鎌倉街道上道 第十一回 町屋から入間川

 

10月10日(火)は真夏日の暑さの中を、14日(土)は雨を心配しながらのあるき隊でした。前回と同じ位の人数で、10キロ余りの道のりを皆さんと頑張り楽しみました。

午前10時に東武東上線西大家駅に集合し、まず駅づたいにある側溝の場所が鎌倉街道であった事を聞きました。

20分位、歩いた所で講師が「家と鉄塔がない風景を思い浮かべてください。これが武蔵野の風景です。平野と所々に林があります。」真っすぐな道路は、戦後に飛行場跡につくったからだそうです。

日高市立高萩中学校の前を通り広い園庭の幼稚園も過ぎ、10時40分頃着いたのがこの辺りでは有名な加藤牧場です。牛舎のにおいが少し風に乗って運ばれてきていました。20分くらい休憩をとり乳製品を味わいました。アイスクリームは皆さんに人気で300円、カップの牛乳は110円でした。

暫くしてすぐに着いたのは旭ケ丘神社の石碑です。ここは高萩飛行場跡で昭和13年に陸軍航空士官学校として使用開始したとの事です。赤トンボと云われる95式練習機を中心に練習し、戦争末期にはこれらの練習機でも戦いを余儀なくされたという話にわたしたちは溜息がでるのでした。

次の場所では、文化11年(1816)の三面六臂の馬頭観音を見ました。頭の部分の三面が浮き彫りになっていてとても珍しいとの事です。

踏切の名前が鎌倉街道踏切の処を渡りました。昔も今もここが鎌倉街道である証明です。

茶畑が目に入ってきました。ここはもう狭山なのです。お茶の花が沢山咲いています。

                             薬師堂だけが残っている真福密寺では石橋供養塔と日本回国供養塔を見ました。

しばらく歩きお昼近くになった頃、交差点の名前に女影(オナカゲ)とありました。この辺は女影氏の館があった所です。

12時をすこし廻った頃、武蔵高萩駅のそばの今日の昼食の場所へ着きました。お店は2軒しかなく大村庵というお蕎麦屋さんに入った方が多かったようです。いろんな定食がありました。天ざる1300円、もつ煮定食700円。40分から50分、ゆっくり休み午後の部出発です。

15分位歩くと諏訪橋改築記念碑が住宅地の前にありました。

数分で霞野神社に着きました。元は諏訪神社との事で北条氏が信州から勧請したとのことです。先程見た諏訪橋記念碑も納得がいきました。鳥居を入ると古い昔の鳥居が横に保管されていました。気持ちのいい参道を歩きます。

水盤が二つ並んでありました。武田菱と天狗の団扇の紋のものです。明治13年に12社、14神が合祀されたとのことです。本殿は江戸末期の物という事です。献額の絵は消え失せ木刀を掛ける部分が目立っていました。八王子千人同心御家流の甲源一刀流比留間和十郎源信の弟子が奉納したということです。

又、こちらの狛犬の体形が異常に低いところもおもしろく眺めました。

神社の横に大きな説明板があり、北条高時の遺児である時行が信濃で挙兵し女影ケ原、小手指ケ原、分倍が原、井出沢そして鎌倉まで勝ち進んだ中先代の乱について書かれていました。

神社を後にするとき、筆塚と聖徳太子講の碑があり、それを見て先へと進みました。

神社の前の五差路に向かって立っている「右扇町屋 八王子道 左入間川所沢道」の道標が低くありました。

13時半頃、しばらく鎌倉街道を進みます。大きな石に鎌倉街道上道碑とあり、しっかりとした説明板もあります。

しばらく掘割の道を行きました。バスが通るように道路が造られた時に、かなり低く堀ったという右手が石垣になった所を進みました。

その名も「鎌倉街道」という交差点がありました。少々疲れてきていたので一瞬、嬉しくなり力が湧いてきました。

千人同心街道と云われる道を渡りました。背の高い樹々が続いていて日高カントリークラブのゴルフ場横をずっと歩きました。

一級河川の南小畔川にかかる大下橋を渡りました。

10日の暑さに私たちは負けそうになりながら智光山公園の大きな陰へ滑り込みました。東京ドーム11個分の広さと聞き皆で驚きました。水分補給をして少し長目の休みを取りました。

公園から10分位の墓地の前方に三角形の様な慰霊碑があり「使人和霊」とあります。明治15年にコレラが大流行した時の慰霊碑ですが、江戸時代末期には、江戸で20万人も死亡したとのことです。

10分位歩くと信濃坂にさしかかりました。この坂の下には霞が関という関所がありました。そして文字通り信濃に行く道でしたからそう呼ばれていたのです。私たちは坂の後方を振り返るのでした。

数分で歴史の道という立看板がありました。畠山重忠や新田義貞等多くの武将の栄枯盛衰を刻んだ道と書かれてありました。

また数分で影隠地蔵に着きました。木曽義仲の嫡男の義高が頼朝の追手を避けて地蔵堂に隠れたとの事です。現在は石の地蔵さまが立っているのみでした。12歳の子供の大きさだといいますが少し小さな目のお地蔵さまでした。

10分くらい進むと道路脇に水天宮を祀る石碑がありました。こちらの右手に八丁の渡しがあったそうです。

入間川へは10分余り歩きました。橋の手前に無患子の木があり、丁度、実が見事に粒成り状態でした。果皮はサポニンが含まれ石鹸の代用にされたり漢方薬として使われ、種子は羽子板の羽根の重しに、又、数珠を造ったそうです。

入間川の新富士見橋を渡りました。水は澄み火曜日は青空を映していました。

7~8分で義高の終焉の地に着きました。清水八幡宮の小さな鳥居と小さなお宮がありました。北条政子が建立したとの事です。大姫の最愛の人を助けられなかった思いはいかばかりだったでしようか。

