第2部12回 高田・池袋を巡る(後編、午前部)

10月15日(土)と18日(火)の2日間、12回目の後半を歩きました。最初の集合場所が解りにくいとの意見があり、18日はJR高田馬場駅、早稲田口改札前に10時としました。

そこから前回解散した面影橋まで15分位を掛けて歩きました。ここでスタートの挨拶をして最初にすぐそばの高田氷川神社を訪ねました。金木犀が香っています。初めは山吹の里氷川神社と称していましたが氷川大明神、明治2年には氷川神社となりました。

歴史は古く平安時代(859~77)の創建で下高田村の産土神です。右手奥に小さく祀れているのは高田姫稲荷です。平安時代、在原業平夫婦が森に迷ってしまい離れ離れになり別々に寝たのですが目が覚めるとそぐ側に寝ていたという逸話が残っています。左側に道祖神社があり猿田彦神が祀られています。狛犬は鬼門の位置に立てられ立派でしたが我々は鳥居の右奥に古い狛犬が置かれてあり、そちらに心ひかれました。

真言宗豊山派の南蔵院もすぐに在り、名作怪談乳房榎ゆかりの地とありました。

「三遊亭円朝の名作の話というのは絵師がこの寺に泊まり込み仕事をしている間に妻の「おせき」は弟子と恋仲となった。その二人は絵師を殺し再婚した。遺児は使用人の手で育てられ板橋の松月院の榎の木の瘤から流れ出る露を飲んで成長し父の霊に助けられながら仇を松月院境内で討つという話である」

石仏が多く馬頭観音が目を引きました。山吹の里弁財天は八臂で頭には蛇がいますがお顔は丸くて愛らしいねと皆でのぞき込みました。奥には三体の阿弥陀如来像があり、いずれも寛永年間のものです。

そして彰義隊士首塚がありました。これは九士の首塚で上野の山の戦いで敗れた残党を葬ったものです。

10分位進むと真言宗豊山派の根生院に着きました。山門は赤門になっていて延宝6年(1678)のものです。万葉仮名で刻まれた無相の連歌句碑がありました。「けふみれば かすみてとおし ふじのやま」「ふじのねは うきしまなれや きりのうみ」

先祖が火消しの家があり鳶口、刺股、半鐘が吊されていました。

5分位で次の真言宗豊山派金乗院に着きました。名所図会の中では金乗院の裏門の辺りに関所跡があり平地だったとのことで、あとは坂であったので宿坂の関と言われていました。

倶利伽羅不動庚申塔は不動明王の持つ剣に倶利伽羅龍が巻き付いたもので剣の先を飲み込もうとしています。

鍔塚(つばつか)は寛政12年(1800)の剣供養塔です。

丸橋忠弥の墓に行く方に登り始めて直ぐに青柳家追悼碑がありました。江戸時代の公事師で公開図書館の祖といわれる青柳文蔵の墓です。仙台出身で亀戸で医者を開業し貯えた富で2万巻の書物を集め仙台藩に献上しました。だれでも利用できる我国初の公共図書館となりました。

家光が死去した慶安4年(1651)に11歳の家綱が四代将軍になってまもなく幕府転覆の陰謀が発覚し大騒ぎになりました。慶安の変です。軍学者の由比正雪を支えたのが宝蔵院流槍の名人、丸橋忠弥でした。新しい政権を樹立し巷にあふれている浪人を救済するという目的があったとの事です。集めた浪人は京都、大坂を入れると約2000人となりました。密告により鈴ヶ森で磔となりました。紀州にあった墓は一族により金乗院に改葬されたという訳です。本姓は長宗我部で丸橋は母方の姓でした。

境内の高くなったところに目白不動堂がありました。新長谷寺にありましたが、昭和20年の戦災で焼失し、近くの金乗院に合併されました。

雑司ヶ谷村の旧家の三氏は朝廷の下級役人でしたが官を辞し乱を避けて一同が同村に居住し誰いうともなく雑士ガ谷と唱するようになり雑司ヶ谷になりました。

鬼子母神表参道入口に入って行きました。ここで本日の昼食となります。

中華と洋食屋があり殆どの方が洋食のランチ¥1000円を頼み100円追加するとコーヒも飲めました。

午後の部につづきます

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第二部 12回  高田・池袋界隈(前編) 午後の部

江戸川公園に集合し目白坂という所を進みました。 3分位で正八幡神社に着きました。 鳥居をくぐり階段を上るとお社がありお詣りをしてから説明を聞きました。 関口水道町の鎮守という事です。 関口水道町が寄進したどっしりとした狛犬を鑑賞しました。

すぐ先に小さな幸神社があり、こちらは覗くだけで進みました。この辺りは鎌倉街道の枝道があったとのことで農作物を江戸に運び帰路は江戸の下肥(シモゴエ)を持ち帰ったことから「おわい街道」と云っていました。一説にはこの辺の長者が金の駒を収め幸神を勧請したとのことでした。

すぐに椿山荘の塀が見えて来まし。江戸時代には上総国久留里藩黒田家の下屋敷でしたが維新後に山縣有朋の邸宅になりました。この辺り一帯は椿が多く椿山と呼ばれていたので椿山荘と命名しました。現在はコロナの為に庭に入る入口も封鎖しておりましたので見学を遠慮しました。

前の道路を渡ると高い高い十字架のあるカテドラル聖マリア大聖堂が在りました。明治32年(1899)、聖母仏語学校の協力を得て附属として建築されました。翌年関口聖母教会として独立しました。現在の大聖堂はドイツのケルン市のカトリック信者の寄付により丹下健三設計で昭和39年(1964)2月に落成しました。内部の天井の明かりを拝見し土曜日は美しいカップルが式に向う姿も見られました。

