第二部五回 佃島、築地界隈を巡る(後編)

13時過ぎ、もんじゃや海鮮、鰻などそれぞれ好みでお昼を頂いた後、佃島見学を開始しました。13時過ぎ、最初に拝見したのが江戸中期に上野寛永寺の宮様が建立した佃天台地蔵尊です。上野浄名院の和尚が写したものを線刻した地蔵尊が路地の奥にありました。銀杏の木が建物を突き抜けていました。

路地を出ると於咲波除稲荷大明神がありました。波除とはもっともな明神様です。さし石(力石)を見て次へと進みました。

昼前に橋を渡る時に見えていた石川島灯台跡に向かいました。江戸時代、軽犯罪者の自立支援施設として加役方人足寄場が石川島にありました。略して人足寄場です。

慶応2年、寄場奉行の清水純畸が船舶の安全の為に寄場の油絞りの益金の一部で灯台を設置しました。翌年、日本橋魚市場組合が常夜灯のお礼に50両、寄場に寄付したとの事です。灯台が石垣の上に復元されていました。ここで講師が火付盗賊改であった長谷川平蔵が松平定信に受刑者救済の意見書を出し、ここ石川島人足寄場の設置が実現したと話しました。私たちは平蔵という人物に改めて感心したのでした。

住吉小橋を進むと赤い鳥居がありずっと奥に住吉神社がありました、天正10年(1582)、本能寺の変の時に堺に滞在していた家康は、佃村の漁師の舟で逃げたのでした。翌年、平岡氏が社殿を奉載した田蓑(タミノ)神社の分霊と東照大権現を奉斎し住吉神社を祀りました。八角神輿は天皇陛下の高御座(タカミクラ)を模したと言われます。入船稲荷の狛狐のきりりとした顔と巻物を見ました。鳥居の扁額が陶器でできているのは珍しく文字は有栖川熾仁親王(和宮の婚約者)だという事でした。

境内を出ると直ぐに三軒の佃煮屋さんがあります。丸久は安政6年(1859)創業、天安は天保8年(1837)、佃源田中屋は天保14年(1843)です。どの店も人気の佃煮があり迷ってしまいましたが、三軒とも買い求めた方がいらっしゃいました。

又、佃煮屋さんの間の道を少し行くと手造りのお箸屋さんがあり黒檀製で5千円、一生物という事でした。こちらも買った方がいらっしゃいます。14時ちかくになり佃島を後にしました。

又、佃大橋を渡り湊へと戻って来ました。聖路加国際病院の新しい建物が聳えています。

青山学院記念の地とあり米国の宣教師により創立されたとありました。すぐ近くに女子聖学院発祥地の碑もあり、2分後には明治学院発祥の地で明治10年(1877)とありました。

それからすぐにヘンリーフォールス住居跡の碑がありました。イギリスの宣教師兼医師で築地病院を開き盲人教育に努めました。また日本古来からの指印(拇印)から指紋により個人が分別できるとの論文をネイチヤーに発表しました。日本では明治44年に警察に採用されました。

ここ明石町辺りは築地居留地跡なのです。江戸末期の安政5年(1858)、欧米五カ国との修好通商条約により開市とされました。外国の公使や領事館、また海外の知識人が居住していたのです。明石小学校前の交差点の向こう側が居留地だったとの説明板がありました。

明治16年、この付近に耕牧舎という乳牛の牧場があり作家の芥川龍之介が明治25年に経営者の長男として生まれました。母の病気により実家に引き取られ12歳の時に芥川家の養子になりました。

14時15分頃に浅野家上屋敷跡の碑がある所にきました。本懐を遂げた赤穂浪士たちが泉岳寺に向かう途中、この旧上屋敷辺りを通って主君に報告したとも伝わっています。聖路加病院へと入っていきました。スコットランドの宣教医師であるヘンリーフォルスが築地病院を設立し、その後、米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り聖路加病院としました。淡桃色の建物が以前の病院部分で今は学校になっているそうです。教会の十字架が高くありました。ルドルフ・トイスラーの碑に前にアメリカ合衆国の星や白頭鷲などの公使館にあった石標や、トイスラーの住んだ館が復元されています。

直ぐ側に立教学院発祥の地の碑がありました。またすぐに慶應義塾発祥の地の碑もありました。隣に解体新書が描かれた蘭学事始の碑がありました。

メタセコイヤの大木の中、あかつき公園の中に入りました。シーボルトの胸像がありました。江戸に出てきた時には日本橋の長崎屋に逗留していました。ここに胸像があるのは娘のイネがこちらで産婦人科の医者をしていたからという事です。

公園を出て築地方面へと進みます。晴海通りに出た辺りに軍艦操練所跡がありました。築地卸市場となっている一帯はかつて幕府の軍艦操練所がありました。

浪除通りを進むと数分で波除稲荷がありました。起源は万治年間(1658~61)と言われます。当時、海中に漂う稲荷神社の御札を見つけ祀ると波が穏やかになり堤防工事が無事に終わったので稲荷神社を創建したとの事です。こちらはなんといっても大きな獅子頭でお歯黒の方が雌で、宝珠が乗っているのが雄です。牛丼の吉野屋の碑もあり皆さまの目を引いていました。色々な塚があり大きな玉子塚が目立っていました。

築地本願寺の手前に芭蕉句碑がありました。「大津絵の筆の初めは何佛」。

いよいよ本願寺へと入っていきました。元和3年(1617)に西本願寺の別院として淺草に建立されましたが明暦の大火で焼失し築地に移転したとの事です。まず、まわりの石碑やお墓を拝見しました。

現在の建物は伊東忠太博士が昭和10年に完成させたもので、ガンダーラ洋式の外観と内部は真言寺院造りとなっています。正面の本堂へと進みました。伊東忠太の動物像に注目しながら廻りました。本堂の下に羽根の生えたライオン像がありました。上の柱からも下を見ています。馬・牛・猿・象・鳥・グロテスク(口から階段の手すりが出ている)の像がありました。そして一番感銘したのは象と猿と鳥で樹木の高さを評定するという説話でした。鳥は非力だが一番高い処から見る事ができ物事は全体を見渡す事が大事だとの仏教の教えです。階段の動物を見たあとは小さな部屋でお茶を頂き、本堂の法話の邪魔にならないようにそっと手を合わせて失礼しました。

国立ガンセンターの大きな建物が見えて来ました。料亭新喜楽は芥川賞や直木賞の選考が行われる所です。明治初期には大隈重信邸だったのです。寿司の江戸銀の近くを通り海軍兵学寮跡碑を見ました。采女橋は松平采女正の屋敷があった事から付いた名前です。

本日の最後は東銀座の佐久間象山住居跡です。松代藩士で海防問題や海外事情の研究や技術の導入を説き木挽町で塾を開きました。勝海舟・河井継之助・山本覚馬・吉田松陰・坂本龍馬も門人でした。外国人と間違えられる程の容貌で、ぺりーが挨拶をしたとの話が残っています。京都で長州関係の人らに暗殺されました。日本にとって大きな損失であったと講師は述べて今日の行程を終わりと致しました。

歌舞伎座が見えて来ました。15時半をかなり回り16時近くになってしまいました。皆様、本日も楽しんでいただけたでしょうか。大変お疲れさまでした。

なお3月の江戸名所巡りは新型コロナウイルス感染防止の為にお休みとさせていただきます。

春浅し錨で偲ぶ江戸湊

富士塚やビルの谷間の風寒し

春の空尖塔高し大伽藍    豊治

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