国道16号線を横切りました。火曜日はイオンで体を冷やし水分補給をしました。

数分で大国神社に着きました。狛犬は午前中見た物と対称的でスマートな姿で座った左右共に子供に寄り添っていました。

通りは舗装ガレンガ通リとなり、街らしくなりました。すぐに右に折れると参道の奥に立派な門がありました。

曹洞宗の徳林寺で本堂は平成5年建築の新しく大きなものでした。檀家が集めて寄進したという全国のトンネル工事の貫通石が展示されていました。この日はご住職の奥様が亡くなられた直後の法事でしたが若奥様にお願いして観音堂など奥へ入らせて頂きました。

新しい大きな涅槃像や観音様に目を見張りました。又、福徳院不動尊へと昇りました。綿貫家一門墓所がありました。綿貫家は狭山で酒造業で財をなしたという豪商で、元弘の乱の時にも京都大判衆の中に名前があります。

墓地の一番上からは街が一望できました。

狭山市駅に急ぎました。山法師の赤い実がきれいでした。

西武狭山市駅西口は賑やかでバスターミナルの奥にありました。

本日は、前回に比べ距離もあり長丁場となってしまいました。皆さま大変お疲れさまでした。

 

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鎌倉街道 第十回 鳩山から町屋

熱中症を避けるために2ケ月の夏休みを取った鎌倉街道あるき隊が、9月から活動を再開しました。

19日(火)と23日(土)合わせて30名で元気に歩きました。

10時に東上線の坂戸駅に集合しバスで鳩山役場前まで乗り、皆様揃って久しぶりのあるき隊でしたが元気よく歩き始めました。午前中は赤沼から今宿へと歩きます。

19日は30度を超す真夏日の中、23(土)は曇り空で涼しい中を歩きました。

火曜日は彼岸花がまだきれいに咲いていました。土曜日は行く先々で木犀の香の清々しさを味わいました。一位の実が赤くなっていて一粒味見をして甘さを確かめました。

11時頃、赤沼の供養塔と呼ばれる三基の石碑を見ました。

今までにも見たことはありますが、養の文字が異形となっているのも興味深くながめました。

前の道は鎌倉街道ということです。

しばらくすると、おしゃもじが祀られている祠がありました。その先の小高くなっている、おしゃもじ山公園へと進みました。

展望台があり、皆で昇って上からの景色を楽しみました。

展望台の脇に木々に隠れながら、それでも大きく渡辺錠太郎大将の忠魂碑が建てられているのを見ました。

この方は2・26事件で殺害されたとの事です。

火曜日は暑くて水分補給をこちらでもとりました。

しばらくすると石造物群があり、中には1600年代のものもありました。

横にはお地蔵さまの祠もありました。

入間川の支流の越生川が見えてきました。下流は越辺川といいます。ここには明治の初期まで河岸があり、底が平らな高瀬舟がここまで物を運んでいたといいます。

明治9年に建てられた常夜灯は今まで見てきたものより小さく感じました。

毛呂山町苦林という地名へと入って行きました。

稲穂が綺麗に色づいています。

小さめの前方候円墳があり古墳時代後期のものとあります。中世になり苦林野と呼ばれる頃には合戦の舞台となり、足利氏、宇都宮氏芳賀氏らの戦いがあったとのことです。

古墳には小さな秋の花が咲き、この静かな場所からは想像もつきませんでした。

右手奥には石の千手観音菩薩が建てれていました。

鎌倉街道約1・0キロメートルとあります。しばらく進むと堂山下遺跡と説明板がありました。

室町時代の集落跡は大類グラウンドの地下で平成2年から5年にかけて発掘調査され鎌倉街道をはさみ東西に集落が広がっていたとの事です。

鉄製の茶器や中国からの輸入された青磁白磁まで出土したそうで集落の文化の高さにまで思いが及ぶのでした。

鎌倉街道上道の矢印があり、細道の両側に曼殊沙華が咲き何と風情があることでしようか。

崇徳寺は苦林の合戦で焼失し、現在の場所に移された延慶の板碑は樹々の中に立っていて、その立派さに驚きました。

円墳がいくつも見えてきました。この古墳群は苦林野の合戦の時に物見塚として利用されました。


そして私たちは残っている鎌倉古道の雰囲気をしみじみと味わいながら歩きました。

その先に歴史民俗資料館があり、お昼にしました。

火曜日は残念ながら休館日でしたので、支援学校のグランドを使わせていただきました。

資料館には、発掘されたものや合戦絵巻もありました。急ぎ鑑賞して午後の部の出発です。

一面の蕎麦の花が満開で集落の奥まって場所を明るくしていました。

数分歩くと鎌倉街道遺跡の柱が建っていました。講師が、堀割状遺構があの杉の処まで続いているといい、私たちは感慨を持って草深い道を見つめました。

2時頃、市場神社に着きました。元は三島神社だったと聞きました。九の日に市がたったと風土記稿に記されているとの事です。

神木は切株となって残っていました。

又、数分行くと三面六臂の馬頭観音がありました。  

数分で万葉歌碑に着きました。

「入間道の大家が原のいはゐづら ひかばぬるぬる吾にな絶えそね」

郷名に大家が出てきた越生から坂戸の辺りの一郡付近とされています。

入間川に生えているいはゐづらのぬるぬるに例えて二人の仲がいつまでも続いて欲しいという愛の万葉歌なのです。

東京国際大学坂戸キヤンパスの立派な施設を通り、本日最後の国涓地祇神社へと入っていきました。

こちらの神社は、涌水とこの地の神を祀っています。

後ろに廻り神殿の覆い屋を見ました。古くは熊野神社と云われています。現在は小さな静かな神社ですが、その昔坂上田村麻呂や藤原秀郷が再建したとの事です。

民家の庭の中に、こちらを向いて立派な板碑がありました。昔はお寺(大徳寺)にあったとの事です。

午前中に見た板碑と同じく、梵字が大きく圧倒されるような思いで拝見しました。

西大家駅には3時前後に到着しました。

火曜日の方々は暑さに耐えて頑張りました。土曜日は涼しくて秋を味わいながら進むことができました。

山栗を拾われた方、美味しく召し上がられましたか。

次回も秋を満喫しながら楽しく歩きたいと思います。

      こんもりと古墳のつくる花野かな

   集落の奥広ごるや蕎麦の花        慶月

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鎌倉街道上道 第九回 菅谷から鳩山

 

