「鎌倉殿の13人」伊豆を巡る(前編)

NHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」で今注目されている伊豆の国を中心に巡り三島に泊まり翌日は修禅寺に足を伸ばすという一泊旅行の初めての試みを行いました。

5月28日土曜日、こだま713号で10時17分、三島駅に到着しました。

男性5名、女性9名と私共2名の16名がいつもより遠く離れた集合場所にきっかり時間通りに集まりました。伊豆箱根鉄道で伊豆長岡駅まで乗り一日乗り放題500円の循環バスで北條寺へ行きました。

北條寺は義時の嫡子安千代が大蛇に飲み込まれて死んだのを弔うために創建したと伝わっています。義時夫妻の墓があります。義時は鎌倉の頼朝の東側に葬られましたが息子の泰時が追善供養の為に、この地に建立しました。

10分位歩くと江間公園になっている義時邸跡に着きました。頼朝の挙兵後、江間の地を拝領しました。屋敷跡の石碑を見た後に昭和5年、北伊豆地震の時に魚雷に残る地震動や痕跡が残っていました。

バスの中から豆塚神社を見て次ぎへと進みました。12時8分に大河ドラマ館に到着しました。地元の特産物も売られていました。ドラマ館ではこの土地の魅力とドラマ撮影時の興味深いシーンを見せていました。

13時3分発の循環バスの義時4号に乗りました。13時8分より北条の里の見学です。まず浄土宗大谷派、晴雲山成福寺に入りました。八代執権の北条時宗の三男である正宗がここ韮山に曾祖父時政の持仏堂を基に成福寺を建立し元寇で亡くなった人々の菩提を弔いました。現住職が北条氏二十一世の北条親善氏です。一族の供養塔に詣りました。

4,5分で伝堀越御所跡に着きました。時代は室町時代で幕府の出先機関の鎌倉府では関東管領と鎌倉公方が対立し公方はここ堀越を御所としました。広々とした草原を眺めながら小路を行きました。

5,6分で北条氏邸跡の広々とした一角に着きました。後の小高い山が守山です。ここでもドラマの撮影をしたとの事です。

来た道を引き返し2時すこし前に政子の産湯井戸跡を覗きました。この一帯も北条氏館と云われています。

5分位で浄土真宗の光照寺に着きました。源頼朝の子の頼家にまつわる寺です。病気と政変で修禅寺に幽閉された頼家の様子を母の政子に知らせる為に造られた面が寺宝です。この病相の面が政子に届く前に頼家は没したので、この寺にとどめ置かれたと伝わっています。山門からお詣りして先に進みました。

2時15分に守山八幡に着きました。守山八幡は狩野川の流れが変り郷が分断されたので北条の鎮守として守山八幡宮、江間の鎮守としたのが豆塚神社です。

2時半頃に高野山真言宗の願成就院に着きました。北条時政が頼朝の奥州藤原氏討伐の成功により創建しました。入ってすぐ左手に時政の墓があります。大御堂には運慶の仏像五体があり700円払い拝見した人が沢山いました。チケット係は住職のフランス人で素敵な方でした。愛犬が大きな秋田犬という事も印象的でした。堀越御所から当地に逃れ自害した茶々丸の墓を見上げました。

曹洞宗信光寺は武田信光が頼家の菩提を弔う為に建立しました。参道の手前から拝見して次ぎへ進みました。

直ぐに曹洞宗真珠院がありました。八重姫は頼朝との恋が破綻し真珠ケ淵へ身投げをしました。八重姫御堂は折り鶴、梯子で飾られていて地元の人々に愛されているそうです。私たちはドラマの新垣結衣さんの美しい顔しか浮かんできません。石段を上がり手を合わせまました。急ぎ歩きで伊豆長岡駅に着かなければなりません。3時過ぎに真珠院を出て暑い中を駅まで歩きました。

南条の交差点を左に曲がるとすぐ駅でした。循環バスの「てつざえもん号」に乗り込み15分で江川邸に到着しました。ここでは門の前での説明でした。代官の立派な屋敷で、幕末の当主太郞左衛門英龍は長崎へ留学し高島秋帆の弟子になり西洋砲術を学びました。品川台場や韮山反射炉の築造をした人です。そしてこの江川邸内は明治維新後、韮山県庁が置かれたと知りました。

すこし歩くと臨済宗香山寺があり伊豆国目代(代官)である山木兼隆が造立した寺です。山木判官の屋敷はすぐ側にあったとの事です。アーチ型の門をくぐり坂を進むと門柱があり先に兼隆の供養塔がありました。

約30分位かけて4時40分に蛭が小島に着きました。永暦元年(1160)、伊豆に流された頼朝が34歳まで20年間過ごしたとされる場所です。政子と二人の像の先に富士山が見えていました。

こちらで休憩を取りバスはもう走っていませんので韮山駅まで歩きました。予定の電車より一つ遅くなりましたが伊豆箱根鉄道にて広小路へ急ぎました。5時36分のバスで八幡神社へ。バス停には鳥居があり、しばらく歩くと境内に頼朝と義経の対面石が本殿の横にありました。治承4年(1180)感激の対面があったのです。この石は江戸時代に八幡村を支配していた旗本の久世氏の陣屋にあったと云われています。

帰りのバスを待っている間に近所に住むご老人に声を掛けられよく訪ねてこられたと歓迎の言葉を頂戴しました。当日のみの方とお別れし6時30分頃にホテルにチエックインしました。数名の方は鰻の桜屋へ。それぞれに三島の鰻や金目鯛など楽しみ、盛りたくさんの行程と猛暑の疲れを癒やしました。

二日目に続きます。

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第二部 10回 雑司ヶ谷界隈を巡る(後編)

昼食の後、千川通りを北上し窪町東公園の交差点を渡り少し進むと簸川神社に着きました。もともと氷川と表記していたのですが出雲の簸川に由来するとの事から大正時代に、このむずかしい表記にしたそうです。

