第二部14回 四谷・新宿界隈を巡る(前編・午前の部)

12月13日(火)、17日(土)、半蔵門駅に10時前に集合しました。13日は小雨の中の出発でした。

半蔵門の名は服部半蔵の屋敷があったからという事は誰もが知っているところです。駅から少し南下し5分位で最初の訪問地の平河天満宮に着きました。祭神は菅原道真が主神で八幡宮と東照宮(家康)が相殿の神とのことです。徳川秀忠が慶長11年(1606)に江戸城拡張の折、現在地に移したとのことです。銅鳥居の穴は大東亜戦争の米軍機機銃掃射の跡です。

6~7分進みました。麹町3丁目と4丁目にさしかかると貝坂です。ビルの壁面の黒い石板に大観堂学塾跡と彫られてありました。

高野長英は叔父の玄斎(医者)の養子になりました。江戸で蘭学を学び長崎でシーボルトの鳴滝塾で医学と蘭学を学びました。文政3年(1820)から天保元年(1830)に麹町貝坂に大観堂学塾を開いたのでした。天保10年(1839)の蛮社の獄で小伝馬町の牢獄に入れられますが牢屋敷火災で逃亡し嘉永3年((1850)に見つかり果てたとの事です。

享保元年(1716)創業の「いづみや」という酒屋の前を通り過ぎると道路の向こう側には上智大学の高いビルが建っていました。

11時半過ぎに浄土宗、宝蔵心法寺に入りました。推古天皇の頃、三河国に秦法寺として創建されました。

慶長2年(1597)に千代田区内に移り家斉の側室である阿美の方の帰依から勢力を持ったとの事です。明暦の大火で城内にあった寺社は外堀外に移転されましたが心法寺は残されました。現在もその大きさを感じながら拝見しました。門を入り塩地蔵の頭には尖った塩が盛られていました。開山当寺の三河の秦宝寺から本尊と一緒に来たという梵鐘を眺めました。冬紅葉が最後の美しさを見せてくれそのあでやかさに目を奪われました。庚申塔の青面金剛は宝暦2年(1752)のものですが、きれいな状態の姿をみることができました。又、稲垣氏寄進の大淨水盤のその大きさから目を引きました。

四谷駅を通り四谷見附跡の説明板で城門を警備する事から「見付ける」とか「監察する」ことから由来した言葉です。

外堀公園を通り過ぎ11時半頃に新宿歴史博物館に入りました。入館料は300円です。15分間で急ぎ階段を降り常設展示を見て廻りました。江戸市中や内藤新宿模型など見応えがありました。入口付近には四ッ谷見付け橋高欄は大正2年(1913)10月に開通した四ッ谷見付け橋の欄干の美しい造りを観ました。15分~20分の見学の後、2~3分で津の守坂にさしかかりました。

植木屋が多く新しい植木を運び「新木坂」の名が生まれ荒木と記されていて現在の荒木町の名が残っています。その西側に松平摂津守の上屋敷があったので「津の守坂」と呼ばれました。

路地を下り5分~6分進むと金丸稲荷神社に着きました。高須藩松平家(岐阜県3万石)上屋敷に在った神社で天和3年(1683)の創建です。高須藩は尾張徳川家の親戚で高い地位にあり十代藩主の松平義建には子供が多く尾張藩主、高須藩主、会津藩主、桑名藩主を輩出し高須四兄弟と呼ばれました。会津の松平容保はここで生まれたのです。ナツメの木が隅にありました。この木は日露戦争の旅順攻略でロシア将軍ステッセルと乃木希典が会見した水師営の民家にあった所のナツメの木です。実が下に落ちていて拾った人がいました。

どんどん下に降りていきました。津の守弁財天があり下の池が笞(ムチ)の池といいます。家康が鷹狩りの時に乗馬用の笞を洗ったことから名付けられました。そしてこの池は高須藩松平家上屋敷の庭園の地だったのです。明治時代には景勝地として花街があったとのことです。

柳新町通りを行き四谷三丁目駅近くで本日のお昼となりました。ここで50分の休憩をとりました。

午後の部に続きます。

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