13日は小雨の中を、17日は暑い中を34名で元気に歩くことができました。東上線の武蔵嵐山駅にお弁当持参で10時に集合しました。

前回歩いた街道まで10分位で着きました。

都幾川手前の緩やかな坂を下ります。蛇坂という名に皆様が反応なさっていました。

ここ大蔵の地で木曽義仲の父である義賢は源義朝の長男である義平(悪源太義平)に討ち滅ぼされたのです。

藤沢の遊行寺の末寺である時宗の向徳寺に着きました。紋は「折敷に三」です。

板碑群の立派さには驚きました。康正3年(1344)の時宗板碑「南無阿弥陀仏」と刻んである主尊に注目しました。

時宗では法名に阿弥を付けるという事と、有名な人に観阿弥、世阿弥、本阿弥などがいたと云う説明を受けました。

又、大きな石に「久寿二年(1156)八月十六日 南無馬頭観音」右に大蔵館 源氏一族一門、左に平氏一族一門と刻まれていて平成二年の同じ八月十六日に建てられていた事が印象的でした。

この地で戦った源氏と平氏を供養しているのでしよう。

当時の土塁の一部が残る大蔵館跡がありました。源氏の棟梁、源為義の次男で東宮帯刀先生源義賢の居館のあったところです。帯刀先生(タテワキセンジョウ)とは皇太子の護衛官の長ということも学びました。

源義平と義賢の戦いは畠山氏や秩父氏を巻き込み大蔵合戦といわれるものになったのでした。大蔵館跡の説明版と石柱が立っています。

義賢霊所という鳥居の奥に五輪塔があります。鎌倉初期のものと言われています。鉄の扉にしっかりと守られていました。梅の実が熟して落ちていました。歩いている道々にきれいな梅の実が色づいています。

墓所の入り口前に、道を挟んで義賢に関係する真新しい廟所が造られていました。

一回りして次へと進みました。

11時半近くに安養院の山門をくぐりました。応永元年(1394)の創建。さびれた寺の門に籠彫りがなんとか形を保っている状態でした。奥の荒れた本堂と右手に玄関がありましたが、当時を偲ぶには余りに荒れていました。

廃寺寸前の姿のこの寺は昭和30年代には金東光が住職だったと聞かされ、自信たっぷりの毒舌や顔が浮かんできました。

タイサンボクの花が一輪咲き残りよい香りを放っていました。

4~5分で零明山大行院神明殿に着きました。今までに感じたことの無い雰囲気です。修験者又は山伏と呼ぶ形の信仰で、土曜日には信者の方々でにぎわっていました。山犬の狛犬に驚ろき修験者の像の赤い唇にも少し違和感を覚えました。

桑の実がよく熟れて黒紫になっています。もいで味見をする人、子供の時には、もっと大きな実だったのにとおっしゃる方も。

突如、縁切橋の大きな立て札が現れました。坂上田村麻呂の妻が京から訪ねてきた際にここで縁を切って追い返したという伝承があります。

富士山と、月と日が彫られている仙元大日神の石碑を右手に見て進みました。

イノシシ注意の道を進みお昼頃に日吉神社に着きました。坂上田村麻呂がここで一夜を過ごしたといいます。奥にちいさな木の祠がありました。

石の将軍塚が建てられていて、田村麻呂がこの土地の人々にどんなに崇められたかがよく解りました。

明光寺へと入りました。鎌倉期のもので町内では最古の塔婆とされている貴重なものがあるとのことです。。

私たちは一路、笛吹峠を目指しました。

残っている鎌倉街道の掘割を、右手の木立の中に見ました。

直ぐに頂上の鉄塔の下まで辿り着きました。

待望のお昼です。本日はいつもより少し遅くなりました。

美味しいお弁当を各自いただき、40分位の休憩時間を取りお手洗いもすませて、さあ午後の部の始まりです。

笛吹峠の名前の由来をいろいろと聞きました。

後醍醐天皇の皇子である宗良親王が笛を吹いて敗戦の心を慰めたといいます。実際は風が強くて笛を吹いているように聞こえたからとも・・・・。

緑の中を気持ちよく下っていきました。丸く赤い実の和桑があり桑との違いを講師が話していました。

街道端沼がありました。

小さな道標を見ました。

すぐにある、はぐれ堂跡にはお地蔵様がいました。お歯黒を付けた大将の首を埋めたのが「羽黒堂」になったという説や、家来にはぐれて射られた大将の首を埋めたので「はぐれ堂」などの説があります。

その昔、鎌倉街道とこの村は、あるとき大きな歴史の流れの中にあったことは間違いないようです。

柏の大きな木の葉を見ることもできました。

田植えを終えた水田が美しいです。雉が歩いています。

一時半頃に上道の大きな案内板が立っている場所に来ました。

大橋川を渡ります。橋を渡ると間もなく鳩豆工房という土地の物とお土産などを売る店があり入りました。ソフトクリームを食べる人、飲み物を補充したり地元で人気の豆腐を買う人。お手洗いを借りて少しの間、休憩をとりました。

筆者はとてもきれいな小物を見つけました。鳩山ガラスのトンボ玉のようなネックレスを旅の思い出に大切にしたいと思います。

さて、しばらく歩き熊石橋を渡り右手に曲がると赤沼古代瓦窒跡が残っていました。傾斜を利用した登り窯は、木造の小屋で覆われていて窓越しに覗けるようになっていました。

4,5分で石田国分寺瓦窯跡の説明版がありました。平成5年の発掘調査で新しく発見されたとの事です。武蔵国最大の窯跡で8世紀中頃まで使われていたとの事です。

水色の細い橋を渡ると鳩山中学校舎が見えてきました。体育館の下が鎌倉街道が通っていたとの事で、私たちはう~んと声が出てしまいました。

バス停は思いの他、近くにありました。3時少し前にバスに乗り坂戸駅まで20分(340円)位、バスの旅を楽しみました。

坂戸駅も新しくモダンな駅舎でした。

7月、8月は熱中症の心配があるのであるき隊はお休みです。

皆様どうか、この夏をお元気に過されますようにこころからお祈り申しあげます。

 