階段は上がらず、もとの千川通りに戻り猫狸橋(ネコマタバシ)の袖石を見ました。木の根っ子の股で橋をかけたので根子股橋とよばれました。私たちは講師のかかげる名所図会の絵を眺めました。

橋の表示の場所から右に折れ4~5分で智香寺に着きました。新選組隊士の田村銀之助の墓があり新しい墓石に「田村家の墓」とありました。12歳で入隊し近藤勇、土方歳三の小姓をし箱館戦争では総督府付きとなりました。西南戦争では陸軍士官として出征し大正13年に69歳で亡くなりました。

旧東京教育大学があった場所で教育の森公園を見ながら日蓮宗本伝寺へ入りました。山門の内側に逆さの擬宝珠がある珍しい立派な門でした。不動堂の綱を引きお詣りをしました。五尼痤髪碑は五人の尼の納髪を記念して天保15年に造立したものです。

すぐに緑豊かな通りになりました。護国寺が近づいてきました。新義真言宗豊山派別格本山護国寺は五代将軍綱吉の母である桂昌院の願いで天和元年(1681)に創建されました。桂昌院が天和3年に初めて参詣し、その後も綱吉と時々訪れました。又、江戸三十三観音の第十三番札所であり江戸庶民の信仰も厚かったとのことです。惣門の立派さに驚かされました。

富士道の石橋を渡りました。水盤は桂昌院が寄進したもので左右両方にありました。仁王門と本堂の間にある中門の不老門をくぐりました。門の扁額の「不老」の字は徳川16代当主の家達によるものです。一言地蔵、身代わり地蔵にお詣りしました。土曜日は骨董市が立って賑わっていました。

江戸時代は祈祷寺だったので墓はありませんでした。護持院の場所が明治に廃され皇族の墓になったので維新の政治家達が皇族の御側近くにと次々と墓が造られました。三条実美、山縣有朋、大隈重信らの大きな立派な墓を見て廻りました。音羽庚申塔の台座を支える猿が珍しい独特の石塔でした。また象牙組合建立の象の石碑もみました。本堂にお詣りし綱吉と桂昌院に思いを馳せました。火曜日は休みだった明治20年創業の甲月堂の和菓子を買い次ぎへと進みました。

不忍通りを渡り清土鬼子母神堂がありました。永禄4年(1561)に草刈りをしていた山村山村丹右衛門が鬼子母神像を発見し「星の井」とよばれる三角井で清め仏殿を安置しました。そして文化9年(1812)に造立された芭蕉句碑もありました。「此道に出て涼しさよ松の月」。

5分位で日蓮宗本淨寺へ。四天王像に踏みつけられている邪鬼を独立させ仏前を照らす役目を与えた珍しい像が門の両脇にあり注目しました。頭上と左手とに大きな灯籠を載せています。

雑司ヶ谷霊園に行く手前に旧宣教師邸に寄りました。土曜日は中を見てみたい人がいらして数名で内部を見せてもらいました。どの部屋もマントルピースがある板の間の部屋で窓も大きくピアノもありました。外ではバラが美しく咲いていました。

維新後、市民の埋葬地の不足やばらばらの埋葬法を統一する意味から墓地の建設が急がれました。さて7~8分で霊園に着きました。最初はジヨン万次郎(中浜万次郎)の墓です。14歳の時、出漁中に遭難しアメリカ捕鯨船に助けられ航海術を学び英語力と共に幕府に重用され明治31年に71歳で死亡しました。隣には画家の東郷青児の墓がありました。

次は夏目漱石のユニークな墓を見ました。大きな安楽椅子の形で肘掛けがあり、みちくさ先生はゆっくり腰掛けて休んでいるのでしようか

新緑の中での安楽椅子はとても気持ち良さそうで印象的でした。有名人の墓をもっと見たかったのですが時間が押してきているの先を急ぎました。江戸中期、鷹狩用の鷹の飼育と訓練に使われていた鷹鷹部屋があり約1万5千坪あったそうです。当時もあったであろう松の大木のそばにありました。

そして最後は講師がどうしても見てもらいたいと云う小栗上野介の墓です。幕末の幕臣で日米修好通商条約批准の為に渡米した人です。

日蓮宗清立院は安置されていた御嶽蔵王権現が雑司ヶ谷の鎮守でした。真言宗であった時、悪病が流行し権現の御利益で村民の病気を治した事から法華を勧請し日蓮宗になりました。私たちは前で説明を聞き、本日最後の訪問を終えました。

火曜日は夏日となり休憩入れたこともあり遅くなりました。近くの雑司ヶ谷駅から都電荒川線に乗り帰途につきました。

皆様大変お疲れ様でした。

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第二部 10回  雑司ヶ谷界隈を巡る(前編) 

令和4年5月10日(火)、14(土)の両日、合わせて30名のご参加で雑司ヶ谷界隈を巡りました。10日は夏日となりで熱中症に気をつけながら、14日(土)は少し細かな雨がのこっていましたが皆様元気に頑張り楽しむことができました。

都営三田線千石駅を10時過ぎにスタートし白山と千石の間の道路を南下しました。伊勢ヶ浜部屋のマンションを右手に見ながら進み左に折れると徳本の蔦文字の石柱が立っていました。

浄土宗一行院です。徳本上人は浄土宗捨世派の念仏行者で宝暦8年(1758)に紀州に生まれ、あの畠山重忠の末裔とのことです。文化14年(1817)増上寺大僧正の招きで江戸に下り浄土宗を説くと大名、旗本、町民が帰依しました。一行院に移り翌年に没し、ここに墓があります。門をくぐり拝見すると。その大きさに驚きました。麦などの粉一合が一日の食事で苦行と昼夜の念仏に明け暮れた上人の墓にしては大変立派でご本人はどう感じておられるのだろうと考えてしまいました。

