江戸名所巡り 第三回前編 水天宮から浅草橋界隈

5月24日(木)、26日(土)、29日(火)の三日間はお天気に恵まれ、江戸名所巡りの三回目を歩きました。

本回は40箇所を訪ねるという講師に驚きながら10時に新しくできたコンクリートの水天宮へと向かいました。

元は筑後久留米9代藩主の有馬頼徳が自領の水天宮を1811年、赤羽の上屋敷に祀ったのが江戸での始まりです。主祭神は壇ノ浦で海に沈んだ安徳天皇で水の犠牲になった為に漁業や船乗りに信仰され、又、子供の守護神、安産の神様となりました。

神紋は珍しく椿で安徳天皇が海で亡くならず筑後川畔の姫と恋仲となり、千寿院の境内に寄りそう美しい椿に因んでいるそうです。

水天宮のお使いである河童を見て水をかけ、頭のお皿をなでました。又、子宝犬には自分の干支と子犬、親犬を撫で孫の成長を願いました。

宝生流能楽の技を藩主が競わせた際にこの弁才天に願いをかけ、見事に勝利したという学業や金運に御利益があるというのにもお詣りしました。

次に信号を渡った目の前にある菓子の重盛永信堂を訪ねました。大正6年創業100年の老舗「人形焼き」も有名ですが空豆が入っている贅沢煎餅が一番人気との事でした。私たちも希望者はそれぞれ購入しました。

交差点を渡るとすぐに露地を曲がり茶の木稲荷がありました。下総国佐倉藩の堀田家中屋敷の屋敷神で社の周りに茶の木を植えていたので茶の木稲荷となったとのことです。

人形町今半が見えてきました。玉ひでもあります。

宝暦10年(1760)の創業で御鷹匠に生まれた初代が軍鶏専門店として創業しました。秀吉さんから玉秀の屋号となり妻が考案した親子丼は人気があり、現在に続いています。

すぐに谷崎潤一郎の生家跡があります。細雪の四姉妹が浮かんできますが、その作品の芸術性の高さは国内外で知られています。

10時半過ぎに日本橋小学校に着きました。26日(土)は丁度運動会で賑わっていました。こちらは元姫路藩酒井氏の屋敷跡で西郷隆盛は明治4年に参議となり2633坪の広い屋敷に書生15人、下男7人、猟犬数匹と住んでいたということです。明治6年に下野するまでとのことです。

日本橋人形町を進むとすぐに蛎殻銀座跡の立看板がありました。銀座とは江戸時代、銀貨を鋳造した役所があった所です、ここ人形町に移され明治まで置かれたから蛎殻銀座と呼ばれていたそうです。

そしてこの辺りは火消の「は組」があった場所で目立つ時計台の下にからくり人形がありました。

大観音寺の本尊は鎌倉時代の廃寺となり行方不明になったのが江戸時代鶴岡八幡宮前の「鉄の井」から頭部のみが掘り出され、明治の神仏分離令でこちらに移されたとの事です。鋳鉄製で頭部のみで170センチもあるといいます。流転の菩薩頭を見てみたいと思いました。

馬頭観音や韋駄天、願いの地蔵尊があり、それぞれにお詣りをしました。

交差点を渡り富士そばの前を進みます。この辺りは元吉原で明暦の大火で焼失したところです。

玄冶店跡の石標がありました。京都の名医岡本玄冶は将軍秀忠に招かれ幕府の御典医となり家光の信頼も篤かったとの事です。1500坪の屋敷を拝領しました。その後、多くの店を建て芝居の役者や渡世人宅にも使われ玄冶店と呼ばれました。

店の前を通っただけですが「うぶけや」は刃物職人の喜之助が創業した、うぶげも良く切切れる鋏、よく剃れる剃刀、よく抜ける毛抜きで銘が「兼忠」だったそうです。いつか買ってみたいものです。

