江戸名所巡り 第一回 日本橋界隈

 

 

弥生三月、いよいよ江戸名所巡りが始まりました、歴史的な物に触れながら安藤広重名所江戸百景と江戸名所図会を巡る第一部の16回です。老舗での食事や買物も計画に入れているというお楽しみ満載の旅にさあ、御一緒いたしましよう!

3月20日(火)22日(木)24日(土)総勢50名近くの皆様と東京駅日本橋口を出発しました。広場でご挨拶をした後、北町奉行所跡を見ました。芝笹の中に当時の石が置かれ同心や与力の話を聞きました。細い通路の左植え込みには、珍しい黒文字の木があり鑑賞しながら通り抜けました。

工事中の壁面は、1950年代のゴジラ展で第一作目からのポスターが飾ってありました。筆者が見たのはモスラ対ゴジラでザ・ピーナッツが主題歌を歌っていたのが印象に残っています。

常盤橋門跡は未だ修復工事が終わらずに渋沢栄一像だけが目立っていました。幕府崩壊後、外堀に架かるこの常盤橋の御門を残す為に尽くしたとの事で、没後に銅像が建てられたそうです。

常盤橋を渡り、この辺りからの眺めという広重の絵を見ました。

橋を渡った先は一石橋がありました。江戸時代、北橋詰には金座御用の後藤家で南詰には幕府御用の呉服所の後藤家があり、それをもじって五斗と五斗で一石橋と呼ばれ、にぎやかなこの場所には迷子しらせ石柱が建てられていてその名残が偲ばれます。迷子についで溺死も多かったとの事で胸が痛みます。

橋を渡り金座跡へと戻りました。現在の日本銀行です。上空から見ると円という形になっているのが有名ですが、明治時代にバロック式とルネッサンス的意匠を加えた建物との事です。こちらも工事中でした。

向かい側に貨幣博物館があり20分位見学しました。オリンピックが近付きセキュリティが大変厳しくなっていて驚きました。分銅金、天正、慶長大判の本物を観、また千両箱など持ち上げる体験をしました。

延命地蔵の前を通り栄太郎本舗を見ながら進みます。1818年、初代が孫を連れて飯能横町から江戸に出てきたのが始まりとのことです。

漆器屋の黒江屋の二階には日本橋の擬宝珠1658年のものが展示されています。近江から京都に出て萌黄色の蚊帳で成功した西川のビルも見えてきました。

 

日本橋に出ました。美しい字体が見えます。徳川慶喜筆との事です。

桜が咲き始めて何とも華やかな気分にさせてくれます。しかし橋の手前には江戸時代の曝し場があったとの事です。日本道路元標があり、現在は七つの国道の出発点となっています。高札場は石造で瓦屋根で立派に標されてありました。

橋を渡ると日本橋魚市場発祥の地の石碑と乙姫さまのふくよかな像があります。晒し場の対岸に魚市場とは何とおおらかな時代だったのかと感じてしまいます。関東大震災後は現在の築地に移ったそうです。

昔の駿河町にはちゃんとスルガ銀行があります。向かって左手をまず進みます。

伊勢松阪から出て来た三井高利が小さな呉服店を開き、次々と商法を打ち出した越後屋跡に三越があります。イギリス製のライオン像を撫でて、イタリア製の大理石の中のアンモナイトの化石を見ました。現在本館の建物は国の重要文化財に指定されています。

そこで資料にある越後屋と三井両替店との間から富士山がある広重百景の一枚を私達は現在の石造のビルに重ねて眺めました。

千疋屋は1834年に埼玉県千疋村の弁蔵が果物と野菜を安く商った店です。現在は日本一お高いかも知れません。

お向かいの通りも老舗揃いです。日本一よく切れるという刃物の木屋は1792年、鰹節のにんべんは1699年創業。勝男武士とも読めるので武士の進物によく利用されたとのことです。山本海苔店は明治に入り味付け海苔を考案し山岡鉄舟が明治天皇へのお土産にしたという話があります。

角を左に折れると三浦按針屋敷跡があります。領地の三浦からこの姓を名乗ったとの事で家康の外交顧問をしたとの事です。

細い路地に入り現在まで続く日本最古の弁当屋で代表的なお弁当を受け取りました。愛之助さんのサインがありました。1080円、お昼が楽しみです。

神茂も1689年の創業です。佃煮の鮒佐も角にあり「家業に誠実たれ」を家訓としています。

どんどん細い路地を行きこじんまりとしていて明るい「さるや」という楊枝の店にも心を惹かれました。猿は歯が白いという話に私達は本当かしらと驚きました。

とよ田という割烹の高級そうな店構えをながめました。

12時を廻っていました。火曜日は雨の為にお弁当を持ち帰る事にし、思い思いの店を選び昼食を取りました。筆者は小さな麦とろ定食の店に入りました。他の日は福徳神社と薬祖神社のあるコレド室町の広場で弁松のお弁当をいただきました。

味が少し濃くてさすがに魚河岸で働いた人たち向けの味だと感じます。

1時過ぎに午後の部がスタートしました。薬祖神社の建物は新しくこのコレド室町の新しいスペースにピッタリの様に思えました。オオナムチノカミとスクナヒコノカミを薬種商いの神として祀っていて日本の有名な製薬会社の名前がすらりと石に刻まれています。

福徳神社は850年頃に鎮座したとあり源義家や太田道灌などが尊崇したとの事です。

大通りに戻りすぐに村田眼鏡店の前に出ました。何と一日目の3月20日(火)で閉店するとありました。1615年、鏡師の村田山城守が創業、眼鏡店となってからは宮内庁御用達の高度な技術で知れていました。とても残念ねと皆さんでお店の中を覗き込み通りました。

長崎屋跡は日本橋室町4丁目2番地付近に説明板が立っていました。

船来品の薬種を扱っていて、ケンペルやツンベルク、シーボルト等の医師がいたために杉田玄白や平賀源内等が訪問し外国の知識を吸収する場となっていたとの事です。

公事宿があった事も知りました。公事訴訟や裁判の為に地方から来た人が宿泊できる宿で、長く逗留した大石内蔵助は出る時に100両の御礼をしたと伝わっています。

1分もすると蕪村の居住跡もありました。俳諧師であり画家でもありました。蕪村の句「月天心貧しき町を通りけり」「菜の花や月は東に日は西に」が浮かんできます。

直ぐ隣の石町時の鐘は家康と共に江戸に来た辻源七が鐘付役に任命され、代々その役を勤め1711年の鐘が十恩公園内に移され現在も残っています。

時の鐘通りの美しいマンホールにも私達は注目しました、

通りから一本南に行き、1,2分で佐々木印店です。こちらも幕府が開かれた折に三河から移り将軍や御三家等の印章を造ったという店です。

日本橋からはじめての橋の今川橋跡がありました。当時、今川氏の尽力により架橋できたので名が付いたとも今川氏の屋敷があったからとの説があります。

神田駅のガード下を潜りました。西方の高架の上に徳力の文字が見えます。徳力本店は将軍吉宗の命で金銀の改鋳を始めました。現在も金銀の売買をおこなっていると聞きました。

JR神田駅付近は下駄製造業が多く下駄新道と呼ばれていました。

小さな和菓子屋がありました。二十二代木村庄之助の息子が始め現在は孫の代という事です。次から次へと客が入って行きます。我々も名物の庄之助最中を求めました。愛子さまのお祝い事の時にご用命があるという赤飯もみるみる内に無くなりました。

2時過ぎに神田青果市場発祥の地の石碑を見ました。

あんこう鍋の伊勢原、甘味処の竹村、神田薮蕎麦のお店が次々と現れました。第3回目には神田薮蕎麦の予定です。楽しみです。

筋違見附は現在の万世橋と昌平橋の間にありました。中山道と寛永寺への御成道が交差することから名付けられました。昌平橋を渡ります

2時20分頃、迎高門という門から聖堂に入りました、台湾から贈られた世界一の大きさという孔子像は頭が大きくどっしりした感じがしました。楷書の字を感じさせる櫂の木は孔子廟に植えられる樹で孔子が亡くなった後に弟子たちが植えたそうです。

入徳門は1704年、水屋は1799年の建造で当時のままに残つていました。杏壇門は学問を教授するという意味です。聖堂の屋根の飾りに注目しました。鯱の元になったという不思議な形の飾りが空に映えていました。土曜日は気功をしている集団で賑やかでした。聖堂に隣接して幕府は昌平坂学問所を作りました。明治になり開成所と医学所を合わせ大学校としたとの事です。

聖橋を渡る時に青いドームの屋根が見えてきました。橋を渡り左手に一口(イモアライ)太田姫稲荷神社がここにあつたという印の古木にしめ縄を巻いていました。元宮があった場所を見て紅梅坂を上がりました。

