江戸名所巡り  第九回 西新井界隈を巡る(後編)

 

短い時間でしたが、食事と買い物を楽しみました。年末の福引に当たった方もいらっしゃいました。

午後、江戸名所図会にも大きくあります真言宗五智山遍照院総持寺に入っていきました。天長3年(826)弘法大師空海により創建されたと云われています。

山門は江戸後期の建造との事です。塩地蔵は疣取りに御利益があるとの事です。

三匝(サンソウ)堂は別名が栄螺(サザエ)堂といい、堂内が螺旋状になっているとの事です。

稚児大師像もありました。お庭の方へと進み池を一回りしました。

戦争中に供出された鐘が昭和30年にアメリカから返されました。

 

五色の旗の意味を聞き本堂にしっかりお参りをして、光明殿にある珍しい変形宝篋印塔を見て西新井大師を後にしました。

交差点を渡り満願寺へ入りました。入って直ぐの処にたぬき塚があり住職と狸の民話を聞きました。住職の囲炉裏で暖をとっていた狸の荷に囲炉裏の灰を入れたところ、狸が焼け死に可哀そうに思った住職が塚を立て供養したとの事です。

東武線の陸橋を渡り桜並木を過ぎ今度は猿仏塚のお堂の中の庚申塔を見ました。昔、利口な猿が人間の子供の子守をしていて誤って死なせてしまい、その事を悩んで餓死した猿の供養をした塚は、今はありませんが子供の厄除けとして信仰されています。

それから住宅地に入り、午後の部から約1時間過ぎた頃に真言宗来迎寺に着きました。樹齢400年の榎があり、一里塚の木の説明がありました。こちらには未だ新しい舎利殿があり、とても立派な建物でした。庚申塔や地蔵も拝見しました。

旧家の前が旧奥州街道だったという桐田家の松の木には驚かされました。300年と説明板にありましたがもっと古いはずとの事です。こちらには将軍の鹿狩りの際に勢子が持っていた各々の村を示す旗が保存されています。

桐田家の後ろを右に曲がり日蓮宗の国土安穏寺が見えてきました。日光参拝の折に将軍が立ち寄ったという御成門がありました。

その右手に日蓮の像が見えています。境内を見せてもらいました。ぐるつと廻って山門の天井絵の龍は爪が五本持ち皇帝の龍とされるものでした。また、両側に大草鞋も目を引きました。

冬桜や家光御手植えの松を拝見しました。そして高村光雲作の日蓮像を正面から拝見しました。その迫力に圧倒されました。寺を出てずっと先に日光街道が見えていました。

六六通りを行きブロック塀をささえてある旧家の大きな御屋敷が見えてきました。門が立派で時代劇の中に迷い込んだようでした。今時、これを維持していくのはさぞかし大変だろうと、どなたかがおっしゃっていました。先程、通ってきた桐田家の前からこちらに旧奥州街道が通っていたそうです。

今度は栗六通りとありました。15時頃、真言宗炎天寺に入りました。一茶ゆかりの俳句寺とも呼ばれています。

入口には石田波郷の「日洩れては急ぐ落葉や炎天寺」の句碑が立ち丁度この季節だと思い山門を潜りました。庚申塔を過ぎると蛙の置物や像で溢れた池がありました。「やせ蛙まけるな一茶これにあり」あまりにも有名な一茶の幼くして亡くなった子供たちへの思いが込められているのでしよう。

小林一茶は信濃柏原と江戸を何度も行き来した事から炎天寺の句を詠んでいます。「蝉鳴くや六月村の炎天寺」

「むら雨や六月村の炎天寺」

隣には八幡神社があり源義家が旗を立てかけたと云われる松があります。

すぐに真言宗西光院に着きました。本日最後の訪問場所です。

大師像の横におだやかなお顔が少し大きな大日如来座像がありました。江戸末期の竹の塚村の名主で教育者の河地武胤は無料で村内の子弟の教育をした寺子屋の師匠です。門人が建立した碑がありました。

15時半、竹ノ塚駅へと急ぎました。

いつもよりすこし早や目の解散です。そして本年最後の江戸名所巡りが無事終わりました。皆様、ご協力ありがとうございました。

どうか良いお年をお迎えください。

 

