第二部 10回 雑司ヶ谷界隈を巡る(後編)

昼食の後、千川通りを北上し窪町東公園の交差点を渡り少し進むと簸川神社に着きました。もともと氷川と表記していたのですが出雲の簸川に由来するとの事から大正時代に、このむずかしい表記にしたそうです。

階段は上がらず、もとの千川通りに戻り猫狸橋(ネコマタバシ)の袖石を見ました。木の根っ子の股で橋をかけたので根子股橋とよばれました。私たちは講師のかかげる名所図会の絵を眺めました。

橋の表示の場所から右に折れ4~5分で智香寺に着きました。新選組隊士の田村銀之助の墓があり新しい墓石に「田村家の墓」とありました。12歳で入隊し近藤勇、土方歳三の小姓をし箱館戦争では総督府付きとなりました。西南戦争では陸軍士官として出征し大正13年に69歳で亡くなりました。

旧東京教育大学があった場所で教育の森公園を見ながら日蓮宗本伝寺へ入りました。山門の内側に逆さの擬宝珠がある珍しい立派な門でした。不動堂の綱を引きお詣りをしました。五尼痤髪碑は五人の尼の納髪を記念して天保15年に造立したものです。

すぐに緑豊かな通りになりました。護国寺が近づいてきました。新義真言宗豊山派別格本山護国寺は五代将軍綱吉の母である桂昌院の願いで天和元年(1681)に創建されました。桂昌院が天和3年に初めて参詣し、その後も綱吉と時々訪れました。又、江戸三十三観音の第十三番札所であり江戸庶民の信仰も厚かったとのことです。惣門の立派さに驚かされました。

富士道の石橋を渡りました。水盤は桂昌院が寄進したもので左右両方にありました。仁王門と本堂の間にある中門の不老門をくぐりました。門の扁額の「不老」の字は徳川16代当主の家達によるものです。一言地蔵、身代わり地蔵にお詣りしました。土曜日は骨董市が立って賑わっていました。

江戸時代は祈祷寺だったので墓はありませんでした。護持院の場所が明治に廃され皇族の墓になったので維新の政治家達が皇族の御側近くにと次々と墓が造られました。三条実美、山縣有朋、大隈重信らの大きな立派な墓を見て廻りました。音羽庚申塔の台座を支える猿が珍しい独特の石塔でした。また象牙組合建立の象の石碑もみました。本堂にお詣りし綱吉と桂昌院に思いを馳せました。火曜日は休みだった明治20年創業の甲月堂の和菓子を買い次ぎへと進みました。

不忍通りを渡り清土鬼子母神堂がありました。永禄4年(1561)に草刈りをしていた山村山村丹右衛門が鬼子母神像を発見し「星の井」とよばれる三角井で清め仏殿を安置しました。そして文化9年(1812)に造立された芭蕉句碑もありました。「此道に出て涼しさよ松の月」。

5分位で日蓮宗本淨寺へ。四天王像に踏みつけられている邪鬼を独立させ仏前を照らす役目を与えた珍しい像が門の両脇にあり注目しました。頭上と左手とに大きな灯籠を載せています。

雑司ヶ谷霊園に行く手前に旧宣教師邸に寄りました。土曜日は中を見てみたい人がいらして数名で内部を見せてもらいました。どの部屋もマントルピースがある板の間の部屋で窓も大きくピアノもありました。外ではバラが美しく咲いていました。

維新後、市民の埋葬地の不足やばらばらの埋葬法を統一する意味から墓地の建設が急がれました。さて7~8分で霊園に着きました。最初はジヨン万次郎(中浜万次郎)の墓です。14歳の時、出漁中に遭難しアメリカ捕鯨船に助けられ航海術を学び英語力と共に幕府に重用され明治31年に71歳で死亡しました。隣には画家の東郷青児の墓がありました。

次は夏目漱石のユニークな墓を見ました。大きな安楽椅子の形で肘掛けがあり、みちくさ先生はゆっくり腰掛けて休んでいるのでしようか

新緑の中での安楽椅子はとても気持ち良さそうで印象的でした。有名人の墓をもっと見たかったのですが時間が押してきているの先を急ぎました。江戸中期、鷹狩用の鷹の飼育と訓練に使われていた鷹鷹部屋があり約1万5千坪あったそうです。当時もあったであろう松の大木のそばにありました。

そして最後は講師がどうしても見てもらいたいと云う小栗上野介の墓です。幕末の幕臣で日米修好通商条約批准の為に渡米した人です。

日蓮宗清立院は安置されていた御嶽蔵王権現が雑司ヶ谷の鎮守でした。真言宗であった時、悪病が流行し権現の御利益で村民の病気を治した事から法華を勧請し日蓮宗になりました。私たちは前で説明を聞き、本日最後の訪問を終えました。

火曜日は夏日となり休憩入れたこともあり遅くなりました。近くの雑司ヶ谷駅から都電荒川線に乗り帰途につきました。

皆様大変お疲れ様でした。

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