浄土真宗寂円寺には京都見廻り組で坂本龍馬殺害の犯人とされる今井信郎(ノブオ)の墓があります。土曜日は門の前の説明だけとしました。

5~6分で日蓮宗、本念寺に着きました。こちらは大田南畝の墓があります。南畝の生まれは牛込御徒町で終焉の地が神田駿河台です(1749~1823)。17歳で幕府に出仕、19才で寝悦(ねぼけ)先生文集で流行作家に。そして狂歌号の蜀山人で活躍しました。辞世の句は「生き過ぎて七十五年くいつぶし限り知らぬ天地の恩」「今までは人のことと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん」墓石には「南畝 大田先生之墓」と記されてありました。

10分位歩くと本日のメインの一つ小石川植物園に到着しました。寛永15年(1638)、将軍家光の薬園が麻布と大塚に開かれ麻布に移った時期もありましたが正徳3年(1713)、小石川御殿跡の当地に移されたとの事です。中央あたりに小石川養生所の井戸が残っていて薬草の乾燥場跡も残っています。東京大学大学院理学系研究附属植物園が正式名称です。まず精子発見のソテツの木の前で朱色の実をみつけました。

新緑の中をどんどん進むと内田祥三設計の本館がありました。メンデルのブドウがあり、ニユートンのリンゴの木はニユートンの生家の木の接ぎ木というので、しみじみ眺めるとちいさな実がついていました。いろはもみじの並木を進むと薬草の乾燥場の石畳が一部そのまま残されていました。

精子発見の銀杏の木を見上げ、お手洗い休憩、水分補給をしたのち中央の旧養生所の井戸をみました。徳川吉宗と大岡忠相が享保の改革の一環として設置された目安箱に町医者小川笙船(赤ひげのモデル)が投書して養生所ができました。甘蔗試作跡のサツマイモに似た石の碑がありました。青木昆陽が享保20年(1735)、甘蔗の試作をここで研究し全国に広めることができたそうです。

ハンカチの木は花が終わったところで白い苞が下に落ちていました。途中ですべりやすい階段を降り日本庭園と奥の旧東京医学校の美しい建物を見ました。臨時休館中とのことでした。明治11年(1876)疑似洋風建築として建築し関東大震災にも耐えたということです。広々とした日本庭園は綱吉幼少期の居邸と蛭川能登守屋敷跡とに残された庭園です。火曜日は植物園で一時間散策し12時になってしまいました。

播磨坂を上り浄土宗宗慶寺の前に来ました。茶阿局は、駿河の人で家康の側室となり第六男忠輝の生母となりました。飛騨高山へ流謫中の松平忠輝を案じながら元和7年(1621)亡くなりました。「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」にちなんで寺は朝覚院宗慶寺と称することになったとのことです。門を入って左手の下った所に墓碑である宝篋印塔を見ました。

隣の敷地内の旧松平邸にあった極楽水とか極楽井と呼ばれた吉水を再現してあり通路を通りながら見て外へと出ました。

3~4分で石川啄木(1886~1911)終焉の地に着きました。明治44年8月から翌年の4月13日、亡くなるまでの約8ケ月間、家族と住み執筆しました。3月に母を亡くし翌月、友人の若山牧水と妻の節子に看取られました。26歳の若さでした。隣の敷地に小さな啄木顕彰室が造られていました。

神楽坂相馬屋製の原稿用紙に死の直前の二首が書かれてあり、表にある石碑で見ることができました。「呼吸すれば胸の中に鳴る音あり凩(コガラシ)よりもさびしきその音。」「眼閉じずれど心にうかぶ何もなし。さびしくもまた眼をあけるかな。」

元の広い通りに戻り昼食をとりました。50分間の休憩です。中華、インド料理、蕎麦屋の中で好きな店に入りました。大きなナンがふわふわとして美味でした。

後編に続きます。

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二部 九回(後編) 高田馬場・戸山界隈 (午後の部)

コリアンタウンの商店街で一時間の昼休みをとり、集合場所の金龍寺の前に集まりました。

雑貨、特に化粧品のお店が気になりながらコリアタウンの商店街を奥に進みました。左に曲がると小泉八雲記念公園がありました。ラフカディオハーンは明治29年、東京帝国大学に招かれ松江から上京しました。明治35年に大久保のこの地に転居し明治37年、狭心症で死亡しました。日本を世界に紹介し日本研究の多くの著作を残しました。この公園がギリシアの神殿を思わせる様な造りの白を基調としているのは父がアイルランド出身の軍医で母はギリシア出身で、彼自身は、ギリシャ西部のレフカ島に生まれたからです。イギリス国籍を保有していましたがヨーロッパ、アメリカそして日本へと移り住み晩年は日本に帰化した人です。

1時半頃に稲荷鬼王神社に着きました。桜草の鉢植が段に飾られてありました。

こちらは大久保氏の境内社の稲荷神社と熊野の鬼王権現を合祀した神社です。鬼が手水鉢を担いでいます。狛犬の両方に子獅子がいます。そして富士塚もありました。。

通りに戻るとすぐに島崎藤村旧宅跡がありました。小説「破戒」を完成させるために明治35年5月から翌年の9月まで家族と共に住んでいた場所です。

明治通りを横切り10分くらいで曹洞宗永福寺です。福禄寿堂は山の手七福神です。寿老人は道教の長寿の神です。私たちもお詣りし少し寿命が延びた事と信じます。六角形の六地蔵も見ました。

宝永6年(1709)の大日如来像や嘉永6年(1863)の地蔵菩薩半跏像を拝見できました。

5,6分で天台宗大聖院にある紅皿の墓に参りました。紅皿は大田道灌が山吹の里に狩りに行った時に出会った娘で後に道灌が江戸に呼び寄せ歌の友とした女性です。

「七重八重、花は咲けれども山吹の実(蓑)の一つも無きぞかなしき」。道灌に雨具の蓑を所望されて山吹の一枝をささげ蓑がないことを歌で返答したのです。道灌が扇谷上杉定正に殺害されると尼となりこちらの庵で菩提を弔いました。紅皿の墓の横には樒(しきみ)の白い花が咲いていました。江戸名所図会にもある山吹坂を通りました。