方向を替えてまた元気よく進むと神田川に向う右側に永青文庫の入口がありました。 熊本細川家の下屋敷で数々の国宝や文化財を所蔵してあります。

胸突坂の階段を降りました。左手に芭蕉庵がありました松尾甚七郎宗房は藤堂家の下級武士として神田川の堀割工事の書役でこの地に4年間携わり水番屋に住みました。後に芭蕉を慕う弟子たちが龍院庵を建てました。その後、焼失し大東亜戦争後に芭蕉庵が建てられました。蛙碑や奥の上がったところに五月雨塚がありました。

川沿いに水神社がありました。神田上水の守護神として妙見菩薩を祀っています。石段がありましたが下で参拝するのみとしました。

そのすぐ側に入口がある肥後細川庭園に入って行きました。清水家、一橋家の下屋敷になり細川家の下屋敷になり明治15年から細川家の本邸となりました。池泉回遊式庭園を見て回り松聲閣という名の大正時代の建物にも入り、二階からの眺めを見ることが出来ました。

5~6分歩くと山吹公園がありました。太田道灌への少女の奥ゆかしい対応が有名ですね。この辺りには実のならない八重の山吹が多くあったそうです。ぽつりぽつりと黄色の山吹がまだ咲いていて皆さん驚いて眺めていました。

神田川の仲之橋を渡り甘泉園公園に入りました。徳川吉宗の子孫の御三卿の清水家の下屋敷庭園です。山吹の井と呼ばれる池からの水を中心とした回遊式庭園で現在は維新後の相馬男爵邸の名残があるとされています。湧きだしている水がお茶に適しているとの評判から甘泉園と名が付けられました。

直ぐに水稲荷がありました。 江戸名所図会では高田塚稲荷とあります。 古くは富塚稲荷、将軍稲荷と呼ばれました。 元禄15年(1702)に大椋の下から水が湧き出し眼病に効くと評判になり水稲荷となりました。 江戸最古の富塚があったとの事ですが思ったよりも小さく感じました。

また、この土地は早稲田大学と土地交換により水稲荷は当地に移転しました。

堀部武庸(安兵衛)の碑が在りました。

土曜日は2時半頃に高田馬場跡に出ました。 寛永13年(1636)旗本たちの馬術の練習場として造られ流鏑馬も行われました。 すぐ側の診療所の前辺りが堀部安兵衛が仇討ちの助太刀をしたとされています。

日蓮宗の亮朝院の立派な門を見上げて中に入りました。 家光が念仏堂を建て明暦元年(1655)に四代家綱は徳川家代々の祈願所としました。 門の上に梵鐘があります。 本堂にお詣りをした後で見学した金剛力士像は石造で区内で唯一ということです。 156センチで少し小ぶりに見えました。 ちょっとおもしろい狛犬にも注目し院を後にしました。

本日、最後の面影橋の碑です。 在原業平が鏡にような水面に姿を映したと、また美しい於戸姫が悲劇を嘆き身を投げた折に詠った歌から名付けられたとの説があります。

面影橋を渡った所で解散となりました。 13日は3時半、17日は2時50分頃になりました。 残暑の中、皆様大変お疲れさまでした。 面影橋という荒川線の駅からそれぞれ帰路につきました。

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第二部 12回  高田・池袋界隈(前編) 午前の部

7月、8月は暑さの為にお休みしていました江戸名所巡りを再開しました。

9月は13日(火)と17日(土)でコロナ禍にも関わらず31名のご参加でした。

大江戸線牛込柳町駅を10時にスタートしました。

駅前の通りを渡り1分で天祖神社に着きました。慶長年間、この辺りに住む長兵衛と長者の大橋龍慶により建てられました。

桃の神様を祀った祠がありました。出産の無事を祈願する人が増えお社を建て子孫繁栄、厄難消除に御利益のある神様として今も信仰を集めているそうです。

外苑東通りを5、6分、北上すると和算の関孝和の墓がある日蓮宗淨輪寺に着きました。淨輪寺は慶長17年(1612)に創建し寛永12年(1635)に現在地に移転しました。関孝和は徳川綱豊(家光の三男)、綱豊の二代に仕え従来の算木を使う方法から未知数を文字で表し筆算に直して方程式を解く方法を見つけ弟子を多く持ち「関流算法の祖」と称されました。

直ぐ先に真言宗豊山派多聞院がありました。入口の門が大きくそびえコンクリートの内に鐘が見えていました。こちらも淨輪寺と同じ年に創建移転となりました。

入口の右手に吉川湊一の墓がありました。幼少期に失明し文政9年(1812)に検校を統括する職検校となり人々の福祉に貢献した人です。

その奥に小さな道標があり、これは目白不動に行く道標を寺の内に移したものです。「是より千手院へ一丁」「是より目白長谷寺へ十丁」とあります。

大きな巨石の正等和尚の供養塔を過ぎ墓地の奥に少し高くなっている所に松井須磨子の墓がありました。舞台女優で人気をはせましたが師の島村抱月の死により自殺しました。享年34歳でした。

代表の役は復活のカチューシヤ、ハムレットのオフエリア、人形の家のノラ役です。

通りから西に少し入ると3,4分で漱石山房記念館に着きました。晩年の9年間の住居があった所です。こちらは「それから」、「こころ」、「三四郎」、「道草」などが執筆されたところです。堂々とした胸像が迎えてくれました。公園(庭)の中にまず道草庵があり漱石の年表や山房の説明がありました。庭には遺族が造ったという石を積んだ猫塚がありました、猫の他にも犬や小鳥達の供養塔でもあります。

可愛い花が咲いていました。山房の中は15分位の見学時間を取りました。お土産を購入される方もいらっしゃいました。土、日だけ開くカフェもあり、またゆっくり来たいと思いました。

