江戸名所を巡る 第四回  深川・清澄界隈(前編)

六月、江戸名所巡りもはや4回目を迎えました。19日(火)、21日(木)はお天気に恵まれ23日(土)お昼頃から雨になりました。

梅雨の真只中ですので仕方のない事です。本回は31ケ所を巡ります。10時、木場駅を出発しました。

木場とは木置場のことで、寛永と明暦の大火による江戸再開発の折に木材商が集められた所です。

真っ赤な新田橋を渡るとすぐに洲崎神社がありました。津波がここまで来たという波除碑がありました。

神紋は江島弁天と同じ波に三鱗でした。

下木塲碑前を通り潮見橋を渡りました。

三十三間堂旧跡のプレートがあり、浮彫りにされている建物は真に京都の三十三間堂の様に見えました。こちらも名所図会と広重、両方に表されています。弓の競技である通矢が行われていました。

鉄で造った日本最古の橋という旧弾正橋(八幡橋)は明治11年のもので島田弾正の屋敷があったので付けられた名です。現在地に大正12年に移されとの事です。橋の下は公園になっていました。

昭和の佇まいの木造の家を曲がると、その名も数矢小学校がありました。三十三間堂の通し矢から付けられた校名と思われ、私たちを何とも楽しい気持ちにさせてくれました。

裏手の方から富岡八幡宮へ入りました。横綱力士碑は初代から現在までの名を見る事ができました。

貞享元年(1684)勧進相撲が行われたとの事です。

左手に回ると最初の花本社は芭蕉を祭神としたもんです。七渡神社や木場の角乗り碑、神馬、次々と見事な碑や奉納物が並んでいます。

本殿が見えましたがまずは左右の碑から説明を受けました。昭和天皇が民を慈しむ歌碑、関東郡代の伊奈忠宥が奉納した灯篭、巨人力士等身碑はなんと2メートル26センチの円柱が立っていました。大鳥居から向かって左側はまず伊能忠敬の銅像で平成13年に建立されたものです。

忠敬は現在の門前中町に居住しており測量に出かける時には必ず、この宮に参詣したとのことです。

日本一の神輿も見ました。ダイヤモンドが埋め込まれている場所を我々は目を凝らしてみるのでした。紀伊国屋文左衛門が奉納したものが関東大震災で焼失し、平成3年に佐川急便社長が奉納したものです。

ここでお休み処があったので御手洗いと水分補給をしました。力持碑や力石も沢山集められていました。社殿は再建や修繕を繰り返し昭和31年に鉄筋コンクリートとなりました。末社を拝見して次へと進みました。

深川公園の中に入りしばらく進むと深川不動堂の梵字が壁一面にある建物の参道へと進みました。成田山東京別院です。どんどんと太鼓が響いています。吨枳尼天尊も祀られています。

日清戦争戦勝記念の石造り灯明台がそびえていました。明治31年に竣工したもので奉納者の名や団体名の刻まれた石板で覆われています。

叉、富岡八幡宮別当寺の別当寺である永代寺跡の碑が側にありました。明治の初め神仏分離で廃寺になりましたが29年、塔頭の一つである吉祥院を永代寺として現在はその名を留めています。

さて参道には両側のいろいろなお店がならんでいます。15分だけですがお買い物の時間をとりました。歴史のある店として梅花亭と伊勢屋の名が上がりました。それぞれ急ぎ買い物をしました。梅花亭は江戸末期の創業で、平たいどら焼きには驚きました。又、日本で最初の焼き菓子という亜米利加まんじゅうを買った人もいます。

富岡八幡の門前町に、気っ風のいい深川名物の辰巳芸者を産んだと聞きました。男性はきっとその姐さんに憧れを抱いているのでしよう。成田山の赤い鳥居のような門で集合し昼食の深川飯屋さんの門前茶屋に11時45分頃に入りました。

平日はランチ価格で蒸籠深川飯980円とお得でした。それにしても量の多い事。先月のお蕎麦と反対ですねと講師が笑わせました。

後編に続きます。

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鎌倉街道上道 第十八回 瀬谷から飯田

6月5日(火)、9日(土)、相鉄線瀬谷駅から10時に出発しました。両日共にお天気に恵まれ暑い日差しの中を歩きました。

住宅地の道の真中に三角地が設けれら地神塔がありました。初めて見る地神塔はとても珍しく、春分、秋分に近い戊の日に祀る講があったとのことです。

そのまま、街道を進みました。大きな屋敷が目立っています。

5,6分で道路の案内標記があり。右へと曲がりました。

真言宗新義派西福寺は1535年の開山で次に行く左馬神社の別当寺でもあり、樹々が茂った参道を進みました。六地蔵の向こうに樹齢1000年以上というスダジイが支えられながら立っていました。茶筅塚、山王堂や仏足石を拝見しました。

こちらにも瀬谷八福神が祀られていました。

青梅の大きな実を見ながら次へと進みました。出て向かい側に左馬神社があり、鳥居をくぐりました。この辺りだけある神社で七つ位あるとの事です。神仏習合の名残りの鐘付堂があります。又、神紋は村上源氏の紋である笹竜胆でした。庚申塔、地神塔、道祖神が集められていました。

北新自治会館は火の見櫓も兼ねているようです。

日蓮宗の宗川寺へ入りました。1625年建立で檀家の名を取ったとの事でした。御手洗いをお借りしてゆっくり拝見しました。紋は鶴(富士門流)と鷹の羽根と巴(寄進者)との事です。

ここで一番印象に残ったのは、鐘付堂の下に穴があったことです。雨水が溜まるので音が良いとの事です。是非一度、聞いてみたいものだと思いました。

そして見事な夫婦銀杏を見て寺を後にしました。

大きな通りは中原街道といいます。東海道が整備されるまで、とても重要な道でした。家康が関東に入る際に通ったそうです。

お昼頃、準用河川の相沢河を通りました。市町村が管理する短い河川という訳です。

全通院勢至堂は1797年創建で本尊は勢至菩薩です。明治から昭和にかけて文教場があったとのことで子育ての仏様として親しまれていました。

大きな藤棚があり鮮麗の藤という名で昭和62年に奉納され立派に葉が茂り実が下がっていました。

下瀬谷を再び歩きます。ブルーベリーの畑の横を通り日向山団地を過ぎて大きな通りを進み昼食には、いつきラーメン店と中華料理店に入りました。気温が上がりほてった体もほっと一息つくことが出来ました。

1時過ぎ午後のあるき隊の始まりです。文化9年の道標には南大山道、北八王子道とありました。

赤い屋根の柳明神社は廃寺になった鎌倉郡観音24番札所の大石寺跡に、村境の伊勢山に祀れてていた神明社を遷しました。

江戸柳明古地図の大きな案内板がありましたが夏草が勢いよく茂っていました。下方に「かまくらかみのみち」とちゃんとあります。そうです、私達は高崎から歩いて来たのです。

住宅地を過ぎ東海道新幹線の高架を潜りました。夏鶯が鳴いていました。静かな緑豊かな道通っていきました。

日蓮宗本山、本興寺は赤い仁王門が立派です。1336年の建立で日蓮の遺骨を武蔵池上から甲斐の身延へ送る一行が宿としました。

手入れの行き届いた樹々の中を本堂まで進みました。箒目のついた庭にしやらの花が落ちて何とも風情がありました。本堂の上方を見ると彫刻が細かく驚嘆しました。

しばらく歩きました。バス停に中屋敷とありました。

飯田神社に着きました。祭神は源義朝で飯田五郎家義が祀ったということです。家義は始めから合戦で頼朝に加担したかったが遅れ、機会を狙って加わったとの事です。鐘楼は神仏習合の名残りでこちらにも小振りな物がありました。

又、縄文時代、この辺りは入海といい境川の近くは入江になっていて当時の土器が多く出土したそうです。鳥居を出てすぐに庚申塔と道祖神が集められていました。叉、七観音像がトタンの屋根の中に納められていました。

その後、上飯田団地を通り15時頃、浄土宗無量寺に着きました。本尊は鎌倉扇ケ谷の仏師作の阿弥陀如来像とのことです。

大銀杏を見上げました。寺を後にしても巨大な樹がしばらく見えていました。

長後から戸塚に向かう長後街道の説明を聞きました。

10分位すると大きな屋敷が次々と現れました。製糸業で栄えた家々です。持田家、宮崎家、石蔵も奥に見えています。

小さな日枝神社の後には又、大きな美濃口家がありました。代々、名主でしたが後には村長を務めたと云う事でした。江戸時代から相模を代表する俳人(春鴻)が俳諧道場を後見していたとの事です。美濃口家には芭蕉翁百年忌追悼の巻(写し)をはじめ句会での記録が多く遺されているとの事です。

この大きな屋敷をどのように維持しているのだろうかと、いらぬ心配をしてしまう程立派でした。

10分位、住宅のない道を駅まで歩きました。工事車両が動いていました。

近代的な駅が見えてみました。ゆめが丘駅です。横浜まで20分位で出られるそうです。これからどのように変ぼうして行くのでしょうか。

16時少し前に解散する事ができました。私たち以外はあまり人影がありませんでした。皆さまお疲れ様でした。

鎌倉街道上道もあと二回を残すのみとなりました。皆様と御一緒に7月、9月を心して楽しみたいと思います。

 

箒目に沙羅の花落つ古刹かな

鎌倉へ急くや老鶯追うて来る  慶月

 

 

 

