鎌倉街道上道 第十一回 町屋から入間川

 

10月10日(火)は真夏日の暑さの中を、14日(土)は雨を心配しながらのあるき隊でした。前回と同じ位の人数で、10キロ余りの道のりを皆さんと頑張り楽しみました。

午前10時に東武東上線西大家駅に集合し、まず駅づたいにある側溝の場所が鎌倉街道であった事を聞きました。

20分位、歩いた所で講師が「家と鉄塔がない風景を思い浮かべてください。これが武蔵野の風景です。平野と所々に林があります。」真っすぐな道路は、戦後に飛行場跡につくったからだそうです。

日高市立高萩中学校の前を通り広い園庭の幼稚園も過ぎ、10時40分頃着いたのがこの辺りでは有名な加藤牧場です。牛舎のにおいが少し風に乗って運ばれてきていました。20分くらい休憩をとり乳製品を味わいました。アイスクリームは皆さんに人気で300円、カップの牛乳は110円でした。

暫くしてすぐに着いたのは旭ケ丘神社の石碑です。ここは高萩飛行場跡で昭和13年に陸軍航空士官学校として使用開始したとの事です。赤トンボと云われる95式練習機を中心に練習し、戦争末期にはこれらの練習機でも戦いを余儀なくされたという話にわたしたちは溜息がでるのでした。

次の場所では、文化11年(1816)の三面六臂の馬頭観音を見ました。頭の部分の三面が浮き彫りになっていてとても珍しいとの事です。

踏切の名前が鎌倉街道踏切の処を渡りました。昔も今もここが鎌倉街道である証明です。

茶畑が目に入ってきました。ここはもう狭山なのです。お茶の花が沢山咲いています。

                             薬師堂だけが残っている真福密寺では石橋供養塔と日本回国供養塔を見ました。

しばらく歩きお昼近くになった頃、交差点の名前に女影(オナカゲ)とありました。この辺は女影氏の館があった所です。

12時をすこし廻った頃、武蔵高萩駅のそばの今日の昼食の場所へ着きました。お店は2軒しかなく大村庵というお蕎麦屋さんに入った方が多かったようです。いろんな定食がありました。天ざる1300円、もつ煮定食700円。40分から50分、ゆっくり休み午後の部出発です。

15分位歩くと諏訪橋改築記念碑が住宅地の前にありました。

数分で霞野神社に着きました。元は諏訪神社との事で北条氏が信州から勧請したとのことです。先程見た諏訪橋記念碑も納得がいきました。鳥居を入ると古い昔の鳥居が横に保管されていました。気持ちのいい参道を歩きます。

水盤が二つ並んでありました。武田菱と天狗の団扇の紋のものです。明治13年に12社、14神が合祀されたとのことです。本殿は江戸末期の物という事です。献額の絵は消え失せ木刀を掛ける部分が目立っていました。八王子千人同心御家流の甲源一刀流比留間和十郎源信の弟子が奉納したということです。

又、こちらの狛犬の体形が異常に低いところもおもしろく眺めました。

神社の横に大きな説明板があり、北条高時の遺児である時行が信濃で挙兵し女影ケ原、小手指ケ原、分倍が原、井出沢そして鎌倉まで勝ち進んだ中先代の乱について書かれていました。

神社を後にするとき、筆塚と聖徳太子講の碑があり、それを見て先へと進みました。

神社の前の五差路に向かって立っている「右扇町屋 八王子道 左入間川所沢道」の道標が低くありました。

13時半頃、しばらく鎌倉街道を進みます。大きな石に鎌倉街道上道碑とあり、しっかりとした説明板もあります。

しばらく掘割の道を行きました。バスが通るように道路が造られた時に、かなり低く堀ったという右手が石垣になった所を進みました。

その名も「鎌倉街道」という交差点がありました。少々疲れてきていたので一瞬、嬉しくなり力が湧いてきました。

千人同心街道と云われる道を渡りました。背の高い樹々が続いていて日高カントリークラブのゴルフ場横をずっと歩きました。

一級河川の南小畔川にかかる大下橋を渡りました。

10日の暑さに私たちは負けそうになりながら智光山公園の大きな陰へ滑り込みました。東京ドーム11個分の広さと聞き皆で驚きました。水分補給をして少し長目の休みを取りました。

公園から10分位の墓地の前方に三角形の様な慰霊碑があり「使人和霊」とあります。明治15年にコレラが大流行した時の慰霊碑ですが、江戸時代末期には、江戸で20万人も死亡したとのことです。

10分位歩くと信濃坂にさしかかりました。この坂の下には霞が関という関所がありました。そして文字通り信濃に行く道でしたからそう呼ばれていたのです。私たちは坂の後方を振り返るのでした。

数分で歴史の道という立看板がありました。畠山重忠や新田義貞等多くの武将の栄枯盛衰を刻んだ道と書かれてありました。

また数分で影隠地蔵に着きました。木曽義仲の嫡男の義高が頼朝の追手を避けて地蔵堂に隠れたとの事です。現在は石の地蔵さまが立っているのみでした。12歳の子供の大きさだといいますが少し小さな目のお地蔵さまでした。

10分くらい進むと道路脇に水天宮を祀る石碑がありました。こちらの右手に八丁の渡しがあったそうです。

入間川へは10分余り歩きました。橋の手前に無患子の木があり、丁度、実が見事に粒成り状態でした。果皮はサポニンが含まれ石鹸の代用にされたり漢方薬として使われ、種子は羽子板の羽根の重しに、又、数珠を造ったそうです。

入間川の新富士見橋を渡りました。水は澄み火曜日は青空を映していました。

7~8分で義高の終焉の地に着きました。清水八幡宮の小さな鳥居と小さなお宮がありました。北条政子が建立したとの事です。大姫の最愛の人を助けられなかった思いはいかばかりだったでしようか。

国道16号線を横切りました。火曜日はイオンで体を冷やし水分補給をしました。

数分で大国神社に着きました。狛犬は午前中見た物と対称的でスマートな姿で座った左右共に子供に寄り添っていました。

通りは舗装ガレンガ通リとなり、街らしくなりました。すぐに右に折れると参道の奥に立派な門がありました。

曹洞宗の徳林寺で本堂は平成5年建築の新しく大きなものでした。檀家が集めて寄進したという全国のトンネル工事の貫通石が展示されていました。この日はご住職の奥様が亡くなられた直後の法事でしたが若奥様にお願いして観音堂など奥へ入らせて頂きました。

新しい大きな涅槃像や観音様に目を見張りました。又、福徳院不動尊へと昇りました。綿貫家一門墓所がありました。綿貫家は狭山で酒造業で財をなしたという豪商で、元弘の乱の時にも京都大判衆の中に名前があります。

墓地の一番上からは街が一望できました。

狭山市駅に急ぎました。山法師の赤い実がきれいでした。

西武狭山市駅西口は賑やかでバスターミナルの奥にありました。

本日は、前回に比べ距離もあり長丁場となってしまいました。皆さま大変お疲れさまでした。

 

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