昭和44年建立の「新宿の女」の歌碑がありました。ここは天神様の境内です。

大窪天満宮と図会にあるのは、別名、西向天神で太宰府天満宮の方向に向いているので西向天神と呼ばれたのです。そして隣は一橋家下屋敷跡で、切絵図には下屋敷の印として門は法善寺通りに向いてありました。

14時25分頃、日蓮宗法善寺に入りました。図会では大久保七面宮とあります。

七面明神(七面天女)は日蓮が身延山で出会った女性で毘沙門天と鬼子母神との間の子供です。

余丁町を通りを10分位歩くと児童公園がありそこを抜けると空地になっていて隅っこに刑死者慰塔塔がありました。日本橋伝馬町牢屋敷から明治8年、此処に移り囚獄役所として囚人を収容し死刑場が設けられました。

10分足らずで坪内逍遙旧宅跡説明板が通りに面した所にありました。代表作は小説神髄、当世書生気質です。当時の写真では広くて文芸協会演劇研究所を設けたとあります。演劇界を担う人材を育成し大正9年までの約30年間、早稲田大学で教鞭を執りシェクスピア研究、翻訳等を行い住んでいました。

抜弁天通りに14時35分位に戻ってきました。

源義家が苦難を切り抜けた弁天から「抜弁天」と呼ばれています。この神社(抜弁天)に入ると手水の龍が目に入りました。きれいな池の水に大きな金魚が尾を優雅にゆらし泳いでいました。手水鉢は元禄16年(1703)の物です。

通りを行くと右手に出世稲荷で大田道灌が創建。明治6年までは朝日稲荷、それ以降は出世稲荷と改めました。八重桜がみごとに咲いていました。

15時10分頃、犬御用屋敷跡に来ました。綱吉の生類憐れみの令により江戸市中に野良犬が増え事故が多くなったので野犬を保護する施設を四谷、大久保、中野の三個所に設置しました。20年余りの間、犬屋敷が存在した時代の事を考えると当時の人々に思いを馳せてしまいます。

本日最後の金弁財天は江戸時代、松平伯耆守の屋敷内にありました。版籍奉還で政府の所有となった場所が東京女子医大の敷地となり女子医大だけに女神の弁財天だけは残して奉祀したという訳です。

さて12日(火)はとても暑く身体が慣れていないだけに辛い思いをしました。16日(土)は比較的楽で15時半前には駅で解散する事ができました。若松河田駅を下りながら町の由来は正月用の松飾りを将軍に献上する慣わしがあった事からとの資料を思い出しました。暫くぶりの歩き隊、みなさま大変お疲れさまでした。

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二部 第九回(後編)高田馬場・戸山界隈(午前の部)

4月12日(火)と16日(土)コロナの影響で4ケ月ぶりに江戸名所巡り催行致しました。皆様との再会を喜びながらJR高田馬場戸山口を十時頃出発しました。

5,6分で真言宗豊山派玄国寺に着きました。墓地の方から入ると土曜日には田植地蔵が見えるようにお堂の扉を開けて下さっていて感謝しながら拝見しました。

「田植地蔵ものがたり」

昔々、玄国寺のある諏訪村の周辺は水の豊かな水田地帯でした。田植の忙しい頃に毎年、どこからともなく一人の旅の僧が現れ田植を手伝います。村人がお坊様のことをたずねてもただにこにこと笑って仕事に精を出すだけです。感謝の印に村人がおもてなしをしようとしても旅の僧はすっとどこかに行ってしまうのでした。田植がすっかり終わった日、村人は玄国寺のお地蔵さまにお詣りするとどうでしよう、お地蔵様の衣が膝の辺りまで泥にまみれていたのです。手伝ってくれていたのがこのお地蔵様と気づいたのでした。

戸塚の旗本屋敷の井戸から出土し田植の時期には旅僧の姿となり田植を手伝うという伝説が残っています。すぐ隣の本堂に移動しました。樹齡約500年の松の奥には岩倉具視が住んでいた家屋が移築されています。昔のゆがんだ手作りガラス窓が珍しく内には洋間があるとの事でした。屋根には家紋の笹竜胆が付いています。本堂の右手にはウコンザクラ(鬱金桜)が満開でした。ご住職や奥様にもご案内をして頂き50年ぶりに咲いた藤の花を見せて頂きました。樹齢約500年の松ポックリを一人一人受け取りお土産となりました。虚子の句碑「雀にも好きな枝あり夏木立」は立派な石でした。庚申塔や六角弁天堂も拝見してお寺の人たちに見送られながら次ぎへと進みました。

諏訪神社の鳥居をくぐりました。ご神木は夫婦楠でとても立派で二本が根本付近で交わっていました。古くより眼病、諸病に霊験のある湧水があり我々も手を濡らしました。

諏訪神社に隣接する森は「思いの森、恋の森」と呼ばれ平安時代の在原業平夫婦の話が残っています。

諏訪町の交差点を渡ると朱の門が見えてきました。学習院の旧正門です。八重桜の木が大きく満開の枝を広げ学習院女子大学の地を飾っていました。

東に折れ10分位で戸山公園に入りました。尾張藩屋敷跡は御三家だけあり広大な敷地に現在はこの戸山公園、国立国際医療センター、戸山ハイツ、学習院女子大学、西早稲田中学校、戸山高校、東戸山小学校、早稲田大学文学部などがあります。戸山公園のそばに戸山ハイツがあります。戦後、空地になっていた事から昭和24年、日本最初の水洗トイレ付集合戸山ハイツが誕生しました。

そして11時10分頃に箱根山の頂上に立ちました。44.6メートルです。1703年に大名庭園が完成し、この場所は小田原宿を模した所で箱根山となったのです。

箱根山地区は明治6年から陸軍学校があり昭和20年9月に解放されるまで続き現在は将校会館の石垣が残り地上には戸山教会が建っています。そして鎌倉時代に今話題の「鎌倉殿の十三人」の一人である和田氏の領地であった事を知り歴史の面白さを感じました。