通称ニコライ堂へと入りました。正式名は、東京復活大聖堂といいロシア正教の教会で、大主教ニコライにより1884年から7年の歳月をかけ建てられたとの事です。

300円で教会の内部に入れてもらい説明を受けました。ろうそくを一本ずつ立てて火曜日と土曜日は女性、木曜日は男性の方から説明を受けました。

ニコライ神父の絵が右手に、左手にはローマ帝国兵士姿の若者の聖人の絵があり印象的でした。

十字架の形が八端十字と呼ばれて、下の斜めの棒が足台を表しているとの事でした。

坂を下り5,6分で太田姫稲荷に着きました。道灌の娘が天然痘を患った時に京都の一口稲荷に祈願したら平癒したので感謝し1457年に江戸に勧請しました。家康の入府に伴い移築したとの事です。どなたか太田道灌の山吹が咲いているよとおっしゃいました。

甲賀通りを横切ると小栗上野介ここに生まれるの看板がありました。幕末の外交財政政策をリードした人物でしたが新政府により斬首されました。しかし後の日本にとって大変貢献してくれた人物だと講師は力説するのでした。

次に大久保彦左衛門の屋敷跡と大きなビルの下に石標がありました。二千石の旗本は駕籠には乗れず朱塗りのタライで登城した話が有名です。

3時半頃に本日最後のお茶の水の碑を見ました。二代将軍の秀忠が鷹狩の帰りに立ち寄り御茶を飲んだところ気に入り将軍家御用の水となったとの事です。

本日はJRお茶の水駅で解散です。

江戸時代の社会や暮らしを少し垣間見た気分になりました。

皆様と江戸名所の第一回をとても楽しく終えることができました。

ありがとうございました。

花の陰江戸のなにがし屋敷跡  慶月

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第十五回 鎌倉街道上道  府中から乞田

春の日差しを受けて、街道歩きにはとても良い季節となりました。鎌倉街道上道も早や15回目を迎えました。

3月6日(火)、10日(土)合わせて30名の御参加で武蔵の国府があった場所を歩きました。6日はポカポカ陽気で汗ばむ位でしたが、10日は歩くのに丁度良い気温で、皆様の足どりも軽く進むことができました。

10時、北府中駅を出発しました。左手に古くなった府中市民球場を見ながら進み川越街道の石柱を左折しました。1996年の薮内佐斗司の作品で蛙や童子の展示物をよけながら進み蓮の花や葉の集まる堂々広場を鑑賞しました。

10時20分過ぎに大きな欅の道に出ました。ここはもう大國魂神社の参道です。源義家の美男子の像が建っていました。源頼家、義家親子が前九年の役の折、戦勝祈願で奉納した千本の苗木からこの並木は続いているとの事です。当時の樹といわれているのは正面鳥居の両側の二本だけとのことです。

虚子の句碑や万葉仮名の歌碑もありました。

義家が奉納し現在に至っているという二本の欅が見えてきました。6日には神官の方が注連縄を直されていました。

参道の左手に宮之咩神社の珍しい奉納品を目にしました。穴の開いた柄杓は安産のお礼に納めるとのことです。

そのずっと奥に国府府中跡の赤い柱を見ました。武蔵国国府の国衙跡と推定されています。官僚が仕事を行っていたという場所でしようか。何本もの赤柱が建てられていました。当時を思い描くには少し難しい気もいたしましたが、私たちはその朱塗りの柱の横を通り抜けました。

立派な土俵を見ながら大國魂神社の境内へと戻りました。歴史館を見学しながら御手洗い休憩を取りました。

3月10日には、歴史資料館を出て直ぐに結婚式の行列を見ることが出来ました。雅楽が前を先導し、とてもおごそかでした。

日露戦役記念碑や中門、亀石、鶴石、鼓楼を見ました。

拝殿の後ろの本殿は隙間から覗きました。

松尾神社には酒樽が奉納されていました。神馬像や東照宮を見ました。住吉・大鷲神社へもお参りしました。

この東照宮は、秀忠の時代に家康の柩を久能山から日光の二荒山に移す折こちらで一泊したとのことで、後世に伝える為に1618年創建されました。

先を急ぐ私たちはゆっくりしていられないのが残念です。

地獄坂とも暗闇坂とも言われた裏道を通り妙光寺の立派な朱の門を見て、少し高くなっている場所へと進むと小さな琴平神社がありました。天狗の団扇の紋です。なぜ航海の神である住吉や琴平があるかは、当時多摩川がすぐ下を流れていてここは重要な物流の拠点だったという事を意味しているのです。

6日も10日もまだ梅が美しく咲いていました。通りに出て天台宗善明寺へと入りました。山門を潜ると美しいお庭が広がっていました。御堂には畠山重忠の愛人の夙妻の死を憐れんで鋳造したという鉄仏が納められているそうです。

ずっと奥の駐車場の隣に依田伊織の墓がありました。1681年府中本町に生まれ神道、仏教、儒教の三教一致を説いたとの事です。

12時頃、古い市役所の建物の前を通り本日のお昼のカフェに着きました。1861年建築の中久本店で、今は黒壁の土蔵造りのカフェと酒屋が一体になっています。火曜日は一階と二階に別々に別れて頂きましたが、土曜日は一階フロアを「あるき隊」の貸し切りとしてもらいました。多くの方がランチと共にコーヒーやデザートも楽しまれておられました。

1時間の休憩の後、ます直ぐ側にある高札場をみました。人通りの多い場所に禁制や法令等を伝える為に板札を掲げた場所です。隣りの御旅所の赤い柱の柵が目立っていました。

5分位で本日のメインの一つである高安寺に着きました。

藤原秀郷(俵藤太)の創建と伝えられ、武蔵守として在任中の居館として開かれたと伝えられています。後に足利尊(高)氏により再興され、尊氏の院号の名を取り龍門山等持院高安禅寺という立派な古刹です。山門の扁額を見ながら入り、観音堂の三間堂を眺めながら干支八体本尊が並ぶ参道を楼門へと進みました。

仁王像の裏側には奪衣婆像があり、私達はギヨッとさせられました。

墓地に入らせていただき太田蜀山人の書体を見せてもらいました。

タラヨウの大きな木がありました。葉書の木とも言われ仏教の経典は初期にはこの葉に書かれたとの事です。

奥の立派な本堂には足利家の家紋である二引両が輝いていました。木曽源太郎義顕の墓が大きく建っていました。木曽義仲の25代子孫で明治時代に自由民権運動家でした。

秀郷稲荷は屋敷跡との伝承です。説明を聞いていた時に頭上では緑の鳥が飛び交っていました。野生化したインコだそうです。

稲荷の脇の足元の悪い階段を降りると弁慶の硯の井戸がありました。義経が腰越で拒まれ、京都を目指す折に弁慶が再度、文を書いた時の硯に水を注いだ井戸とのことです。

分倍が原駅前に新田義貞像があり御手洗いと写真を撮影しました。

5分から6分で高倉塚に着きました。この辺には27基ある古墳の一つです。6日には辛夷の蕾がふくらんでいました。

陣街道は別名を鎌倉街道、浅間道、分倍道とも呼ばれていました。

通りに向いている抱き板碑は、古木になった欅の木に抱きかかえられるように立っていました。1319年、父親の17回忌の供養に建立された事に驚きましたが、説明板には風化がひどく複製との事で納得しました。。

その板碑が境内にあった天王宮八雲神社に入りました。牛頭天王と須佐之男命を合祀して分梅地域の鎮守としたとの事です・

10分ぐらいで分倍ケ原古戦場跡に着きました。きれいに整備されていて遊歩道の脇の樹々は芽吹き始めていました。1333年5月15日、新田義貞勢は合戦に敗れ所沢方面に逃れたが、三浦義勝をはじめ相模勢が加わり16日未明に北条勢を急襲し破ったとの事です。これで勝負がきまり鎌倉幕府が滅亡する事になりました。

ここ分倍が原に今は春光が温かくふりそそいでいました。街道はここで一旦途切れるという道を振り返り中河原駅を通り過ぎました。

10分位で関戸橋にさしかかります。

西を見ると橋を電車が渡っています。江戸時代、多摩川の鮎は特に有名で日本橋の魚市場に送る為に「鮎担ぎ」が駆けたとの事です。

地蔵堂の前に関戸古戦場跡という標識があり曲がると弓の名手であった横溝八郎の墓がありました。元弘の戦いで戦死した北条方の屍を埋めた墳という事です。

すぐに、関門山地蔵院延命寺という時宗の寺に入りました。ここは藤沢の游行寺の隠居寺のために檀家がなく地元との繋がりもないとの事です。紅白の梅が美しく咲き、お地蔵さまたちが印象的でした。

