江戸名所巡り 第十二回  白鬚・橋場界隈を巡る 前編

平成31年3月12日(火)14日(木)16日(土)の三日間、春の隅田川沿いを歩きスカイツリーが遠くに近くに見え隠れしていました。

 

10時に東武スカイツリーライン鐘ケ淵駅を出発しました。すぐ前の踏切がある通りは旧東海道(鎌倉街道下道)ですよと講師の説明がありました。

2~3分で着いたのが通称赤門寺と呼ばれている曹洞宗円徳寺で慶長18年(1613)の開山です。こちらでは、大変珍しい台座に三猿がある庚申阿弥陀立像を見ました。

陽光の中を歩いていると「しあわせだなあ」と加山雄三の言葉をおっしゃる男性がいらっしゃいました。この気持ちのよい春の日に好きな事ができている喜びを改めて感じながら歩きを進めました。昭和の古い木造の家が残っています。ここは近くに鐘ケ淵紡績の工場があったので、大東亜戦争の空襲で焼夷弾でなく普通の爆弾で攻撃をうけたとの事でポツリポツリと古い家屋が残っていました。

10時半ちかくに真言宗多聞寺の前で広重の絵を見て、隅田川が直角に曲がりそこに綾瀬川が流れ込んで淵を造っているので曲尺の形から「かねが淵」と呼ばれる難所だったと知りました。また運んでいた鐘が落ちたことから鐘ケ淵と呼ばれるようになった由来を聞きました。

多聞寺は平安中期の創建というのには驚きました。当初は隅田寺(グウデンジ)と称して本尊は不動明王でしたが天正18年(1590)にこの地に移り弘法大師作の毘沙門天(多聞天)を勧請して多聞寺にしたという歴史がありました。山門が切り妻造の四脚門で現在では珍しい茅葺き屋根となっています。享保3年(1718)建立と知りしみじみと見入りました。

榎本武揚の書である隅田川七福神碑の大きな石碑や六地蔵座像を見て本堂にお参りしました。

そしてここにも狸塚がありました。この寺に住み着いた狸が村人や旅人にいたずらをするので和尚が毘沙門天に祈ると翌日に大狸が死んでいたのでした。狸塚を建て霊を慰めたという事です。

東京大空襲で被災した浅草国際劇場の歪んだ鉄骨の側を通り多聞寺を後にしました。

もと来た道をしばらく歩くと旧鎌倉街道で旧東海道でもあった道を見て進みました。10時50分過ぎに真言宗智山派正福寺に入りました。慶長7年(1602)の開基で本尊は阿弥陀如来です。

又、都内最古の宝治2年(1248)の板碑に見入りました。大師堂や庚申講が寄進した三猿が彫られた手水盤もありました。首塚地蔵は天保4年(1830)、橋場付近の工事で発掘された多くの頭蓋骨の供養の為に建立されました。首から上の病に効験があるとの事です。

 

11時頃、都営白鬚アパートの前を通りました。隅田川神社参道跡の石碑がありました。

大きく長く連なっている都営アパートの前に建っているのは榎本武揚の銅像でした。天保7年(1836)下谷三味線堀に生まれ、天性の聡明さで昌平坂学問所で儒学を学び、その後オランダ語・英語を学び洋式海軍技術、蒸気機関製造等を習得し化学まで学んだとの事です。文久2年(1862)にオランダに留学し海軍技術や国際法規なども学び帰国後軍艦奉行や海軍副総裁など幕府海軍の核となりました。五稜郭の戦いで敗れ降伏するが明治政府にその人物を必要とされて、罪を許され海軍中将・逓信大臣・農商務大臣・文部大臣・外務大臣等々を歴任しました。

すぐ側に梅若塚がありました。伝承の謡曲「隅田川」として有名です。梅若は2歳で父を失い7歳で比叡山にて修行します。比叡山の争乱で逆けたところ人買にだまされ東国に連れてこられる途中で病となり12歳で亡くなります。里人が供養をしている所に梅若を探していた母が通り合わせ悲観の末、草堂を建て供養したのが木母寺の始まりという事です。家康は梅若山という山号と20石を与え保護したとの事です。

アパートの通路を通り反対側に出ました。災害時に10万人分の水と食糧と毛布が備蓄されているというこの大都営アパートの全体を見ました。屋上のタンクもとても大きくて防火用の赤い放水銃が目立っていました。公園の中にあるお手洗いも立派で災害時仕様という事です。

 

花壇を過ぎると天台宗木母寺にいりました。木母寺の由来は梅の字を分解して木と母の二つにしたものですと講師が言うと、おー!!と皆さんの声がしました。木母寺と梅若塚は元隅田河堤通り(榎本武揚銅像付近)にありましたが防災計画でこちらに移転したとの事です。人々の悩みや苦しみの身代わりになってくださるという身代わり地蔵尊にお参りしました。

梅若堂の中の美しい人形を見ながら「たずね来て問わばこたえよ都鳥すみだ川原の露と消えぬと」辞世の歌を思い石碑を見て回りました。

天下の糸平の碑がひときわ大きく建てられていました。藤島平八は信濃駒ヶ根の資産家に生まれましたが家は天保5年(1834)米相場に失敗し没落しました。平八は魚屋に奉公し独立その後、江戸に出て斉藤弥九郎の練兵館の門下生となり水戸天狗党に参加し投獄されました。慶応元年に商店を開業し為替・米相場等で巨利を得るも持船が座礁して財産を失いますが立ち直り、明治に入り横浜金穀相場会所頭取、東京株式取引所・東京米商会所設立など大実業家となりました。石碑は伊藤博文の揮毫です。

又、へび観音といわれている蛇の身体に顔が観音の像を見て蛇(青大将)が人々の暮らしの中で助けになっている話を聞きました。

先にも触れましたがこちらの隅田公園は災害の際の避難場所となっています。大きな七番の纏のモニユメントが建てられていました。

首都高の直ぐ下辺りに隅田川神社がありました。元は隅田川総鎮守で水神社と呼ばれていました。昔ここから入江が始まり海となっていたので「江の口」と言われ江戸の名前の元になった場所です。亀の狛犬とされていますがよく見ると耳があり贔屓に見えました。源頼朝が下総から武蔵国に渡る為に川に舟橋を架けた時に大きな亀が現れた奇瑞と喜んだという伝説によるものです。

フエンスの中の立て看板に「近代映画スタジオ発祥の地」がありました。日活のスタジオが明治44年に建設されたそうです。

10分ぐらい歩くと昼食を取るビルに着きました。フアミレスやインド料理等が入っていました。50分の休憩を取りました。

後編に続きます

 

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