この都立公園をぐるりと回り大通りに面した高層マンションを右に眺めながら新大久保の商店街に入りました。午前中、最後の夫婦木神社にお昼頃お詣りをしました。日本で最初に結婚した神様(伊弉諾と伊弉冉)で縁結び、子授けの神として、この小さな神社はとても人気があるようです。

12時から1時までコリアンタウンでお昼です。Kポップ風のお兄さんが赤いスーツで歩いています。最初にあったお店に入ると前菜のキヤベツがドーンと出て海鮮石焼きビビンバが美味でした。

午後の部に続きます。

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第二部 九回(前編) 落合・中井界隈を巡る

落合南長崎駅前での昼食後、西へ3分位歩くと真言宗豊山派自性院に着きました。

別名がなんと猫寺ということです。門柱の上に小判を持った猫の像がありました。室町時代の文明9年、江古田の沼袋の戦いで道に迷っていた太田道灌の前に黒猫が現れこの院に招き入れ危機を救いました。この恩を感じて太田道灌は猫の死後、地蔵尊を奉納したとの事です。板碑は室町時代のもので妙正寺改修時に川底から出土したもので私年号が刻まれていて室町時代に多かったそうです。猫地蔵堂の中を覗くと猫の像が沢山飾られていてとても面白い光景でした。

庭に無患子の実が落ちていて講師が石鹸の実演をして見せてくれました。身代わり地蔵の寝ている姿の珍しさにも驚きながら後にしました。。

数分で次の中井出世不動尊のお堂の前に来ました。本尊の不動三尊像は天台宗の僧侶の円空作で都内で信仰されている唯一の円空仏です。鉈彫りの仏像はあまりにも有名ですね。江戸時代、美濃国羽島の生まれで生涯に12万体を彫ることを目指しました。全国で発見された円空仏は約2000体を越えているとの事です。こちらのものは尾張一宮にあったもので、私たちは資料の写真で三体の仏像を見ましたが、この土地の人は子供達の教育の一環として見学する日があるとの事です。

前の道を南下して中落合にいくとこれらの仏像を守っていたという小野田家がありました。

13時半頃に目白大学の横を通り数分で中井御霊神社に着きました。狛犬は江戸時代の正徳5年(1715)で新宿区では最古との事です。しかし金網の中にありしっかりと観賞する事は無理でした。 

備射祭は毎年正月13日に行われる神事で立ったまま弓で矢を射て一年の豊作・凶作を占います。

落合台地に登る坂を一から八まで数字を付けている下の道を歩きました。四の坂道を上る手前の角に林芙美子記念館がありました。林芙美子は明治36年に山口県に生まれ尾道高等女学校を卒業しましたが複雑な生い立ちで様々な職業を経験しました。昭和5年(1930)に放浪記がベストセラーとなり、その後は女流作家として活躍し昭和26年に47歳死去しました。

この屋敷は亡くなる前の10年間、夫で画家の手塚緑敏と暮した場所です。アトリエは展示室となっていて、その地の和室は外から眺める事ができ書斎、寝室、客間などを見て廻りました。庭に紅葉がまだ残っていてとても趣きがありました。

20分から25分位、時間を取り見学し美しい記念館を後にしました。神田川の栄橋を渡り14時20分頃に真言宗豊山派の最勝寺に入りました。鎌倉幕府執権の時頼の開基と伝えられています。まず道標をみてから門より入り大師堂前の珍しい岩窟の七福神を拝見しました。火曜日はいつの間にか雨が上がって空が明るくなり始めました。

14時30分を回りましたがどんどん東へと歩き10分位で月見岡八幡に着きました。旧境内は上落合にありましたが水道局の建設の為に昭和37年に当地に移りました。宝篋印塔型の庚申塔が大変珍しく、すぐそばには寄れませんでしたがわきから拝見しました。その奥に富士塚があり寛政2年(1790)のものと云う事です。立派な江戸狛犬があり慶応元年(1865)のものでした。

落合中央公園は新宿区・中野区・杉並区の下水道処理場の水再生センタの屋上部分を開放した公園です。一時中野区を通り、小滝橋を渡りました。小さな滝が在った事からの名前ですがちよっと恐ろしい伝説があり講師から聞きました。財を成した男が下男にその財を地中に埋めさせて殺したところ、一人娘が婚礼の夜に龍の姿になり飛び去りました。父が上流の淀橋付近で姿を見失い、その後に小滝橋で娘の死骸が見つかったとの話です。

直ぐに延命地蔵があり右には宝永3年(1706)の宝篋印塔が並んでありました。足元の小さな石仏や江戸時代の道標へ明治時代に追加した物を見て本日最後の訪問先の観音寺に急ぎました。

15時少し過ぎに真言宗豊山派の観音寺へ入りました。江戸時代には戸塚村と大久保新田の名主であった中村氏(かんこう坊)が開基です。円形の永代供養塔や小さな蛇霊供養塔を拝見しました。土曜日には住職の読経にもあずかる事ができました。

蛇霊供養塔の話を住職に伺いました。戦災の時に寺を守って亡くなった蛇の供養との事でした。お酒や卵のお供え物の数々が目を引きました。

高田馬場駅の手前に青柳という和菓子店があります。手塚治虫の事務所が近くに在りお得意様でよく買っていかれたそうです。鉄腕アトム・ウランちゃんの饅頭が売られています。また高田馬場で名高い堀部安兵衛の饅頭もありお土産に買われた方もいらっしゃいました。

令和3年の最後の江戸名所巡りを無事に終える事ができました。

皆様のご協力を心からお礼申し上げます。どうかよいお歳をお迎えください。

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第二部九回(前編) 落合・中井界隈を巡る

令和3年の暮れが近づきました。12月11日(土)、14日(火)、17日(金)、総勢35名の方々が元気よく集まり朝10時JR目白駅を出発しました。14日は午前中から雨となり午後まで降られましたが誰もリタイアすることなく楽しむことができました。