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江戸名所巡り  第三回 後編 水天宮から浅草橋界隈

昼食の神田薮蕎麦を味わい、さあ午後の部のスタートです。

神田須田町から15,6分掛けて元の岩本町まで戻りました。弁慶橋跡とありました。あの弁慶ではありませんよと講師が言いました。江戸城普請の大工の頭領弁慶小左衛門がここの掘割に架けた橋です。明治18年に川は埋められ必要がなくなったので廃材を利用して22年に赤坂見附の外堀に架けられ、現在も赤坂に弁慶橋の名が残っています。

明治になって出来た町名の鞍掛橋の交差点を渡ります。次に馬喰町の交差点も進みます。

新日本橋交番の横に郡代屋敷跡の説明板がありました。勘定奉行が関東郡代を兼ねてこの地に居住した時代もありました。

講師が広重の美しい絵をかざしました。

浅草橋の袂に浅草見付がありました。ここでお手洗いの休憩をとりました。

14時過ぎ吉徳の人形のシヨーウインドーを眺めました。江戸最古の人形店で1711年、三河出身の吉野屋が創業しました。明治に吉徳に変更したとの事です。

久月は1835年、武州足達出身の横山家が雛人形の正札販売を始めました。

2,3分で銀杏岡八幡神社に着きました。源頼義、義家が奥州平定へ向かう折、隅田川に流れてきた銀杏の一枝を岡の上に刺して願ったとの事です。都に凱旋する折、その枝が大きくなっていたので太刀一振りを捧げて八幡宮を勧請したといいます。

通りに戻り、つくだ煮の鮒佐本店の前を通りました。

第一回の日本橋界隈であった店は兄弟が出したという事で、こちらが本店との事です。買い物をすることもなく急ぎ進みます。

直ぐにすがすがしい神社の須賀神社へと入りました。スサノオノミコトと稲田姫が結婚した場所が須賀との事でです。土曜日は御祭りで出店で賑わっていました。

10分位進むと第六天榊神社に着きました。この辺りは米蔵が集まっていた場所で、ここに幕府の学問所と将軍の文庫の書籍を移し、明治に公立図書館を日本で初めて造ったとのことです。

 

2時半を回ったころ、ここで15分位西に歩きました。私達は疲れを感じていたのですが講師は皆さんに是非見て頂きたい所だというのです。

その場所は鳥越キリシタン殉教記念碑でした。慶長8年(1603)来日した宣教師ルイル・ソテーロが家康に謁見し八丁堀に聖堂と修道院を建て宣教を行った。浅草にもハンセン病院と小さな聖堂を建てました。9年後、直轄領のキリシタン信仰禁止令が出て翌年の慶長8年には、ここの信者たちは小伝馬町の牢に入れられ28名が処刑されたという殉教の歴史があったのです。

マルコ喜左衛門、シモン彦左衛門、ヤコブ弥四郎、ダミヤン茂助、、、、悲しくも堂々と散って逝かれた名前です。ビルの手前に現在の教会の十字架が小さく見えました。

15時、小さな甚内神社の前を通りました。高坂甚内は武田家の再興を図り江戸を乱したという罪で罰せられます。

甚内には瘧(マラリア)の持病があり発作が起きている所を捕えられました。処刑の際に瘧(マラリア)で苦しむ人が我を念ずれば治してあげようと言い残したそうです。旗本の家に祀られ多くの人が参拝したそうです。

直ぐに鳥越神社に着きました。前九年の役で源頼家父子がこの辺で陣をはっていて、水鳥が対岸へ渡る姿を見て大川の浅瀬を無事に渡ることができました。付近の白鳥大明神を鳥越大明神と改め地名も鳥越としたとの事です。

 

江戸時代より蔵前で営む蛇善の前を通りました。明治17年にこの場所で商うようになり、その名前たちを見てぎょっと致しました。動物性の漢方薬でマムシをはじめ蛇の数々、赤蛙、ムカデ、猿頭や狐の舌等々は何に効くのでしようか。

旧浅草蔵前には天文台跡がありました。天明2年(1782)高さ9・3メートルの築山の上に5・5メートル四方の天文台が築かれ観天儀で天体の角度を測定したそうです。あの伊能忠敬も学んだところです。

蔵前をどんどん橋の方へ歩きました。河岸を埋めて櫛形に船着き場を設けました。年貢米を収納する幕府の米蔵が建てられていました。一瞬スカイツリーが大きくはっきり見える場所がありました。

首尾の松とは寛永年間に隅田川が氾濫した時に家光の前で譜代大名の阿部豊後守忠秋が馬で激流を渡ったので、かたわらの一本の松を首尾の松として賞したという事です。その後は吉原通いを舟で渡る游客がその首尾をこの松に願ったそうです。現在の松は七代目という事です。

通りの反対側に廻り首尾の松の向かい側に来ました。浅草橋御倉跡碑がありました。幕府の御米蔵がすらりと並んでいたのです。

15時40分、本日最後の楫取稲荷神社に着きました。米蔵造営の石を熊本から運んでいたのですが遠州灘で海が荒れ遭難しそうになった際、稲荷の御加護で安全に航海できたのでここに勧請したとの事でした。

お狐はかなり風化していて金網に包まれていました。16時頃、本日の40ケ所を全部巡り終え蔵前駅より帰路に着きました。

今回は余りにも多くの物を見聞し少々頭の中が混乱しております。皆様、大変お疲れ様でした。

「日本の真中の路地や茄子実る」  幸子

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江戸名所巡り 第三回前編 水天宮から浅草橋界隈

5月24日(木)、26日(土)、29日(火)の三日間はお天気に恵まれ、江戸名所巡りの三回目を歩きました。

本回は40箇所を訪ねるという講師に驚きながら10時に新しくできたコンクリートの水天宮へと向かいました。

元は筑後久留米9代藩主の有馬頼徳が自領の水天宮を1811年、赤羽の上屋敷に祀ったのが江戸での始まりです。主祭神は壇ノ浦で海に沈んだ安徳天皇で水の犠牲になった為に漁業や船乗りに信仰され、又、子供の守護神、安産の神様となりました。

神紋は珍しく椿で安徳天皇が海で亡くならず筑後川畔の姫と恋仲となり、千寿院の境内に寄りそう美しい椿に因んでいるそうです。

水天宮のお使いである河童を見て水をかけ、頭のお皿をなでました。又、子宝犬には自分の干支と子犬、親犬を撫で孫の成長を願いました。

宝生流能楽の技を藩主が競わせた際にこの弁才天に願いをかけ、見事に勝利したという学業や金運に御利益があるというのにもお詣りしました。

次に信号を渡った目の前にある菓子の重盛永信堂を訪ねました。大正6年創業100年の老舗「人形焼き」も有名ですが空豆が入っている贅沢煎餅が一番人気との事でした。私たちも希望者はそれぞれ購入しました。

交差点を渡るとすぐに露地を曲がり茶の木稲荷がありました。下総国佐倉藩の堀田家中屋敷の屋敷神で社の周りに茶の木を植えていたので茶の木稲荷となったとのことです。

人形町今半が見えてきました。玉ひでもあります。

宝暦10年(1760)の創業で御鷹匠に生まれた初代が軍鶏専門店として創業しました。秀吉さんから玉秀の屋号となり妻が考案した親子丼は人気があり、現在に続いています。

すぐに谷崎潤一郎の生家跡があります。細雪の四姉妹が浮かんできますが、その作品の芸術性の高さは国内外で知られています。

10時半過ぎに日本橋小学校に着きました。26日(土)は丁度運動会で賑わっていました。こちらは元姫路藩酒井氏の屋敷跡で西郷隆盛は明治4年に参議となり2633坪の広い屋敷に書生15人、下男7人、猟犬数匹と住んでいたということです。明治6年に下野するまでとのことです。

日本橋人形町を進むとすぐに蛎殻銀座跡の立看板がありました。銀座とは江戸時代、銀貨を鋳造した役所があった所です、ここ人形町に移され明治まで置かれたから蛎殻銀座と呼ばれていたそうです。

そしてこの辺りは火消の「は組」があった場所で目立つ時計台の下にからくり人形がありました。

大観音寺の本尊は鎌倉時代の廃寺となり行方不明になったのが江戸時代鶴岡八幡宮前の「鉄の井」から頭部のみが掘り出され、明治の神仏分離令でこちらに移されたとの事です。鋳鉄製で頭部のみで170センチもあるといいます。流転の菩薩頭を見てみたいと思いました。

馬頭観音や韋駄天、願いの地蔵尊があり、それぞれにお詣りをしました。

交差点を渡り富士そばの前を進みます。この辺りは元吉原で明暦の大火で焼失したところです。

玄冶店跡の石標がありました。京都の名医岡本玄冶は将軍秀忠に招かれ幕府の御典医となり家光の信頼も篤かったとの事です。1500坪の屋敷を拝領しました。その後、多くの店を建て芝居の役者や渡世人宅にも使われ玄冶店と呼ばれました。

店の前を通っただけですが「うぶけや」は刃物職人の喜之助が創業した、うぶげも良く切切れる鋏、よく剃れる剃刀、よく抜ける毛抜きで銘が「兼忠」だったそうです。いつか買ってみたいものです。

