第十二回 入間川から所沢

11月7日(火)と11日(土)いつもの様に約三十名で歩きました。お天気にも恵まれ晩秋の街道歩きを満喫しました。10時丁度に狭山市駅の長い歩道橋を進み鎌倉街道を上から見ました。まず最初に向かったのが八幡神社です。社紋は新田氏の大中黒で義貞はこの神社で戦勝祈願をしたとのことです。10時20分、拝殿へと進み社紋や八幡の額を拝見しました。応仁天皇を祀り、徳川時代末期の建築の本殿の透かし彫り彫刻のすばらしさに驚きました。又、本殿と拝殿との間に幣殿が無く立派な門があるのもこちらの特徴だと説明を受けました。義貞の駒繋の松は枯れてはいましたが、その堂々とした風格は留めていました。こちらの境内に合祀されている入間川神社や大鷲神社、琴平神社、八雲神社も巡りました。変わった名前の思兼神社へもお参りしました。天照大神が天岩戸に隠れた際に、どうしたらお出まし願えるかを考えた神様です。思兼はカネという名から曲尺のカネに通じ大工の道具を扱う職人達の信仰を集めました。

10時40分頃、又、狭山市駅に戻って来ました。駅の反対側に街道は抜けています。数分で白山神社に着きました。何だかビルのはざまに取り残されている様な空間に思えました。ここがやはり旧鎌倉街道沿いだった証拠なのです。鎌倉時代に古道沿いにすでにあり、土地の産土神として崇められていたとの事です。樹齢7、800年と云われた大欅を明治10年に舟材として伐採したところ、翌年に付近の民家から出火し大火事になったので大火事欅の祟りと云われたそうです。現在は椋の木に古い縄が掛けられていました。周りに実が落ちていて講師は一つ拾って甘い実ですよと。椋鳥が好きな実ですよと少年時代を懐かしんでいました。

富士見という町名の街道をどんどん進みました。山桃の並木も通りました。11時過ぎにはコーセー化粧品の広い広い工場の横を歩きました。11時20分頃から早目の昼食です。今回はフアミリーレストランと長崎チヤンポンのお店に別れて50分から1時間位休憩をとりました。

午後の部を出発して直ぐに家畜の為の地蔵尊がありました。1776年のものでお顔も文字もよく解りません。かすかに為畜生の字が見えました。すぐに茶畑が広がっていました。狭山茶は鎌倉時代に明恵上人が武蔵河越の地に広めたのが始まりとの事です。「色は静岡、香は宇治よ味は狭山でとどめさす」と唄われているそうです。

住宅の樹々も冬の様子に変化してきました。山茶花が咲き、くちなしの実がたくさん付いています。くちなしの名は実が袋の上を結んでいる様子からの由来です。お昼の後、20分位で真言宗智山派の常泉寺に着きました。1202年に建立された古刹です。仏式の供養は三十三回忌、又は五十回忌の後、他の先祖と一体化して祖霊となる考えからその後の供養として三界万霊供養塔が建立されたという事です。異形文字の武劦が武州を意味していることもここで学びました。5~6分で先に進み、通りの住宅の庭に大きな鬼柚がはみ出しそうに色付いていて私たちの目を引きました。ここ入曾の名は入曾村として戦国時代に見える郷村名とのことです。

5~6分離れた場所に先程の常泉寺の観音堂がありました。地下の水脈が深い所にあるこの地域の工夫で七曲の井(マイマイの井)が掘られました。大旱魃の時、観音様に祈り古井戸より水が湧いたという事から、この七曲の井の側には今も観音堂があり、脇を不老(トシトラズ)川が流れています。一時少し前に屋根に鰹木のある入間野神社に入りました。1191年創建で旧名は国井神社、江戸時代には御嶽大権現と称し10石の朱印が与えられていました。明治に御岳神社に、その後浅間神社を合祀し現在の入間野神社となりました。入曾の獅子舞の奉納が有名です。

鎌倉街道上道の大案内板がありました。児玉、美里、花園、寄居、小川町、嵐山、鳩山となつかしい地名ばかりです。講師は私達は今、この辺りですよと指さしてまた歩き始めました。つつじ通りを歩き野々宮神社へと入りました。こちらも鰹木と千木が目立っていました。日本武尊が東征の折に立ち寄り水を得る為に井を掘らせたとの事です。境内の隅にある柏の大木があり講師は端午の節句に柏餅を食べる由来を話しました。

直ぐ側の真言宗豊山派の金剛院の墓地に入らせていただきました。吉村さんの夢枕にこの地蔵さまが現れ温泉の場所を告げ掘り当てたとの話から「夢地蔵」の名に。涎掛けを着せられているお姿はちよっと笑ってしまう格好で夢のある話です。

金剛院は御嶽神社(入間野神社)の別当寺です。木々が色付き白壁の塀と青空とで素晴らしい風景を見せてくれました。本殿の屋根が、唐招提寺風の鴟尾と組み合わさった形のなんと穏やかなことでしようか。又山門は1782年の創建で立派でした。

供養塔の数々を見て光背を持つ珍しい青面金剛を拝しました。下方には三猿ではなく四猿というのにも驚きました。私達はもう一度、立派な山門を鑑賞しながら院をあとにしました。

茶畑を見ながら歩いていると所沢市に入りました。右手には線路が見えてきました。

旧鎌倉街道と縦長の石柱が立っています。西富小学校の脇です。私達はどんどん頑張ったあるき続けました。金剛院から1時間位経った頃、新所沢駅西口の交差点入口を見つけました。

土曜日は駅のスーパーでトイレを借りて10分位の休憩を取りその後、タクシーに乗り合わせ誓詞橋まで走らせました。新田義貞が鎌倉攻めの時にここで兵から誓詞を取ったとの伝えがあります。火曜日の方々は橋の近くの埋蔵センターで御手洗いを借り、昭和58年に柳瀬川から絶滅したミヤコタナゴという美しい魚を見せてもらいました。国指定の天然記念物です。ここの施設で人工繁殖をしています。3年位の命というミヤコタナゴは綺麗な色でした。1年の幼魚はまだ色がついていません。卵を産み付ける貝が川にいなくなったために魚も絶滅したとの話はなんと嘆かわしく悲しいできごとではありませんか。

小手指古戦場にはすぐに着きました。大きな石碑が建てられていました。新田義貞は、新田庄で1333年5月8日に鎌倉幕府討伐に向けて挙兵し一路南下します。小手指原には11日に至ったといいます。30余回の戦いも勝負がつかなかってという事です。私達はしみじみと廻りを見渡しました。

その後、古戦場の西にある白旗塚に向かいました。源氏の末裔である新田義貞が陣を敷いたといわれています。頂上には「白旗塚、浅間神社」と彫られた碑や祠がありました。数分散策しました。

今では、木々が茂り廻りの様子が余り見えませんでした。足元の段々に気を付けながら降りました。これから小手指の駅まで歩くのみです。百番供養塔がありました。16時頃に駅に到着しました。皆様お疲れさまでした。これからは新田義貞と北条氏の戦いの舞台が次々と出て参ります。次回も歴史に触れながら楽しく歩きましよう。

 

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です