菩提子をお大師様で拾ひけり    豊治

 

佳き句碑のあまたに逢へし年暮るる  慶月

 

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江戸名所巡り 第九回  西新井界隈を巡る(前編)

12月11日(火)、13日(木)、15日(土)、風邪など体調を崩された方がいらっしゃいましたが、大半の方々は寒さにめげず名所巡りを楽しみました。10時に東武スカイツリーラインの五反野駅を出発しました。

しばらくするとゆめロード千代田の商店街に入っていき、甘納豆の店やら蔵造りの質屋が目に留まりました。

つき当りを右に折れ10時15分位に最初の説明があった子育八彦尊道標に着きました。元は荒川堤にあったもので八彦尊は子供の咳の神様です。

その後ろにある石不動祠は竹筒に酒を入れて供え、その酒を耳に付けると耳の病が治るという信仰です。治ったらお礼はまた、竹筒に酒を入れて納めるのです。

5分位で真言宗豊山派明王院に着きました。地元では赤不動と呼ばれていて、建物が赤いからということです。奥に大きな銀杏の黄色がまだ残っていて、色彩的にとても綺麗でした。

頼朝の伯父にあたる志田義広が当地に閉居し祈願寺としました。

弁天池の向こうに小さな弁天堂が見えました。ずっと進むと牛頭観音があり馬だけでなく牛も祀られていました。我慢強く働く牛の姿を私たちは思うのでした。

小泉寧夫算法碑は門人たちが建立したとの事です。こちらでは梅田村出身の和算家が開いた和算塾が盛んだった事を示しています。

そして咳の不動さまのお顔を木曜日、土曜日は扉を開けて拝見しました。

5分位で庚申塔等のある石造物のお堂がありシヨケラや頭の蛇を見ました。欲望や誘惑に打ち勝つ為の石像物を私たちはしばし眺めて進みました。

 

神明宮通りに入り参道を進み10時50分頃に梅田神明社の鳥居を潜りました。

祭神は天照大神で後に神官であった禊教の教祖井上正鐵が神道行法を始め、現在にも受け継がれています。

木曜日に準備していました茅の輪が土曜日にはできていました。奥殿の横に井上神社と井上正鐵の住居がありました。又、禊教の高弟名が刻まれた碑もありました。

直ぐ側には真言宗遍照院がありました。明治7年の宝篋印塔がありました。隣接するように梅田稲荷奥の一角に禊教の井上夫妻の墓が並んでありました。

叉、5、6分位で真言宗大聖寺のボロボロの天水桶を見ました。天保7年、江戸谷中講中が寄進したものです。

11時20分頃、関原通りを進みました。関原八幡宮の八紘一宇の碑は大東亜圏建設の理念として用いられた言葉です。

この妙見堂の地に昭和7年興野の雷神を移し中曽根神社としたそうです。私達は元総理の中曽根康弘氏の顔を思い浮かべながら説明を聞きました。

44分発、土曜日は39分発の東武バスに乗る為にバス停へと急ぎました。十分余裕をもって到着しましたが、バスはかなり遅れてやって来ました。

12時過ぎに西新井大師前に着き一時間のお昼の休憩とお買い物タイムを楽しみました。

火曜日は武蔵屋さんが休みで清水屋さんも貸切でしたので申し訳ありませんでした。木、土はそれぞれ江戸時代から続く茶店のお昼を味わいました。

後編に続きます。

 

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江戸名所巡り 第八回  千住界隈を巡る  (後編)

千住界隈後編のスタートです。

午後の部は西へと曲がり10分位歩くと曹洞宗円通寺に着きました。左手の空地には観音堂があり百体の観音が安置されていたという事です。その代わりというのでしようか正面に金の観音様が高くそびえていらっしゃいます。

少し進むと上野寛永寺の黒門があり鉄砲の玉の跡が生々しく残っていました。旧幕臣と徳川恩顧の有志からなる彰義隊約4千人は慶応4年2月に結成され5月の上野戦争で討伐されました。死節の墓は幕府軍戦死者の招魂碑です。

また、広い場所にいくつもの石碑が立ち並んでいるのは幕臣とそのゆかりの人々の碑です。小塚原の地名の由来となった源義家の奥州征伐の際に48人の敵の首を埋めた四十八塚がありました。