数分あるき道路の右手を上がり無名戦士の墓という小さな祠と石塔二基を見て急階段を気を付けながら降りました。

15時50分頃に相沢五流・伴主親子の墓が観音寺にありました。京都の仁和寺で法眼の位についた狩野派の絵師で、華道の允中流の創始者でしたが一代限りだったとのことです。

そして六観音さまをお参りしました。

すぐ近くの小山家の中に入れていただき、お庭の奥の安保入道道忍の墓を見せてもらいました。安保氏は北条家との繋がりが強く、安保実光の孫娘は三代北条泰時の後室として入っています。卒塔婆が立てられ供花もありました。

16時過ぎ熊野神社前の交差点です。

鎌倉時代、関所の南木戸があったと言います。関所は霞が関と呼ばれ日本武尊が、都より雲霞を隔て遠い場所というところから付いたとの事です。日本武尊が蝦夷来襲に備えて造った関所という事です。当時の関所は木の丸太が建てられていて馬が通れないようにしていました。

熊野神社の紋である八咫烏の三本足を見て、今年行われるサッカーワールドカップを思うのは筆者だけではないはずです。

4時過ぎに一路、乞田を目指します。16時30分、交差点を渡る手前で本日の終点となり永山駅に向かいます。

10分位で小田急と京王の永山駅に着きました。来月は講師の地元の町田を歩きます。本当の鎌倉街道が三ヶ所残っている所です。どうぞ御期待ください。皆様お疲れさまでした。

 

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第十四回・鎌倉街道上道(東村山から府中)

2月6日(火)、10日(土)、いつものメンバーに男性新会員が加わり東村山駅を10時過ぎに出発しました。両日共にお天気には恵まれ、火曜日は富士山が見えるスポットもあり楽しみながら歩きました。まず駅前にある志村けん氏の欅の献木を見てから歩き始めました。

10分位、歩くと江戸時代の新田開発の際の境界として塚の跡があり、その上には平和の女神像が立っていました。この像は太平洋戦争・満州事変・日華事変の遺族が募金により建設しました。

新青梅街道を渡り16号線の府中街道を進みます。空堀川は、かつては清流でしたが狭山丘陵の木を伐採したので水が涸れたとの事です。現在は水が流れていて鴨が浮いていました。野口橋を渡りました。

すぐに八坂神社に着きました。スサノオノミコトが祭神で別当寺はあの国宝の地蔵堂があった正福寺です。額は「牛頭天王」とありました。私たちは前回のユーモアのある牛頭天王の像を思い出しました。

狛犬の一対はかなり古く見えました。もう一対は新しく江戸狛犬の形態で堂々としたものでした。犬好きの筆者は、狛犬の表情が毎回楽しくてたまりません。

10時50分頃、八坂口小学校の前を通り西武多摩湖線の高架線下を潜りました。11時頃に九道の辻に出ました。小さな石橋供養塔と馬頭観音がありました。

①鎌倉街道②御窪道(府中街道)③大山道④秩父道(青梅街道)⑤宮寺道(入間宮寺、山口道)⑥奥州街道⑦清戸道⑧引股道(川越道)⑨江戸道の「九道の辻」は今もほとんど形を留めていて、新田義貞が鎌倉への道を見失い一本の桜を植えて目印としたと伝わっています。一本の高い桜の木がありました。

九道の辻の標識が立っている右手に野火留用水が流れています。伊豆殿堀とも呼ばれていた1655年、老中の松平伊豆守信綱は玉川上水の水を一升桝口の水量分を領地に引き入れる許しを得ました。東村山の中島町から九道の辻を通り現在の志木、新座の稲田を潤いました。

西武拝島線を見ながらブリジストンの広い広い工場の横を歩きました。

11時20分頃、今日の昼食の場所に着きました。ちよってお早いお昼ですが大半の人がフアミレスに入り、1時間の予定が料理が遅く出てきたので5,6分長くなりました。

12時45分頃、鎌倉街道の立看板には昭和43年の小平市の鎌倉街道の写真を見ることができました。

その後には梨畑とブドウ畑の間の道となっている鎌倉街道を進みました。無農薬や減農薬の字が印象に残りました。

津田塾があったので昭和37年に津田町と名付けられた場所も通りました。

玉川上水に架かる鎌倉橋を渡ります。

鎌倉橋を渡りました。鎌倉橋とは嬉しいではありませんか、鎌倉への道を進んでいる証です。江戸時代初期に造られ神田上水と共に大変重要なものでした。

二つ塚緑道を通り稲荷神社に着きました。二つ塚稲荷の由来は玉川上水の南側の林中に塚が二つ造られていたからという訳です。拝殿の左手前に染井吉野の桜の実生と云われている桜と、それに寄木のように生えている南天の木があります。毎年、花を沢山、咲かせるという桜を見たいもんだと私たちはその傾いた木を見上げました。

1時20分頃、上水本町から国分寺市に入りました。

恋ケ窪という何ともロマンチックな交差点を通ります。火曜日は車の間からチラリと雪の富士山が見えました。私たちはどんどん進みました。

2時少し前に恋ケ窪の鎮守である熊野神社に着きました。

明治7年に建てられた傾城歌碑と芭蕉句碑を見る事ができました。

芭蕉句碑は恋ヶ窪の俳人が建てたもので自分の辞世の句碑がありました。熊野神社と云えば三本足の烏を思い出しました。

すぐ近くの東福寺で御手洗いをお借りしました。こちらには中国菩提樹がありました。1730年造営の記念樹と云われています。葉の下に実がぶら下がっています。

昭和12年とまだ新しい傾城墓は思いの他、小さく感じます。畠山重忠の戦死の誤報を聞いた愛人の夙妻(アサズマ)は姿見の池に身を投げました。

里人が供養の為に松を植えたのが不思議にも一葉の松になったと武藏野話にあります。

その松の一葉は少ししかなかったですが見つける事ができました。

江戸初期(1657)、玉川上水からの分水で村の収穫量が倍になったそうです。現在の恋ヶ窪用水は復元されたものですが自然の中に踏み込んで行く感じを味わう事が出来ました。2月6日は細道にまだ雪が残っていました。

姿見の池には真鴨が美しい姿を見せてくれました。又、なんといってもこの池に住みついているらしいカワセミに会えたことはこの上ない喜びでした。

6日、10日共に見る事ができました。どなたか夙妻の化身ではないかとおっしゃっておられました。

その夙妻を供養する為に建立した阿弥陀堂跡も見て次に進みました。

住宅地の中に開けた空間があり律令時代の東山道連絡道の官道である事を知りました。その幅の広いこと。私達は奥まで歩いて確かめました。

縄文時代の敷石住宅である石柱住居跡を見ました。

両側が少し高くなっている道にさしかかりました。伝鎌倉街道の石柱が立っています。

ここが、伝鎌倉街道と表現されていて何とも、いにしえの昔に思えてきます。

いきなり視界が広がり国分尼寺跡に出ました。尼寺跡には多摩川の石を礎石として並べられていて我々を律令時代へといざなってくれていました。金堂跡には昔の地層が見られるようになっていました。

数分で国分寺跡へと着きました。低い石積みされている最中で工事が進められていました。奥に進み七重塔の礎石跡に佇みました。国分寺は奈良の中頃、聖武天皇の勅で全国六十余国に僧寺と尼寺が置かれました。その中で最も大きかったのがこの武蔵国の国分寺だったとの事です。

入ってみたいカフェがありました。

6日は文化財資料展示室へ、10日は100円の入場料を払い資料館に入りました。土の中から発見された小さな観音像に魅かれました。関東で最も古い白鳳仏だということです。出土した展示品を見ていて、暑い季節に歩いた上道9回目に訪ねた石田国分寺瓦窯跡にここで繋がりました。

七重塔の十分の一の模型があり修理中でした。

お鷹道の清い水路を見ながら進みました。

講師がカワニナをつかんで見せ、又、元の澄んだ水に戻しました。蛍の幼虫の餌として知られています。

真姿の池がありました。昔、ライ病といわれた患者が、この水で洗うと治り元の姿に戻ったことから真姿の池と云われたそうです。

この地は鷹狩が盛んに行われた場所で御府内は徳川家で、国分寺付近は御三家の尾張藩の鷹場でした。

お鷹道の先に現在の国分寺があり、真言宗で本山は奈良の長谷寺です。

楼門は江戸後期の物で東久留米市米津寺から移築したものです。

万葉植物園は時期が悪く立札ばかりが目立っていました。

国分寺の隣の仁王門の奥に薬師堂がありました。薬師如来像は秘仏で9月18日、一日だけの開帳との事です。

左奥に進むと朱色の屋根の国分寺八幡宮がありました。小さいけれども千鳥破風、唐破風の上に鰹木や千木が乗り講師によると、まるで花魁のようなので花魁八幡とでも言いたいと表現するのでした。4時40分頃、再び国分寺の復元工事場所を通り抜け府中街道へと出ました。