  桑の実食みながら板碑読みながら

  田園に縁切橋のある極暑

  親王の笛吹く峠露涼し      慶月

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鎌倉街道上道 第八回 奈良梨~菅谷

5月9日(火)、5月13日(土)、合わせて31名のご参加で上道の八回目を歩きました。13日は朝から雨でしたが皆さんは、元気良く最後まで楽しまれました。午前10時過ぎに東上線の小川町駅に集合し、15分発のバスで奈良梨まで行きました。

10時半過ぎにスタートです。10分くらいで道端に三面の馬頭観音など石造物が並んでありました。

馬頭尊と文字が刻まれたものや立派な三面が彫られていているもありました。

この辺りは嵐山町といい都幾川渓谷が京都の嵐山に似ているのでこの地名がついたとのことです。

11時40分、曹洞宗の宝城寺に入りました。

閻魔堂を覗くと色のあせた閻魔像があり、どなたかが「可哀そうに」とおっしゃいました。

門を出た所のさくらんぼが甘酸っぱくて2,3粒いただきました。

いちの川の相生橋を渡ります。新緑が川に映っています。お昼近くに天台宗の積善寺に着きました。

706年日照りの時に積善が雨乞いを行うと雨が降ったとの事です。後に荒廃していたのを伯耆国大山寺の裕源和尚が泊まり中興させたとの事です。

木香バラの黄が満開で美しいです。眞子様のおしるしの花です。

庚申塔群や苦非なし地蔵の悲しく不思議な話を聞いて杉山城跡へと進みました。

戦国時代の構築で別名、初雁城ともいわれています。自然の要害として県内でも名城とされています。十以上の郭と土塁や堀が巧みに配置されていて、私たちは必死で登り降りをしました。後北条の時に松山城主の上田氏の家臣の杉山主水の居城であったといわれています。

井戸跡のそばの水溜に山椒魚の卵があり孵化前で私たちを驚かせてくれました。どうかうまく育ちますように。のどかな道をしばらく歩き志賀の観音堂の石仏群を見ました。

聖徳太子像もありました。

13時過ぎ、曹洞宗長慶山東昌寺に着きました。念ずれば花ひらくの碑が目立っていましたが、七福神や様々な観音様を拝見することができました。

門の上の彫刻も細く私たちは注目しました。13時半過ぎに昼食の場所の女性教育会館に入り、チケットを買い遅い食事となりました。セットメニューは700円前後でお安いだけありお肉が少し固めでした。

白雲木の花がきれいでした。午後の部は菅谷館跡の敷地内にある嵐山史跡の博物館を15分間ほど見学しました。

ビデオシアターを見たり、出土資料の展示を見ました。その後、タクシーに乗り合わせて曹洞宗班渓寺へ行きました。

木曽義仲の夫人の山吹姫は義仲の縁を頼り、この地に草庵を建てました。梵鐘には義仲の長男の義高の為に班渓尼(山吹姫)が創建したと刻まれてあるとの講師の説明を聞きました。山吹姫の小さな墓には色とりどりの供花が活けてありました。夫と息子の供養をする日々を思いながら寺を後にしました。

朱の斑渓寺橋はやはり、山吹姫を思い浮かべます。

又、新緑の中を歩きました。川沿にアカシアの白い花が咲きよい香りを放っていました。

15時40分ごろに鎌形八幡神社に着きました。坂上田村麻呂が宇佐八幡宮を勧請し源頼義から頼朝までの源氏累代が源氏の氏神として崇信を受けていたとの事です。

常緑樹の招霊(オガタマ)の木が茂っていました。一円玉の葉のデザインがそうだという事です。

又、義仲の産湯の清水があり、皆で柄杓を取り手にかけてみたり、唇にふれてみたりしました。

金毘羅神社は池の中にひっそりとありました。

八幡神社の額の八が鳩の様に見えて皆で笑いながら眺めました。都幾川辺にはアカシアの花やら又サクランボが実を付けています。

16時30分頃、菅谷城跡に戻ってきました。畠山重忠が築いたもので規模は小さいものでしたが、室町・戦国時代を経て拡張されたとの事で本郭は空堀と土塁に守られています。

重忠像は竹筋コンクリート製ということで直垂に烏帽子の姿が立派で鎌倉の方を向いているところが何とも泣けて参ります。小さな土塁を設けて次の郭が見えないようにしていたり、傾斜をつけた木橋もありました。

緑の中を身持ちよく歩きました。さあ駅までもう少しです。

数分歩いて横穴の円墳の稲荷塚古墳を覗きました。

すぐに武蔵嵐山駅西口に到着しました。5時を少し廻っていました。今日は木曽義仲、義高、山吹姫、そして畠山重忠に触れる旅ができました。朝早くから遅くまで、又土曜日は一日雨の中を本当にお疲れさまでした。

はんざきの孵化前夜なり水場跡   慶月

〈はんざき=山椒魚〉

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鎌倉街道上道 第七回 赤浜~奈良梨

 

4月11日(火)は生憎の雨の一日でした。しかし雨の中の桜の美しさにしばし佇んでしまった一行でした。15日(土)は晴天で桜散る中をを歩く事ができました。東武東上線男衾駅は、とても新しい駅でした。10時過ぎには、田圃の中へと入って行きました。

家の前を通り小披(オブスマ)神社と出雲伊波比神社に寄りました。

武蔵国男衾郡の立派な標識があり奈良の平城京跡で発見された木簡にその名が記されてあったとの事です。

11時過ぎに前回のアイリス大山の側に残る鎌倉街道に着きました。今日は道路を渡り、反対側を進みます。

すぐに天台宗の普光寺に着きました。延暦寺の直末で14ケ寺の末寺があるとの事です。本尊は補修されていますが平安末期の薬師如来坐像と考えられています。

トタン屋根の下に集められた板碑群は周辺の開墾により出土したもので、この辺りの歴史を物語っていました。

桜の木が大きく満開でした。地味なシキミの花にも私たちは心ひかれました。

11時半頃、三島神社に着きました、三島大社をすぐに連想しまし、話は神様のお使いである鰻に及びました。瀬戸内海の大三島神社は朝廷より「日本総鎮守」の称号を下賜されたとの事です。神社には神鈴ですが、こちらでは室町時代の鰐口が保存されていて道禅の作と言われています。又、大きな椿の木は、今を盛りに咲いていてヤブツバキの下に落椿もそのままにしてあり大変美しい光景でした。三本の内、中央の一本は町の天然記念物に指定されています。

