江戸名所 第十一回  入谷。谷中界隈を巡る(後編)

13時少し前から午後のスタートです。

江戸時代末期に御徒町では下級武士の間で朝顔を育てる事が流行したとの事です。入谷朝顔発祥の地碑を通り日蓮宗真源寺へと進みました。

入谷鬼子母神は祖師谷とともに有名です。「恐れ入谷の鬼子母神」は誰でも知っている言葉ですね。筆者は昨年7月の朝顔市でこちらのお寺の境内で一鉢買いました。あの時のにぎわいが嘘のように静かでゆっくりお詣りすることができました。

5,6分で小野照崎神社に着きました。平安時代の漢学者、歌人の小野篁が上野山国司として上野山忍岡の風光を賞していたと伝わっています。852年に篁の霊を忍岡に奉祀しましたが江戸時代に寛永寺が創建され、現在の地に祀られているとの事です。

天明2年(1782)富士山の岩石を運び造ったという富士塚を見ましたが、現在のものは文政11年(1828)に修復されたという事です。高さ5メートル、直径16メートルとなかなか見応えがありました。古い庚申塔もたくさんあり近くの物を集めたという事です。

13時30分頃、御行の松不動尊に着きました。輪王寺宮が上野山内の巡拝の際にこの松の下に来て必ず休まれたので御行の松の名が付きました。こちらの松は三代目という事です。側に子規の句碑がありました。「薄緑のお行の松は霞みけり」。

狸塚にはお若と伊之助の恋を両親が離しお若をこの辺りに住まわせました。お若は悲しみそれを見た大狸が伊之助に化けて再会しましたが、それを知った両親が人に頼んで殺しました。その後にお若は狸の双子を産んだが死んだという落語の話です。細い路地を入ると陸奥宗光の別邸がありました。

根岸一丁目の通りを歩いていると向かい側のビルに笹の雪とありました。元禄年間に上野の宮様のお供をして初代玉屋忠兵衛が京都から下向し絹ごし豆腐を作りました。創業320年で赤穂浪士や正岡子規ゆかりのお店です。

根岸田圃の道筋にあった庚申塔が集められていました。陸橋を渡りホテル街の中を進むと古い木の門の子規庵がありました。今日はゆっくり見る事ができませんでしたが、筆者が何度か訪れた時には子規が使った机が庭に向かって置かれていました。庭にはもちろん糸瓜の棚があり鶏頭やホトギスの草花が咲いていました。母と妹と三人で暮らしで門人たちが集まって句会を開き、多くの俳人を育て35歳の若さで亡くなるまで8年間住みました。

向かいには書道博物館がありました。2,3分で林屋一門の三平堂が三階建てでありました。

根岸薬師堂は輪王寺宮の隠居所で敷地が3000坪もあったそうです。

善性寺には将軍橋跡がありました。将軍の徳川家宣がこの寺に隠遁した弟をしばしば訪ねたので門前の橋を将軍橋と呼んだそうです。

角に見えているのは羽二重団子の藤の木茶屋です。現在は改装中という事で5分位の支店に向かいました。

日暮里の駅前に太田道灌の騎馬像があり、その後ろに山吹の一枝を差し出す娘の像もありました。ロータリーの角に藤の木茶屋で一緒に羽二重団子を買い求めた人が何人かいらっしゃいました。お店の内が空いていたらその場で味わうこともできましたが、土曜日は混んでいて持ち帰ることにしました。

14時45分、日暮里駅を後にして天台宗天王寺へと入りました。日蓮の弟子の日源が開山、不綬不施問題で天台宗に改宗されました。本堂は奈良の十輪寺を模したとの事です。

谷中霊園に入っていきました。五重塔跡がありました。まず立派なお墓に美しい供花を供えているのは長谷川一夫さんの墓です。水子の墓もありました。

甲14号右と左の両側に桜の古木があります。一旦、霊園を出て日蓮宗の本行寺に15時頃に寄りました。道灌物見塚は江戸城の防衛の為に築き、日夜見張りを置き監視させた丘です。永井尚志の墓は、旗本の養子になり幕府海軍の功労者が、鳥羽伏見の戦い、函館の戦いで敗れますが後に元老院に勤め76歳で死亡しました。一茶の句碑もありましたが、山頭火らしい句碑にちょっと心引かれました。

