第二部 第二回 江戸城内堀を巡る (後編2)

歩きはじめた所に梨木坂が有り、井伊家の裏門あたりだったとありました。お濠の内側の柳の井を見ました。永田町一丁目一番地の標記のある国会前の静かな公園へと入っていきました。

 

 

 

桜の井戸は井伊家(加藤清正の屋敷だった)前にあり、清正が掘ったと伝えられています。

ハナミズキの紅葉の中を進みました。少し高くなった所に日本水準原点標庫がありました。日本全国の統一された標高決定の為に基準を保護する為に明治24年(1891)、ローマ風神殿建築に倣い石造りで建てられたものです。時計塔を過ぎると井伊家のものだという石灯籠がちらりと見えました。

国会議事堂の前を横切り今度は和風庭園の中に入っていきました。

公園を出ると霞が関中央官庁の案内図がありました。まさにここは日本国の中枢なのです。霞が関旧跡とは中世にこちらに関所があったと云う事です。

3、4分で目を見張る建物が現れました。旧法務省本館の美しい煉瓦造りの洋館にうっとりです。明治に東京を近代的景観都市にするという官庁集中計画の一環として建てられた当時の司法省です。ドイツ・ネオバロック様式との事です。その植え込みの中に米沢藩屋敷跡の家紋がありました。笹に雀で二羽が阿吽の口をしているではありませんか。

警視庁が見え桜田門が見えてきました。どんどん進み、国の重要文化財で正式には外桜田門といいます。大手門と併せて大名登城の表玄関でした。講師が語る桜田門外の変の話を聞きました。大老が急ぐと何か異変ではないかと思われるのでキザミ足という歩き方で小さく進んだ事から攻撃しやすかったとの事です。

櫓門を潜ると皇居前広場です。黒松と芝生の広い広場を行くと左手に二重橋がありました。前回の二の丸公園にあった物のレプリカのランプがしっかりと見えています。石橋と奥の鉄橋が二重橋との事です。外国人の方も日本人に入り混じって写真スポットのようです。

今は入れない坂下門が見えます。その横には江戸城の一番の絶景がありしばし味わいました。濠と奥に富士見櫓があり右手の丑三つ櫓と蛤濠が見えます。後に一つもビルがないのですから昔の人が見てた風景そのものです。

現在の上皇陛下のご成婚記念の公園は水の上の橋や噴水が多くあります。

すぐに和田倉門跡があり、和田はわだつみの「わだ」で海の傍の倉という事です。西の丸から大名小路曲輪へ送水した上水道の石桝がありました。お濠には大きな白鳥がいて近づいてきました。大きなビルを見ながら広場を進むと楠木正成像がありました。丁度。皇居前広場の道を隔てた公園の中央辺りに、木曜日は青空に映えて高く凛々しくそびえていました。こちらも外国人の写真スポットの場となっています。

 

この茶色いビル辺りが林大学学頭宅跡で、隣が安藤広重生誕の地です。

 

馬場先門の交差点の近くにGHQの本部跡のビルがそびえる様にありました。

いよいよ、日比谷公園です。土曜日の方は順序を変更いたしました。地図を見て入るとまずレトロな人と馬の水飲み場がありました。アメリカ合衆国の民間匿名有志から昭和27年に日本新聞協会に寄贈された平和の鐘、昭和16年にイタリアか東京都に寄贈されたローマ牝狼(ルーノロマーナ)の像も見ました。その後、日比谷見附跡と伊達政宗終焉の地に感慨深く見ました。

古代スカンジナビア碑銘譯はバイキング文字でかなり面白く眺めました。

 

しかし長くは見られず次へと進みました。南極の石は無造作に通りにはみ出して置かれてあり、ヤップ島の石貨はあまりにも大きく、真ん中にまるい穴があるから貨幣だと云われても俄には信じ難いものがありました。公園の端まで移動し烏帽子石の下の不(水準点)を確かめ日比谷公会堂を見上げました。昭和35年、日本社会党の浅沼稲次郎が暗殺された所です。

石路の花が咲いている奥に松本楼がありました。こちらには本多静六博士の首掛け銀杏が色付いていました。松本楼の店主が孫文を助けたという話を聞きました。孫文夫人の弾いたピアノがレストランの通路に今も置かれています。少し進むと京橋の欄干がありました。

奥の門を出ると大岡家上屋敷跡がありました。大岡忠相は75歳で宝暦元年(1751)、この上屋敷で亡くなりました。旗本で大名までになったのは忠相だけだそうです。傍に弁護士会館のビルがあり今の世も法曹界に関わるビルがある事に感じいりました。

今回は4時から4時半に終わり、お約束の3時半を大きくオーバしてしまいました。皆様大変お疲れ様でした。

 

空澄むや何を見つめる特攻像     豊治

 

母像の涙跡濃し神の留守

汽車寒しクワイ河マーチ耳奥に    慶月

 

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