シヨ-ウインドーには鋏や包丁が並んでいました。

10時50分頃に三光稲荷神社の赤い現代的鳥居を潜りました。1603年、絹布と木綿の問屋の海岸を埋め建て貸家を建ててその鎮守としたとの事です。

現在は猫が行方不明になった時に立願すると良いそうで境内に招き猫がありました。

そして11時頃、江戸三森の一つという椙森神社に着きました。他の二つは新橋の烏森神社と今日、お昼前に行く神田の柳森神社です。

平将門の乱の際、藤原秀郷が戦勝祈願し勝利の後に白銀の狐を収めたそうです。富籤は現在の宝くじのようなもので盛んな所でした。水色の屋根の横に富籤塚が立っていました。

すぐに江戸屋がありました。京都御所御用達の刷毛の元で修行し七代将軍家継の時代にお抱えとなり、屋号を将軍から賜りました。大奥の御化粧刷毛や小間物の御用を務めました。私達は早速、買い物タイムです。私は水筒用と急須用のブラシを求めましたが高級な大奥用のリス毛の刷毛を購入した方もいらっしゃいました。

この辺りには広重の絵にあるような大店の大丸があった所だと講師が説明しました。

次は於竹大日如来井戸です。大伝馬町の名主の馬込家の召使の「お竹さん」は大変情に厚く、一人の行者が訪ねたところ「お竹さん」から後光がさしました。馬込家は庵を作り庵主としました。

綱吉の母からも女性の鏡と褒めたたえれらたとの事です。

宝田恵比寿神社の小さな建物がありました。馬込家が三河国から家康に随行して三伝馬(両替、駅伝、水陸運輸)の役を賜わりました。宝田恵比寿神社は、馬込家にあった宝田村の鎮守だったそうです。江戸中期には、ここでべったら漬けが売られたそうです。現在も10月にべったら市があるとの事です。

11時半頃、身延別院で油かけ大黒天にお詣りしました。水の代わりに菜種油をかけると商売繁盛するという京都伏見にある大黒様を長谷川一夫夫妻が勧請したとの事です、つやつやの神様でした。

中央区の十恩スクエアは旧十恩小学校の跡地に出来ていて建物と公園からなっています。ここは小伝馬町牢屋敷跡で刑の執行まで拘禁した施設です、入牢者は200年間に数十万にのぼるそうです。牢屋敷の模型や江戸中に巡らされた上水道の跡も見ました。外の公園に出てお手洗休憩をして又説明を聞きました。第一回江戸名所で入った石町の時の鐘がここに移されていました。

大きな石の吉田松陰碑には「身はたとひ武蔵野野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂」が刻まれていました。

長唄三味線の一派の桝屋記念碑がありました。

そして一向はすぐ側の高野山真言宗大安楽寺へ入りました。牢屋敷があった場所に富豪の大倉氏と安田氏の寄進で明治15年に創建されました。延命地蔵の台座の字は山岡鉄舟の筆ということです。

水天宮通りを進みます。

数分進み小伝馬町から岩本町に入りました。お玉が池種痘所跡の説明板が壁にありました。安政5年に伊東玄朴や大槻俊斎ら蘭学者82名が資金を出し勘定奉行の川路義詮の屋敷内に種痘所を作りました。後に東京大学医学部になりました。

通りを曲がればお玉池稲荷がありました。桜ケ池という不忍池より大きな池がありましたが茶屋の「お玉」という娘が身を投げた事から「お玉が池」となりました。池の辺に勧請した稲荷です。

土曜日は解放されていた玄武館跡がありました。小さな広場に石碑とベンチのみで当時を偲ぶものはありませんでした。千葉周作は寛政5年(1793)に陸前気仙村の馬医の子供として生まれました。古い因習に捕われない北辰一刀流の流儀を開きました。坂本龍馬も関わりがあったという道場です。

 

午前の最後の柳森神社には数分で着きました。ちよっと変わった(他を抜く)という意味から狸の像それもお腹の大きいものが狐の場所に居たのです。家光の側室の柱昌院の出世人生に因んだものだそうです。富士塚や力石の数々もありました。

 

 

お詣りしたら、さあお楽しみの神田薮蕎麦に向かいます。

すぐに万世橋の堂々として石柱を水面にリバーサイドレストランがすらりと並んでいますが私たちは神田へと急ぎました。

12時40分頃、到着しました。24日は次々と皆,入る事ができましたが26日の土曜日は並んで順番を待ちました。

一枚のせいろが670円、濃い目のそばつゆにちょっとつけて頂きます。

山かけそばも美味だってと聞きました。おかめ蕎麦には何と小さな松茸が入っていました。やはり50分から1時間はかかってしまいました。ゆっくりと日本酒を味わうのが通と云われますが私たちは先を急ぎます。

後編に続きます。

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鎌倉街道上道 第十七回 町田から瀬谷

5月8日(火) 19日(土)10時に町田交番前の絹の道の道標前よりスタートしました。8日は小雨には降られましたがだいたい順調に歩く事ができました。

ちよっと賑やかな商店街を通ります。町田では評判の乾物屋を商う店の前も通ります。西の新宿と言われたりもしますが、とても便利な街です。

大きな町田図書館を過ぎると町田天満宮です。

旧称は菅原神社でしたが昭和39年飯縄神社、日枝神社を合祀して町田天満宮となりました。牛を撫で七福神の境内社、赤い鳥居の出世稲荷にもお参りしました。毎月1日は骨董市で賑わいます。

金森の住宅地の鎌倉街道だとされている道路を進みます。

10時半過ぎに金森杉山神社に着きました。祭神は日本武尊で多摩川の西から鶴見川本流・支流の間に多く分布しています。多摩川から東側から元荒川までは氷川神社、元利根川以東は香取神社が多いと説明があり地図を見ながら成程と思うのでした。

庚申塔、日待塔、道祖神、光専神の古い石造物が並べられていました。光専神は咳の神様としてお参りしたと言われています。

又、太平洋戦争で米軍がこの樹を目標に降下し、厚木飛行場を空襲したという御神木を見ました。

10分位で天満宮の階段を上がりました。江戸時代には「時宗久保」との地名で呼ばれていたとの事です。小さな宮の横に有名な「東風吹かば」の石碑がありました。

水分補給をして又、出発しました。鶴金橋の信号を渡ります。鶴間と金森の境の橋という事です。

又、10分位で次の杉山神社に着きました。

三回廻って祈願すれば成就するという銀杏の木がありましたが、その様な時間を与えられず、せめて手を触れて大木から気を貰いました。

黒土の畑の中を通りました。じゃがいもの花が咲いていました。

桑の実をちょっと味見させてもらいました。

レタスが立派に育っています。

11時半近くに曹洞宗の常楽寺に着きました。本尊は平安時代の阿弥陀三尊という事です。

数分で八坂神社につきました。宮司は町田市能ケ谷の池田氏でこの方は能ケ谷神社や杉山神社など幾つもの神社の宮司をなさっています。

庚申塔が二基並んでありました。

柏の葉の若葉も美しく茂っていました。若い葉が出てから古い葉が落ちる事から子孫を継ぐという意味で、五月の端午の節句の柏餅の葉はこれでなければならないとの事です。

熊野神社には11時45分頃に着きました。これまでの小振りな神社と違い権現造りの屋根の青と柱の赤も新しく、石畳のある境内もゆったりとしていました。この辺りの地形が熊野那智大社の地形に似ている事から勧請したとの事です。

12頃に昼食を取るフアミリーレストランのココスが見えて来ました。注文してから料理が来るまでちよっと時間がかかりましたがボリユームのある昼食を頂きました。1時にはスタートしました。

2019年度に向けての南町田拠点創出まちづくりという工事が進行中でした。

鶴間小学校を過ぎ川沿いを歩き鶴瀬橋を渡り古義真言宗の観音寺に着きました。

昔は金亀房と呼ばれていましたが宝暦年間に観音堂を建て安置した後、この辺りの大火を免れたので寺号を観音寺と改めたという事です。

塀伝いに進むと新田義貞公鎌倉進撃路の看板が立っていました。上道はまさに鎌倉進撃への道だったのです。

しばらく進むと高札場がありました。慶応4年切支丹の禁止を定めたものが中央の物です。下鶴間村のこの辺りに建っていたとのことです。

大山道(矢倉沢往還)に「是より西大山七里という鶴間村宿の道標がある旧家を見学しました。新田氏所縁の高下家で義貞が剣を捧げている銅像や、入口には阿夫利神社分霊社がありました。

新田軍の大きな進撃路も示されており、私達の歩いた道をおさらいの様に辿って眺めたりしました。阿夫利神社分霊社に今、お参りすると雨が降ると困るので入りませんでしたが、なかなか立派な注連飾りでした。

境川を渡ると五貫目道祖神がありました。元の場所は現在地より300メートル西方の境川橋手前に祀られていて北は世田谷・青山、西は伊勢原・小田原、南は戸塚・鎌倉に通ずる三方分岐点として旅人の道標となっていた道祖神でした。二代目とは云え、とても古そうにみえました。

1時過ぎに厚木街道の横を通り産廃処理業の多い場所を歩きました。日経新聞の横浜別館の大きな建物がありました。

車用と人用の隧道を抜けると若宮八幡神社に着きました。稲荷社には鈎を加えた狐の紋が彫られていました。

2時30分過ぎに歩いた所は、瀬谷から相沢に抜ける場所を牢場坂と呼ばれていました。1449~52年、上杉定正の家臣の山田氏が居を構え牢獄を置いた事から名付けられました。

瀬谷という地名通リ出ました。

髭文字が見えました。日蓮宗妙光寺です。


 


