鎌倉街道上道  第十六回 乞田から町田

 

4月3日(火)、14日(土)、約30名の皆様と上道第16回を歩きました。小田急線永山駅を10時5分前に出発しました。

坂道を下り左へ進み、木々を配置した中を花壇を見ながらのせせらぎの流れは、現代の造形物ではありますがとても美しく整備されていました。

10時23分、やっと瓜生一里塚跡に着きました。武蔵名勝図会に関戸より乞田を経て、ここまで一里なりとあります。講師は府中から一里といいますがもっと歩いたような気がしてなりません。

せせらぎ公園から前回の終わりの場所のお向かいに着きました。マックの前からのスタートです。

乞田大橋を渡り椋の青く小さな実をみて京王線の高架をくぐりました。それから少し歩き11時近くにスーパーの御手洗いを借りました。

乞田川の支流でしょうか細い川の横を歩き、貝取の名主伊野家の前を通り、11時に大福寺へ入りました。

曹洞宗なのに寺紋は卍が大屋根にありました。地蔵菩薩木立像は行基作とされています。向かい側の貝取神社へもお参りをしました。貝取は、飼取や垣内(カイト)から転訛したという名の由来を聞き、珍しい龍の石造物をみました。とても古そうです。

貝取大通りという緑り豊かな通りは、気持ち良くどんどん進みました。花水木の白い花が満開です。

11時40分頃、日蓮宗妙櫻寺に着きました。建長5年(1253)の創建と古く橘紋でした。

すぐに元の道に戻り、又緑り豊かな綺麗に舗装された道を歩きました。鎌倉古道の標記がありました。

お昼近くになっていましたが、古民家が残されている公園へと入っていきました。

お手洗いと、古民家の有山家、加藤家住宅を見学しました。江戸時代の多摩の農家を移築したものです。小さな竈が土間にあり、囲炉裏の部屋と奥の間、納戸ととても質素です。

古民家から石段を降りてすぐに布田の道に入っていきました。

甲州街道の布田宿(調布市)に通じる道で近藤勇や土方、沖田らが江戸の道場から小野路へと出稽古に来た道です。

10分くらい歩くと小野路を示す札がありました。関屋の切通しも竹林もあり、なかなかの迫力を感じました。このあたりの人々は当然新撰組を支持していました。

百五十年くらい前に思いを馳せて歩いていましたが、しかしすぐに小野路宿の通りに出ました。ここもとても雰囲気のいい通りです。白い土蔵もあります。小字に「ならべい」があるとのことです。新田義貞が鎌倉攻めの折に、ここで点呼を取る為に「並べ」と言ったのが地名になったそうです。バス停の名前にも中宿とあります。

小島家は名主で農民を指導し学問や武術を教え新撰組を支援したとのことです。門構えと奥の緑に見とれてしまいました。

通りの角に里山交流館があります。こちらも名主の細野家を改修したものです。ここで今日の昼食を頂きました。入口にずらりと朝採りの筍が並んでいました。もちろん、購入した方々がたくさんいらっしゃいました。

小野路のうどん定食550円、コロッケ110円を注文しました。うどんは細長く量がたっぷり、だしも独特の味でこちらの郷土の味を体験する事ができました。テーブルの中央に熊谷草の活け花があり、この館に携わっている方々の心根まで感じられて嬉しく拝見しました。

約50分間の休憩をとり午後の部へと出発しました。

すぐ隣の小野神社に入りました。階段を昇ります。小野氏の先祖である小野篁(タカムラ)が祭神です。1403年に僧正珠が寄進を募り小野大明神の梵鐘を鋳造し旅人に時を知らせていました。1480年頃、両上杉氏の合戦で山内上杉の兵により陣鐘として持ち去られ、現在は逗子の海宝院にあるとの事です。

現在、拝殿の軒先にある鐘の姿に私たちは驚きました。

広い通りからすぐに細い道へと折れました。一輪草の群生がありました。

2,3分で小野路一里塚の説明板が立っていました。瓜生から一里歩いたわけです。風土記に「府中宿から二里にあたれる一里塚なり」と記述があります。

近年、町田のサッカー場が整備されつつあり、駐車場や道路に変わりゆく自然をいかに残していけるか、この地に問われている現状です。

一行はこれから貴重な道へと入っていきます。若葉が美しい道です。14:00頃、旧鎌倉街道の真横を歩きました。

鎌倉街道上道で一番長く残っているのではと講師が熱く語っていた場所と思われます。

ほとんど空洞になっている樹でも横から若葉がでています。頑張ってと声をかけて進みます。

途中で川を渡り、また古道に入りました。たらの芽の群生もあります。

鎌倉街道古道、上道の看板がまたありました。少しずつ丘に登っていきます。七国山を登り始めたのです。

突然視界が開けました。七国山は案外低い丘の山でした。畑がいろいろあり菜の花がきれいです。横浜の景色が遠くに見えています。

七国山鎌倉街道の碑があります。七国山を降りていると鎌倉井戸が掘割にありました。新田義貞が鎌倉攻めの時に堀ったものと云われています。深さ4メートルで表面は長い年月の間に崩れているが1・5メートルの所に直径70センチの円柱の井戸が残っているとの事です。

七国山の麓にダリア園があります。こちらで御手洗い休憩をさせて頂きました。喫茶があり冷たい物を飲んだりソフトクリームを食べたりしました。現在の大通りの鎌倉街道に出ました。

今井谷戸の信号を進みます。

右に曲がり小川や植え込みがあるなかよし散歩道を歩きました。町田にはこの様な憩える歩道が所々にあります。

15時半すぎに日蓮宗宏善寺の門をくぐりました。元は真言宗の観音堂でしたが日蓮が佐渡に流される途中に休息し、それ以降、日蓮宗に改宗したとの事です。この様な話を至る所で聞くにつけ、日蓮の力の凄さが今更ながら伝わってきます。高い場所から日蓮像に見られていました。枝垂れ梅にも、もう青梅がなっていました。

5分位で鶏足山養運寺に着きました。山号がなんとも面白い名です。元は天台宗でしたが1567年に浄土宗へ改宗しました。ムクロジの木の実を講師は割って見せました。

16時頃、寺を後にし15分かけて最後の菅原神社へと歩きました。皆さん、かなりお疲れです。万歩計がいつもよりすごいことになっています。力を振り絞り階段を昇りました。初詣の折はここ菅原神社に行列ができるくらいとても賑わいます。

井出の沢古戦場の碑と説明板がありました。この一帯で足利直義と、北条高時の子供の時行が信濃から兵を従えてきて戦った場所です。鎌倉時代終盤の戦いがここであったのです。

もう16時半です。私達は急ぎ町田駅へと向かいました。町田駅前に道標がありました。絹の道とは美しい名前ですね。今の横浜線は、明治時代貨物列車で八王子と横浜を結んでいました。絹を欧米へ輸出する大切な道でした。

絹の道道標を見てすぐ解散しました。本日は起伏もありその上長い道のりでした。本当にお疲れさまでした。

 

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