お昼少し前に百万編供養塔の前を通りました。寛政2年とあり一白一力と異形文字が面白く、昔の人の機智を感じるのでした。

つつじの咲く道を進み12時頃に誰もがこんな所にどうしてと思うピザのお店がありました。ピザ二種類とパスタ一種と飲み物がとても美味しくお腹がいっぱいになりました。約1時間、休憩を取り出発しました。

しばらく歩くと花ダイコンのうす紫色が広がっていました。諸葛菜ともいう花にしばし目を奪われました。次は満開の桜が続きます。

それを過ぎると鎌倉街道の細道に入って行きました。

堀割状になっている道を少し上がったところに児泉神社がありました。前に泉が湧いていたとのことです。

隣には天台宗高蔵寺があり比叡山延暦寺の末寺ということです。

山門の赤色が延暦寺と同じといいます。しだれ桜のむこうに見えてきました。

柳沢吉保の子供である吉里が、祖父の供養で立てた信俊夫妻の墓が並んでありました。

歩けば桜というこの季節、大きな桜の木に寄生木というものを見つけました。

高蔵寺の地蔵堂とも云われている今市地蔵堂は北条政子が造らせたとされる「いぼとりの一体地蔵尊」と呼ばれています。暗くて見えづらいのですが、撮らせていただきました。

季語に「山笑う」とい言葉がありますが、まさに山里は美しく春爛漫という状態でした。

室町時代、山内と扇谷の両上杉が高見原で戦ったという高見の集落を通り、小川町に入りました。

山岡鉄舟の故郷で父の小野高福の知行地は小川町竹沢でした。小野氏は、小野妹子の子孫と聞き私たちは、ほおといにしえを思うのでした。

しばらくして能増掘割遺構へと入って行きました。旧鎌倉街道跡が私達にとっては感慨深い道と云えます。約70メートル明るい樹々の中を進みました。

そこを出ると門跡と呼ばれる田口家に出ます。後ろにはこんもりとした森があります。

次に伊勢根掘割遺構へと入りました。約140メートルですが、こちらの木立は太くて密集している様に感じました。

鎌倉街道上道跡の標識に私達は元気が出てきます。

諏訪神社奉祀遺跡の石の小さな祠がありました。貝母の花が咲いていました。

15時近くに普賢寺に着きました。明治16年に大檀家の家を移築して本堂としたとの事です。出世大国様の石像が目立っていました。

すぐ側に萬福寺がありました。時宗のお寺で紋は一遍上人の実家の河野氏の折敷に三です。

これは大三島神社の紋でもあります。馬頭観音が祠の中で大切に保護されています。

15時過ぎに着いた八和田神社は、元は諏訪神社で明治22年に8地区を合わせて八和田神社となりました。御神木の大杉は樹齢800年と聞き驚きました。

奈良梨のバス停に着きました。15時40分頃、バスで小川町駅に到着しました。火曜日は一日中雨で本当にお疲れさまでした。しかし桜の美しさにうっとりしながら歩く事ができた幸せな一日でもありました。

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トピックス

この度、鎌倉街道あるき隊の四宮が、テレビ朝日のモーニングショー良純未来図に出演する事となりました。

4月10日中山道の蕨宿から浦和宿まで石原良純さんと歩き、ロケを行いました。放映は4月24日(月)とのことです。

皆さま是非ご覧ください。

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鎌倉街道上道  第六回 小前田~赤浜

3月14日(火)は曇り、18日は晴天で比較的歩き易く進む事ができました。14日は20名、18日は18名と大勢のご参加でした。まず秩父鉄道熊谷駅を10時2分発に乗り小前田へと向かいました。

18日はSL列車就航祝賀でホームにゆるキャラも勢揃いして賑わっていました。

10時半近くに小前田駅で降り、この地の藤田氏や猪俣氏について前回、時間がなくて説明できなかった話から始まりました。

小前田諏訪神社に数分で着きました。三本の鳥衾の瓦が唐破風の中央にあり、根のある梶紋も由緒ある諏訪神社という事でした。

お蚕さんを祀る蚕影神社も横にありました。

先程降りた秩父鉄鉄道の線路に差し掛かった時、18日は熊谷駅からのSLが国旗を付けてやってきたのです。何というグッドタイミングでしようか。

10分位進むと原宿の交差点です。ここは宿場町ではなく、小さな宿があったそうです。

11時過ぎに本日の鎌倉街道のスタート地点はここから始まると講師がいい前回の道路を指差し、皆で眺めました。

そして私たちは右手の住宅が並ぶ道へと入っていきました。

大きな工場を過ぎ荒川沿いにでました。

荒川の上流の景色が目の前に開けているお茶々の井戸に着きました。

鎌倉街道の往来が盛んな頃、ここに茶屋があり於茶々という美しい娘がいて繁盛していたとの事です。日蓮も佐渡に流される時に寄ったという事です。何百年もの時を経ても名が残っているお茶茶の姿を、私たちは想像するのでした。

コンクリートで囲われた井戸は上に鉄格子が覆っていました。覗くと水が見え今も涸れることなく空を映していました。

10分位歩き、お昼前に花園の道の駅に着きました。

14日はJAの店で麺類にしましたが、18日は皆様の評判の良いフオレストというパン屋さんのバイキングランチにしてみました。お蕎麦屋さんに入った方や好きなパンを買ってテーブルで食べた方等、一時間近くゆっくりと過ごしました。

午後の初めは宝篋印塔を見学しました。江戸時代に金井家の井戸を掘った時に出土した物で三基あり1300年代の物で室町時代の初期の物だそうです。

 

