鎌倉街道上道 第十九回  飯田から深沢

7月10日(火)、14日(土)前回、解散した相鉄いずみ野線ゆめが丘駅を10時に出発しました。

 

関東地方はいつもより早い梅雨が明けて夏空の青と白雲が印象的でした。夏草の原っぱを抜けようとしていた時、お坊様二人の姿や何人もの人が集まっていました。石像物を移動させるとの事でした。昔の石像仏が集められ新しい道や街が造られていくのでしようか。

 

前回、歩いた鎌倉街道を正面に見て左に曲がりました。それから3分位で左馬神社に着きました。石塔を見て鳥居をくぐり前回も左馬神社はありましたが、この辺りに集中してあり全国に11社しかないとの事です。

 

5分の滞在でしたが静けさの中で領主飯田五郎家義が勧請したとも言われていて、1590年には領主筧為春が社殿を修復したという境内を歩きました。いずみ野線、横浜地下鉄の高架を潜り進みます。

10時20分頃、富士塚公園に入りました。飯田五郎家義の館跡です。木陰で源頼朝に従った相模の武士団の話を聞きました。

次の琴平神社に行くまでに双体道祖神がありました。鳥居までも段々があり社殿までも叉、階段がありました。神紋は天狗羽団扇です。

観音様を両脇の天狗が守っている石像があるのは曹洞宗巨木山東泉寺です。飯田家義の墓が建てられていました。

下飯田の交差点名を通りました。所々に地元の無人野菜売り場があります。ミニトマトを購入した方が何人もいらっしゃいました。

水田の中を通る時の風が心地よく、おたまじゃくしを沢山見る事ができました。蓮田もありました。

11時過ぎ、台座にいくつもの庚申塔が埋め込まれている二階建て庚申塔を見ました。10分位歩きました。森の向こうに変わった高層ビルが見えています。どなたかがドリームランドのあとの建物だと教えてくれました。

俣野神社に入りました。平氏方の大庭景親の弟で俣野五郎景久がこの辺りにいたとの事です。鳥居を進むと夏祭りの準備中でした。

俣野五郎景久の守護仏の十面観音が納められている観音堂の前に立ちました。交差点名も真にその通りのものでした。庚申塔も沢山集められていました。

12時頃、うだ川橋を渡りました。暑いけれども水田からの風を感じながら進みました。右手の草むらに雉が歩いていました。旧鎌倉街道の道筋の説明板が建っていました。

曹洞宗龍長院に着きました。林の中の庚申塔や、不動明王の姿をしたものがあり珍しく感じました。

近くに八坂神社があり祇園守の紋を見ました。叉、見ごたえのある石造物群がありました。道路拡張の為に鳥居だけが残されていましたが、その側に鎌倉街道西道の説明板がありました。

しばらくの間、25分位でしようか頑張って歩き東海道の歩道橋を昇りました。藤沢バイパス出口とあります。

歩道橋を降りると待望のお昼の場所に着きました。そば処しら石さんです。冷やしそば茶が美味でおかわりをしながら注文した物を待ちました。出しが薄味で盛がたっぷりでした。

50分間位の休憩の後、午後のスタートです。鉄砲宿の地名がありました。私達は講師の話す物語に耳をかたむけました。大鋸引の森家に飼われていた「おはん」という蛇の悲話と、「おはん」を撃った鉄砲の名人が泊まった小屋があった所が鉄砲宿と呼ばれたとの事です。

14時半頃、柄沢神社の庚申塔を見ながら鳥居を潜りました。建久4年(1194)に頼朝が入間川で狩りをした時に寄ったとの記述がある所です。境内には鐘楼もありました。

社殿の彫刻が立派でもっとしっかり拝見したいと思いましたが先を急がなければなりません。

10分位歩くと曹洞宗無量山慈眼寺に着きました。玉縄城主北条綱茂が開基で寺紋は三鱗です。平氏満という飯盛旅籠屋の小松屋の隠居の小さな墓がありました。

こちらで目を見張ったのは大きな寄木があり樹齢が300年ということです。モチの樹、タブの樹、スダジイの樹の根本が融合していました。叉、本堂脇には欅と桜の寄木もあり私たちは鑑賞しながら木陰の涼しさを味わいました。山門の龍の浮彫も立派でした。

本堂の右手にある梵鐘は上州藤岡の住人が「現世安穏、後世善処」の梵鐘を江島寺に寄進し、その後、慈眼寺に寄進されたとの事です。現世も後世もこうありたいものです。最後にもう一度、山門の龍をしっかり見て後にしました。

20分位後に日枝神社の階段を昇る元気が出ずに、代表の方がお詣りをしてくださいました。下に集められている道祖神や庚申塔を拝見して先に進みました。

15時半頃、浄土宗戒法山二伝寺に入りました。1505年鎌倉玉縄北条氏により創建され寺紋は三鱗です。叉、戦国時代から江戸初期にかけての高僧の幡随院白道の墓もありました。

六地蔵も拝見して坂道を通り少し階段を上がると平良文、少し離れて忠通また少し離れて忠光の墓がありました。三つ塚と呼ばれている父子の墓です。

 

15分位進むと村岡城址公園に着きました。平良文以下、忠光、忠道、景成、是政五代の村岡氏居城跡です。

良文は921年に醍醐天皇より鎮守府将軍に任ぜられ相模国の国司を兼任しました。忠通の子の是通の子孫が三浦、鎌倉、大庭、梶原、俣野、長尾の鎌倉党の各氏の祖になったとの事です。将来の栄枯盛衰が待っているのですね。現在は子供たちの公園となり脇に忠魂碑が建っていました。

村岡東という地名を東方へと、どんどん歩きました。左手に武田製薬の大きな工場がありました。20分位歩き地下道を通り抜けました。JR東海道本線を横断したのです。まっすぐ鎌倉街道を歩きました。

16時半頃、町屋橋を渡りました。真言宗泉光院に入りました。こちらは江戸時代に入ってからの開山で傾いた萱の樹が珍しく、徳本名号塔も見て説明を聞きました。本堂を拝むときに大きくさがった数珠を引くとかたかたと音がして、一回りさせるとの事でした。

16時45分頃まで、頑張って歩きました。いつの間にか鎌倉市に入っていました。上町屋天満宮に着きました。938~47年に平良文の霊場に天神を祀ったのが始まりで上町屋の鎮守です。「南無仙元大菩薩」や「食行身禄供」の富士講の石碑がありました。小さな本殿にお参りし次へと進みました。

17時近くにおしろい花が咲いています。私たちは行程の長さに疲れていましたが本日最後の場所へと歩きました。

広々とした空地の奥へと進みました。洲崎の戦いで戦死した者の供養塔がとても分かりにくい右手の岩山の奥にありました。一時、青蓮寺に移すと住職の枕許で元に戻してほしいと泣いたといいます。元に戻し、以降は「泣塔」と呼ばれました。洲崎の戦いは一夜の内に65回も斬り合いがあったと太平記に記されています。悲しい物語を聞くと共に見えにくい供養塔を眺めました。

17時少し過ぎてしまいました。モノレールの駅が奥に見えてきました。

湘南モノレール深沢駅から上り下りに別れて乗り帰宅の途につきました。

皆様、大変お疲れさまでした。これからの夏休みをどうかお元気にお過ごしください。次回で鎌倉街道上道がいよいよ終了致します。一抹の寂しさを感じますが、鎌倉を目指して九月に元気よくお会いしましょう。

 

 

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