山房の先に曹洞宗宗参寺がありました。こちらでは牛込氏の墓と山鹿素行の墓を拝見しました。

牛込氏の墓は大胡重行と勝行父子の墓で父子の法号が一基に刻まれています。後に地名である牛込の姓としたとの事です。

奥の高くなったところへ上がると山鹿素行の墓がありました。江戸初期の儒学者、兵学者です。承応元年(1652)に赤穂浅野家に仕えますが意見が合わずに7ケ月で退出しました。その後、朱子学を批判し31歳の時に赤穂に流されました。9年に及びましたが、この時に表したのが「中朝事実」で王朝が交代するたびに皇帝が代る中国より万世一系の天皇がいる日本こそ中朝(中華)だとの考えです。

後に幕末の国家感に影響を与え吉田松陰、宮部鼎蔵などは山鹿流軍学を学びました。又、乃木将軍は殉死する前に昭和天皇(当時は皇太子)に中朝事実を奉呈したとの事です。

墓地の一角にお墓に向く乃木将軍が愛した梅の木が遺族の手により植えられ葉を繁らせています。梅の花も見たいと思いながら後にしました。

通りを渡り東へと進むと6,7分で日蓮宗、宗柏寺に着きました。寛永8年(1631)創建で元禄5年(1704)に一橋家の祈願所となりました。門扉にある紋が珍しく象と橘です。釈迦堂の内に入れてもらい美しい鬼子母神像を見る事ができました。

墓地へ進むと先代の住職が建てた平将門一族の霊位がありました。そして幕末に下田奉行となり日米修好通商条約や日仏通商条約を結ぶ一員となり、その後に軍艦奉行から海軍の拡張に尽力した井上清直の墓がありました。川路聖謨の実弟です。

元の通りに戻り一般公開していない臨済宗済松寺の前を通りました。徳川家光は臨済禅師の「済」と徳川家の祖である松平家の「松」を取り済松寺とし宗門と徳川家が共に栄える様に願ったのでした。

お昼過ぎに神田川を一休橋でわたり緑の多い通りを進みました。大洗堰跡は神田上水の余水を分ける為に造られました。井の頭池の水を水戸藩邸を通し水道橋の懸樋で神田方面に配水したとの事です。

江戸川橋に出てお昼となりました。13日も17日も中華を選びました。あんかけチャーハンも野菜炒めランチもボリユームがありました。暑い中、50分間ゆっくりと水分を取り休みました。午後の部の続きます。

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令和4年 夏期おもしろ講座(鎌倉殿の13人の真実を知ろう)

本年も中央区掘留町区民会館において7月、8月の2回ずつの4回開催致しました。話題の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の真実を深く知ることができました。講師作成の相関図が好評で大河ドラマを観る時に傍らに置いているとのことです。

百余年鎌倉幕府露と消ゆ      豊治

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第二部 11回 小日向・小石川界隈を巡る(後編)

50分の休憩の後に午後の部がスタートしました。伝通院の門がみえてきましたがその前に訪れたのが浄土宗福聚院です。伝通院末で大黒天(鎌倉時代の彫刻)は貴重な文化財です。こちらに珍しい唐辛子地蔵がありますが幼稚園が併設されているので土曜日のみ拝見できました。明治に唐辛子の好きなお婆さんがぜんそくを治すのに唐辛子を止められるが止められず食べて亡くなりました。人々が地蔵を建て唐辛子を供えました。喘息の人が祈願し治ると唐辛子を供えるという地蔵に沢山の真っ赤な唐辛子が供えてありました。

処静院跡の石柱は結成時にあった物です。

12時50分頃に伝通院護経寺へと入っていきました。徳川家康の生母、於大の方の菩提寺で於大の法名が伝通院なので江戸の人々は伝通院様と呼ぶようになりました。始めに於大の方のそびえ立つ墓の前に立ちました。余りに大きさ立派さに驚き、どなたかが大震災でも大丈夫だったんだねと呟いていました。

柴田錬三郎の墓は黒の球の石とデザインされた齋藤家之墓とありました。

二代将軍の長女、千姫の墓、家光の正室孝子の墓もありました。両側に同じように何体も連なっています。

浪士隊の清河三郎の墓は山岡鉄舟が建てました。新撰組の前身で文久3年(1864)2月8日、234人で江戸を出発しました。元々、攘夷論の影響を受けていたので朝廷に部隊を引き渡そうとしました。清河八郞は見廻り組の佐々木只三郎に暗殺されました。隣の墓は愛妾の墓です。八郞の孫娘は作家の紫田錬三郎に嫁ぎました。

隅にイタリア出身の宣教師ジヨセフ岡本右衛門の供養塔がありました。「ジヨセフ・キイヤラ師の霊よ、安らかに眠り給え」と刻まれています。約30分位の見学で伝通院を後にしました。

5分位行くと幸田露伴旧宅前で現在は幸田文の娘の青木玉が住んでいます。蝸牛の様な小さな家と称して昭和2年から20年まで住みました。

1時半頃、すぐに無量山慈眼寺澤蔵司稲荷に着きました。芭蕉句碑がありました。34歳の時に壱岐坂から澤蔵司稲荷方面を詠んだ句です。「一時雨礫(つぶて)や降って小石川」

元和4年(1618)澤蔵司と名乗る僧が浄土宗の修学をしたいとやってきて3年間で奥義を究めました。澤蔵司は和尚の夢枕に立ち自分は大田道灌公が千代田城に勧請した稲荷であるが。これより当山を守護する、すみやかに稲荷大明神を祀るべしと云って白狐となり消えたのです。このために元和6年(1690)澤蔵司稲荷を建立した訳です。そしてこの澤蔵司はいつも萬盛蕎麦を食べていたので現在も毎朝店から、箱蕎麦を届けているのです。下方には白狐が帰っていった穴がちゃんとありました。