荒川を渡ります。川の中に岩が突き出ている所が小さく見えます。本日のメインの一つの赤浜の渡しです。

14日火曜日は橋を渡りドンドン登り坂を進み武蔵国男衾郡の標識を見て赤浜の渡しへと向かいました、倒木の荒地に分け入り龍神橋を渡りました。

土曜日は危険を避け橋の下を潜り、赤浜の渡しに向かいました。

麦畑だけが青々としています。川の土手へ出て渡し跡の岩を見ました。水量の目安にもなったといわれる獅子岩です。

ここで講師は巡検(見)使の話をしました。江戸時代になると将軍が代わるたびに地方へ巡検使がやってきていました。その時に村役人が領主側より返答案として配布されていた扇があったとの資料を講師が示して笑いを誘うのでした。

鎌倉古街道の標識を過ぎ、実際の道が残っている場所を通りました。

数十メートルの短いものでしたが盛土をしたアイリスオオヤマの工場の側に少し下った街道跡がありました。

右下に見下ろしながら工場の柵と古道の間を抜けました。

鎌倉街道はこの地点から南に進みます。次回は此処から鎌倉街道が始まります。

今回は畠山重忠所縁りの畠山荘に行きます。

30分位歩くと畠山重忠の墓に着きました。

公園になっている場所へ入っていきました。一の谷の戦いの時に馬を背負ったという場面の銅像が建てられていました。

ここで、鎌倉街道上道では初めての記念撮影をしました。本日で鎌倉街道歩きを完歩されるご夫妻がいらっしゃいました。

公園の奥に五輪塔六基が大切に保存されていて、重忠と忠臣の墓という事です。

畠山重忠の産湯を汲んだと言われる井戸も残っていました。

御手洗いと休憩もして出発しました。

頼朝の時代に皆から尊敬されていた文武両道の畠山重忠は、北条氏により42歳のとき鎌倉街道中道の二俣川で倒されました。

早咲きの桜が美しく咲いていました。

井椋神社の別当寺で畠山重忠の廟所がある満福寺は真言宗豊山派です。白田山という山号は白と田で畠となる事を聞き、私達はなるほどと納得するやら、感慨すら覚えるのでした。

再び荒川沿いに出て鶯の瀬の碑を見ました。重忠が岡部六弥太(榛沢六郎成清とも)を訪ねての帰路、洪水に合い困っていると鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたという歌が残っています。

「時ならぬ岸の小笹の鶯は浅瀬たずねて鳴き渡るらん」

本日の最後の井椋(イクラ)神社は、郷里の椋(ムク)神社を重忠の父が勧請しました。

荒川のうえまつ橋を渡る時、14日はとうとう雨が降り始めました。急ぎ武川駅へと向かいました。

18日は、重忠橋を渡り一つ近くの永田駅に向かいました。

本日は一日中、重忠のことで終始した気がいたします。

皆から尊敬され愛馬を背負うような人は、いったいどの様な顔の武将だったのでしようか。

今もなお人々に愛される鎌倉の武士(モノノフ)に思いを駆せながら秩父鉄道に乗り込みました。18日は熊谷駅までウォーキングのグループの方々と話を弾ませながらの帰路でした。

また雑草のホトケノザとオドリコソウの違い等を熱心に話している方もいらっしゃいました。

本日も無事終了致しました。

皆様お疲れさまでした。

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鎌倉街道上道  第五回 児玉~小前田

 

 

2月14日(火)、18日(土)両日で40名のご参加で五回目の上道をスタート致しました。

本庄駅西口のバス停から児玉行バスに乗り20分余りで児玉駅入り口に着き、5分~6分で塙保己一記念館に着きました。

ビデオを流したり編纂した和綴じの本の山、中でも保己一が生涯大切にしていたという母の帯での手縫いの巾着が心に残りました。

20分位の間、見学をしました。

芭蕉句碑をいくつも建てた伊藤石材店の前を通ります。

前回の鎌倉街道の終了地点を左に見ながら進みます。

10分位歩くと競進社模範蚕室に着きました。明治10年に、家蚕に炭火の火力で湿気を除いた暖育により病蚕を防ぐ方法を考案しました。明治27年に児玉蚕業伝習所を開設し、現在の白楊高校に至ったとの事です。

11時25分、すぐ側の日蓮宗玉蓮寺へ入りました。

日蓮が佐渡に流される時と放免になり帰国の折の二度、泊まった地で児玉六右衛門は上人入寂後、宅地に一寺を建立したのがこちらの玉蓮寺なのです。

井桁に橘の紋は日蓮上人の御実家の紋で児玉党の軍配団扇紋が屋根の漆喰に浮き上がっていました。日蓮足洗い井戸、時国供養塔の板碑が残っており児玉氏の子孫の久米家の墓には家紋が彫られていました。

梅の咲く参道へと続く東石清水八幡神社は1063年に源頼義、義家が奥州征伐の時に戦勝祈願をし安倍氏を亡ぼし京都に帰る際にも、この地に寄り八幡宮を勧請したのが始まりという事です。

青銅の鳥居と赤い随身門が印象的でした。最後に御嶽神社が祀られている岩の山を眺めました。

玉蔵寺は新田義貞が挙兵した際の児玉党の戦死者を慰める為に、八幡山の雉岡城がある所に祀りましたが、後に現在地に移されたとの事です。

山門は戦国時代の造りで釘を使わない飛騨匠の作という事です。

5分位の処に赤い鳥居の龍體稲荷神社があります。講師は釈迦が誕生の際に九頭竜が甘露の雨と花を散らして祝福したと話していました。

1800年の庚申塔があり、見ながら通りました。

法養寺は八幡宮の別当寺との事で菊と桐の寺紋です。六角堂はボケ防止の観音様で皆でお参りしました。お堂の中を写真で撮らせて頂きました。おもちや花が供えられていました。