シヨ-ウインドーには鋏や包丁が並んでいました。

10時50分頃に三光稲荷神社の赤い現代的鳥居を潜りました。1603年、絹布と木綿の問屋の海岸を埋め建て貸家を建ててその鎮守としたとの事です。

現在は猫が行方不明になった時に立願すると良いそうで境内に招き猫がありました。

そして11時頃、江戸三森の一つという椙森神社に着きました。他の二つは新橋の烏森神社と今日、お昼前に行く神田の柳森神社です。

平将門の乱の際、藤原秀郷が戦勝祈願し勝利の後に白銀の狐を収めたそうです。富籤は現在の宝くじのようなもので盛んな所でした。水色の屋根の横に富籤塚が立っていました。

すぐに江戸屋がありました。京都御所御用達の刷毛の元で修行し七代将軍家継の時代にお抱えとなり、屋号を将軍から賜りました。大奥の御化粧刷毛や小間物の御用を務めました。私達は早速、買い物タイムです。私は水筒用と急須用のブラシを求めましたが高級な大奥用のリス毛の刷毛を購入した方もいらっしゃいました。

この辺りには広重の絵にあるような大店の大丸があった所だと講師が説明しました。

次は於竹大日如来井戸です。大伝馬町の名主の馬込家の召使の「お竹さん」は大変情に厚く、一人の行者が訪ねたところ「お竹さん」から後光がさしました。馬込家は庵を作り庵主としました。

綱吉の母からも女性の鏡と褒めたたえれらたとの事です。

宝田恵比寿神社の小さな建物がありました。馬込家が三河国から家康に随行して三伝馬(両替、駅伝、水陸運輸)の役を賜わりました。宝田恵比寿神社は、馬込家にあった宝田村の鎮守だったそうです。江戸中期には、ここでべったら漬けが売られたそうです。現在も10月にべったら市があるとの事です。

11時半頃、身延別院で油かけ大黒天にお詣りしました。水の代わりに菜種油をかけると商売繁盛するという京都伏見にある大黒様を長谷川一夫夫妻が勧請したとの事です、つやつやの神様でした。

中央区の十恩スクエアは旧十恩小学校の跡地に出来ていて建物と公園からなっています。ここは小伝馬町牢屋敷跡で刑の執行まで拘禁した施設です、入牢者は200年間に数十万にのぼるそうです。牢屋敷の模型や江戸中に巡らされた上水道の跡も見ました。外の公園に出てお手洗休憩をして又説明を聞きました。第一回江戸名所で入った石町の時の鐘がここに移されていました。

大きな石の吉田松陰碑には「身はたとひ武蔵野野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂」が刻まれていました。

長唄三味線の一派の桝屋記念碑がありました。

そして一向はすぐ側の高野山真言宗大安楽寺へ入りました。牢屋敷があった場所に富豪の大倉氏と安田氏の寄進で明治15年に創建されました。延命地蔵の台座の字は山岡鉄舟の筆ということです。

水天宮通りを進みます。

数分進み小伝馬町から岩本町に入りました。お玉が池種痘所跡の説明板が壁にありました。安政5年に伊東玄朴や大槻俊斎ら蘭学者82名が資金を出し勘定奉行の川路義詮の屋敷内に種痘所を作りました。後に東京大学医学部になりました。

通りを曲がればお玉池稲荷がありました。桜ケ池という不忍池より大きな池がありましたが茶屋の「お玉」という娘が身を投げた事から「お玉が池」となりました。池の辺に勧請した稲荷です。

土曜日は解放されていた玄武館跡がありました。小さな広場に石碑とベンチのみで当時を偲ぶものはありませんでした。千葉周作は寛政5年(1793)に陸前気仙村の馬医の子供として生まれました。古い因習に捕われない北辰一刀流の流儀を開きました。坂本龍馬も関わりがあったという道場です。

 

午前の最後の柳森神社には数分で着きました。ちよっと変わった(他を抜く)という意味から狸の像それもお腹の大きいものが狐の場所に居たのです。家光の側室の柱昌院の出世人生に因んだものだそうです。富士塚や力石の数々もありました。

 

 

お詣りしたら、さあお楽しみの神田薮蕎麦に向かいます。

すぐに万世橋の堂々として石柱を水面にリバーサイドレストランがすらりと並んでいますが私たちは神田へと急ぎました。

12時40分頃、到着しました。24日は次々と皆,入る事ができましたが26日の土曜日は並んで順番を待ちました。

一枚のせいろが670円、濃い目のそばつゆにちょっとつけて頂きます。

山かけそばも美味だってと聞きました。おかめ蕎麦には何と小さな松茸が入っていました。やはり50分から1時間はかかってしまいました。ゆっくりと日本酒を味わうのが通と云われますが私たちは先を急ぎます。

後編に続きます。

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