目白駅前のクリスマスツリーを眺めた後に右に折れて学習院西西門を眺めました。論語の「学びて時にこれを習う」による命名で孝明天皇から下賜された名です。

コロナの影響でキヤンパス内を見学することは叶わず残念でした。資料のキャンパスマップを見るしかありません。乃木希典は10代院長で学生と寝食を共にした乃木館が現存しているとの事です。

山手線を越えて反対側を歩き10分位で「おとめ山公園」へと入りました。冬紅葉がまだ美しく残っていました。江戸時代には将軍の鷹狩りや猪狩が行われた地です。その為に一般の人は御禁止山(おとめやま)であったのでこのようなステキなひびきの名前となりました。

明治になり東側を近衛家が、西側を相馬家が所有しました。後に相馬家の所有部分を林泉園としました。

隣接しているのは東山稲荷です。東山藤稲荷神社とも藤の大木があったので藤森稲荷とか富士稲荷とも呼ばれていて江戸名所図会にも大きく描かれています。狐の狛犬の台石に蜀山人の書で世話人名が記されています。別名、太田南畝が安永5年(1776)に月見会で訪問しています。

相馬坂の標識を過ぎると文化13年(1816)の庚申塔があります。左ぞうしがや(雑司ヶ谷)との道標で鎌倉街道雑司ヶ谷道を示していた事が解ります。本日の最初に見た学習院の富士見会館辺りの広重の絵にも雑司ヶ谷道が描かれていました。

そして目の前に氷川神社がありました。下落合の鎮守で女体の宮とも呼ばれていました。男体の宮は豊島区高田の氷川神社で会わせて夫婦の宮と称されていました。

七曲坂を過ぎると、すぐに真言宗豊山派の薬王院に着きました。本尊の薬師瑠璃光如来は行基作とつたわっています。東の長谷寺といわれ、長谷寺から譲り受けたと聞く牡丹の冬芽がずらりと並んでいました。また枝垂れ桜の枝がいくつも下がっていました。春にはまた来ようと決心した人もいらっしゃいました。

5分位で下落合弁財天の鳥居をくぐりました。奥に小さなお堂がありました。昭和41年の宅地造成中に出土した横穴墓群には7世紀後半から8世紀初頭と推定された墓三基と人骨、直刀がでました。

江戸名所図会には蛍狩の様子が描かれています。神田川と妙正寺川が合流する場所(落合う)落合蛍の蛍狩の絵から庶民の楽しみであった事が解ります。神田川の「西の橋」渡ると西部新宿線の下落合駅です。

ここから一駅乗り中井駅で都営大江戸線で又一駅進んで落合南長崎駅で降りました。歩くと40分位かかるところを待ち時間も入れて15~20分と短縮することが出来、早めの昼ご飯としました。一日目は駅の右側にある小さな寿司屋に入りました。火曜日、金曜日は左側のスーパーの中にあるフアミレスに入りました。

後編に続きます。

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第二部6回(後編) 駒込・巣鴨界隈を巡る

六義園には1時頃に着きました。1時間の休憩で昼食と見学を楽しみました。丁度、紅葉が美しくなりかけていて、私たちの訪れを待っていたかの様に感じました。

五代将徳川綱𠮷の信任の厚かった川越藩主、柳沢吉保が元禄15年(1702)に築園した回遊式築山泉水の大名庭園です。ベンチでお弁当を頂いてから、さあ見学へと踏み出しました。男女の間柄を表す妹山背山の中の島を見ながら渡月橋へと進みました。

藤代峠から見下ろした大泉水の景色を堪能しました。その内、時間が押して来て茶屋の辺りは急いで回りお手洗いを済ませると丁度、集合時間となってしまいました。2時頃,六義園をあとにし、道路を渡り東へ行くと10分位で木戸邸跡に着きました。

木戸孝允は元長州藩士で旧名が桂小五郞で版籍奉還や廃藩置県を進めました。又、欧米使節団の全権副使として随行、45歳の若さで他界し、その後、西郷が死亡、翌年には大久保が暗殺され短い間に維新の三傑が亡くなった事を講師から聞きました。明治天皇は病床の木戸を2回見舞ったということです。

5~6分で鳥居の大きな日枝神社に着きました。江戸時代は東に開けていて朝日に輝く所で朝日山王宮と呼ばれていました。東京の空襲で焼け残り蘇った銀杏の樹を見ました。余りにも大きな空洞が在り、樹が生きていてみんなで感動しました。

大国神社の祭神は大黒天で出世大黒、日出大黒ともいわれました。駒込橋を渡り、駒込駅を見て過ぎました。

通りの右手に子育て地蔵が在り、左端には昭和8年に交通事故で亡くなった11歳の仲良しの少女の像が立っていました。ランドセルを背負った姿に胸が痛み昭和8年でも交通事故があったのかと皆でため息をつきました。

2時頃、建設中のビル右手に妙義神社がありました。16日には工事もしていなかったので階段を上がり新しい神社を見る事ができました。日本武尊が東征の折、陣地にしたとの伝説があり、大田道灌も戦勝祈願をしたとの事です。

森と蔵のある公園には子供達が遊んでいましたのでさっと通り抜けながら見ました。こちらは染井の里といい植木職人集団の棟梁であった伊藤伊兵衛政武が大規模な園芸植物を栽培していたこと事です。

3時になった頃、新義真言宗西福寺に入りました。こちらには伊藤政武の墓がありました。仙台藩最後の藩主、伊達慶邦の記念碑が高くそびえていました。

すぐ側に染井稲荷神社がありました。絵馬を見ました。劉邦が項羽と戦い漢を建国するのを助けた将軍の若き日の韓信の股くぐりのシーンの絵馬でした。

十二地蔵は六地蔵が二段になって刻まれた珍しいもので享保15年(1730)の大火の供養塔と伝わっています。浄土宗専修院には3時20分頃に入りました。伊藤家の屋敷跡で淺草から移されたとの事です。

