江戸名所巡り 二部 第6回  本郷界隈を巡る(前編)

令和2年10月13日(火)、15日(木)、17日(土)の三日間、実に8ケ月ぶりの江戸名所巡りでした。新型コロナの影響は続いておりますが社会全体がwithコロナとして動き始めましたので、私共の歩き隊も参加できる人達で始動することにいたしました。

午前10時JR水道橋東口を出発しました。目の前に1907年都立高校とある校舎の建物がそびえています。左手に見ながら2~3分位進むと三崎稲荷神社です。かつてこの辺りは海沿いにあり「岬」だったことから、この名前になったそうです。稲荷の番付表では関脇ですから昔はどんなに大きく人気があったか、現在の規模では想像もつきませんでした。寛永年間に疱瘡の神薬を二の牛の日に施し与えたそうです。また大隈重信が海外へ渡航する時に参拝し、南極探検隊の白瀬矗(しらせのぶ)が「お砂守り」を携帯したという事です。

水道橋の駅まで戻り反対側の北へ向かいました。水道橋を渡り川沿いを歩くと神田上水懸樋跡碑がありました。広重の絵と名所図会で富士山を見て位置を確かめました。

私たちが先ほど乗ってきたJR中央線がひっきりなしに走っています。神田川から少し離れて西に進むと5分位で本郷1丁目の金比羅神社に着きました。讃岐金比羅宮東京分社です。ここは讃岐松平家下屋敷跡という事です。全国に6ケ所ある金比羅宮直轄分社の一つです。狛犬の顔の面白さや大きな腹(玉かも)に驚いてしまいました。

右隣の角地に宝生流能楽堂がありました。能楽は日本の伝統芸能で式三番、能、狂言を包括する総称です。宝生流能楽堂を曲がり坂道を上がります。坂の名前は忠弥坂です。忠弥は由比正雪と並ぶ慶安事件(不平浪人を組織して江戸幕府転覆を計る)の首謀者です。その丸橋忠弥の槍の道場が坂の上にあったそうです。説明板の上に郁子(ムベ)が色付いていました。

歩いて2分のところで本郷のこちらも一丁目で昌清寺の前に立ちました。家光の弟の徳川(松平)忠長の正室である「於昌」と乳母の「於清」の一字ずつからなる昌清寺の名前に胸がつまりました。入って左手に芭蕉句碑の「桜狩りきとくや日々に五里六里」があります。吉野で詠んだ句で寛永8年(1796)の建立でしたが関東大震災で消滅し再建された新しいものでした。

神田上水石樋(せきひ)を再現したものが公園の隅にありました。水道局は公園に隣接していて、水道歴史館へと入っていきます。その向かい側の辺り一帯は順天堂大学病院です。我国で初めての私立病院で日本で初めて入院して治療するシステムを導入したとのことです

さて、11時15分頃、水道歴史館に入り15分間ですがお手洗いを兼ねて見学しました。水道は明治31年に淀橋浄水場に始まりました。2Fには江戸時代の上水遺構の展示があり目を見張りました。1Fでは自由に飲める水を頂き、カルキ臭のない事に驚きました。

啄木のゆかりの喜之床跡は今も床屋さんとは皆で感心しながら眺めました。明治42年6月からこの二階の2間を借りて久しぶりの家族揃った生活ができ、仕事は朝日新聞の校正係でした。しかしながら家族五人の生活は苦しく望郷の歌が生まれ大逆事件で社会に目を開くようになったのでした。啄木の最も優れた作品が生まれたのもここ喜之床と言われています。

すぐに本郷4丁目の文京ふるさと歴史館につきました。こちらも15分の予定で見学しました。酒屋と両替商の高崎屋に関する資料を見て、当時どれだけ繁栄していたか知る事ができました。また昭和初期の道具類の展示も懐かしく見ていると、実家には殆ど残っていますよとおっしゃる方がいらっしゃいました。

元の広い通に出て100メートル位い進むと道路沿いに桜木神社がありました。菅原道真が太宰府に赴く時に桜の木で自分の姿を彫ったという説や元は桜の馬場にあったからという説があります。また一葉は、幼い時期に住んだ家のことを桜の宿と呼んでいます。奥に赤い見送稲荷がありました。これは江戸を追放となった人を見送った見返り坂が近かったからとの事です。

天台宗真光寺(戦災で世田谷烏山に移転)にあった十一面観世音像が住宅地の奥にありました。蓮華座には依頼主の名や享保五庚子(1720)とあります。又、同じ真光寺にあった薬師堂も見て午前の部が終わりました。近くで45分間の昼食休憩を取りました。

後編に続きます。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です