山田氏が隣村の恩田村万念寺の和尚との賭けに勝ち、梵鐘と半鐘を得たということです。

その時の鐘を持ち帰る際に一つイボが擦り減ったという跡も見て、私達は半信半疑で眺めたのでした。


力士荒磯の記念碑がありました。日清戦争で力士義勇軍として従軍した伊勢ノ海部屋の力士でした。

鷹匠長田白政の立派な墓がありました。源義朝の殺害に直接かかわっていませんでしたが子孫が家康の鷹匠を務め、永井氏と改めるようにと云われ後には大身の旗本になりました。

3時頃、北向き観音堂に着きました。小さなお堂の中に7体の石地蔵が向き合っていらっしゃいました。

近くに浄土宗善昌寺がありました。こちらも瀬谷八福神の一つです。

善昌寺の金の字が光っていました。室町時代の1533年に開山しました。甲斐源氏所縁の岩崎氏が一族を弔うために建立しました。三菱の創始者の岩崎弥太郎もこの一族という事です。

中屋敷跡は公園になっていました。この辺りは緑が多く、大きな屋敷がありました。竹製の塀が長い屋敷があり瀬谷銀行跡とありました。昭和10年鎌倉銀行と合併し16年に横浜銀行に統合されたとの事です。

中屋敷地蔵尊を見て、おもむきのある中屋敷町の通りを歩きました。静かな緑陰の中を進みます。鎌倉街道歩きをしていて嬉しい時を感じる瞬間です。

右手には木造の名主らしき家もありました。名木の欅が何本もあります。市民の散策コースとして親しまれている、この場所に河津桜やミカイドウ、カルミヤを植樹したとの大きな標記がありました。

しばらくして瀬谷神明社に着きました。神殿の屋根に特長があり鞭掛けが突き出している場所を見てたしかめました。

西南の役から太平洋戦争までの241柱が刻まれた忠魂碑がありました。台座は相模国分寺の礎石を譲りうけたとの事です。大正5年の内閣総理大臣寺内政毅の書です。

10分位で日枝神社がありました。拝殿の正面を支えている柱の表面が真っ平でなく内側に三角に刻みこまれている几帳面です。

樹齢300年とも400年とも言われている欅がありました。太平洋戦争の時にこの樹を目標に突入の訓練をし特攻隊で生き残った方がここで戦友を偲んでいるそうです。

中川橋を渡りました。

金網に囲まれて見え辛かったですが大門大六天の篆書の碑が珍しいものでした。

 

次に曹洞宗の徳善寺に入りました。六地蔵は山門の脇にありました。二体ずつ三基の六地蔵は大変珍しいとのことです。

平成門との額のかかる大きな門をくぐりました。

義民の碑は税額の不当を訴え明治7年から5年間、裁判で戦った村民の徳を碑として建立しました。

アメリカ軍が3キロに渡って造った海軍道路を横切って瀬谷駅に向かいました。

到着は4時を過ぎていました。相鉄線瀬谷駅には4時15分に着き、町田方面と横浜方面に向かう人に別れました。

前回より幾分、楽ではありましたが長丁場を頑張りました。

皆様大変お疲れ様でした。

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江戸名所巡り  第二回 湯島本郷界隈

江戸名所巡りの第二回目は4月の17日(火)、19日(木)、21日(土)の3日間行われました。

若葉の美しい季節となり、お茶の水駅前を10時にとても気持ち良くスタートできました。
まず信号を渡り前回見た太田姫稲荷の元宮の木の前に立ちました。

聖橋を渡りながら景色を鑑賞しながら進みました。湯島聖堂の横を通り右に折れると神田明神ですが門前横のあまざけ屋の天野屋さんの話を聞きました。

 

江戸の後期、丹後宮津藩から兄の敵討ちで江戸に出てきて、人通りの多いこの場所で敵を探しながら糀屋と茶店を構えて今に至っている話と、敵討ちの決まり事などをききました。敵討ちの番付表まであるのですから、何でも番付表にして楽しむという何と面白い時代だったのでしようか。

神田神社という大鳥居をくぐり坂を上がります。神田明神は江戸総鎮守で大きな随身門がまず目に入ります。大己貴命、少彦名命、平将門がご祭神とあります。大黒様の逸話、因幡の白兎などの彫刻や、中国の四神である青龍、白虎、朱雀、玄武が東西南北を守っています。

何ときらびやかな門で、多くの願いを盛り込んだてんこ盛りともいえる飾りを一つ一つ見ました。後ろには将門の馬もちゃんと金色に輝いていました。

大黒様の像がありました。少しおいて、少彦名命が波に乗ってる像があり、一寸法師の話の原型と知りました。

そして拝殿にお参りします。神紋や天水桶。明治天皇臨幸記念碑、石獅子と内側も盛り沢山のものがありました。土曜日は次々と結婚式の儀が執り行われていて、そちらの方にも目を奪われてしまいました。

又、広重の絵の神田明神曙之景の場所にも立ちました。たしかに下が崖になってビルが建っていますが昔の様に海は見えず、ここから美しい曙を見た江戸時代を想像するのみでした。

本殿の権現造の豪華絢爛な横を通り脇にある銭形平次の碑へと移りました。昭和6年野村胡堂が発表したとの事で私たち世代は大川橋蔵の美しい顔が浮かんできます。発起人の碑、平次の碑、平次の横に小さく八五郎の碑もあり笑いが起こりました。

又、国学発祥の碑があり、江戸時代、神田明神の神主家(平田家)で国学の講演会が行われていたそうです。いろはにほへとから、あいうえおの母音、子音などが確立されたのもこの時代と聞きました。

「山茶花の散るや己の影の中」の句碑もあり境内の七つの鳥居もさっと巡りました。藤の花が美しく咲いています。力石があります。

清水坂下の交差点から4、5分で妻恋神社に着きました。日本武尊が三浦半島から房総に渡ろうとした際に荒れた海を鎮めるために海に、弟橘姫乃命が身を投げた話はあまりにも有名です。この地に武尊は妃を祀ったのが始まりで江戸時代に稲荷を合祀したとのことで赤い鳥居も中にありました。

11時過ぎに訪ねた霊雲寺は徳川家の永代祈祷寺として100石の朱印の真言宗の寺です。五代将軍の綱吉より当地を得て浄厳律師覚彦が開創しました。資料の名所図会には江戸の下町生まれの其角の句が書かれていて本堂の大屋根は絵でも大きく、現在は昭和に再建されたもので高々とそびえていました。

門の前の石柱の字に私たちは注目しました。辛い物、匂うもの、酒、肉を食べた者は内に入るを許さないという意味のことが示されていました。

皆さん誰も入れませんねと講師は笑いました。江戸の人々もかなり難しかったのではと感じました。

11時14分、湯島天神の鳥居を潜りました。修繕の記録が刻まれていました。

包丁塚と筆塚が並んでありました。撫で牛がどうして天神にあるのかは良く聞きます。菅原道真が亡くなり、京都に運んでいる時に牛が座り込み動かなくなっというのです。道真がこの場所がいいとの意思を示したと考え太宰府天満宮に祀られたと伝えられています。

撫で牛を私たちも撫でて次へ進みました。奇縁氷人石は江戸で一番古い迷子の石標です。泉鏡花の筆塚を見て梅鉢と牛の親子の神紋を見ました。

青梅の実がなっています。

すぐそばに心城院があり湯島天神の別当院との事です。

江戸名水でまっすぐな美しい髪になるという柳の井を見て水琴窟の美しい音色を聴きました。その後、天神様の境内に戻り講談発祥の碑を見ました。

ガス灯が一基ありました。昭和40年頃に撤去されたのですがその後、明治の文明開化のシンボルのガス灯を設けたとの事です。佐伯孝夫作詞の湯島の白梅の中にも出てきます。

王貞治氏国民栄誉賞記念の努力の碑の力強い字を見る事ができました。

ここからの眺めという広重の雪景色の絵を見て天満宮を後にしました。映画の主題歌、湯島の白梅で全国的に有名になった切通坂は、石川啄木が朝日新聞の夜勤帰りに通ったとのことです。急坂を通り教證寺へ向かいます。

ここには、柳瀬美仲の墓があります。江戸中期の歌人で「はつせ路や初音聞かまく尋ねてもまだこもりくの山ほとぎす」この一首で、こもりくの美仲先生と呼ばれたとのことです。

すぐに旧岩崎家庭園(住宅)に着きました。65歳上は200円です。こちらの地は榊原式部大輔中屋敷跡で維新後は一時、桐野利明が住んだ時期もあったとのことです。その後、三菱財閥の岩崎弥太郎邸となりコンドル設計の洋館は国の重要文化財です。各部屋には暖炉があります。和館も少しですが残されていました。外に出て庭からの洋館を鑑賞しました。芝生の間に和タンポポが沢山小さな花をつけていました。

離れた場所にビリヤード室があり出口に向かうところに牡丹の花が丁度見頃で何とも美しく咲いていました。

無縁坂を登り講安寺へと向かいました。さだまさしの曲が脳裏に流れます。「この坂を昇るたびにいつもため息をついた・・・・忍ぶ不忍無縁坂かみしめるようなささやかな僕の母の人生♪♪」