13時過ぎに素戔嗚神社の大銀杏の黄色を観賞し芭蕉句碑の「行く春や鳥啼魚の目は泪」を観賞し動きのある狛犬や富士塚を見ました。

 

浄土宗豊徳山誓願寺は999年、天台宗の僧恵心が豊徳という家に逗留した事から、その居宅を寺にしたのが始まりとの事です。親の仇をとろうとした子狸の話があり供養塔がありました。

橋の手前には小さな熊野神社の鳥居がみえました。熊野権現は千住大橋の守護神で源義家伝説が残っています。

現在の千住大橋と広重の江戸百景を見比べて前進しました。橋を渡ったところの公園で御手洗いと休憩をとりました。

奥の細道行程表が大きく示されてありました。矢立初めの碑もありました。

 

公園の脇を進むと銀杏の美しい橋戸稲荷社がありました。伊豆長八の鏝絵は有名でこちらにも夫婦狐の鏝絵を見る事ができました。母と子の白狐の美しさにうっとりしました。

狛犬の跳ね方が面白くて私達まで元気がでました。

もと来た道に戻り足立市場の傍を通りました。旧日光道中の千住河原町に元やっちゃ場北詰の説明板がありました。享保の頃、朝市が開かれ、せり声がやっちゃいやっちゃいと聞こえて来たそうです。三十数軒の青物問屋が軒を並べていたとのことですが第二次大戦の勃発により封鎖となりました。

直ぐに浄土宗源長寺へと入っていきました。石井掃部亮吉胤により一族の菩提寺として建てられました。大坂冬の陣の大坂方の武将である矢野和泉守の墓、又、享保年間の医師で寺子屋を開いた多坂梅里の碑もありました。

小さな商店街を通り仲町氷川神社に入りました。関屋天満宮と弁才天を拝見しました。美しい黄紅葉にうっとりです。小さな石柱の一里塚があり、「是より日本橋二里八町」とありました。

信号を渡ればすぐそばに高札場跡がありました。

3,4分で真言宗慈眼寺に着きました。

正和3年(1314)行覚上人が開基で寺紋が立葵なのは弘法大師作の聖観音菩薩を賜り、城北鎮護の祈願所となったからです。猟友会の鳥獣塚がありました。

隣は新義真言宗不動院です。千住宿に辿り着いた彰義隊士の供養塔とも言われてうる六字名号塔がありました。又、相模屋等20数軒の飯盛旅籠の屋号が彫られている無縁塔がありました。

すぐ近くにある東京芸術センターで、午後の2回目の御手洗い休憩をとりました。

十分ほど進むと千住宿問屋場・貫目改所跡がありました。旅行者の荷物が定量以内かを確かめる所です。馬だけなら40貫、人と荷だと5貫まで等々細かい決まりがあったようです。

森鴎外の父が明治12年に橘井堂医院を開き家族で住んでいて鴎外が結婚するまで住んでいたという場所を通りましたが生憎、大型マンションの工事で写真のみでした。

15時前後に新義真言宗金蔵寺に入りました。氷川神社の別当寺で千住宿の投げ込み寺で将軍の日光東照宮参詣の本陣代でもありました。

左に曲がり15時過ぎに浄土宗勝専寺に入りました。こちらも徳川家や日光門主等の本陣代を務めていたとの説明がありました。鎌倉時代に頼朝の家人である新井氏が隅田川から千手観音を拾い勝専寺に納め、これが千住の地名の由来ともされています。

本堂はコンクリート造りに赤煉瓦の建物で明治39年建築です。閻魔堂の閻魔様は寛政元年(1789)の開眼との事です。鐘楼の鐘はかつて千住宿の「時の鐘」であったといいます(現在のものは戦後に鋳造したものです)。

明るい色の通りの商店街を進みました。百円シヨップの角に小さく本陣跡の石柱が立っていました。建て坪が120坪とありますから、まずまずの広さだったのでしようか。

 