有名な府中刑務所を左に身ながら進みました。ベージュ色の塀は思ったより綺麗で近代的に感じました。

5時寸前に北府中駅に到着しました。午後からはしっかり歩き見所も沢山ありました。皆様、今回も大変お疲れ様でした。

 

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第十三回 鎌倉街道上道 所沢から東村山

2018年1月16日、20日の両日、本年初の鎌倉街道を歩きました。

10時に新所沢駅に集まり、最初に講師の都合で12月をお休みしたお詫びがあり、元気よくスタートしました。

16日の火曜日は寒晴れというより春のような陽気でした。20日は少し冷やりとしていましたが歩くには丁度いいと感じました。

駅よりスタートして15分位で航空発祥の地を通りました。上方に所沢航空発祥記念館の看板があります。

それから5~6分で、「おしゃびき様」という小さな地蔵堂を拝しました。咳を意味するシワブキからこの名前で呼ばれるようになったとの事です。私たちも咳に悩まされないようにお願いしました。

すぐに所沢神明社がありました。神明社は平安末期、伊勢神宮の神霊を奉祀した神社で祭神は天照大神です。日本武尊が東征の折にこの地に奉斎したとの事です。

神木の欅は千年以上の樹齢で樹皮が剥がれるところから「けやしき」(化粧する木)が名前になった話を聞きました。屋根の鰹木や千木に伊勢神宮を思い浮かべました。

境内社の中で珍しいものでは、蔵殿神社や鳥船神社がありました。

又、脇の広い場所には人形殿があり、あらゆる人形を飾り供養していました。所沢は関東三大(越谷・鴻巣・日本橋)雛人形に次ぐ産地とのことでした。

たまり漬本店は江戸末期の醤油店でお店で買い物をしたり、手洗いにいったりして15分位、休息しました。

この辺りは大きな蔵があり昔を偲ぶ事が出来ました。

数分で曹洞宗の薬王寺に着きました。

寺の紋は新田氏の中黒です。

本堂の左手に新田武蔵守義宗の終焉の地の石碑がありました。義宗は義貞の三男であり、正室の子で91歳でこの地にて亡くなったそうです。

五輪塔の真ん中にある現在の新田氏の墓も見る事ができました。

義宗の気持ちを汲んだ川上里恵の句碑がありました。

「武蔵野にらちなく老ひし柳かな」

11時半頃薬王寺を後にして7~8分で真言宗豊山派の游石山観音院新光寺へ入りました。

門の形が変わっていて驚きました。

頼朝が浅間山での巻狩をした時に寄り寺領を寄進したとの事です。又、新田義貞も北条氏を打ち再び寄った折に寺領を寄進したということです。

行基作の聖観音は観音堂に安置されています・

一間幅の鎌倉街道を通り進みます。2~3分歩き講師から江戸時代にこの辺りに和泉屋という料亭があったことを聞きました。そして講師は猫の絵をかざすのでした。

桶屋に捨てられた三毛猫は、鎌倉街道筋の和泉屋に住み着き旅人を手招きして商売が繁盛しました。そして周りの店も繁盛したのでした。後に御堂が建てられたとのことです。

11時50分頃、午前中最後の実蔵院に入りました。こちらも真言宗です。紋は三つ割菊で戦前に供出された古半鐘に1352年、新田義貞が開基したとの銘があったそうです。

鎌倉街道上道の説明をした立て看板があり、真っすぐ進むと今日の昼食場所の駒形の交差点に出ました。

うどん屋、ステーキ店、コーヒ店に別れ1時間の休憩をとりました。

お腹がいっぱいで苦しいくらいでしたが、午後の部の始まりです。

西武鉄道の線路沿いを歩きました。

長久寺まで0・2キロという標示がありました。

1時25分頃に時宗の長久寺に着きました。

こちらに徳川家の旗本の中根正重の墓があります。正重は家康の嫡男の信廉に仕えていましたが信廉の死後に家康に仕え、1598年に伏見で死没し長久寺に葬られました。小さな屋根の堂に守られていました。

立派な宝篋印塔がありました。この塔の台座には百姓の苗字が彫られていて、百姓は公的な場所では名乗れないが苗字を持っていた事が解ります。

一行は勢揃橋の方向に曲がりました。小さく標記されている勢揃橋は新田義貞軍がここで勢揃いしたとの事で昭和8年に付けられたそうです。

用水池にはずらりと太陽光発電のパネルが並んでいます。

その横を通り鳩峰八幡宮着いたのは2時少し過ぎでした。921年の創建で石清水八幡を勧請したとの事です。春日燈籠の境内を奥に進みます。古い鐘楼が左手にありました。これは神仏習合の名残という訳です。

義貞が兜を掛けたという何代目かの松があり戦勝祈願した時に兜を置いた所は、兜稲荷と呼ばれていましたが現在はなくなっていました。

摂社として八坂神社や水天宮も拝見しました。1月15日の初水天宮には達磨市が立つと言いますが丁度終わっていて残念でした。

来た道を少し返って仏眼寺へ入りました。真言宗の寺で大師様の像があり、墓地には同行二人の石像が目立っていました。ここで御手洗いをお借りしました。こちらの庚申塔は1789年の古いものですがシヨケラや邪鬼が良く見えて彫がきれいに残っていました。二十三夜塔や増上寺の大きな石灯篭も注目して拝見しました。

仏眼寺の白い塀を後にして5分位で開けた場所がありました。

ここは悲田処跡で今は広々とした公園になっています。病人や貧困者を救う公の施設が833年から在った事は驚きです。悲田処跡としては徳蔵寺傍(東京都)との説もあります。

小高い丘は190Mの八国山といい、頂上からは関八州が見えたのでその名が付きました。

尾根づたいの道は冬木立が美しくとても歩き易かったです。15分位で将軍塚がありました。新田義貞が北条氏攻めの時に白旗を立てたとされています。この場所はその後も、たびたび戦場となったそうです。

又、家臣が討ち死にした供養塔として「元弘青石塔婆所在跡」という立派な板碑がありました。

いつしか熊笹の道になっていました。15分位進み3時頃、東村山(都内)に入りました。大きな案内板があり少し下ると久米川古戦場跡の碑が立っていました。

将陣場橋を渡ります。この辺は刑場があり刑吏が身を清め精進した事から付けられました。

3時15分頃、福寿山徳蔵院に着きました。鎌倉時代には地頭の板倉氏の陣屋がありました。住職の板碑収集の膨大な数に驚くばかりでした。興味のある方は200円の拝観料で保存館を見学しました。

諏訪町自治会館の前を通り新しい住宅地を通る時に講師は、こちらに立川家の長屋門があったが現在は分譲地になっていると話しました。

日蓮が佐渡に流される時に立川家に一泊したとの事です。

3時半を廻り日差しが弱くなってきました。

小さな白山神社が今回もありました。ここで珍しい牛頭(ゴズ)天王を見る事ができました。ほこらの中に石造りの座像があり、頭に牛の顔を頂いていました。明治の初めに近くの井戸の中から発見されたとの事です。

この辺りは鎌倉街道がかなり残っていました。平成19年に作られた案内板は疲れてきた私たちに元気をもたらしてくれました。

4時頃、今日の鎌倉街道はここまでで次回はこの先の東村山駅からスタートする事となりますと告げられました。

それから直ぐに道を曲がった所に「清正公」と書かれた個人が祀っている小さな建物が見えました。阿弥陀仏の掛け軸や位牌のようなものがあり花が供られていました。加藤清正は、賤ケ岳七本槍の一人で、その後も勇名をはせた人で現在でも人気があるとの事です。

さて、ある意味で本日のメインともいっていい場所にこれから行きますとのことで、私たちはわくわくしながら赤い弁天橋を渡りました。

住宅地の奥を曲がると金剛山正福寺とあり、山門の先にその建物がありました。東京で唯一の国宝建造物と云います。屋根が二重なっていて北条時宗が建立し、あの円覚寺舎利殿より古い物との事です。

私達は飾り気のないすっきりした佇まいや、屋根の微妙な曲線に木造建築の美を深く感じました。

千体地蔵堂と呼ばれる堂内には一本造りの15~30センチの地蔵尊が900体程、安置されていて年に一度、公開されるとの事です。

昔の古い様式を伝える火灯窓には私達は目を凝らします。

左手に木の地蔵様が納められていました。願いが叶おうともう一体収めるという事です。

寺の前にお地蔵さまを置いている店があるそうです。

高野槇の前を通り貞和の板碑を見ました。比較的新しい十三仏の石造物を急ぎ拝見し私達はもう一度、国宝の建物をふり向き、正福寺を後にしました。

4時半を少し過ぎた頃、東村山駅に着きました。思っていたより長丁場だった本日の行程でしたが、国宝の堂を胸に刻むことができ満足感を味わいながらのお別れでした。

皆さま、大変お疲れ様でした。厳しい寒さが続いております。どうかお元気にお過ごしください。

 