伝通院の塔頭である善光寺が直ぐにありました。朱の門を覗きました。礫川山緑受院は明治に善光寺と改称され善光寺分院となりました。

5分位あるくと浄土宗源覚寺に着きました。宝暦年間(1751~64)に眼病を患った老婆がこちらの閻魔大王に祈願したら老婆の目が治り以来、好物の蒟蒻を断ち供えました。閻魔像は運慶作で玉眼の右眼が黄濁しているとの事です。境内の右手に塩地蔵が二体あります。歯で悩む人が塩を供えて祈り治ったら塩を倍にして奉納するのです。医学の発達していない昔は何でも祈って願いを叶えていたのですね。

鐘楼の鐘は元禄3年(1690)に造られたものでサイパンの南洋寺に移したものが戦争後は行方不明となり昭和40年にテキサス州オークランド市で発見され返還されました。とても立派な鐘でした。

岡埜栄泉で買物タイムをとりました。有名なのは豆大福です。私の番で丁度、売り切れといわれ他の物にしました。土曜日は店が休みなので残念でした。

2時頃、講道館の前の嘉納治五郎の像を見ました。万延元年(1860)に摂津国に生まれ、父は幕府の回船方御用を務め勝海舟のパトロンでした。開成高校に進み天神真楊流柔術を学びました。渋沢栄一の依頼でアメリカ大統領に柔術を披露しました。東京大学卒業後は起倒流柔術を学び柔道を造りました。教育者としても活躍しオリンピックを誘致しましたが昭和13年IOC総会の帰途、氷川丸内で亡くなりました。

5分位で礫川公園内の櫨の木を見ました。サトウハチロウの「ちいさな秋みつけた」の三番目の歌詞のモデルの木です。

ここで小石川後楽園を見学する人と帰る人とに別れました。

花菖蒲が美しい時でしたので見学していく人が多かったようです。武家法度で幕府への謀叛の意志がないという表明の為に大名はこぞって庭園を造りました。寛永6年(1626)水戸徳川家の祖の頼房が中屋敷に造りはじめ池を中心とした回遊式庭園で、光圀は中国趣味を加えて完成させました。

門の近く花花菖蒲が満開を迎えていましたが人が少なくゆっくりと楽しむことができました。

「藤田東湖先生護母救命之処」の碑は安政大地震で母を助けた時に圧死し、母は別の出口から出て助かったという事です。円月橋は明の儒学者、朱舜水による設計です。

主だった処を見学し最後には西門から出て石垣の石に刻んでいる刻印を見ながら駅へと歩きました。

皆様には公園の中を自由行動とさせて頂きました。無事帰途につかれたものと存じます。今後は皆様のご希望を考慮しながら歩く距離を決めていきたいと存じます。本日は3時前の解散となりました。ご協力ありがとうございます。

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第二部 11回  小日向・小石川界隈を巡る(前編)

6月14日(火)、18日(土)、丸の内線茗荷谷駅に10時に集合しました。 雨も上がり曇天の中、10時にスタートしました。 火曜日は20名、土曜日は14名のご参加でした。

駅を背に5分くらいで着いた曹洞宗林泉寺はコンクリート造りの新しい建物で階段を上がると墓地が広がっていてその前に縄でしばられた「しばられ地蔵尊」が祀られていました。 盗難や失せ物があると地蔵尊に縄を掛けて願いが叶うと縄を解くそうです。 年末には縄を解き供養されます。 これまで 色々と面白い地蔵を見てきましたが「しばられ地蔵」も忘れ難いものになりそうです。 先代の地蔵も左手にいらっしゃいました。

拓殖大学の立派な校舎が右手にありました。 明治33年に桂太郞により設立された台湾協会学校が起源との事です。 渋沢栄一や新渡戸稲造も関わり、第12代学長は中曽根康弘でした。

茗荷坂を登り10時10分頃に浄土宗深光寺に入りました。 墓地の最前列に堂々としたお墓があり法名が「著作堂院誉蓑笠居士」である滝沢馬琴と妻のお百のものです。 こちらが馬琴の主家である旗本の松平(大河内家)の菩提寺なのです。 馬琴がデザインした、上に地蔵がのる墓は運ぶ際に隅が欠けましたが馬琴は「いいよ」と許しそのままの姿がありました。 又、奥には長男の嫁の路女の墓もありました。 馬琴は晩年には失明し執筆を助けたのが路女で、南総里見八犬伝を書き上げることができたのでした。

大東亜戦争中に供出された鐘が30年後に還ってきたという釣り鐘を見上げました。

そして、ちよっと離れた所には延命地蔵があり寛永20年(1643)と古い物でした。

坂を登る途中に蛙坂の説明板があり、東側は蛙が多く居たとのことです。 ここから切支丹屋敷へと通じていました。

そして2,3分で切支丹屋敷跡に立ちました。 牢屋敷とも呼ばれ、こちらは島原の乱の5年程後にイタリアの宣教師達が江戸に送られ伝馬町からこちらの井上筑後守政本の下屋敷に牢番所を建て収容したのが始まりでした。 宣教師たちは 幽閉され厳しい拷問により改宗させられるのです。 イタリア人宣教師ジヨセフ・カウロは浄土宗に改宗され岡本三右衛門と改名させられました。 説明を聞きながら、この辺りの恐ろしい歴史の上に立っている悲哀を感じました。

3,4分で新渡戸稲造旧宅跡に行くとワンルームマンション反対のビラが貼ってありました。

住宅地を4~5分歩くと小日向神社がありました、貞観3年(860)創建と古く、その後、合併を何度かくりかえし明治2年に小日向神社となり現在地に移りました。

10時43分、服部坂の説明板の前を通りました。 江戸時代、服部氏の屋敷があった場所で明治2年(1869)に小日向神社が移されました。 永井荷風は眺望のよいところとして作品に表しました。