講安寺は漆喰で塗られた土蔵造りの寺です。家斉の側室お美代の方が落飾後40年余りを過ごしたそうです。石の三重塔が小さく立っていました。

岩崎庭園の周りの静かな通りを歩き麟祥禅院に入りました。春日局菩提寺であり明治時代に哲学館があった所です。山門の扁額をくぐると寺の顕碑の台座に亀ふ(キフ)が彫られてありました。宋代に龍の子供の一人で贔屓(ヒイキ)といい、亀に似ていて大変なことを負担するのを好んだというものです。

家光の乳母になった春日局の墓は死後も江戸の政治をよく見るという意味で丸い穴が開いています。

稲葉氏の紋(元婚家)と葵の紋に局の権力を感じるのでした。

すぐそばに和菓子の壺屋がありました。

寛永年間創業で明治維新の時に徳川様にお世話になったからと店を閉めたところ勝海舟に止められたという話が残っています。最中の甘いこと甘いこと、江戸時代の人は甘いのが好きだったのでしようか。前回の庄之助最中よりすった甘く感じました。

江戸時代の地図を見ながら加賀家と旗本の近藤家の喧嘩の話を聞きました。又、北方には御長屋が幾棟もずらりと並んでいました。江戸詰の人達の住居だったのでしよう。

買い物をすませるとすぐにかねやすに着きました。江戸時代、兼安は口入医師で歯磨きや歯ブラシを扱っていましたが明治以降は小間物屋だったそうです。最近はシヤッターが降りたままです。「本郷もかねやすまでは江戸の内」が有名です。

 

「御府内」は瓦ぶきの家と決められていたとのことです。樋口一葉も買い物に来ていたというかねやすを後に東大を右手に見ながら進みます。

一葉の「ゆく雲」の中に書かれている腰衣観音さまがいらっしゃる法真寺へと左に曲がりました。濡れ観音さまはいつの間にか屋根の中にいらっしゃいました。

一葉らしき像が観音様のわきに造られていました。

 

そばの喫茶の側もどんどん綺麗に飾られていくようです。処分されようとしていた庚申塔を見て魂を抜きこちらの窓辺に置かれたと、いつかご住職が話されていました。彫りもよくわかる全体像と二猿を私たちは見て通り過ぎました。

すぐに曹洞宗喜福寿寺に着きました。こちらは有名な佐藤紅緑、金田一京助、久保田万太郎の墓があります。

5分後、ようやく東京大学の赤門をくぐりました。11代将軍家斉の息女溶姫が加賀前田家に降嫁した時の御朱殿門があまりにも有名ですが黒門が正門と知りました。安田講堂の前を通り13時40分、新しく改装した学食にやっと着きました。ちょっと豪華に張り込んだつもりでも680円、レシートにはカロリーも出ています。

ゆっくり出来ないままに集合の時間が来てしまい、三四郎池を一巡しました。藤の花が池に垂れて若葉が映り何とも清々しい気持になりました。

東大病院はとても混んでいます。池の端門から出て境稲荷に着きました。

境稲荷には弁慶が奥州に落ちて行く時に立ち寄ったという鑑の井がありました。

15時すぎに日蓮宗大正寺に寄りました。1854年日露和親条約を下田で締結した川路聖謨の墓があります。

突然、東京大学医学部戦没同窓生之碑が現れました。見るとフイリピンレイテ島、ルソン島、ビルマ、マリアナ、アアリユーシャンの名に目を奪われました。日本の大切な頭脳が虚しく彼方に散った事を私たちは忘れてはなりません。

暗闇坂を抜けると弥生式土器発掘ゆかりの地碑があります。縄文式土器は祭事の時の器であり弥生式土器は生活に使用されていたという事が大きな違いだと聞きました。

15時31分、お化け階段を上り下りしました。39段?、40段?一段違うということですが私たちはもう疲れていた確かめる事をする元気もでません。

何と2分で根津神社です。つつじ祭りの最中で私たちはうっとりと見とれてしまいました。

本殿、青銅灯篭、千本鳥居のそばには家宣胞衣塚もありました。夏目漱石や森鴎外が座り想いを練ったとされる文豪想いの石のそばで本日は解散しました。

本日も何と盛り沢山の場所を訪問した事でしようか。益々東京という街に興味が湧いてきます。

次回以降も大変楽しみですね。皆様本日はお疲れさまでした。

 

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鎌倉街道上道  第十六回 乞田から町田

 

4月3日(火)、14日(土)、約30名の皆様と上道第16回を歩きました。小田急線永山駅を10時5分前に出発しました。

坂道を下り左へ進み、木々を配置した中を花壇を見ながらのせせらぎの流れは、現代の造形物ではありますがとても美しく整備されていました。

10時23分、やっと瓜生一里塚跡に着きました。武蔵名勝図会に関戸より乞田を経て、ここまで一里なりとあります。講師は府中から一里といいますがもっと歩いたような気がしてなりません。

せせらぎ公園から前回の終わりの場所のお向かいに着きました。マックの前からのスタートです。

乞田大橋を渡り椋の青く小さな実をみて京王線の高架をくぐりました。それから少し歩き11時近くにスーパーの御手洗いを借りました。

乞田川の支流でしょうか細い川の横を歩き、貝取の名主伊野家の前を通り、11時に大福寺へ入りました。

曹洞宗なのに寺紋は卍が大屋根にありました。地蔵菩薩木立像は行基作とされています。向かい側の貝取神社へもお参りをしました。貝取は、飼取や垣内(カイト)から転訛したという名の由来を聞き、珍しい龍の石造物をみました。とても古そうです。

貝取大通りという緑り豊かな通りは、気持ち良くどんどん進みました。花水木の白い花が満開です。

11時40分頃、日蓮宗妙櫻寺に着きました。建長5年(1253)の創建と古く橘紋でした。

すぐに元の道に戻り、又緑り豊かな綺麗に舗装された道を歩きました。鎌倉古道の標記がありました。

お昼近くになっていましたが、古民家が残されている公園へと入っていきました。

お手洗いと、古民家の有山家、加藤家住宅を見学しました。江戸時代の多摩の農家を移築したものです。小さな竈が土間にあり、囲炉裏の部屋と奥の間、納戸ととても質素です。

古民家から石段を降りてすぐに布田の道に入っていきました。

甲州街道の布田宿(調布市)に通じる道で近藤勇や土方、沖田らが江戸の道場から小野路へと出稽古に来た道です。

10分くらい歩くと小野路を示す札がありました。関屋の切通しも竹林もあり、なかなかの迫力を感じました。このあたりの人々は当然新撰組を支持していました。

百五十年くらい前に思いを馳せて歩いていましたが、しかしすぐに小野路宿の通りに出ました。ここもとても雰囲気のいい通りです。白い土蔵もあります。小字に「ならべい」があるとのことです。新田義貞が鎌倉攻めの折に、ここで点呼を取る為に「並べ」と言ったのが地名になったそうです。バス停の名前にも中宿とあります。

小島家は名主で農民を指導し学問や武術を教え新撰組を支援したとのことです。門構えと奥の緑に見とれてしまいました。

通りの角に里山交流館があります。こちらも名主の細野家を改修したものです。ここで今日の昼食を頂きました。入口にずらりと朝採りの筍が並んでいました。もちろん、購入した方々がたくさんいらっしゃいました。

小野路のうどん定食550円、コロッケ110円を注文しました。うどんは細長く量がたっぷり、だしも独特の味でこちらの郷土の味を体験する事ができました。テーブルの中央に熊谷草の活け花があり、この館に携わっている方々の心根まで感じられて嬉しく拝見しました。

約50分間の休憩をとり午後の部へと出発しました。

すぐ隣の小野神社に入りました。階段を昇ります。小野氏の先祖である小野篁(タカムラ)が祭神です。1403年に僧正珠が寄進を募り小野大明神の梵鐘を鋳造し旅人に時を知らせていました。1480年頃、両上杉氏の合戦で山内上杉の兵により陣鐘として持ち去られ、現在は逗子の海宝院にあるとの事です。

現在、拝殿の軒先にある鐘の姿に私たちは驚きました。

広い通りからすぐに細い道へと折れました。一輪草の群生がありました。

2,3分で小野路一里塚の説明板が立っていました。瓜生から一里歩いたわけです。風土記に「府中宿から二里にあたれる一里塚なり」と記述があります。

近年、町田のサッカー場が整備されつつあり、駐車場や道路に変わりゆく自然をいかに残していけるか、この地に問われている現状です。

一行はこれから貴重な道へと入っていきます。若葉が美しい道です。14:00頃、旧鎌倉街道の真横を歩きました。

鎌倉街道上道で一番長く残っているのではと講師が熱く語っていた場所と思われます。

ほとんど空洞になっている樹でも横から若葉がでています。頑張ってと声をかけて進みます。

途中で川を渡り、また古道に入りました。たらの芽の群生もあります。

鎌倉街道古道、上道の看板がまたありました。少しずつ丘に登っていきます。七国山を登り始めたのです。

突然視界が開けました。七国山は案外低い丘の山でした。畑がいろいろあり菜の花がきれいです。横浜の景色が遠くに見えています。

七国山鎌倉街道の碑があります。七国山を降りていると鎌倉井戸が掘割にありました。新田義貞が鎌倉攻めの時に堀ったものと云われています。深さ4メートルで表面は長い年月の間に崩れているが1・5メートルの所に直径70センチの円柱の井戸が残っているとの事です。

七国山の麓にダリア園があります。こちらで御手洗い休憩をさせて頂きました。喫茶があり冷たい物を飲んだりソフトクリームを食べたりしました。現在の大通りの鎌倉街道に出ました。