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第十二回 入間川から所沢

11月7日(火)と11日(土)いつもの様に約三十名で歩きました。お天気にも恵まれ晩秋の街道歩きを満喫しました。10時丁度に狭山市駅の長い歩道橋を進み鎌倉街道を上から見ました。まず最初に向かったのが八幡神社です。社紋は新田氏の大中黒で義貞はこの神社で戦勝祈願をしたとのことです。10時20分、拝殿へと進み社紋や八幡の額を拝見しました。応仁天皇を祀り、徳川時代末期の建築の本殿の透かし彫り彫刻のすばらしさに驚きました。又、本殿と拝殿との間に幣殿が無く立派な門があるのもこちらの特徴だと説明を受けました。義貞の駒繋の松は枯れてはいましたが、その堂々とした風格は留めていました。こちらの境内に合祀されている入間川神社や大鷲神社、琴平神社、八雲神社も巡りました。変わった名前の思兼神社へもお参りしました。天照大神が天岩戸に隠れた際に、どうしたらお出まし願えるかを考えた神様です。思兼はカネという名から曲尺のカネに通じ大工の道具を扱う職人達の信仰を集めました。

10時40分頃、又、狭山市駅に戻って来ました。駅の反対側に街道は抜けています。数分で白山神社に着きました。何だかビルのはざまに取り残されている様な空間に思えました。ここがやはり旧鎌倉街道沿いだった証拠なのです。鎌倉時代に古道沿いにすでにあり、土地の産土神として崇められていたとの事です。樹齢7、800年と云われた大欅を明治10年に舟材として伐採したところ、翌年に付近の民家から出火し大火事になったので大火事欅の祟りと云われたそうです。現在は椋の木に古い縄が掛けられていました。周りに実が落ちていて講師は一つ拾って甘い実ですよと。椋鳥が好きな実ですよと少年時代を懐かしんでいました。

富士見という町名の街道をどんどん進みました。山桃の並木も通りました。11時過ぎにはコーセー化粧品の広い広い工場の横を歩きました。11時20分頃から早目の昼食です。今回はフアミリーレストランと長崎チヤンポンのお店に別れて50分から1時間位休憩をとりました。

午後の部を出発して直ぐに家畜の為の地蔵尊がありました。1776年のものでお顔も文字もよく解りません。かすかに為畜生の字が見えました。すぐに茶畑が広がっていました。狭山茶は鎌倉時代に明恵上人が武蔵河越の地に広めたのが始まりとの事です。「色は静岡、香は宇治よ味は狭山でとどめさす」と唄われているそうです。

住宅の樹々も冬の様子に変化してきました。山茶花が咲き、くちなしの実がたくさん付いています。くちなしの名は実が袋の上を結んでいる様子からの由来です。お昼の後、20分位で真言宗智山派の常泉寺に着きました。1202年に建立された古刹です。仏式の供養は三十三回忌、又は五十回忌の後、他の先祖と一体化して祖霊となる考えからその後の供養として三界万霊供養塔が建立されたという事です。異形文字の武劦が武州を意味していることもここで学びました。5~6分で先に進み、通りの住宅の庭に大きな鬼柚がはみ出しそうに色付いていて私たちの目を引きました。ここ入曾の名は入曾村として戦国時代に見える郷村名とのことです。

5~6分離れた場所に先程の常泉寺の観音堂がありました。地下の水脈が深い所にあるこの地域の工夫で七曲の井(マイマイの井)が掘られました。大旱魃の時、観音様に祈り古井戸より水が湧いたという事から、この七曲の井の側には今も観音堂があり、脇を不老(トシトラズ)川が流れています。一時少し前に屋根に鰹木のある入間野神社に入りました。1191年創建で旧名は国井神社、江戸時代には御嶽大権現と称し10石の朱印が与えられていました。明治に御岳神社に、その後浅間神社を合祀し現在の入間野神社となりました。入曾の獅子舞の奉納が有名です。

鎌倉街道上道の大案内板がありました。児玉、美里、花園、寄居、小川町、嵐山、鳩山となつかしい地名ばかりです。講師は私達は今、この辺りですよと指さしてまた歩き始めました。つつじ通りを歩き野々宮神社へと入りました。こちらも鰹木と千木が目立っていました。日本武尊が東征の折に立ち寄り水を得る為に井を掘らせたとの事です。境内の隅にある柏の大木があり講師は端午の節句に柏餅を食べる由来を話しました。

直ぐ側の真言宗豊山派の金剛院の墓地に入らせていただきました。吉村さんの夢枕にこの地蔵さまが現れ温泉の場所を告げ掘り当てたとの話から「夢地蔵」の名に。涎掛けを着せられているお姿はちよっと笑ってしまう格好で夢のある話です。

金剛院は御嶽神社(入間野神社)の別当寺です。木々が色付き白壁の塀と青空とで素晴らしい風景を見せてくれました。本殿の屋根が、唐招提寺風の鴟尾と組み合わさった形のなんと穏やかなことでしようか。又山門は1782年の創建で立派でした。

供養塔の数々を見て光背を持つ珍しい青面金剛を拝しました。下方には三猿ではなく四猿というのにも驚きました。私達はもう一度、立派な山門を鑑賞しながら院をあとにしました。

茶畑を見ながら歩いていると所沢市に入りました。右手には線路が見えてきました。

旧鎌倉街道と縦長の石柱が立っています。西富小学校の脇です。私達はどんどん頑張ったあるき続けました。金剛院から1時間位経った頃、新所沢駅西口の交差点入口を見つけました。

土曜日は駅のスーパーでトイレを借りて10分位の休憩を取りその後、タクシーに乗り合わせ誓詞橋まで走らせました。新田義貞が鎌倉攻めの時にここで兵から誓詞を取ったとの伝えがあります。火曜日の方々は橋の近くの埋蔵センターで御手洗いを借り、昭和58年に柳瀬川から絶滅したミヤコタナゴという美しい魚を見せてもらいました。国指定の天然記念物です。ここの施設で人工繁殖をしています。3年位の命というミヤコタナゴは綺麗な色でした。1年の幼魚はまだ色がついていません。卵を産み付ける貝が川にいなくなったために魚も絶滅したとの話はなんと嘆かわしく悲しいできごとではありませんか。

小手指古戦場にはすぐに着きました。大きな石碑が建てられていました。新田義貞は、新田庄で1333年5月8日に鎌倉幕府討伐に向けて挙兵し一路南下します。小手指原には11日に至ったといいます。30余回の戦いも勝負がつかなかってという事です。私達はしみじみと廻りを見渡しました。

その後、古戦場の西にある白旗塚に向かいました。源氏の末裔である新田義貞が陣を敷いたといわれています。頂上には「白旗塚、浅間神社」と彫られた碑や祠がありました。数分散策しました。

今では、木々が茂り廻りの様子が余り見えませんでした。足元の段々に気を付けながら降りました。これから小手指の駅まで歩くのみです。百番供養塔がありました。16時頃に駅に到着しました。皆様お疲れさまでした。これからは新田義貞と北条氏の戦いの舞台が次々と出て参ります。次回も歴史に触れながら楽しく歩きましよう。

 

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 鎌倉街道上道 第十一回 町屋から入間川

 

10月10日(火)は真夏日の暑さの中を、14日(土)は雨を心配しながらのあるき隊でした。前回と同じ位の人数で、10キロ余りの道のりを皆さんと頑張り楽しみました。

午前10時に東武東上線西大家駅に集合し、まず駅づたいにある側溝の場所が鎌倉街道であった事を聞きました。

20分位、歩いた所で講師が「家と鉄塔がない風景を思い浮かべてください。これが武蔵野の風景です。平野と所々に林があります。」真っすぐな道路は、戦後に飛行場跡につくったからだそうです。

日高市立高萩中学校の前を通り広い園庭の幼稚園も過ぎ、10時40分頃着いたのがこの辺りでは有名な加藤牧場です。牛舎のにおいが少し風に乗って運ばれてきていました。20分くらい休憩をとり乳製品を味わいました。アイスクリームは皆さんに人気で300円、カップの牛乳は110円でした。

暫くしてすぐに着いたのは旭ケ丘神社の石碑です。ここは高萩飛行場跡で昭和13年に陸軍航空士官学校として使用開始したとの事です。赤トンボと云われる95式練習機を中心に練習し、戦争末期にはこれらの練習機でも戦いを余儀なくされたという話にわたしたちは溜息がでるのでした。