山法師の咲く通りを行くと曹洞宗の日輪寺です。 小日向神社(氷川神社)の別当寺です。 氷川神社の提灯がありました。 甘酒婆地蔵が目を引きました。 呼吸器系の病気を治そうと地蔵尊になったとのことです。 可愛らしい表情を皆で眺めました。

並ぶようにして浄土宗本法寺がありました。 漱石の墓は5月の雑司ヶ谷霊園でみましたが、こちらは夏目家の墓があります。 漱石の句碑もあり正岡子規の友情を思いおこします。 「梅の花 不肖なれども 梅の花」几号水準点が手水鉢台石に彫られていました。

国際仏教大学院の通用門への道路を奥に行っていくと門の中に一本の大銀杏の木があります。 徳川慶喜の屋敷に植わっていた木です。 巣鴨より転居し明治34年から12年間この地で暮しました。 大正2年に急性肺炎の為に76歳で死去しました。

5分位で文京区立金富小学校前に神田上水の説明板がありました。 この前の道を神田上水が通っていたのです。 家康の命をうけ井の頭池を水源とする上水を江戸まで通しました。 水戸屋敷(小石川後楽園)を通り江戸、東京市民の命の糧となりました (明治34年まで)。その後 暗渠となり通称は「水道通り」と云われています。

通りをどんどん南下して10分位で北野神社である牛天神に着きました。土曜日には茅の輪潜りが出来ました。永寿3年(1184)、東征の折り、源頼朝が腰掛けたという石がありました。願い牛は文化6年(1809)のもので皆が撫でてツルツルでした。




中島歌子の「雪中竹」の歌碑がありました。夫は水戸藩で天狗党に加わり獄死しました。

中島歌子は夫の死後、実家に戻り和歌を教える歌塾の萩の舎を開きました。その萩の舎跡に立ちました。

樋口一葉は14歳で入門し18歳で内弟子となりました。

12時すこし前に本日の昼食場所に着きました。 萬盛蕎麦屋は創創400年で澤蔵司稲荷と関係の深いお店です。稲荷に毎朝お供えする箱蕎麦も味わいました。

午後の後編に続きます。

 

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「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る(後編)

5月29日はビジネスホテルの朝食から始まりました。そしてロビーに集まり8時に出発しました。

8時20分頃に楽寿園に着きました。1846年に伏見宮邦家親王の皇子として生まれた小松宮の別邸でしたが明治44年に李王家の所有となり李垠(リギン)殿下と梨木宮方子(マサコ)王女が結婚し使用していました。昭和2年に売却され地元の資産家が住みました。昭和27年に三島市の所有となりました。敷地は約7万㎡。新緑の美しい入口に立ち説明を聞き三島大社へと進みました。

途中、白滝公園の清い水のすばらしさに驚きながら文学の道を通り8時半すぎに三島大社の鳥居を潜りました。伊豆国一宮で頼朝が旗挙げに成功してから武将の信仰を集めました。水神は龍や大蛇、大鰻などの姿で祀られているので神池にいる鰻は神の使いとして大事にされました。そして明治になるまで三島では鰻は食べなかったそうです。私たちは頼朝・政子の腰掛石の前にしばしの間立ちました。

芭蕉句碑もありました。「どむみりと楝や雨の花曇り」楝とは栴檀の事です。元禄7年(1694)5月14日、三島明神に参詣した時、江戸に残してきた病床の妻(すて)の身を案じて詠んだ句です。東奥には鹿が沢山飼われているのが見えました。お詣りをすませて緑に包まれた神池を眺めました。孤を描いて突き出した蘭渓灯籠が目を引きました。

樹齢約1200年の金木犀や松の下で源氏再興を祈願したという相生松など見所が沢山ありました。大社に別れを告げようとした時に一組の婚礼の一行を拝見でき皆で祝福をしました。

大鳥居の前の道が東海道で正面に真っ直ぐ延びている道が下田街道です。10分位で問屋場跡に着き暫くすると本陣跡がありました。

9時半ごろに鎌倉古道という標識がありました。路地を入ると地面とブロックに国府跡(国庁址)がありました。下見の時に見当たらず困り果てた場所です。講師がここへ北条時政たちが官吏として出向いていたのですよと話しました。上司が山木判官だったという事です。

  • 源兵衛川を見ながら伊豆箱根鉄道の広小路駅に着き9時46分発に予定通りに乗車し伊豆長岡駅に向かいました。窓に富士山が見えています。

10時20分発の循環バス「てつざえもん号」に乗りました。8分で韮山反射炉に着きました。約1時間で、ボランティアの説明が最初にあり反射炉の仕組みを見学しました。昨日夕方に訪れた江川邸の第36代当主の江川英龍は天保6年(1835)に韮山代官になり昨日触れましたが蘭学を学び、その交流により海防問題に深く関心を寄せました。嘉永6年(1853)ペリー来航に衝撃を受けた幕府より英龍の建議を受けて品川沖に台場(砲台)を設置しました。反射炉は台場に置く大砲の原料である鉄を溶解する施設です。英龍はオランダの書物により苦心を重ね反射炉建設を進めました。

見学の後に冷たいものを飲んで休憩し11時28分のバスで伊豆長岡駅に向かいました。

すぐに伊豆箱根鉄道で修善寺に向かいました。修禅寺といえば「お蕎麦」と詳しい方に教わり人気のありそうなお店に入りました。量も多く美味、とても満足して午後へのスタミナとなりました。。

