時代末の里見義豊、義俊の守り本尊で常に冑の中に収めて戦場に赴いたとの事です。

まっすぐに又5分位歩きました。今度は道の右手に真言宗豊山派遍照寺真光院がありました。真光院の前の石仏の前にドラえもんらしき石像が建てられていました。これはご住職が子供達に石像仏に関心を持ってもらいたい願いから建てられたと云う事です。昭和47年にコンクリートの本堂となったとのことです。

左手奥の墓地の中にある高尾太夫の墓を拝見しました、この高尾太夫は水戸藩の為替御用達水谷六兵衛に身請けされてから数々の男性遍歴の後に鎌倉屋という茶屋の前で亡くなったとの事です

10時半過ぎ、鎌倉街道と古東海道であったという真っ直ぐな通りがありました。右に小岩遺跡通りとある道路を進みました。7~8分で真言宗豊山派無量寿院十念寺に着きました。土曜日は太師堂の扉が開いていて中を拝見することができました。庚申塔は道標を兼ねていました。板碑は折れていましたがガラスケースの中に保存されてありました。

奥の敷地にも進ませていただき文久4年(1864)に五つの村の人々により造立された宝篋印塔の筆子塚を拝見しました。ご住職が人々に学問を教えていたとの事です。向かい側には「みぬぐい地蔵」というのがあり手ぬぐいで痛い場所を拭くと御利益があるとの事です。

上小岩の広い通りを進みました。5分くらいで上小岩親水緑道へと入りました。木陰にほっとしながら進みました。11時頃、上小岩遺跡に着きました。昭和27年、当時の小岩第三中学校生徒を中心に中村先生が発掘調査をして土器を発見しました。この辺りに弥生時代後期に人が住みはじめ、古墳時代には大きな集落があったことが出土品から分ったという事です。それ以降も中世には荘園そして新田が開かれていったという事です。

遺跡を後にして通りをまっすぐ進み左へ曲がると3~4分で上小岩天祖神社に着きました。寛永年間に上小岩村の鎮守として創建しましたが現在は三社宮とあります。天照大神、八幡、春日神社とのことです。屋根がすべて瓦ぶきでしたが本殿の屋根は被い屋という事で瓦にしているという事です。普通、本殿は瓦葺にしないのが神社建築の原則だそうです。国常立尊が祀られていたのでそっと中を覗くと石碑がみえました。

鎌倉四丁目を通り、柴又街道へ出てしばらく歩くと真言宗豊山派大珠院に着きました。寛永3年(1626)の創建です。宝篋印塔は徳川吉宗の次男である田安宗武が側室のために建立しました。本堂の前にインド菩提樹の植木鉢があり、お釈迦様はこの木の下で悟りを開かれたという形の良い葉を眺めました。木曜、土曜は坊守さまから御本尊を表したお地蔵様の御守護を頂戴しました。六地蔵を見ながら大珠院を後にしました。

通り角に柴又街道の道標がありました。近くの郵便局長さんが建てたとの事です。右に曲がると郵便局があり、その奥に鎌倉八幡宮がありました。こちらで水分補給を致しました。江戸初期に鎌倉から移って来た人がこの地を開墾し、鶴岡八幡宮の分霊を氏神として祀りました。曲金村(現在の高砂)から元禄10年(1697)の検地により独立して鎌倉村となったそうで、今も鎌倉という地名が残っているのです。

北総鉄道の新柴又駅がありました。どなたかが日本一高い電車だよとおっしゃいました。

薬王山医王寺にお昼頃着きました。応永4年(1397)に下総国一円に赤目病が流行し、足利義満がそれを知り天皇に申し出て仁和寺の僧に薬師瑠璃光如来を奉じさせ寺を建立させたとの事です。仁王門の中の仁王は現代の仏師明慶の作品です。埃を付けたままで古さを醸し出しているかのようでした。享保2年(1718)の不動明王は下方に童子が彫られていて珍しいとの事です。本堂の左手にある蕎麦地蔵は大変珍しいものです。室町時代の住職が四国遍路の折、病(脚気)となり村人に蕎麦粉を恵まれ練ろうとしたら水底の砂金が付いて来たという話が残っています。昭和11年の東京麺業組合からセイロと蕎麦粉のついた地蔵が寄進されたとの事で面白く眺めました。

2~3分で浅間山噴火慰霊碑の前に立ちました。天明3年(1783)7月5日~8日にかけて大爆発が起こり関東地方一帯が大きな被害を受けました。利根川の上流の吾妻川で山津波と降る灰でダムができ、それが決壊して大洪水となり死者2000人余を出したそうです。柴又村の人たちが建てた供養塔です。

そしてお昼の帝釈天へと急ぎました。10分少しで寅さんとさくらの像が建つ広場があり奥に柴又駅がありました。悲しい「おりつ地蔵」を見たのち、心は帝釈天参道へと早まりました。

50分から1時間の休憩を取り思い思いに昼食と買物を楽しみました。とらやには「男はつらいよ」の撮影した階段が残っていると聞き写真に収めました。

後編に続きます。

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