芭蕉句碑の「父母のしきりに恋し雉の声」の句に各自、両親を思うのでした。

庚申塔は1728年と古いものがありシヨケラや三猿の彫りには時代を感じながら鑑賞しました。

鐘楼の門をくぐり、法養寺を後にしました。

10分位あるくと見馴川に出ました。水量はとても少なく千本桜と云われる桜の木の並木が続いています。

しばらく川辺を歩き横切った先に工場が見えてきました。大きな壁絵でガリガリ君のアイス工場とわかりました。

そして、その先の一里塚跡に着きました。樹齢300年以上あった榎は現在はなく、誰もいない公園がありました。

お昼過ぎに久々の屋内でのランチを楽しむ事ができました。梅の活花が迎えてくれました。

天婦羅や海鮮丼、唐揚げ等の中で土曜日はお薦めの海鮮丼にしてみました。

ランチすべてに飲み物付きでリーズナブルなお値段にも満足でした。45分位ゆっくりと過ごす事ができました。

綺麗に舗装された広い通りに出て南方へと歩みを進めました。左手を見ると田圃の中に盛り上がった土がポコポコとあります。何と古墳という事です、一番大きいのは前方後円墳との事です。方墳や円墳等10個ちかく残っているとの事です。我々は遠く古墳時代に思いを馳せるのでした。

芭蕉句碑の「麦刈て桑の木ばかり残りけり」を見て、そのまんまの句だとどなたかが・・・。

镹蕤(みか)とは酒造りに使う大瓶の意味で土器や窯跡が見つかっているとの事です。本殿の彫刻が思いの他に立派で見入りました。

摩珂池は古代からあった池で水利の悪いこの地に摩珂般若経を納めて築いたとの伝承があります。

池に球を打つゴルフ練習場は現代人の驕りの様に見えてしまうのですが。摩訶不思議な光景は昔の人々に申し訳ないような気分になりました。

一方で、本日の浅間山の美しい姿は私たちを大変感動させてくれました。

10分位で真言宗智山派の常福寺に着きました。

天平年間創建で空海の弟子の空與が開山し摩珂般若経の秘法を修し摩珂池を開いたと言われています。今でも灌漑に利用されているとの事です。

7分~8分で大伴部真足女歌碑にきました。防人の妻が別れの悲しさを詠んでいました。「枕太刀腰に取り佩きまかなしき背ろがまき来む月のしらなく」

大伴部とは大伴の使用人であるとの意味だと講師は説明しました。

すぐそばに曝井がありました。万葉集に詠まれた織布を晒す井戸があり、若い女性が集まるところから男女交際の場となったといいます。かれる事のない水が湧いたという社交の場は、今でも細い川がありますが、当時を偲ぶことは出来ない眺めでした。

富士講の碑が奥に見えている道を進みました。石碑群の中には篆書の庚申塔もありました。鎌倉街道の案内板も立っています。

大仏の集落は鎌倉時代の北条氏の親類である大仏陸奥守の居住地でした。道しるべに大仏村と刻まれています。

六道能化地蔵尊のそばの小さな薬師堂を見て、浅間大神の石碑や北口登山の碑を見ながら進みました。

雷電坂に雷電神社がありました。雷坂さんの表札には思わず笑いが出ましたが、誰もが何かつながりがある気がしてくるのでした。

30分位頑張って進みました。この辺りの地名となっている甘粕氏や猪俣氏の話を聞きました。満州国で暗躍した甘粕正彦を思い出しました。

真言宗の普門寺へと入りました。龍頭観音が美しく、江戸時代の四十九院石仏群も一体一体じつくり見たいと思うのでした。

杉並木の参道を歩く時、陽差しが西陽へと替わっていてとても良い雰囲気でした。

 

大きな白梅の木が満開で右手に立っていました。数分で寄居町へと入りました。

諏訪神社をちらりと左手に見て先を急ぎます。道路表示に小前田駅が現れました。

JR八高線の踏切には鎌倉街道踏切と表示されています。

折れた場所が修復された「脇往還川越道」の碑は2Mとありますが高く感じました。

ここを西に真っすぐ入った所に用土城(藤田康邦が築く)があったとの事です。

マンホールは、はなぞのの可愛い絵になりました

常光寺に着いたのは電車の時刻があと20分位に迫っている頃でした。コンクリートの本堂とそれに連なる建物はすべて新しく講師の案内する墓の前でその訳が解りました。

鳥羽家の立派な墓はドトールの創業者一族のもので、菩提寺としてかなりの力をそそいだとの事でした。

常光寺持の神社へも寄りました。原宿八幡神社は赤い屋根で神殿の彫刻は小さいながらも美しいものでした。

急ぎに急ぎ小前田駅を目指します。

秩父線の電車の方が早かったのですが駅員さんの計らいで全員乗せてもらいました。今回は10キロ以上の行程で、皆さま大変お疲れ様でした。

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鎌倉街道・上道  第四回 神流川から児玉

今年、初めての上道の日、17日(火)、28日(土)はどちらもお天気に恵まれました。本庄駅から一時間に2本のバスが出ています。10時過ぎの鬼石行きバスで約15分の元安保で降り、5分くらいで安保氏館跡に着きました。

安保氏は北武蔵の豪族で鎌倉幕府の有力御家人でした。北条氏に接近し勢力を伸ばした後には足利氏に仕え、小田原北条氏に仕え関東の名族となりました。子孫は日露戦争時の戦艦三笠の砲術長で日本海海戦に活躍したという事です。

次の安保神社には、裸木の御神木がそびていました。

浅間山を右手に、赤城山を背に歩きました。

池上神社への道標がありました。

まずは隣の幸春院に着きました。丹党の安保直実の開基です。こちらは六地蔵塔が有名です。石灯篭の形をした石幢で、六角柱の各面に地蔵菩薩の浮彫がされています。

かっては中央の穴に車石がはめられ念仏を唱えながら回すことで願いが叶えられると言われていました。

大きなサボテンが何故か本堂の前に沢山ありました。

11時20分頃、池上神社に着きました。安保領の用水の堰口に当たるので水の神様を祀っていたとのことです。

雪を頂いた山々の何と美しい事でしょうか。こちらから見る風景が良いとの事で私たちもしばし観賞しました。

八高線を渡りました。17日は写真家の人たちが大挙してカメラを構えていました。赤城山等の山々と列車をカメラに収めるためでしよう。

高橋記念館に11時半すこし前に着きました。高橋家は天保年間に賀美郡一帯の大地主でした。穀蔵を供えた立派な門構えだけがあり当時が偲ばれました。白壁は美しく大きな木が所々に立っていて誰も居ない静かな佇まいでした。