今井谷戸の信号を進みます。

右に曲がり小川や植え込みがあるなかよし散歩道を歩きました。町田にはこの様な憩える歩道が所々にあります。

15時半すぎに日蓮宗宏善寺の門をくぐりました。元は真言宗の観音堂でしたが日蓮が佐渡に流される途中に休息し、それ以降、日蓮宗に改宗したとの事です。この様な話を至る所で聞くにつけ、日蓮の力の凄さが今更ながら伝わってきます。高い場所から日蓮像に見られていました。枝垂れ梅にも、もう青梅がなっていました。

5分位で鶏足山養運寺に着きました。山号がなんとも面白い名です。元は天台宗でしたが1567年に浄土宗へ改宗しました。ムクロジの木の実を講師は割って見せました。

16時頃、寺を後にし15分かけて最後の菅原神社へと歩きました。皆さん、かなりお疲れです。万歩計がいつもよりすごいことになっています。力を振り絞り階段を昇りました。初詣の折はここ菅原神社に行列ができるくらいとても賑わいます。

井出の沢古戦場の碑と説明板がありました。この一帯で足利直義と、北条高時の子供の時行が信濃から兵を従えてきて戦った場所です。鎌倉時代終盤の戦いがここであったのです。

もう16時半です。私達は急ぎ町田駅へと向かいました。町田駅前に道標がありました。絹の道とは美しい名前ですね。今の横浜線は、明治時代貨物列車で八王子と横浜を結んでいました。絹を欧米へ輸出する大切な道でした。

絹の道道標を見てすぐ解散しました。本日は起伏もありその上長い道のりでした。本当にお疲れさまでした。

 

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江戸名所巡り 第一回 日本橋界隈

 

 

弥生三月、いよいよ江戸名所巡りが始まりました、歴史的な物に触れながら安藤広重名所江戸百景と江戸名所図会を巡る第一部の16回です。老舗での食事や買物も計画に入れているというお楽しみ満載の旅にさあ、御一緒いたしましよう!

3月20日(火)22日(木)24日(土)総勢50名近くの皆様と東京駅日本橋口を出発しました。広場でご挨拶をした後、北町奉行所跡を見ました。芝笹の中に当時の石が置かれ同心や与力の話を聞きました。細い通路の左植え込みには、珍しい黒文字の木があり鑑賞しながら通り抜けました。

工事中の壁面は、1950年代のゴジラ展で第一作目からのポスターが飾ってありました。筆者が見たのはモスラ対ゴジラでザ・ピーナッツが主題歌を歌っていたのが印象に残っています。

常盤橋門跡は未だ修復工事が終わらずに渋沢栄一像だけが目立っていました。幕府崩壊後、外堀に架かるこの常盤橋の御門を残す為に尽くしたとの事で、没後に銅像が建てられたそうです。

常盤橋を渡り、この辺りからの眺めという広重の絵を見ました。

橋を渡った先は一石橋がありました。江戸時代、北橋詰には金座御用の後藤家で南詰には幕府御用の呉服所の後藤家があり、それをもじって五斗と五斗で一石橋と呼ばれ、にぎやかなこの場所には迷子しらせ石柱が建てられていてその名残が偲ばれます。迷子についで溺死も多かったとの事で胸が痛みます。

橋を渡り金座跡へと戻りました。現在の日本銀行です。上空から見ると円という形になっているのが有名ですが、明治時代にバロック式とルネッサンス的意匠を加えた建物との事です。こちらも工事中でした。

向かい側に貨幣博物館があり20分位見学しました。オリンピックが近付きセキュリティが大変厳しくなっていて驚きました。分銅金、天正、慶長大判の本物を観、また千両箱など持ち上げる体験をしました。

延命地蔵の前を通り栄太郎本舗を見ながら進みます。1818年、初代が孫を連れて飯能横町から江戸に出てきたのが始まりとのことです。

漆器屋の黒江屋の二階には日本橋の擬宝珠1658年のものが展示されています。近江から京都に出て萌黄色の蚊帳で成功した西川のビルも見えてきました。

 

日本橋に出ました。美しい字体が見えます。徳川慶喜筆との事です。

桜が咲き始めて何とも華やかな気分にさせてくれます。しかし橋の手前には江戸時代の曝し場があったとの事です。日本道路元標があり、現在は七つの国道の出発点となっています。高札場は石造で瓦屋根で立派に標されてありました。

橋を渡ると日本橋魚市場発祥の地の石碑と乙姫さまのふくよかな像があります。晒し場の対岸に魚市場とは何とおおらかな時代だったのかと感じてしまいます。関東大震災後は現在の築地に移ったそうです。

昔の駿河町にはちゃんとスルガ銀行があります。向かって左手をまず進みます。

伊勢松阪から出て来た三井高利が小さな呉服店を開き、次々と商法を打ち出した越後屋跡に三越があります。イギリス製のライオン像を撫でて、イタリア製の大理石の中のアンモナイトの化石を見ました。現在本館の建物は国の重要文化財に指定されています。

そこで資料にある越後屋と三井両替店との間から富士山がある広重百景の一枚を私達は現在の石造のビルに重ねて眺めました。

千疋屋は1834年に埼玉県千疋村の弁蔵が果物と野菜を安く商った店です。現在は日本一お高いかも知れません。

お向かいの通りも老舗揃いです。日本一よく切れるという刃物の木屋は1792年、鰹節のにんべんは1699年創業。勝男武士とも読めるので武士の進物によく利用されたとのことです。山本海苔店は明治に入り味付け海苔を考案し山岡鉄舟が明治天皇へのお土産にしたという話があります。

角を左に折れると三浦按針屋敷跡があります。領地の三浦からこの姓を名乗ったとの事で家康の外交顧問をしたとの事です。

細い路地に入り現在まで続く日本最古の弁当屋で代表的なお弁当を受け取りました。愛之助さんのサインがありました。1080円、お昼が楽しみです。

神茂も1689年の創業です。佃煮の鮒佐も角にあり「家業に誠実たれ」を家訓としています。

どんどん細い路地を行きこじんまりとしていて明るい「さるや」という楊枝の店にも心を惹かれました。猿は歯が白いという話に私達は本当かしらと驚きました。

とよ田という割烹の高級そうな店構えをながめました。

12時を廻っていました。火曜日は雨の為にお弁当を持ち帰る事にし、思い思いの店を選び昼食を取りました。筆者は小さな麦とろ定食の店に入りました。他の日は福徳神社と薬祖神社のあるコレド室町の広場で弁松のお弁当をいただきました。

味が少し濃くてさすがに魚河岸で働いた人たち向けの味だと感じます。

1時過ぎに午後の部がスタートしました。薬祖神社の建物は新しくこのコレド室町の新しいスペースにピッタリの様に思えました。オオナムチノカミとスクナヒコノカミを薬種商いの神として祀っていて日本の有名な製薬会社の名前がすらりと石に刻まれています。

福徳神社は850年頃に鎮座したとあり源義家や太田道灌などが尊崇したとの事です。

大通りに戻りすぐに村田眼鏡店の前に出ました。何と一日目の3月20日(火)で閉店するとありました。1615年、鏡師の村田山城守が創業、眼鏡店となってからは宮内庁御用達の高度な技術で知れていました。とても残念ねと皆さんでお店の中を覗き込み通りました。

長崎屋跡は日本橋室町4丁目2番地付近に説明板が立っていました。

船来品の薬種を扱っていて、ケンペルやツンベルク、シーボルト等の医師がいたために杉田玄白や平賀源内等が訪問し外国の知識を吸収する場となっていたとの事です。

公事宿があった事も知りました。公事訴訟や裁判の為に地方から来た人が宿泊できる宿で、長く逗留した大石内蔵助は出る時に100両の御礼をしたと伝わっています。

1分もすると蕪村の居住跡もありました。俳諧師であり画家でもありました。蕪村の句「月天心貧しき町を通りけり」「菜の花や月は東に日は西に」が浮かんできます。

直ぐ隣の石町時の鐘は家康と共に江戸に来た辻源七が鐘付役に任命され、代々その役を勤め1711年の鐘が十恩公園内に移され現在も残っています。

時の鐘通りの美しいマンホールにも私達は注目しました、

通りから一本南に行き、1,2分で佐々木印店です。こちらも幕府が開かれた折に三河から移り将軍や御三家等の印章を造ったという店です。

日本橋からはじめての橋の今川橋跡がありました。当時、今川氏の尽力により架橋できたので名が付いたとも今川氏の屋敷があったからとの説があります。

神田駅のガード下を潜りました。西方の高架の上に徳力の文字が見えます。徳力本店は将軍吉宗の命で金銀の改鋳を始めました。現在も金銀の売買をおこなっていると聞きました。

JR神田駅付近は下駄製造業が多く下駄新道と呼ばれていました。

小さな和菓子屋がありました。二十二代木村庄之助の息子が始め現在は孫の代という事です。次から次へと客が入って行きます。我々も名物の庄之助最中を求めました。愛子さまのお祝い事の時にご用命があるという赤飯もみるみる内に無くなりました。

2時過ぎに神田青果市場発祥の地の石碑を見ました。

あんこう鍋の伊勢原、甘味処の竹村、神田薮蕎麦のお店が次々と現れました。第3回目には神田薮蕎麦の予定です。楽しみです。

筋違見附は現在の万世橋と昌平橋の間にありました。中山道と寛永寺への御成道が交差することから名付けられました。昌平橋を渡ります

2時20分頃、迎高門という門から聖堂に入りました、台湾から贈られた世界一の大きさという孔子像は頭が大きくどっしりした感じがしました。楷書の字を感じさせる櫂の木は孔子廟に植えられる樹で孔子が亡くなった後に弟子たちが植えたそうです。