次の場所では、文化11年(1816)の三面六臂の馬頭観音を見ました。頭の部分の三面が浮き彫りになっていてとても珍しいとの事です。

踏切の名前が鎌倉街道踏切の処を渡りました。昔も今もここが鎌倉街道である証明です。

茶畑が目に入ってきました。ここはもう狭山なのです。お茶の花が沢山咲いています。

                             薬師堂だけが残っている真福密寺では石橋供養塔と日本回国供養塔を見ました。

しばらく歩きお昼近くになった頃、交差点の名前に女影(オナカゲ)とありました。この辺は女影氏の館があった所です。

12時をすこし廻った頃、武蔵高萩駅のそばの今日の昼食の場所へ着きました。お店は2軒しかなく大村庵というお蕎麦屋さんに入った方が多かったようです。いろんな定食がありました。天ざる1300円、もつ煮定食700円。40分から50分、ゆっくり休み午後の部出発です。

15分位歩くと諏訪橋改築記念碑が住宅地の前にありました。

数分で霞野神社に着きました。元は諏訪神社との事で北条氏が信州から勧請したとのことです。先程見た諏訪橋記念碑も納得がいきました。鳥居を入ると古い昔の鳥居が横に保管されていました。気持ちのいい参道を歩きます。

水盤が二つ並んでありました。武田菱と天狗の団扇の紋のものです。明治13年に12社、14神が合祀されたとのことです。本殿は江戸末期の物という事です。献額の絵は消え失せ木刀を掛ける部分が目立っていました。八王子千人同心御家流の甲源一刀流比留間和十郎源信の弟子が奉納したということです。

又、こちらの狛犬の体形が異常に低いところもおもしろく眺めました。

神社の横に大きな説明板があり、北条高時の遺児である時行が信濃で挙兵し女影ケ原、小手指ケ原、分倍が原、井出沢そして鎌倉まで勝ち進んだ中先代の乱について書かれていました。

神社を後にするとき、筆塚と聖徳太子講の碑があり、それを見て先へと進みました。

神社の前の五差路に向かって立っている「右扇町屋 八王子道 左入間川所沢道」の道標が低くありました。

13時半頃、しばらく鎌倉街道を進みます。大きな石に鎌倉街道上道碑とあり、しっかりとした説明板もあります。

しばらく掘割の道を行きました。バスが通るように道路が造られた時に、かなり低く堀ったという右手が石垣になった所を進みました。

その名も「鎌倉街道」という交差点がありました。少々疲れてきていたので一瞬、嬉しくなり力が湧いてきました。

千人同心街道と云われる道を渡りました。背の高い樹々が続いていて日高カントリークラブのゴルフ場横をずっと歩きました。

一級河川の南小畔川にかかる大下橋を渡りました。

10日の暑さに私たちは負けそうになりながら智光山公園の大きな陰へ滑り込みました。東京ドーム11個分の広さと聞き皆で驚きました。水分補給をして少し長目の休みを取りました。

公園から10分位の墓地の前方に三角形の様な慰霊碑があり「使人和霊」とあります。明治15年にコレラが大流行した時の慰霊碑ですが、江戸時代末期には、江戸で20万人も死亡したとのことです。

10分位歩くと信濃坂にさしかかりました。この坂の下には霞が関という関所がありました。そして文字通り信濃に行く道でしたからそう呼ばれていたのです。私たちは坂の後方を振り返るのでした。

数分で歴史の道という立看板がありました。畠山重忠や新田義貞等多くの武将の栄枯盛衰を刻んだ道と書かれてありました。

また数分で影隠地蔵に着きました。木曽義仲の嫡男の義高が頼朝の追手を避けて地蔵堂に隠れたとの事です。現在は石の地蔵さまが立っているのみでした。12歳の子供の大きさだといいますが少し小さな目のお地蔵さまでした。

10分くらい進むと道路脇に水天宮を祀る石碑がありました。こちらの右手に八丁の渡しがあったそうです。

入間川へは10分余り歩きました。橋の手前に無患子の木があり、丁度、実が見事に粒成り状態でした。果皮はサポニンが含まれ石鹸の代用にされたり漢方薬として使われ、種子は羽子板の羽根の重しに、又、数珠を造ったそうです。

入間川の新富士見橋を渡りました。水は澄み火曜日は青空を映していました。

7~8分で義高の終焉の地に着きました。清水八幡宮の小さな鳥居と小さなお宮がありました。北条政子が建立したとの事です。大姫の最愛の人を助けられなかった思いはいかばかりだったでしようか。

国道16号線を横切りました。火曜日はイオンで体を冷やし水分補給をしました。

数分で大国神社に着きました。狛犬は午前中見た物と対称的でスマートな姿で座った左右共に子供に寄り添っていました。

通りは舗装ガレンガ通リとなり、街らしくなりました。すぐに右に折れると参道の奥に立派な門がありました。

曹洞宗の徳林寺で本堂は平成5年建築の新しく大きなものでした。檀家が集めて寄進したという全国のトンネル工事の貫通石が展示されていました。この日はご住職の奥様が亡くなられた直後の法事でしたが若奥様にお願いして観音堂など奥へ入らせて頂きました。

新しい大きな涅槃像や観音様に目を見張りました。又、福徳院不動尊へと昇りました。綿貫家一門墓所がありました。綿貫家は狭山で酒造業で財をなしたという豪商で、元弘の乱の時にも京都大判衆の中に名前があります。

墓地の一番上からは街が一望できました。

狭山市駅に急ぎました。山法師の赤い実がきれいでした。

西武狭山市駅西口は賑やかでバスターミナルの奥にありました。

本日は、前回に比べ距離もあり長丁場となってしまいました。皆さま大変お疲れさまでした。

 