本日最後のお寺は臨済宗勝林寺です。家康が関ヶ原の合戦で勝利したので正林寺を勝林寺と改称したとの事です。門を入るととてもモダンな建物に重厚さが加わった様な新しい寺院でした。

墓地に入り田沼意次の墓を拝見しました。父は紀州徳川家の足軽から八代将軍吉宗の旗本となりました。意次は幕府側用人から老中にまで累進しました。

そのまま染井霊園へと入っていきました。北海道と命名した蝦夷探検家の松浦武四郎の墓、小説家の二葉亭四迷、美術評論家で思想家の岡倉天心や高村光雲、光太郎夫婦の四つの墓を見学しました。

急ぎ巣鴨通りを目指しました。高岸寺のそばの「みずの」の元祖塩大福をお土産に買い帰路に着きました。あたりは薄暗くなりかけていました。皆様大変お疲れ様でした。

此処彼処 菰巻きの松 陽に映える。 豊治

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第二部 6回(続編) 駒込・巣鴨界隈を巡る

昨年(令和2年)10月に前編を歩いて一年ぶりにその続きを巡ることができました。

白山神社がある白山駅上改札口に10時に集まりました。11月13日(土)、16日(火)、19日(金)共に天気に恵まれまさに小春日和の中を歩きました。

国道17号線を横切ると本郷通りで別名、御成街道を中心に歩きます。

浄土宗瑞泰寺の狛象を見て先に進みました。お釈迦様のお母様のマーヤーは白象が胎内に入る夢を見て妊娠し釈迦を産んだ事によると思われますが狛象は大変珍しく私たちの目を引きました。

すぐに浄土宗清林寺へ入りました。手水鉢の佱(ホウ)の字に注目し飛鳥時代様式の建造中の三重塔にも近付いてみました。花陽稲荷の緑色の幡は奉納された旗と知りました。又、徳本文字の蔦文字を見ました。

3分位で曹洞宗海蔵寺に着きました。ペリー来航時に怪力を示した第十代横綱雲龍久吉の墓がありました。土俵入りの雲龍型というのはこちらの名からきているとのことです。

そして鳥居のあるお墓は行者身禄の墓でした。角行藤仏亡き後、富士信仰を再興した人で江戸末期に男女平等を唱えた身禄に敬愛の念を覚えながらお詣りしました。

細道を入り10時半すぎに夏目漱石旧宅跡に着きました。塀の上に猫が乗っていて昭和46年に川端康成筆による棗漱石旧居跡の石碑を見ました。家屋は明治村に移築されているとの事ですが森鴎外が住み漱石の学友の斉藤阿具が住み、その後、漱石が住み「我輩は猫である」をここで執筆しました。

元の本郷通りに戻るまでにいくつかのお寺を巡りました。まず10分位で浄土宗光源寺に入りました。駒込観音と呼ばれていた元禄10年(1697)の十一面観音像は江戸の鰹節商の丸屋宗閑の寄進でしたが戦火で焼失しました。平成5年に再建されました。3・6メートルと少し小ぶりになったとの事です。金色の大観音様を見上げました。また庭の隅に手の表現がおもしろい千手観音や庚申塔にも注目しました。

11時すこし前に浄土宗蓮光寺に着きました。蝦夷地を探索した最上徳内の墓があります。天明5年(1785)に蝦夷地、寛政10年(1798)には近藤重藏らと共に択捉・ウルップ島を調査しました。そして後に「蝦夷草紙」を著しました。

大垣藩主戸田家の菩提寺でもありました。

少し通りに近づいた場所に曹洞宗高林寺がありました。表に「山門不幸」と書かれた札が建てられていて一般の人が入る事ができませんでした。こちらは緒方洪庵の墓がある寺でとても残念ですが門前で講師の話を聞きながら改めて緒方洪庵の偉大さを知りました。江戸幕府奥医師となり西洋医学所頭取を兼ねて種痘の普及に奔走しました。大坂の適塾では優秀な門下生を育て人材育成に貢献しました。福沢諭吉、大村益次郎、襲われて大けがをした井上馨を手術した所郁太郎、日赤を創った佐野常民等、600余名にのぼります。又、八重というすばらしい伴侶の存在も知りました。

日光御成街道に戻りました。江戸三大青果市場遺跡の碑がありました。天栄寺境内の「さいかち」の木の下で毎朝、土物(大根や人参・牛蒡など土の付いた野菜)が取引されました。

11時半頃、浄土宗定泉寺に入りました。こちらは夢見地蔵菩薩の堂がまずあり。各々がガラス戸の隙間から覗いて進みました。線刻の閻魔大王と地蔵の碑があります。至徳3年(1386)のものでなんとなく見えました。

六角宝塔印塔が奥まった場所にありました。

すぐに天台宗の南谷寺にはいりました。

江戸五色不動の目赤不動がある場所です。目が赤いのではなく伊賀国赤目山で本尊を授かったからとのことです。お堂の中を覗くと炎の光背が見えました。

通りを東に入り進みました。長禄2年(1458)、大田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥天」の金印を発見した事から吉祥寺と称されたとありました。

水道橋に移転後、明暦の大火にあい、ここに移ったとの事です。

その水道橋時代に近辺に住んでいた人が立ち退かされて江戸郊外の吉祥寺の名を付け移り住んだそうです。栴檀林の山門を潜りました。これは曹洞宗修行所で湯島聖堂と並ぶ学問所で後に駒沢大学へと発展しました。

参道が長いのが印象的でした。

墓地に入る前に二宮尊徳の像を見ました。小田原藩領の農村復興に寄与し幕府の日光神領の復興を命じられたが事業半ばに病没しました。大きな墓と小さな尊徳像が印象的でした。

