第十四回・鎌倉街道上道(東村山から府中)

2月6日(火)、10日(土)、いつものメンバーに男性新会員が加わり東村山駅を10時過ぎに出発しました。両日共にお天気には恵まれ、火曜日は富士山が見えるスポットもあり楽しみながら歩きました。まず駅前にある志村けん氏の欅の献木を見てから歩き始めました。

10分位、歩くと江戸時代の新田開発の際の境界として塚の跡があり、その上には平和の女神像が立っていました。この像は太平洋戦争・満州事変・日華事変の遺族が募金により建設しました。

新青梅街道を渡り16号線の府中街道を進みます。空堀川は、かつては清流でしたが狭山丘陵の木を伐採したので水が涸れたとの事です。現在は水が流れていて鴨が浮いていました。野口橋を渡りました。

すぐに八坂神社に着きました。スサノオノミコトが祭神で別当寺はあの国宝の地蔵堂があった正福寺です。額は「牛頭天王」とありました。私たちは前回のユーモアのある牛頭天王の像を思い出しました。

狛犬の一対はかなり古く見えました。もう一対は新しく江戸狛犬の形態で堂々としたものでした。犬好きの筆者は、狛犬の表情が毎回楽しくてたまりません。

10時50分頃、八坂口小学校の前を通り西武多摩湖線の高架線下を潜りました。11時頃に九道の辻に出ました。小さな石橋供養塔と馬頭観音がありました。

①鎌倉街道②御窪道(府中街道)③大山道④秩父道(青梅街道)⑤宮寺道(入間宮寺、山口道)⑥奥州街道⑦清戸道⑧引股道(川越道)⑨江戸道の「九道の辻」は今もほとんど形を留めていて、新田義貞が鎌倉への道を見失い一本の桜を植えて目印としたと伝わっています。一本の高い桜の木がありました。

九道の辻の標識が立っている右手に野火留用水が流れています。伊豆殿堀とも呼ばれていた1655年、老中の松平伊豆守信綱は玉川上水の水を一升桝口の水量分を領地に引き入れる許しを得ました。東村山の中島町から九道の辻を通り現在の志木、新座の稲田を潤いました。

西武拝島線を見ながらブリジストンの広い広い工場の横を歩きました。

11時20分頃、今日の昼食の場所に着きました。ちよってお早いお昼ですが大半の人がフアミレスに入り、1時間の予定が料理が遅く出てきたので5,6分長くなりました。

12時45分頃、鎌倉街道の立看板には昭和43年の小平市の鎌倉街道の写真を見ることができました。

その後には梨畑とブドウ畑の間の道となっている鎌倉街道を進みました。無農薬や減農薬の字が印象に残りました。

津田塾があったので昭和37年に津田町と名付けられた場所も通りました。

玉川上水に架かる鎌倉橋を渡ります。

鎌倉橋を渡りました。鎌倉橋とは嬉しいではありませんか、鎌倉への道を進んでいる証です。江戸時代初期に造られ神田上水と共に大変重要なものでした。

二つ塚緑道を通り稲荷神社に着きました。二つ塚稲荷の由来は玉川上水の南側の林中に塚が二つ造られていたからという訳です。拝殿の左手前に染井吉野の桜の実生と云われている桜と、それに寄木のように生えている南天の木があります。毎年、花を沢山、咲かせるという桜を見たいもんだと私たちはその傾いた木を見上げました。

