江戸名所 第十一回  入谷・谷中界隈を巡る(前)

2月火12日(火)、14日(木)、16日(土)4名の新会員が加わり、今回も寒さに負けず元気に楽しむ事ができました。

10時つくばエクスプレス浅草駅を出発しました。

5分位歩くと時宗の日輪寺に着きました。時宗檀林神田山日輪寺とありました。平将門の首塚の祟りを弔う為に建立した板碑は正和2年(1313)のものです。

すぐ横に虚子の弟子で時宗僧の河野静雲の句碑がありました。「あとやさき百寿も露のいのちかな」

10時15分頃、梅の下を通り浄土宗天獄院に着きました。銅造阿弥陀如来座像は129センチと大きく延宝8年(1680)の造立のものです。

又、江戸中期の儒学者細井平洲の墓を見ました。平洲は農家の次男で尾張国出身ですが江戸で私塾「嚶鳴館」を開きました。米沢藩主の上杉鷹山に招かれ教学や藩政改革を指揮したとの事です。後に尾張藩にも招かれ藩校明倫館の総裁となり民衆強化に努めたとの事です。

西浅草八幡神社の赤い柱が見えました。その側から東本願寺の大屋根が見え講師は北斉の富嶽三十六景の一枚を掲げて説明しました。屋根を修理している職人の動きまで描き込んでいる北斉ならではの構図の面白さにもみんなで驚嘆しました。

東本願寺に入る前に私たちは浄土宗清光寺の長谷川一夫の碑と岡崎勘六(書道勘亭流)を見て田沼家の立派な石に刻まれた名は三木のり平の本名(田沼則子)と知りました。

10時40分頃、東本願寺へと入っていき、土曜日は婚礼のお似合いのカップルを見る事ができました。

笠を被った親鸞聖人像と反対側に青銅の蓮如上人像がありました。銅鐘は寛永7年(1630)のものといいますから古いものですが高い塔の中でどうにも拝見する事は無理でした。

憲政碑というのは明治9年(1876)の地方長官会議(知事会議)の開催場所となり木戸孝允や勝海舟などが出席したそうです。

又ここ東本願寺は朝鮮通信使の宿泊所だったそうです。

商店街をちらりと見て、正定寺には玉川上水を作った玉川兄弟の墓があるそうですが前を通過して浄土宗源空寺に入りました。家康から寺領を与えられ徳川三代の菩提を弔う為に鋳造された銅鐘もあります。

墓地に入らせていただきました。東河伊能先生墓はあの伊能忠敬の墓です。師の隣(高橋至時)で眠っているとは心打たれる話ではありませんか。東岡高橋君とは至時の号が東岡で、幕府の天文方となり伊能忠敬に測量術を教えました。横に息子の景保の墓もありますがシーボルトに日本地図や将軍から賜った時服を渡した事で獄死したとの事です。幡随院長兵衛夫妻の墓もあり、このような型はとても珍しいとの事です。江戸時代に起こった光と影のような複雑な思いを胸に墓地を後にしました。

5~6分で通称かっぱ寺といわれる曹洞宗曹源寺に着きました。江戸時代の後期である文化年間(1804~18)に雨合羽商人の合羽屋喜八(川太郎)が水害から住民を救う為に私財を投じて新堀川の治水工事をおこないました。これに義を感じた大川の河童が工事を助け、この河童を見た者は運が開けると伝えられていました。川太郎は河童と共に福の神として祀れていました。

11時35分に臨済宗海禅寺へと入っていきました。尊皇攘夷論を唱え在京志士を指導したとして安政の大獄で捕らえられ獄中死した梅田雲浜の墓、おなじく安政の大獄で捕らえられ獄死した藤井尚弼の墓も並ぶようにありました。大きな亀趺は亀に似ていますが宋代の龍の九つの子供の一人で贔屓(ヒイキ)という名前です。重きを負う事を好んだといいます。又、ここでも金色の河童川太郎像を笑いながら眺めました。私たちは運が開ける河童を見たのですからきっと良いことがあるはずです。

11時45分から15分間、かっぱ橋道具街を自由に歩きました。ゆっくり見られたらどんなに楽しかったことでしようか。金物を手に入れたかったのですが店先の茶筅をひとつ記念に買い集合場所に急ぎました。入谷駅の近くで50分の昼食タイムを取りました。

後編に続きます。

 

 

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