バスにて修禅寺温泉へ行き範頼が自刃した日枝神社(信攻院跡)に参詣しました。樹齢約800年の杉(夫婦杉)がそびえていました。

すぐそばの修禅寺の石段を登りました。仁王門の金剛力士像は指月殿から移した平安時代の作です。手水は大師の湯で本当にお湯で驚きました。

空海が修禅寺を訪れた時に、病気の父親の身体を桂川の水で洗っている少年を見て持っていた独鈷で温泉を沸かしたとの伝説があります。川の中央の建物が独鈷の湯です。講師は若い頃に裸で入った事がありますが、現在はコロナもあり今は入れなくなっているそうです。

少し行くと明治5年創業の新井旅館の前を通りました。すこしずつ坂道になり右側の坂を登ると範頼の墓が静かに立っていました。お詣りして水分補給をし旅の最後である頼家の供養塔をめざします。

時々、木陰に入り気持ちのよい所を通ります。赤蛙公園を曲り10分位で指月殿に着きました。

二代将軍頼家は北条時政の謀略により修禅寺に幽閉され殺害されました。この指月殿は菩提所として政子により建立されました。供養塔の後の小さな石塔が頼家のお墓です。下の敷地に頼家の忠臣十三士の墓がありました。これからのドラマでこの忠臣が見られるのでしょうか。

又独鈷の湯が見える所まで戻りバスで修禅寺駅に戻りました。踊り子号で帰る人と伊豆箱根鉄道で三島まで行く人と別れて列車に乗り、疲れた身体を休めながら車窓を楽しみました。4時少し前に新幹線に乗る事ができ三島駅から富士山が見送ってくれていました。

皆様、大変お疲れ様でした。

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「鎌倉殿の13人」伊豆を巡る(前編)

NHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」で今注目されている伊豆の国を中心に巡り三島に泊まり翌日は修禅寺に足を伸ばすという一泊旅行の初めての試みを行いました。

5月28日土曜日、こだま713号で10時17分、三島駅に到着しました。

男性5名、女性9名と私共2名の16名がいつもより遠く離れた集合場所にきっかり時間通りに集まりました。伊豆箱根鉄道で伊豆長岡駅まで乗り一日乗り放題500円の循環バスで北條寺へ行きました。

北條寺は義時の嫡子安千代が大蛇に飲み込まれて死んだのを弔うために創建したと伝わっています。義時夫妻の墓があります。義時は鎌倉の頼朝の東側に葬られましたが息子の泰時が追善供養の為に、この地に建立しました。

10分位歩くと江間公園になっている義時邸跡に着きました。頼朝の挙兵後、江間の地を拝領しました。屋敷跡の石碑を見た後に昭和5年、北伊豆地震の時に魚雷に残る地震動や痕跡が残っていました。

バスの中から豆塚神社を見て次ぎへと進みました。12時8分に大河ドラマ館に到着しました。地元の特産物も売られていました。ドラマ館ではこの土地の魅力とドラマ撮影時の興味深いシーンを見せていました。

13時3分発の循環バスの義時4号に乗りました。13時8分より北条の里の見学です。まず浄土宗大谷派、晴雲山成福寺に入りました。八代執権の北条時宗の三男である正宗がここ韮山に曾祖父時政の持仏堂を基に成福寺を建立し元寇で亡くなった人々の菩提を弔いました。現住職が北条氏二十一世の北条親善氏です。一族の供養塔に詣りました。

4,5分で伝堀越御所跡に着きました。時代は室町時代で幕府の出先機関の鎌倉府では関東管領と鎌倉公方が対立し公方はここ堀越を御所としました。広々とした草原を眺めながら小路を行きました。

5,6分で北条氏邸跡の広々とした一角に着きました。後の小高い山が守山です。ここでもドラマの撮影をしたとの事です。

来た道を引き返し2時すこし前に政子の産湯井戸跡を覗きました。この一帯も北条氏館と云われています。

5分位で浄土真宗の光照寺に着きました。源頼朝の子の頼家にまつわる寺です。病気と政変で修禅寺に幽閉された頼家の様子を母の政子に知らせる為に造られた面が寺宝です。この病相の面が政子に届く前に頼家は没したので、この寺にとどめ置かれたと伝わっています。山門からお詣りして先に進みました。

2時15分に守山八幡に着きました。守山八幡は狩野川の流れが変り郷が分断されたので北条の鎮守として守山八幡宮、江間の鎮守としたのが豆塚神社です。

2時半頃に高野山真言宗の願成就院に着きました。北条時政が頼朝の奥州藤原氏討伐の成功により創建しました。入ってすぐ左手に時政の墓があります。大御堂には運慶の仏像五体があり700円払い拝見した人が沢山いました。チケット係は住職のフランス人で素敵な方でした。愛犬が大きな秋田犬という事も印象的でした。堀越御所から当地に逃れ自害した茶々丸の墓を見上げました。

曹洞宗信光寺は武田信光が頼家の菩提を弔う為に建立しました。参道の手前から拝見して次ぎへ進みました。

直ぐに曹洞宗真珠院がありました。八重姫は頼朝との恋が破綻し真珠ケ淵へ身投げをしました。八重姫御堂は折り鶴、梯子で飾られていて地元の人々に愛されているそうです。私たちはドラマの新垣結衣さんの美しい顔しか浮かんできません。石段を上がり手を合わせまました。急ぎ歩きで伊豆長岡駅に着かなければなりません。3時過ぎに真珠院を出て暑い中を駅まで歩きました。

南条の交差点を左に曲がるとすぐ駅でした。循環バスの「てつざえもん号」に乗り込み15分で江川邸に到着しました。ここでは門の前での説明でした。代官の立派な屋敷で、幕末の当主太郞左衛門英龍は長崎へ留学し高島秋帆の弟子になり西洋砲術を学びました。品川台場や韮山反射炉の築造をした人です。そしてこの江川邸内は明治維新後、韮山県庁が置かれたと知りました。