百科事典の平凡社を大正2年に設立しました。

神流川へまっすぐ歩いて行き海洋センターで御手洗い休憩をとりました。

先月はこの対岸を訪れました。神流川の枯れた土手が続いている景の何と長閑な事でしょうか。

もうお昼前になりました。田園の一本道をどんどん進みます。28日は、くっきりと山々が見えました。日枝神社の横の公園の古びたベンチで皆さんそれぞれに持参のお弁当を頂きました。

日枝神社の鳥居は赤くて山王鳥居の形が珍しく、大きな亀石があるのにも注目してお参りしました。

日吉=日枝神社は、比叡山の事で日吉信仰と天台宗の結びつきから別当の長慶寺が創建に関わったと考えられています。

次に長慶寺へと入りました。菊に三諦星は天台宗の正式紋で格式の高さが分かります。

こちらは義民田村埜之助翁顕彰碑があります。中山道の交通量が盛んになり助郷負担が大きなり、助郷反対で1764年の大百姓一揆が起こりました。中心人物の一人として田村埜之助は捕えられ牢死し、墓碑は子孫が確認されたので建立したとの事です。

10分歩くと、桜の木の下がこんもりと盛り上がっている場所にさしかかりました。この小さな塚は、小田原北条氏の攻撃を避ける為、雉岡城を任されていた夏目氏の姫を雉岡城から上州の平井城へ逃げさせる途中、病弱な姫がここ植竹の地で亡くなりました。亡き骸を雉岡城に方に向けて埋葬したという悲話があります。

この辺りの全ての畑に用水が巡らされてあり驚きながら進みました。

14,5分ぐらい歩くと八高線を渡ります。

玉子の自動販売機にまたしても驚かされました。産み立て卵に心が動きますが私たちは立ち止まることが出来ません。

大きな防風林のある屋敷の横を通り、奥の方に板碑がずらりと集められている場所を見ました。

すぐに経力稲荷の赤い鳥居がありました。細い道をどんどん入ると奥にはキツネがずらりと並べられていました。この道が安保神社前からの鎌倉街道だとの説明を聞きました。

この辺りは、しばらく鎌倉街道が続きます。

八日市熊野神社は古くから八の日に物資の交換市が開かれていましたが、延宝2年1674年に交換市で争いがおこり大火となって獅子舞の厄払いが奉納されたとの事です。ガラスの中の本殿ものぞきました。横には御神輿が置かれていました。

龍清寺は真言宗のお寺で南無不動明王の幟が立っていました。樹齢約300年の榧の木が飛竜の名の如く傾いています。塙保己一が幼少の頃、こちらの住職から太平記を読み聞かせてもらったということです。

28日(土)には幸運にも本堂が開いていて中に入らせてもらいました。

御位牌の前に小さな保己一像があり撫でると頭が良くなるというので心を込めて撫でさせたもらいました。

芭蕉句碑の「若葉して御めの雫 ぬぐはばや」の鑑真和尚への思いを偲びました。

14時ちかくに本日のメインともいうべき塙保己一の生家を訪ねました。

門は開かれていましたが、茅葺の家は直系の方が住んでいらっしゃるとはいえ、何も動きがなく静かでした。私たちも静かに拝見させてもらいました。

名字帯刀を許された農家に延享3年(1746)に生まれ7歳で失明。江戸四谷の雨富検校に入門し国学の学者として成長するのでした。水戸藩の大日本史の校正にも加わり盲人の最高位の総検校になったとの事です。

生家の手前を少し入った所に墓があり、最近新しく整備されたとの事です。

明治4年には正四位を贈られました。

14時半過ぎに気持ちのいい道をどんどん歩きます。道が線路沿いとなりました。

小さな雀橋を渡りました。ここから鎌倉街道ということです。

昭和42年3月に架けられたコンクリートの小さな橋ですが、その昔はどんなふうだったのでしようか。

暫らく歩き大通りに出てスーパーやおよしで御手洗いと休憩をしました。

15時半頃に浄土宗の長福寺に着きました。両側の葵の紋の真中に杏葉の紋の屋根が立派でした。

こちらの本堂の下が鎌倉街道という事であす。疱瘡稲荷の中をのぞきました。

こちらの僧侶の呑龍上人は庶民教育に心を砕き、貧困者の子供を引き取り教育したので「子育て呑龍」と呼ばれていたそうです。

法然上人の像のお顔が若々しく感じました。

16時過ぎ、本日最後の雉岡城跡に着きました。別名八幡山城跡とも呼ばれ戦国時代には山内上杉氏の居城として築かれましたが、狭いので上州平井城に移り家臣の夏目氏に守らせていたということです。そこで、本日見たばかりの姫塚を私達は思い出すのでした。

夜泣き石(親子石)の悲しくあわれな話を聞きました。正室と側室の関係にはいつの世もそしてどの国でも悲話が残っています。堀の中にある小さな石を私たちは見つめるのでした。

奥の小さな金毘羅宮にも参りました。きりぎりすの句碑(むざんやな甲の下のきりぎりす)は斜面にあり見えにくく、この句碑も石材店の伊藤さんが寄進したとの事です。

塙保己一記念館は移転していたので次回に廻しバスで本庄駅に向かいました。28日には講師のミニマイクが登場しました。これからは少し聞き取りやすくなるかと思います。

外でのお弁当が続き大変でしたが、美しい山々の風景を眺める喜びも味わいました。

皆様朝早くから大変、お疲れ様でした。

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おもしろ歴史講座がいよいよ始まりました。1月21日、25日は「地名の話」でした。

まず国名の始まりは、秋津洲、大八洲国、敷島、豊葦原瑞穂国。倭国や大和国を経て日本国になるまでの興味深い話からスタートしました。

日光は、広島は、福島は、はたまた上九一色村は、白馬はどのような由来で決まっていったのかという話もありました。

1時15分から4時半まで、真ん中で15分の休憩があり、最後に質問時間もあります。

皆さまのご参加をお待ちしております。

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