こちらにある膨大な少し朽ちかけた大名の墓に驚きました。その中をどんどん進み鳥居家の墓がありました。鳥居耀蔵は南町奉行の時に蛮社の獄で蘭学者を取り締まりました。

古い経蔵がありました。毘沙門天の使いと言われる虎の狛犬を見ながら次ぎへと進むと奥に榎本武楊の広く立派な墓がありました。旧幕臣でオランダに留学し幕府の軍艦奉行の後、五稜郭にて降伏し3年の在獄を経て明治7年に海軍中将からロシア公使となり千島・樺太交換条約を締結しました。その後に大臣も歴任しました。

街道に戻り講談社のビルと鉛筆のモニュメントの前を進み大きく東へと曲がりどんどん進みました。

10分位で天祖神社に着きました。大きな黄色の銀杏の樹が迎えてくれました。源頼朝が奥州征伐の時に霊夢を見て祀った神社です。江戸時代には駒込神明社と呼ばれ村の鎮守でした。

戦災に会い戦後に復興されました。

境内社や美しい菊を眺めたり庚申塔群を見ました。

すぐに駒込名主屋敷の高木家に着き門の脇の小さな入口から入らせてもらいました。

慶長年間の伝通院領であった駒込一帯の開拓を許され、そのままに土着しました。狭い通路の奥に昔の屋敷があり大きな玄関を拝見しました。

5分位で午後の部、最後の駒込富士神社に着きました。

延文年間(1356~61)にはすでに大きな塚があり一説によると前方後円墳があったとも云われています。江戸で最初の富士講が駒込富士神社で組織されたと云われています。

階段の上に鳥居があり、盛り上がった岩には彩色された富士講塔が沢山ありました。一時ちかくになっています。一路、昼食を取る六義園を目指します。

後編に続く

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第二部8回 巣鴨・板橋界隈を巡る(後編)

50分の休憩を取り午後の部が始まりました。近藤勇が慶応4年(1868)4月25日に処刑された場所に永倉新八を中心に明治9年(1876)に建てた供養塔です。碑の表には近藤勇と土方歳三の名がありました。資料には維新後の隊士たち13名の歩みが記され興味深く読みました。

埼京線の板橋駅が目の前に見えています。その線路を渡り12,3分で浄土宗東光寺に着きました。ここでは宇喜多秀家の墓を見ました。秀家は関ヶ原の合戦で敗れ罪人として八丈島に流され84歳で没しました。秀家の妻が前田家の姫であったために256年後、新政府により放免された子孫71人は前田家下屋敷の一部、3万坪を与えられたとの事です。寛文2年の古い庚申塔を拝見しました。

再び通りに出て5分位で真言宗観明寺です。こちらは室町時代の開山です。さっき見た東光寺の庚申塔より1年早い寛文元年(1661)の庚申塔を鑑賞しました。そして豊川出世稲荷神社の正面欄間の左甚五郎作と伝わる龍を金網越しに見ました。

その後、板橋平尾宿脇本跡跡に立ちました。大きなマンションの前に碑があります。この豊田家の娘の「とみ」は幽閉されていた近藤勇に可愛がられました。「とみ」は長生きし昭和21年まで毎月命日に勇の墓参りをしたとの事です。

平尾脇本陣から10分位歩くと緑地があり加賀前田家下屋敷跡とありました。約21万坪の広い中を石神井川が流れています。現在は学校がいくつもありますが明治には火薬製造所(陸軍造兵廠)となりました。

10分位で中山道の通りに戻ってきました。古い米屋さんが残っていて新米を売っていました。真言宗遍照寺は成田山新勝寺の末寺で境内は馬繋ぎ場になっており明治10年頃まで馬市が開かれていました。植栽の中に馬頭観音がずらりと並んでいました。

5~6分くらい進むとスーパライフの手前に板橋宿本跡跡がありました。飯田家は大坂冬の陣で豊臣方の武将として参加した飯田左馬允(サマノスケ)が板橋に住み名主となりました。

隣のスーパ.ーで数分トイレ休憩を取り人数が揃うとスーパー前の高野長英ゆかりの地に立ちました。居酒屋の前に説明板がありました。蘭学者で医者の長英は幕府の外交政策を批判して伝馬町牢屋敷に捕らわれました。弘化元年(1844)6月に牢を出火させ切り放しの際に逃亡し、この地の弟子に匿われその後、奥州、四国、中国、関東と逃亡したそうで江戸で捕まりました。

2,3分で板橋脇本陣跡に着きました。こちらも後ろはマンションになっていました。飯田家の本家で和宮が京都を出て中山道で泊まった最後の宿でした。

いよいよ石神井川にかかる板橋を渡りました。名所図会では太鼓橋として描かれています。6年くらい前に講師がテレビ朝日のモーニングショーで石原良純さんの番組に出演した折に記念に三人で写真を撮らせてもらった場所です。

すこし進んだ通りの角に縁切り榎があります。樹皮を粉にして飲ませると縁が切れるという事です。いつの頃にか言い伝えで嫁に行く時には下を通らないようにしたとの事です。和宮が通る時には迂回路を通り榎は菰で覆ったとあります。

17号線を渡った所に智清寺がありました。手入れの行き届いた庭木が並んでいます。門をくぐると木下藤吉郞出世稲荷の赤い幟が飛び込んできました。かわいらしい狛狐を眺めながらお詣りをしました。

すぐ近くに真言宗の日曜寺があり、本日最後の訪問先です。山門の扁額は松平定信のものです。手水鉢は神楽坂の名石方の駿河屋平兵衛で天保10年(1839)の逸品とのことです。どこが良いのかと皆でじっくりと眺めました。

弘法大師像の前につつじの赤い返り花が咲いていて印象的でした。

早い日には15時20分、少し遅くなった土曜日でも15時50分に都営三田線板橋本町駅で解散しました。ひさしぶりに頑張って9キロ歩きました。

みなさん大変お疲れ様でした。

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