すこし歩くと臨済宗香山寺があり伊豆国目代(代官)である山木兼隆が造立した寺です。山木判官の屋敷はすぐ側にあったとの事です。アーチ型の門をくぐり坂を進むと門柱があり先に兼隆の供養塔がありました。

約30分位かけて4時40分に蛭が小島に着きました。永暦元年(1160)、伊豆に流された頼朝が34歳まで20年間過ごしたとされる場所です。政子と二人の像の先に富士山が見えていました。

こちらで休憩を取りバスはもう走っていませんので韮山駅まで歩きました。予定の電車より一つ遅くなりましたが伊豆箱根鉄道にて広小路へ急ぎました。5時36分のバスで八幡神社へ。バス停には鳥居があり、しばらく歩くと境内に頼朝と義経の対面石が本殿の横にありました。治承4年(1180)感激の対面があったのです。この石は江戸時代に八幡村を支配していた旗本の久世氏の陣屋にあったと云われています。

帰りのバスを待っている間に近所に住むご老人に声を掛けられよく訪ねてこられたと歓迎の言葉を頂戴しました。当日のみの方とお別れし6時30分頃にホテルにチエックインしました。数名の方は鰻の桜屋へ。それぞれに三島の鰻や金目鯛など楽しみ、盛りたくさんの行程と猛暑の疲れを癒やしました。

二日目に続きます。

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第二部 10回 雑司ヶ谷界隈を巡る(後編)

昼食の後、千川通りを北上し窪町東公園の交差点を渡り少し進むと簸川神社に着きました。もともと氷川と表記していたのですが出雲の簸川に由来するとの事から大正時代に、このむずかしい表記にしたそうです。

階段は上がらず、もとの千川通りに戻り猫狸橋(ネコマタバシ)の袖石を見ました。木の根っ子の股で橋をかけたので根子股橋とよばれました。私たちは講師のかかげる名所図会の絵を眺めました。

橋の表示の場所から右に折れ4~5分で智香寺に着きました。新選組隊士の田村銀之助の墓があり新しい墓石に「田村家の墓」とありました。12歳で入隊し近藤勇、土方歳三の小姓をし箱館戦争では総督府付きとなりました。西南戦争では陸軍士官として出征し大正13年に69歳で亡くなりました。

旧東京教育大学があった場所で教育の森公園を見ながら日蓮宗本伝寺へ入りました。山門の内側に逆さの擬宝珠がある珍しい立派な門でした。不動堂の綱を引きお詣りをしました。五尼痤髪碑は五人の尼の納髪を記念して天保15年に造立したものです。

すぐに緑豊かな通りになりました。護国寺が近づいてきました。新義真言宗豊山派別格本山護国寺は五代将軍綱吉の母である桂昌院の願いで天和元年(1681)に創建されました。桂昌院が天和3年に初めて参詣し、その後も綱吉と時々訪れました。又、江戸三十三観音の第十三番札所であり江戸庶民の信仰も厚かったとのことです。惣門の立派さに驚かされました。

富士道の石橋を渡りました。水盤は桂昌院が寄進したもので左右両方にありました。仁王門と本堂の間にある中門の不老門をくぐりました。門の扁額の「不老」の字は徳川16代当主の家達によるものです。一言地蔵、身代わり地蔵にお詣りしました。土曜日は骨董市が立って賑わっていました。

江戸時代は祈祷寺だったので墓はありませんでした。護持院の場所が明治に廃され皇族の墓になったので維新の政治家達が皇族の御側近くにと次々と墓が造られました。三条実美、山縣有朋、大隈重信らの大きな立派な墓を見て廻りました。音羽庚申塔の台座を支える猿が珍しい独特の石塔でした。また象牙組合建立の象の石碑もみました。本堂にお詣りし綱吉と桂昌院に思いを馳せました。火曜日は休みだった明治20年創業の甲月堂の和菓子を買い次ぎへと進みました。

不忍通りを渡り清土鬼子母神堂がありました。永禄4年(1561)に草刈りをしていた山村山村丹右衛門が鬼子母神像を発見し「星の井」とよばれる三角井で清め仏殿を安置しました。そして文化9年(1812)に造立された芭蕉句碑もありました。「此道に出て涼しさよ松の月」。

5分位で日蓮宗本淨寺へ。四天王像に踏みつけられている邪鬼を独立させ仏前を照らす役目を与えた珍しい像が門の両脇にあり注目しました。頭上と左手とに大きな灯籠を載せています。

雑司ヶ谷霊園に行く手前に旧宣教師邸に寄りました。土曜日は中を見てみたい人がいらして数名で内部を見せてもらいました。どの部屋もマントルピースがある板の間の部屋で窓も大きくピアノもありました。外ではバラが美しく咲いていました。

維新後、市民の埋葬地の不足やばらばらの埋葬法を統一する意味から墓地の建設が急がれました。さて7~8分で霊園に着きました。最初はジヨン万次郎(中浜万次郎)の墓です。14歳の時、出漁中に遭難しアメリカ捕鯨船に助けられ航海術を学び英語力と共に幕府に重用され明治31年に71歳で死亡しました。隣には画家の東郷青児の墓がありました。

次は夏目漱石のユニークな墓を見ました。大きな安楽椅子の形で肘掛けがあり、みちくさ先生はゆっくり腰掛けて休んでいるのでしようか

新緑の中での安楽椅子はとても気持ち良さそうで印象的でした。有名人の墓をもっと見たかったのですが時間が押してきているの先を急ぎました。江戸中期、鷹狩用の鷹の飼育と訓練に使われていた鷹鷹部屋があり約1万5千坪あったそうです。当時もあったであろう松の大木のそばにありました。