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鎌倉街道 第十回 鳩山から町屋

熱中症を避けるために2ケ月の夏休みを取った鎌倉街道あるき隊が、9月から活動を再開しました。

19日(火)と23日(土)合わせて30名で元気に歩きました。

10時に東上線の坂戸駅に集合しバスで鳩山役場前まで乗り、皆様揃って久しぶりのあるき隊でしたが元気よく歩き始めました。午前中は赤沼から今宿へと歩きます。

19日は30度を超す真夏日の中、23(土)は曇り空で涼しい中を歩きました。

火曜日は彼岸花がまだきれいに咲いていました。土曜日は行く先々で木犀の香の清々しさを味わいました。一位の実が赤くなっていて一粒味見をして甘さを確かめました。

11時頃、赤沼の供養塔と呼ばれる三基の石碑を見ました。

今までにも見たことはありますが、養の文字が異形となっているのも興味深くながめました。

前の道は鎌倉街道ということです。

しばらくすると、おしゃもじが祀られている祠がありました。その先の小高くなっている、おしゃもじ山公園へと進みました。

展望台があり、皆で昇って上からの景色を楽しみました。

展望台の脇に木々に隠れながら、それでも大きく渡辺錠太郎大将の忠魂碑が建てられているのを見ました。

この方は2・26事件で殺害されたとの事です。

火曜日は暑くて水分補給をこちらでもとりました。

しばらくすると石造物群があり、中には1600年代のものもありました。

横にはお地蔵さまの祠もありました。

入間川の支流の越生川が見えてきました。下流は越辺川といいます。ここには明治の初期まで河岸があり、底が平らな高瀬舟がここまで物を運んでいたといいます。

明治9年に建てられた常夜灯は今まで見てきたものより小さく感じました。

毛呂山町苦林という地名へと入って行きました。

稲穂が綺麗に色づいています。

小さめの前方候円墳があり古墳時代後期のものとあります。中世になり苦林野と呼ばれる頃には合戦の舞台となり、足利氏、宇都宮氏芳賀氏らの戦いがあったとのことです。

古墳には小さな秋の花が咲き、この静かな場所からは想像もつきませんでした。

右手奥には石の千手観音菩薩が建てれていました。

鎌倉街道約1・0キロメートルとあります。しばらく進むと堂山下遺跡と説明板がありました。

室町時代の集落跡は大類グラウンドの地下で平成2年から5年にかけて発掘調査され鎌倉街道をはさみ東西に集落が広がっていたとの事です。

鉄製の茶器や中国からの輸入された青磁白磁まで出土したそうで集落の文化の高さにまで思いが及ぶのでした。

鎌倉街道上道の矢印があり、細道の両側に曼殊沙華が咲き何と風情があることでしようか。

崇徳寺は苦林の合戦で焼失し、現在の場所に移された延慶の板碑は樹々の中に立っていて、その立派さに驚きました。

円墳がいくつも見えてきました。この古墳群は苦林野の合戦の時に物見塚として利用されました。


そして私たちは残っている鎌倉古道の雰囲気をしみじみと味わいながら歩きました。

その先に歴史民俗資料館があり、お昼にしました。

火曜日は残念ながら休館日でしたので、支援学校のグランドを使わせていただきました。

資料館には、発掘されたものや合戦絵巻もありました。急ぎ鑑賞して午後の部の出発です。

一面の蕎麦の花が満開で集落の奥まって場所を明るくしていました。

数分歩くと鎌倉街道遺跡の柱が建っていました。講師が、堀割状遺構があの杉の処まで続いているといい、私たちは感慨を持って草深い道を見つめました。

2時頃、市場神社に着きました。元は三島神社だったと聞きました。九の日に市がたったと風土記稿に記されているとの事です。

神木は切株となって残っていました。

又、数分行くと三面六臂の馬頭観音がありました。  

数分で万葉歌碑に着きました。

「入間道の大家が原のいはゐづら ひかばぬるぬる吾にな絶えそね」

郷名に大家が出てきた越生から坂戸の辺りの一郡付近とされています。

入間川に生えているいはゐづらのぬるぬるに例えて二人の仲がいつまでも続いて欲しいという愛の万葉歌なのです。

東京国際大学坂戸キヤンパスの立派な施設を通り、本日最後の国涓地祇神社へと入っていきました。

こちらの神社は、涌水とこの地の神を祀っています。

後ろに廻り神殿の覆い屋を見ました。古くは熊野神社と云われています。現在は小さな静かな神社ですが、その昔坂上田村麻呂や藤原秀郷が再建したとの事です。

民家の庭の中に、こちらを向いて立派な板碑がありました。昔はお寺(大徳寺)にあったとの事です。

午前中に見た板碑と同じく、梵字が大きく圧倒されるような思いで拝見しました。

西大家駅には3時前後に到着しました。

火曜日の方々は暑さに耐えて頑張りました。土曜日は涼しくて秋を味わいながら進むことができました。

山栗を拾われた方、美味しく召し上がられましたか。

次回も秋を満喫しながら楽しく歩きたいと思います。

      こんもりと古墳のつくる花野かな

   集落の奥広ごるや蕎麦の花        慶月

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鎌倉街道上道 第九回 菅谷から鳩山

 

13日は小雨の中を、17日は暑い中を34名で元気に歩くことができました。東上線の武蔵嵐山駅にお弁当持参で10時に集合しました。

前回歩いた街道まで10分位で着きました。

都幾川手前の緩やかな坂を下ります。蛇坂という名に皆様が反応なさっていました。

ここ大蔵の地で木曽義仲の父である義賢は源義朝の長男である義平(悪源太義平)に討ち滅ぼされたのです。

藤沢の遊行寺の末寺である時宗の向徳寺に着きました。紋は「折敷に三」です。

板碑群の立派さには驚きました。康正3年(1344)の時宗板碑「南無阿弥陀仏」と刻んである主尊に注目しました。

時宗では法名に阿弥を付けるという事と、有名な人に観阿弥、世阿弥、本阿弥などがいたと云う説明を受けました。

又、大きな石に「久寿二年(1156)八月十六日 南無馬頭観音」右に大蔵館 源氏一族一門、左に平氏一族一門と刻まれていて平成二年の同じ八月十六日に建てられていた事が印象的でした。

この地で戦った源氏と平氏を供養しているのでしよう。

当時の土塁の一部が残る大蔵館跡がありました。源氏の棟梁、源為義の次男で東宮帯刀先生源義賢の居館のあったところです。帯刀先生(タテワキセンジョウ)とは皇太子の護衛官の長ということも学びました。

源義平と義賢の戦いは畠山氏や秩父氏を巻き込み大蔵合戦といわれるものになったのでした。大蔵館跡の説明版と石柱が立っています。

義賢霊所という鳥居の奥に五輪塔があります。鎌倉初期のものと言われています。鉄の扉にしっかりと守られていました。梅の実が熟して落ちていました。歩いている道々にきれいな梅の実が色づいています。

墓所の入り口前に、道を挟んで義賢に関係する真新しい廟所が造られていました。

一回りして次へと進みました。

11時半近くに安養院の山門をくぐりました。応永元年(1394)の創建。さびれた寺の門に籠彫りがなんとか形を保っている状態でした。奥の荒れた本堂と右手に玄関がありましたが、当時を偲ぶには余りに荒れていました。

廃寺寸前の姿のこの寺は昭和30年代には金東光が住職だったと聞かされ、自信たっぷりの毒舌や顔が浮かんできました。

タイサンボクの花が一輪咲き残りよい香りを放っていました。

4~5分で零明山大行院神明殿に着きました。今までに感じたことの無い雰囲気です。修験者又は山伏と呼ぶ形の信仰で、土曜日には信者の方々でにぎわっていました。山犬の狛犬に驚ろき修験者の像の赤い唇にも少し違和感を覚えました。

桑の実がよく熟れて黒紫になっています。もいで味見をする人、子供の時には、もっと大きな実だったのにとおっしゃる方も。

突如、縁切橋の大きな立て札が現れました。坂上田村麻呂の妻が京から訪ねてきた際にここで縁を切って追い返したという伝承があります。

富士山と、月と日が彫られている仙元大日神の石碑を右手に見て進みました。

イノシシ注意の道を進みお昼頃に日吉神社に着きました。坂上田村麻呂がここで一夜を過ごしたといいます。奥にちいさな木の祠がありました。

石の将軍塚が建てられていて、田村麻呂がこの土地の人々にどんなに崇められたかがよく解りました。

明光寺へと入りました。鎌倉期のもので町内では最古の塔婆とされている貴重なものがあるとのことです。。

私たちは一路、笛吹峠を目指しました。

残っている鎌倉街道の掘割を、右手の木立の中に見ました。

直ぐに頂上の鉄塔の下まで辿り着きました。

待望のお昼です。本日はいつもより少し遅くなりました。

美味しいお弁当を各自いただき、40分位の休憩時間を取りお手洗いもすませて、さあ午後の部の始まりです。

笛吹峠の名前の由来をいろいろと聞きました。

後醍醐天皇の皇子である宗良親王が笛を吹いて敗戦の心を慰めたといいます。実際は風が強くて笛を吹いているように聞こえたからとも・・・・。

緑の中を気持ちよく下っていきました。丸く赤い実の和桑があり桑との違いを講師が話していました。

街道端沼がありました。

小さな道標を見ました。

すぐにある、はぐれ堂跡にはお地蔵様がいました。お歯黒を付けた大将の首を埋めたのが「羽黒堂」になったという説や、家来にはぐれて射られた大将の首を埋めたので「はぐれ堂」などの説があります。

その昔、鎌倉街道とこの村は、あるとき大きな歴史の流れの中にあったことは間違いないようです。

柏の大きな木の葉を見ることもできました。

田植えを終えた水田が美しいです。雉が歩いています。

一時半頃に上道の大きな案内板が立っている場所に来ました。

大橋川を渡ります。橋を渡ると間もなく鳩豆工房という土地の物とお土産などを売る店があり入りました。ソフトクリームを食べる人、飲み物を補充したり地元で人気の豆腐を買う人。お手洗いを借りて少しの間、休憩をとりました。

筆者はとてもきれいな小物を見つけました。鳩山ガラスのトンボ玉のようなネックレスを旅の思い出に大切にしたいと思います。

さて、しばらく歩き熊石橋を渡り右手に曲がると赤沼古代瓦窒跡が残っていました。傾斜を利用した登り窯は、木造の小屋で覆われていて窓越しに覗けるようになっていました。

4,5分で石田国分寺瓦窯跡の説明版がありました。平成5年の発掘調査で新しく発見されたとの事です。武蔵国最大の窯跡で8世紀中頃まで使われていたとの事です。

水色の細い橋を渡ると鳩山中学校舎が見えてきました。体育館の下が鎌倉街道が通っていたとの事で、私たちはう~んと声が出てしまいました。

バス停は思いの他、近くにありました。3時少し前にバスに乗り坂戸駅まで20分(340円)位、バスの旅を楽しみました。

坂戸駅も新しくモダンな駅舎でした。

7月、8月は熱中症の心配があるのであるき隊はお休みです。

皆様どうか、この夏をお元気に過されますようにこころからお祈り申しあげます。

 

  桑の実食みながら板碑読みながら

  田園に縁切橋のある極暑

  親王の笛吹く峠露涼し      慶月

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鎌倉街道上道 第八回 奈良梨~菅谷

5月9日(火)、5月13日(土)、合わせて31名のご参加で上道の八回目を歩きました。13日は朝から雨でしたが皆さんは、元気良く最後まで楽しまれました。午前10時過ぎに東上線の小川町駅に集合し、15分発のバスで奈良梨まで行きました。