入徳門は1704年、水屋は1799年の建造で当時のままに残つていました。杏壇門は学問を教授するという意味です。聖堂の屋根の飾りに注目しました。鯱の元になったという不思議な形の飾りが空に映えていました。土曜日は気功をしている集団で賑やかでした。聖堂に隣接して幕府は昌平坂学問所を作りました。明治になり開成所と医学所を合わせ大学校としたとの事です。

聖橋を渡る時に青いドームの屋根が見えてきました。橋を渡り左手に一口(イモアライ)太田姫稲荷神社がここにあつたという印の古木にしめ縄を巻いていました。元宮があった場所を見て紅梅坂を上がりました。

通称ニコライ堂へと入りました。正式名は、東京復活大聖堂といいロシア正教の教会で、大主教ニコライにより1884年から7年の歳月をかけ建てられたとの事です。

300円で教会の内部に入れてもらい説明を受けました。ろうそくを一本ずつ立てて火曜日と土曜日は女性、木曜日は男性の方から説明を受けました。

ニコライ神父の絵が右手に、左手にはローマ帝国兵士姿の若者の聖人の絵があり印象的でした。

十字架の形が八端十字と呼ばれて、下の斜めの棒が足台を表しているとの事でした。

坂を下り5,6分で太田姫稲荷に着きました。道灌の娘が天然痘を患った時に京都の一口稲荷に祈願したら平癒したので感謝し1457年に江戸に勧請しました。家康の入府に伴い移築したとの事です。どなたか太田道灌の山吹が咲いているよとおっしゃいました。

甲賀通りを横切ると小栗上野介ここに生まれるの看板がありました。幕末の外交財政政策をリードした人物でしたが新政府により斬首されました。しかし後の日本にとって大変貢献してくれた人物だと講師は力説するのでした。

次に大久保彦左衛門の屋敷跡と大きなビルの下に石標がありました。二千石の旗本は駕籠には乗れず朱塗りのタライで登城した話が有名です。

3時半頃に本日最後のお茶の水の碑を見ました。二代将軍の秀忠が鷹狩の帰りに立ち寄り御茶を飲んだところ気に入り将軍家御用の水となったとの事です。

本日はJRお茶の水駅で解散です。

江戸時代の社会や暮らしを少し垣間見た気分になりました。

皆様と江戸名所の第一回をとても楽しく終えることができました。

ありがとうございました。

花の陰江戸のなにがし屋敷跡  慶月

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第十五回 鎌倉街道上道  府中から乞田

春の日差しを受けて、街道歩きにはとても良い季節となりました。鎌倉街道上道も早や15回目を迎えました。

3月6日(火)、10日(土)合わせて30名の御参加で武蔵の国府があった場所を歩きました。6日はポカポカ陽気で汗ばむ位でしたが、10日は歩くのに丁度良い気温で、皆様の足どりも軽く進むことができました。

10時、北府中駅を出発しました。左手に古くなった府中市民球場を見ながら進み川越街道の石柱を左折しました。1996年の薮内佐斗司の作品で蛙や童子の展示物をよけながら進み蓮の花や葉の集まる堂々広場を鑑賞しました。

10時20分過ぎに大きな欅の道に出ました。ここはもう大國魂神社の参道です。源義家の美男子の像が建っていました。源頼家、義家親子が前九年の役の折、戦勝祈願で奉納した千本の苗木からこの並木は続いているとの事です。当時の樹といわれているのは正面鳥居の両側の二本だけとのことです。

虚子の句碑や万葉仮名の歌碑もありました。

義家が奉納し現在に至っているという二本の欅が見えてきました。6日には神官の方が注連縄を直されていました。

参道の左手に宮之咩神社の珍しい奉納品を目にしました。穴の開いた柄杓は安産のお礼に納めるとのことです。

そのずっと奥に国府府中跡の赤い柱を見ました。武蔵国国府の国衙跡と推定されています。官僚が仕事を行っていたという場所でしようか。何本もの赤柱が建てられていました。当時を思い描くには少し難しい気もいたしましたが、私たちはその朱塗りの柱の横を通り抜けました。

立派な土俵を見ながら大國魂神社の境内へと戻りました。歴史館を見学しながら御手洗い休憩を取りました。

3月10日には、歴史資料館を出て直ぐに結婚式の行列を見ることが出来ました。雅楽が前を先導し、とてもおごそかでした。

日露戦役記念碑や中門、亀石、鶴石、鼓楼を見ました。

拝殿の後ろの本殿は隙間から覗きました。

松尾神社には酒樽が奉納されていました。神馬像や東照宮を見ました。住吉・大鷲神社へもお参りしました。

この東照宮は、秀忠の時代に家康の柩を久能山から日光の二荒山に移す折こちらで一泊したとのことで、後世に伝える為に1618年創建されました。

先を急ぐ私たちはゆっくりしていられないのが残念です。

地獄坂とも暗闇坂とも言われた裏道を通り妙光寺の立派な朱の門を見て、少し高くなっている場所へと進むと小さな琴平神社がありました。天狗の団扇の紋です。なぜ航海の神である住吉や琴平があるかは、当時多摩川がすぐ下を流れていてここは重要な物流の拠点だったという事を意味しているのです。

6日も10日もまだ梅が美しく咲いていました。通りに出て天台宗善明寺へと入りました。山門を潜ると美しいお庭が広がっていました。御堂には畠山重忠の愛人の夙妻の死を憐れんで鋳造したという鉄仏が納められているそうです。

ずっと奥の駐車場の隣に依田伊織の墓がありました。1681年府中本町に生まれ神道、仏教、儒教の三教一致を説いたとの事です。

12時頃、古い市役所の建物の前を通り本日のお昼のカフェに着きました。1861年建築の中久本店で、今は黒壁の土蔵造りのカフェと酒屋が一体になっています。火曜日は一階と二階に別々に別れて頂きましたが、土曜日は一階フロアを「あるき隊」の貸し切りとしてもらいました。多くの方がランチと共にコーヒーやデザートも楽しまれておられました。

1時間の休憩の後、ます直ぐ側にある高札場をみました。人通りの多い場所に禁制や法令等を伝える為に板札を掲げた場所です。隣りの御旅所の赤い柱の柵が目立っていました。

5分位で本日のメインの一つである高安寺に着きました。

藤原秀郷(俵藤太)の創建と伝えられ、武蔵守として在任中の居館として開かれたと伝えられています。後に足利尊(高)氏により再興され、尊氏の院号の名を取り龍門山等持院高安禅寺という立派な古刹です。山門の扁額を見ながら入り、観音堂の三間堂を眺めながら干支八体本尊が並ぶ参道を楼門へと進みました。

仁王像の裏側には奪衣婆像があり、私達はギヨッとさせられました。

墓地に入らせていただき太田蜀山人の書体を見せてもらいました。

タラヨウの大きな木がありました。葉書の木とも言われ仏教の経典は初期にはこの葉に書かれたとの事です。

奥の立派な本堂には足利家の家紋である二引両が輝いていました。木曽源太郎義顕の墓が大きく建っていました。木曽義仲の25代子孫で明治時代に自由民権運動家でした。

秀郷稲荷は屋敷跡との伝承です。説明を聞いていた時に頭上では緑の鳥が飛び交っていました。野生化したインコだそうです。

稲荷の脇の足元の悪い階段を降りると弁慶の硯の井戸がありました。義経が腰越で拒まれ、京都を目指す折に弁慶が再度、文を書いた時の硯に水を注いだ井戸とのことです。

分倍が原駅前に新田義貞像があり御手洗いと写真を撮影しました。

5分から6分で高倉塚に着きました。この辺には27基ある古墳の一つです。6日には辛夷の蕾がふくらんでいました。

陣街道は別名を鎌倉街道、浅間道、分倍道とも呼ばれていました。

通りに向いている抱き板碑は、古木になった欅の木に抱きかかえられるように立っていました。1319年、父親の17回忌の供養に建立された事に驚きましたが、説明板には風化がひどく複製との事で納得しました。。

その板碑が境内にあった天王宮八雲神社に入りました。牛頭天王と須佐之男命を合祀して分梅地域の鎮守としたとの事です・

10分ぐらいで分倍ケ原古戦場跡に着きました。きれいに整備されていて遊歩道の脇の樹々は芽吹き始めていました。1333年5月15日、新田義貞勢は合戦に敗れ所沢方面に逃れたが、三浦義勝をはじめ相模勢が加わり16日未明に北条勢を急襲し破ったとの事です。これで勝負がきまり鎌倉幕府が滅亡する事になりました。

ここ分倍が原に今は春光が温かくふりそそいでいました。街道はここで一旦途切れるという道を振り返り中河原駅を通り過ぎました。

10分位で関戸橋にさしかかります。

西を見ると橋を電車が渡っています。江戸時代、多摩川の鮎は特に有名で日本橋の魚市場に送る為に「鮎担ぎ」が駆けたとの事です。

地蔵堂の前に関戸古戦場跡という標識があり曲がると弓の名手であった横溝八郎の墓がありました。元弘の戦いで戦死した北条方の屍を埋めた墳という事です。

すぐに、関門山地蔵院延命寺という時宗の寺に入りました。ここは藤沢の游行寺の隠居寺のために檀家がなく地元との繋がりもないとの事です。紅白の梅が美しく咲き、お地蔵さまたちが印象的でした。