そして最後は講師がどうしても見てもらいたいと云う小栗上野介の墓です。幕末の幕臣で日米修好通商条約批准の為に渡米した人です。

日蓮宗清立院は安置されていた御嶽蔵王権現が雑司ヶ谷の鎮守でした。真言宗であった時、悪病が流行し権現の御利益で村民の病気を治した事から法華を勧請し日蓮宗になりました。私たちは前で説明を聞き、本日最後の訪問を終えました。

火曜日は夏日となり休憩入れたこともあり遅くなりました。近くの雑司ヶ谷駅から都電荒川線に乗り帰途につきました。

皆様大変お疲れ様でした。

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第二部 10回  雑司ヶ谷界隈を巡る(前編) 

令和4年5月10日(火)、14(土)の両日、合わせて30名のご参加で雑司ヶ谷界隈を巡りました。10日は夏日となりで熱中症に気をつけながら、14日(土)は少し細かな雨がのこっていましたが皆様元気に頑張り楽しむことができました。

都営三田線千石駅を10時過ぎにスタートし白山と千石の間の道路を南下しました。伊勢ヶ浜部屋のマンションを右手に見ながら進み左に折れると徳本の蔦文字の石柱が立っていました。

浄土宗一行院です。徳本上人は浄土宗捨世派の念仏行者で宝暦8年(1758)に紀州に生まれ、あの畠山重忠の末裔とのことです。文化14年(1817)増上寺大僧正の招きで江戸に下り浄土宗を説くと大名、旗本、町民が帰依しました。一行院に移り翌年に没し、ここに墓があります。門をくぐり拝見すると。その大きさに驚きました。麦などの粉一合が一日の食事で苦行と昼夜の念仏に明け暮れた上人の墓にしては大変立派でご本人はどう感じておられるのだろうと考えてしまいました。

浄土真宗寂円寺には京都見廻り組で坂本龍馬殺害の犯人とされる今井信郎(ノブオ)の墓があります。土曜日は門の前の説明だけとしました。

5~6分で日蓮宗、本念寺に着きました。こちらは大田南畝の墓があります。南畝の生まれは牛込御徒町で終焉の地が神田駿河台です(1749~1823)。17歳で幕府に出仕、19才で寝悦(ねぼけ)先生文集で流行作家に。そして狂歌号の蜀山人で活躍しました。辞世の句は「生き過ぎて七十五年くいつぶし限り知らぬ天地の恩」「今までは人のことと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん」墓石には「南畝 大田先生之墓」と記されてありました。

10分位歩くと本日のメインの一つ小石川植物園に到着しました。寛永15年(1638)、将軍家光の薬園が麻布と大塚に開かれ麻布に移った時期もありましたが正徳3年(1713)、小石川御殿跡の当地に移されたとの事です。中央あたりに小石川養生所の井戸が残っていて薬草の乾燥場跡も残っています。東京大学大学院理学系研究附属植物園が正式名称です。まず精子発見のソテツの木の前で朱色の実をみつけました。

新緑の中をどんどん進むと内田祥三設計の本館がありました。メンデルのブドウがあり、ニユートンのリンゴの木はニユートンの生家の木の接ぎ木というので、しみじみ眺めるとちいさな実がついていました。いろはもみじの並木を進むと薬草の乾燥場の石畳が一部そのまま残されていました。

精子発見の銀杏の木を見上げ、お手洗い休憩、水分補給をしたのち中央の旧養生所の井戸をみました。徳川吉宗と大岡忠相が享保の改革の一環として設置された目安箱に町医者小川笙船(赤ひげのモデル)が投書して養生所ができました。甘蔗試作跡のサツマイモに似た石の碑がありました。青木昆陽が享保20年(1735)、甘蔗の試作をここで研究し全国に広めることができたそうです。

ハンカチの木は花が終わったところで白い苞が下に落ちていました。途中ですべりやすい階段を降り日本庭園と奥の旧東京医学校の美しい建物を見ました。臨時休館中とのことでした。明治11年(1876)疑似洋風建築として建築し関東大震災にも耐えたということです。広々とした日本庭園は綱吉幼少期の居邸と蛭川能登守屋敷跡とに残された庭園です。火曜日は植物園で一時間散策し12時になってしまいました。

播磨坂を上り浄土宗宗慶寺の前に来ました。茶阿局は、駿河の人で家康の側室となり第六男忠輝の生母となりました。飛騨高山へ流謫中の松平忠輝を案じながら元和7年(1621)亡くなりました。「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」にちなんで寺は朝覚院宗慶寺と称することになったとのことです。門を入って左手の下った所に墓碑である宝篋印塔を見ました。

隣の敷地内の旧松平邸にあった極楽水とか極楽井と呼ばれた吉水を再現してあり通路を通りながら見て外へと出ました。

3~4分で石川啄木(1886~1911)終焉の地に着きました。明治44年8月から翌年の4月13日、亡くなるまでの約8ケ月間、家族と住み執筆しました。3月に母を亡くし翌月、友人の若山牧水と妻の節子に看取られました。26歳の若さでした。隣の敷地に小さな啄木顕彰室が造られていました。

神楽坂相馬屋製の原稿用紙に死の直前の二首が書かれてあり、表にある石碑で見ることができました。「呼吸すれば胸の中に鳴る音あり凩(コガラシ)よりもさびしきその音。」「眼閉じずれど心にうかぶ何もなし。さびしくもまた眼をあけるかな。」

元の広い通りに戻り昼食をとりました。50分間の休憩です。中華、インド料理、蕎麦屋の中で好きな店に入りました。大きなナンがふわふわとして美味でした。

後編に続きます。

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