日蓮宗経王寺の門を潜りました。彰義隊の分隊が駐屯した寺です。そしてこちらの門にも銃弾の跡が残っていました。私たちは今回も又、上野戦争の激しさを思うのでした。

2,3分歩き真言宗豊山派の養福寺に入りました。江戸時代、多くの文人たちが「日暮里」を訪れました。こちらの養福寺でもさまざまな文人達の碑が残されています。

諏方神社前に別当寺の真言宗の浄光寺があります。こちらは雪見寺と言われていました。地蔵菩薩座像を拝見しました。庚申塔は手が八本ある珍しい物でそれぞれの持ち物を見て楽しみました。

15時半頃に諏訪神社を参拝し、とても立派な狛犬を見ました。鎌倉時代末期に、この地の豪族豊島氏が上諏訪神社を勧請したものです。

又、2~3分進むと道灌山は太田道灌の砦跡とも出城ともいわれ、草々の虫の音を人々は集まり秋風の夕暮れを楽しんでいたとの事です。何と風流ではありませんか。

16時少し前に富士見坂に出ました。こちらからはさぞかし美しい富士が見えたのでしょう。今もお天気がいいときはビルの間から富士山が見えるそうです。下り坂の先に谷中銀座のにぎやかな通りが見えています。これが有名な「夕焼け段々」ですと講師が言いますがじっくりと風景を味わう時間はありませんでした。

朝倉彫塑館のある細い通りを進みました。すぐに観音寺に着きました。大きな赤穂浪士供養塔があり、こちらは赤穂浪士所縁の寺だったのです。どっしりとした風情が美しい築地塀が長く続いていました。

16時過ぎに荼枳尼天を祀る笠森稲荷がありました。新しい社ですが狛狐は古いものでした。できもの(カサブタ)を治す稲荷です。

どんどん先へ進み左手に曲がると又、谷中霊園の墓地に入りました。高橋お伝の碑がとても大きく可愛い供花もありました。川上音二郎の円柱の碑も大きくて驚きました。大河ドラマの貞奴さんを思い出しました。

徳川慶喜の墓の矢印が見えましたが、その前にニコライ大主教の立派な墓があり花に囲まれていました。ニコライ堂に行った時に聞いた日本の苦難の際にロシアに帰り資金を集めて戻ってきたカザートン・ニコライ司教の事を思い出しました。

16時20分、いよいよ慶喜のお墓に着きました。左側が慶喜、右側が正室の美賀子の神式のお墓が並んでいます。慶喜は仏式でなく神式の葬儀を生前から望んでいました。又、近くにある同じ形の墓は、十男で勝家の婿となった勝精のもので目立っていました。

16時半過ぎに新義真言宗の西光寺に入りました。足病平癒を祈願する韋駄天像の石仏を見ました。

次に日蓮宗端輪寺の門を潜りました。こちらは大久保主水(神田上水を完成させた)の墓です。負傷したのちは神田に屋敷を構え菓子屋を開業しました。大岡越前守家の墓所もありました。吉宗が将軍になると享保2年(1717)に大岡忠相は江戸町奉行になり越前守の称を受けました。

臨済宗の全生庵へと進みました。金色の観音様が高くそびえています。こちらは山岡鉄舟の墓があります。勝海舟は知謀で江戸を幕末の混乱から救い、鉄舟は豪放さと勤皇の心で江戸を救ったといわれます。

又、三遊亭円朝の墓は鉄舟に可愛がられたとの事で文字は鉄舟が生前揮毫したものという事です。全生庵を後にした時はすでに17時を過ぎていました。

本日、最後に訪れたのは日蓮宗大円寺でした。唐破風が二つある本堂がとても珍しく美しく感じました。大円寺には笠森と音が同じ瘡森稲荷が祀れています。皮膚の病の願をかける時は土の団子をそなえお礼として米の団子を供えるという事です。笠森お仙の碑があるそうです。

17時過ぎ、急ぎ千駄木駅に向かいました。街の灯が目立ち始めていました。皆様、本日も大変盛り沢山の一日でお疲れさまでした。

 

春空や名のみとなりし富士見坂  豊治

弾痕は乳鋲の下に春の寺     慶月

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