1時20分頃、上水本町から国分寺市に入りました。

恋ケ窪という何ともロマンチックな交差点を通ります。火曜日は車の間からチラリと雪の富士山が見えました。私たちはどんどん進みました。

2時少し前に恋ケ窪の鎮守である熊野神社に着きました。

明治7年に建てられた傾城歌碑と芭蕉句碑を見る事ができました。

芭蕉句碑は恋ヶ窪の俳人が建てたもので自分の辞世の句碑がありました。熊野神社と云えば三本足の烏を思い出しました。

すぐ近くの東福寺で御手洗いをお借りしました。こちらには中国菩提樹がありました。1730年造営の記念樹と云われています。葉の下に実がぶら下がっています。

昭和12年とまだ新しい傾城墓は思いの他、小さく感じます。畠山重忠の戦死の誤報を聞いた愛人の夙妻(アサズマ)は姿見の池に身を投げました。

里人が供養の為に松を植えたのが不思議にも一葉の松になったと武藏野話にあります。

その松の一葉は少ししかなかったですが見つける事ができました。

江戸初期(1657)、玉川上水からの分水で村の収穫量が倍になったそうです。現在の恋ヶ窪用水は復元されたものですが自然の中に踏み込んで行く感じを味わう事が出来ました。2月6日は細道にまだ雪が残っていました。

姿見の池には真鴨が美しい姿を見せてくれました。又、なんといってもこの池に住みついているらしいカワセミに会えたことはこの上ない喜びでした。

6日、10日共に見る事ができました。どなたか夙妻の化身ではないかとおっしゃっておられました。

その夙妻を供養する為に建立した阿弥陀堂跡も見て次に進みました。

住宅地の中に開けた空間があり律令時代の東山道連絡道の官道である事を知りました。その幅の広いこと。私達は奥まで歩いて確かめました。

縄文時代の敷石住宅である石柱住居跡を見ました。

両側が少し高くなっている道にさしかかりました。伝鎌倉街道の石柱が立っています。

ここが、伝鎌倉街道と表現されていて何とも、いにしえの昔に思えてきます。

いきなり視界が広がり国分尼寺跡に出ました。尼寺跡には多摩川の石を礎石として並べられていて我々を律令時代へといざなってくれていました。金堂跡には昔の地層が見られるようになっていました。

数分で国分寺跡へと着きました。低い石積みされている最中で工事が進められていました。奥に進み七重塔の礎石跡に佇みました。国分寺は奈良の中頃、聖武天皇の勅で全国六十余国に僧寺と尼寺が置かれました。その中で最も大きかったのがこの武蔵国の国分寺だったとの事です。

入ってみたいカフェがありました。

6日は文化財資料展示室へ、10日は100円の入場料を払い資料館に入りました。土の中から発見された小さな観音像に魅かれました。関東で最も古い白鳳仏だということです。出土した展示品を見ていて、暑い季節に歩いた上道9回目に訪ねた石田国分寺瓦窯跡にここで繋がりました。

七重塔の十分の一の模型があり修理中でした。

お鷹道の清い水路を見ながら進みました。

講師がカワニナをつかんで見せ、又、元の澄んだ水に戻しました。蛍の幼虫の餌として知られています。

真姿の池がありました。昔、ライ病といわれた患者が、この水で洗うと治り元の姿に戻ったことから真姿の池と云われたそうです。

この地は鷹狩が盛んに行われた場所で御府内は徳川家で、国分寺付近は御三家の尾張藩の鷹場でした。

お鷹道の先に現在の国分寺があり、真言宗で本山は奈良の長谷寺です。

楼門は江戸後期の物で東久留米市米津寺から移築したものです。

万葉植物園は時期が悪く立札ばかりが目立っていました。

国分寺の隣の仁王門の奥に薬師堂がありました。薬師如来像は秘仏で9月18日、一日だけの開帳との事です。

左奥に進むと朱色の屋根の国分寺八幡宮がありました。小さいけれども千鳥破風、唐破風の上に鰹木や千木が乗り講師によると、まるで花魁のようなので花魁八幡とでも言いたいと表現するのでした。4時40分頃、再び国分寺の復元工事場所を通り抜け府中街道へと出ました。

有名な府中刑務所を左に身ながら進みました。ベージュ色の塀は思ったより綺麗で近代的に感じました。

5時寸前に北府中駅に到着しました。午後からはしっかり歩き見所も沢山ありました。皆様、今回も大変お疲れ様でした。

 

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