10時半過ぎにスタートです。10分くらいで道端に三面の馬頭観音など石造物が並んでありました。

馬頭尊と文字が刻まれたものや立派な三面が彫られていているもありました。

この辺りは嵐山町といい都幾川渓谷が京都の嵐山に似ているのでこの地名がついたとのことです。

11時40分、曹洞宗の宝城寺に入りました。

閻魔堂を覗くと色のあせた閻魔像があり、どなたかが「可哀そうに」とおっしゃいました。

門を出た所のさくらんぼが甘酸っぱくて2,3粒いただきました。

いちの川の相生橋を渡ります。新緑が川に映っています。お昼近くに天台宗の積善寺に着きました。

706年日照りの時に積善が雨乞いを行うと雨が降ったとの事です。後に荒廃していたのを伯耆国大山寺の裕源和尚が泊まり中興させたとの事です。

木香バラの黄が満開で美しいです。眞子様のおしるしの花です。

庚申塔群や苦非なし地蔵の悲しく不思議な話を聞いて杉山城跡へと進みました。

戦国時代の構築で別名、初雁城ともいわれています。自然の要害として県内でも名城とされています。十以上の郭と土塁や堀が巧みに配置されていて、私たちは必死で登り降りをしました。後北条の時に松山城主の上田氏の家臣の杉山主水の居城であったといわれています。

井戸跡のそばの水溜に山椒魚の卵があり孵化前で私たちを驚かせてくれました。どうかうまく育ちますように。のどかな道をしばらく歩き志賀の観音堂の石仏群を見ました。

聖徳太子像もありました。

13時過ぎ、曹洞宗長慶山東昌寺に着きました。念ずれば花ひらくの碑が目立っていましたが、七福神や様々な観音様を拝見することができました。

門の上の彫刻も細く私たちは注目しました。13時半過ぎに昼食の場所の女性教育会館に入り、チケットを買い遅い食事となりました。セットメニューは700円前後でお安いだけありお肉が少し固めでした。

白雲木の花がきれいでした。午後の部は菅谷館跡の敷地内にある嵐山史跡の博物館を15分間ほど見学しました。

ビデオシアターを見たり、出土資料の展示を見ました。その後、タクシーに乗り合わせて曹洞宗班渓寺へ行きました。

木曽義仲の夫人の山吹姫は義仲の縁を頼り、この地に草庵を建てました。梵鐘には義仲の長男の義高の為に班渓尼(山吹姫)が創建したと刻まれてあるとの講師の説明を聞きました。山吹姫の小さな墓には色とりどりの供花が活けてありました。夫と息子の供養をする日々を思いながら寺を後にしました。

朱の斑渓寺橋はやはり、山吹姫を思い浮かべます。

又、新緑の中を歩きました。川沿にアカシアの白い花が咲きよい香りを放っていました。

15時40分ごろに鎌形八幡神社に着きました。坂上田村麻呂が宇佐八幡宮を勧請し源頼義から頼朝までの源氏累代が源氏の氏神として崇信を受けていたとの事です。

常緑樹の招霊(オガタマ)の木が茂っていました。一円玉の葉のデザインがそうだという事です。

又、義仲の産湯の清水があり、皆で柄杓を取り手にかけてみたり、唇にふれてみたりしました。

金毘羅神社は池の中にひっそりとありました。

八幡神社の額の八が鳩の様に見えて皆で笑いながら眺めました。都幾川辺にはアカシアの花やら又サクランボが実を付けています。

16時30分頃、菅谷城跡に戻ってきました。畠山重忠が築いたもので規模は小さいものでしたが、室町・戦国時代を経て拡張されたとの事で本郭は空堀と土塁に守られています。

重忠像は竹筋コンクリート製ということで直垂に烏帽子の姿が立派で鎌倉の方を向いているところが何とも泣けて参ります。小さな土塁を設けて次の郭が見えないようにしていたり、傾斜をつけた木橋もありました。

緑の中を身持ちよく歩きました。さあ駅までもう少しです。

数分歩いて横穴の円墳の稲荷塚古墳を覗きました。

すぐに武蔵嵐山駅西口に到着しました。5時を少し廻っていました。今日は木曽義仲、義高、山吹姫、そして畠山重忠に触れる旅ができました。朝早くから遅くまで、又土曜日は一日雨の中を本当にお疲れさまでした。

はんざきの孵化前夜なり水場跡   慶月

〈はんざき=山椒魚〉

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鎌倉街道上道 第七回 赤浜~奈良梨

 

4月11日(火)は生憎の雨の一日でした。しかし雨の中の桜の美しさにしばし佇んでしまった一行でした。15日(土)は晴天で桜散る中をを歩く事ができました。東武東上線男衾駅は、とても新しい駅でした。10時過ぎには、田圃の中へと入って行きました。

家の前を通り小披(オブスマ)神社と出雲伊波比神社に寄りました。

武蔵国男衾郡の立派な標識があり奈良の平城京跡で発見された木簡にその名が記されてあったとの事です。

11時過ぎに前回のアイリス大山の側に残る鎌倉街道に着きました。今日は道路を渡り、反対側を進みます。

すぐに天台宗の普光寺に着きました。延暦寺の直末で14ケ寺の末寺があるとの事です。本尊は補修されていますが平安末期の薬師如来坐像と考えられています。

トタン屋根の下に集められた板碑群は周辺の開墾により出土したもので、この辺りの歴史を物語っていました。

桜の木が大きく満開でした。地味なシキミの花にも私たちは心ひかれました。

11時半頃、三島神社に着きました、三島大社をすぐに連想しまし、話は神様のお使いである鰻に及びました。瀬戸内海の大三島神社は朝廷より「日本総鎮守」の称号を下賜されたとの事です。神社には神鈴ですが、こちらでは室町時代の鰐口が保存されていて道禅の作と言われています。又、大きな椿の木は、今を盛りに咲いていてヤブツバキの下に落椿もそのままにしてあり大変美しい光景でした。三本の内、中央の一本は町の天然記念物に指定されています。

お昼少し前に百万編供養塔の前を通りました。寛政2年とあり一白一力と異形文字が面白く、昔の人の機智を感じるのでした。

つつじの咲く道を進み12時頃に誰もがこんな所にどうしてと思うピザのお店がありました。ピザ二種類とパスタ一種と飲み物がとても美味しくお腹がいっぱいになりました。約1時間、休憩を取り出発しました。

しばらく歩くと花ダイコンのうす紫色が広がっていました。諸葛菜ともいう花にしばし目を奪われました。次は満開の桜が続きます。

それを過ぎると鎌倉街道の細道に入って行きました。

堀割状になっている道を少し上がったところに児泉神社がありました。前に泉が湧いていたとのことです。

隣には天台宗高蔵寺があり比叡山延暦寺の末寺ということです。

山門の赤色が延暦寺と同じといいます。しだれ桜のむこうに見えてきました。

柳沢吉保の子供である吉里が、祖父の供養で立てた信俊夫妻の墓が並んでありました。

歩けば桜というこの季節、大きな桜の木に寄生木というものを見つけました。

高蔵寺の地蔵堂とも云われている今市地蔵堂は北条政子が造らせたとされる「いぼとりの一体地蔵尊」と呼ばれています。暗くて見えづらいのですが、撮らせていただきました。

季語に「山笑う」とい言葉がありますが、まさに山里は美しく春爛漫という状態でした。

室町時代、山内と扇谷の両上杉が高見原で戦ったという高見の集落を通り、小川町に入りました。

山岡鉄舟の故郷で父の小野高福の知行地は小川町竹沢でした。小野氏は、小野妹子の子孫と聞き私たちは、ほおといにしえを思うのでした。

しばらくして能増掘割遺構へと入って行きました。旧鎌倉街道跡が私達にとっては感慨深い道と云えます。約70メートル明るい樹々の中を進みました。

そこを出ると門跡と呼ばれる田口家に出ます。後ろにはこんもりとした森があります。

次に伊勢根掘割遺構へと入りました。約140メートルですが、こちらの木立は太くて密集している様に感じました。

鎌倉街道上道跡の標識に私達は元気が出てきます。

諏訪神社奉祀遺跡の石の小さな祠がありました。貝母の花が咲いていました。

15時近くに普賢寺に着きました。明治16年に大檀家の家を移築して本堂としたとの事です。出世大国様の石像が目立っていました。

すぐ側に萬福寺がありました。時宗のお寺で紋は一遍上人の実家の河野氏の折敷に三です。

これは大三島神社の紋でもあります。馬頭観音が祠の中で大切に保護されています。

15時過ぎに着いた八和田神社は、元は諏訪神社で明治22年に8地区を合わせて八和田神社となりました。御神木の大杉は樹齢800年と聞き驚きました。

奈良梨のバス停に着きました。15時40分頃、バスで小川町駅に到着しました。火曜日は一日中雨で本当にお疲れさまでした。しかし桜の美しさにうっとりしながら歩く事ができた幸せな一日でもありました。

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