数分あるき道路の右手を上がり無名戦士の墓という小さな祠と石塔二基を見て急階段を気を付けながら降りました。

15時50分頃に相沢五流・伴主親子の墓が観音寺にありました。京都の仁和寺で法眼の位についた狩野派の絵師で、華道の允中流の創始者でしたが一代限りだったとのことです。

そして六観音さまをお参りしました。

すぐ近くの小山家の中に入れていただき、お庭の奥の安保入道道忍の墓を見せてもらいました。安保氏は北条家との繋がりが強く、安保実光の孫娘は三代北条泰時の後室として入っています。卒塔婆が立てられ供花もありました。

16時過ぎ熊野神社前の交差点です。

鎌倉時代、関所の南木戸があったと言います。関所は霞が関と呼ばれ日本武尊が、都より雲霞を隔て遠い場所というところから付いたとの事です。日本武尊が蝦夷来襲に備えて造った関所という事です。当時の関所は木の丸太が建てられていて馬が通れないようにしていました。

熊野神社の紋である八咫烏の三本足を見て、今年行われるサッカーワールドカップを思うのは筆者だけではないはずです。

4時過ぎに一路、乞田を目指します。16時30分、交差点を渡る手前で本日の終点となり永山駅に向かいます。

10分位で小田急と京王の永山駅に着きました。来月は講師の地元の町田を歩きます。本当の鎌倉街道が三ヶ所残っている所です。どうぞ御期待ください。皆様お疲れさまでした。

 

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第十四回・鎌倉街道上道(東村山から府中)

2月6日(火)、10日(土)、いつものメンバーに男性新会員が加わり東村山駅を10時過ぎに出発しました。両日共にお天気には恵まれ、火曜日は富士山が見えるスポットもあり楽しみながら歩きました。まず駅前にある志村けん氏の欅の献木を見てから歩き始めました。

10分位、歩くと江戸時代の新田開発の際の境界として塚の跡があり、その上には平和の女神像が立っていました。この像は太平洋戦争・満州事変・日華事変の遺族が募金により建設しました。

新青梅街道を渡り16号線の府中街道を進みます。空堀川は、かつては清流でしたが狭山丘陵の木を伐採したので水が涸れたとの事です。現在は水が流れていて鴨が浮いていました。野口橋を渡りました。

すぐに八坂神社に着きました。スサノオノミコトが祭神で別当寺はあの国宝の地蔵堂があった正福寺です。額は「牛頭天王」とありました。私たちは前回のユーモアのある牛頭天王の像を思い出しました。

狛犬の一対はかなり古く見えました。もう一対は新しく江戸狛犬の形態で堂々としたものでした。犬好きの筆者は、狛犬の表情が毎回楽しくてたまりません。

10時50分頃、八坂口小学校の前を通り西武多摩湖線の高架線下を潜りました。11時頃に九道の辻に出ました。小さな石橋供養塔と馬頭観音がありました。

①鎌倉街道②御窪道(府中街道)③大山道④秩父道(青梅街道)⑤宮寺道(入間宮寺、山口道)⑥奥州街道⑦清戸道⑧引股道(川越道)⑨江戸道の「九道の辻」は今もほとんど形を留めていて、新田義貞が鎌倉への道を見失い一本の桜を植えて目印としたと伝わっています。一本の高い桜の木がありました。

九道の辻の標識が立っている右手に野火留用水が流れています。伊豆殿堀とも呼ばれていた1655年、老中の松平伊豆守信綱は玉川上水の水を一升桝口の水量分を領地に引き入れる許しを得ました。東村山の中島町から九道の辻を通り現在の志木、新座の稲田を潤いました。

西武拝島線を見ながらブリジストンの広い広い工場の横を歩きました。

11時20分頃、今日の昼食の場所に着きました。ちよってお早いお昼ですが大半の人がフアミレスに入り、1時間の予定が料理が遅く出てきたので5,6分長くなりました。

12時45分頃、鎌倉街道の立看板には昭和43年の小平市の鎌倉街道の写真を見ることができました。

その後には梨畑とブドウ畑の間の道となっている鎌倉街道を進みました。無農薬や減農薬の字が印象に残りました。

津田塾があったので昭和37年に津田町と名付けられた場所も通りました。

玉川上水に架かる鎌倉橋を渡ります。

鎌倉橋を渡りました。鎌倉橋とは嬉しいではありませんか、鎌倉への道を進んでいる証です。江戸時代初期に造られ神田上水と共に大変重要なものでした。

二つ塚緑道を通り稲荷神社に着きました。二つ塚稲荷の由来は玉川上水の南側の林中に塚が二つ造られていたからという訳です。拝殿の左手前に染井吉野の桜の実生と云われている桜と、それに寄木のように生えている南天の木があります。毎年、花を沢山、咲かせるという桜を見たいもんだと私たちはその傾いた木を見上げました。

1時20分頃、上水本町から国分寺市に入りました。

恋ケ窪という何ともロマンチックな交差点を通ります。火曜日は車の間からチラリと雪の富士山が見えました。私たちはどんどん進みました。

2時少し前に恋ケ窪の鎮守である熊野神社に着きました。

明治7年に建てられた傾城歌碑と芭蕉句碑を見る事ができました。

芭蕉句碑は恋ヶ窪の俳人が建てたもので自分の辞世の句碑がありました。熊野神社と云えば三本足の烏を思い出しました。

すぐ近くの東福寺で御手洗いをお借りしました。こちらには中国菩提樹がありました。1730年造営の記念樹と云われています。葉の下に実がぶら下がっています。

昭和12年とまだ新しい傾城墓は思いの他、小さく感じます。畠山重忠の戦死の誤報を聞いた愛人の夙妻(アサズマ)は姿見の池に身を投げました。

里人が供養の為に松を植えたのが不思議にも一葉の松になったと武藏野話にあります。

その松の一葉は少ししかなかったですが見つける事ができました。

江戸初期(1657)、玉川上水からの分水で村の収穫量が倍になったそうです。現在の恋ヶ窪用水は復元されたものですが自然の中に踏み込んで行く感じを味わう事が出来ました。2月6日は細道にまだ雪が残っていました。

姿見の池には真鴨が美しい姿を見せてくれました。又、なんといってもこの池に住みついているらしいカワセミに会えたことはこの上ない喜びでした。

6日、10日共に見る事ができました。どなたか夙妻の化身ではないかとおっしゃっておられました。

その夙妻を供養する為に建立した阿弥陀堂跡も見て次に進みました。

住宅地の中に開けた空間があり律令時代の東山道連絡道の官道である事を知りました。その幅の広いこと。私達は奥まで歩いて確かめました。

縄文時代の敷石住宅である石柱住居跡を見ました。

両側が少し高くなっている道にさしかかりました。伝鎌倉街道の石柱が立っています。

ここが、伝鎌倉街道と表現されていて何とも、いにしえの昔に思えてきます。

いきなり視界が広がり国分尼寺跡に出ました。尼寺跡には多摩川の石を礎石として並べられていて我々を律令時代へといざなってくれていました。金堂跡には昔の地層が見られるようになっていました。

数分で国分寺跡へと着きました。低い石積みされている最中で工事が進められていました。奥に進み七重塔の礎石跡に佇みました。国分寺は奈良の中頃、聖武天皇の勅で全国六十余国に僧寺と尼寺が置かれました。その中で最も大きかったのがこの武蔵国の国分寺だったとの事です。

入ってみたいカフェがありました。

6日は文化財資料展示室へ、10日は100円の入場料を払い資料館に入りました。土の中から発見された小さな観音像に魅かれました。関東で最も古い白鳳仏だということです。出土した展示品を見ていて、暑い季節に歩いた上道9回目に訪ねた石田国分寺瓦窯跡にここで繋がりました。

七重塔の十分の一の模型があり修理中でした。

お鷹道の清い水路を見ながら進みました。

講師がカワニナをつかんで見せ、又、元の澄んだ水に戻しました。蛍の幼虫の餌として知られています。

真姿の池がありました。昔、ライ病といわれた患者が、この水で洗うと治り元の姿に戻ったことから真姿の池と云われたそうです。

この地は鷹狩が盛んに行われた場所で御府内は徳川家で、国分寺付近は御三家の尾張藩の鷹場でした。

お鷹道の先に現在の国分寺があり、真言宗で本山は奈良の長谷寺です。

楼門は江戸後期の物で東久留米市米津寺から移築したものです。

万葉植物園は時期が悪く立札ばかりが目立っていました。

国分寺の隣の仁王門の奥に薬師堂がありました。薬師如来像は秘仏で9月18日、一日だけの開帳との事です。

左奥に進むと朱色の屋根の国分寺八幡宮がありました。小さいけれども千鳥破風、唐破風の上に鰹木や千木が乗り講師によると、まるで花魁のようなので花魁八幡とでも言いたいと表現するのでした。4時40分頃、再び国分寺の復元工事場所を通り抜け府中街道へと出ました。

有名な府中刑務所を左に身ながら進みました。ベージュ色の塀は思ったより綺麗で近代的に感じました。

5時寸前に北府中駅に到着しました。午後からはしっかり歩き見所も沢山ありました。皆様、今回も大変お疲れ様でした。

 

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