宿場町通りという商店街を進みました。古い家屋の絵馬屋の吉田屋の前にある傳馬屋敷横山家もなかなか立派で江戸末期の安政2年の建築との事です。

旧水戸・佐倉道とありました。

おやつの時間が突然訪れました。木曜と土曜はお店が開いていたので槍かけ団子を一本ずつ買い味わう事ができました。

15時半頃、真言宗安養院に入りました。北条時頼の創建と伝えられています。文政11年(1828)の山門を眺めました。芭蕉句碑「ゆく春や鳥啼き魚の目は泪」を見てかんかん地蔵の削られた白いお顔と隣の仲良し地蔵にお参りしました。

明和年間に接骨医として開業の名倉医院は広い駐車場の奥にありました。入院施設はなかったので患者専用の宿屋があったとの事です。現在は整形外科名倉本院とあり、よくぞ継続していらっしやると拍手をしたい気分になりました。立派な白壁の蔵もありました。

16時過ぎ日蓮宗清享寺は先程味わった槍かけ団子の名の水戸黄門が槍を立てかけた松があった所で松の碑がありました。私達は綺麗な松の庭を本堂に進みました。解剖人墓は明治3年〰4年に死罪になった11人の囚人の解剖が行われた時の墓です。一人一人の戒名と出身地が刻まれてありました。

長円寺の別当の四丁目氷川神社の狛犬に注目しながらお詣りしました。三管塚とは楠木の下に雅楽の龍笛、しちりき、笙を埋めたもので関東では珍しいとの事です。

目やみ地蔵のおもしろいお堂の絵馬の数々を見ながら本日最後の月松山長円寺へと入りました。

こちらも新義真言宗です。魚籃観音のお堂のそばに綺麗な菊が咲いていました。大日如来像の下部の獅子像に注目して拝見し笑いの中に終了しました。

本日は午後の部が長く、思ったよりも長い行程に感じましたが、美しい黄葉の中を気持ちよく歩く事ができました。

土曜日は4時半になってしまいましたが北千住駅に急ぎ、お別れしました。皆様お疲れ様でした。

 

旅立ちの社は銀杏紅葉かな    豊治

 

冬の蝶遊女の墓はひとまとめ    いさお(坊城先生添削)


 

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江戸名所巡り 第八回 千住界隈を巡る (前編)

第八回江戸名所巡りは、11月13日(火)、15日(木)、17日(土)の三日間共にお天気に恵まれた中で歩く事ができました。先月の三ノ輪駅と同じですが、集合場所は明治通リ改札で10時にスタートしました。

台東区根岸を5,6分進むと天台宗薬王寺に着きました、片膝を立てた如意輪観音の石仏の前を通り、奥の背面地蔵尊を拝見しました。前立の新しいお地蔵さまの後ろに大きく色黒のお地蔵様がたっていらっしゃいました。

明和年間日光街道に面して立っていましたが道筋が変わりましたので地蔵を反転させ向きを変えたとの事です。ところが地蔵は住職の夢に出てきて、古くからの向きが良いと告げたのでした。住職は、急ぎ石工を呼びその夜の内に元の西向きに戻したという事です。

又、5・6分で投込み寺と呼ばれている浄土宗浄閑寺に入りました。

門の左手には小夜衣供養地蔵があり、罪を着せられた小夜衣の霊を鎮めたとされています。小さな豕塚もあります。火伏の豕とされています。

 

首洗い井戸という恐ろしい名の井戸の傍には、石蕗の花が満開でした。父の仇の平井権八を討とうとして、返り討ちに合った兄の首を洗っているところに権八が来て弟まで討たれてしまったという悲しい話がある井戸です。

そしてこの寺は、安政の大地震の際に多くの遊女が葬られたとの事です。菊の供花が美し過ぎて余計に、悲しみが増してきます。生まれては苦海死しては浄閑寺と川柳で詠まれ、新吉原総霊塔に名前が刻まれ脇からは骨壺が見えていました

永井荷風の「震災」の一部が刻まれている荷風碑の向こうにひまわり地蔵がありました。山谷老友会が山谷の日雇い労務者の孤独を慰める為に昭和57年に建立したとの事です。ひまわりを胸にかざしている優しそうなお地蔵の表情が印象的でした。

もう一度遊女たちの塔を見ると髪飾りがいくつも供えられてありました。

目黄不動尊の永久寺には2分で着きました。火曜日は門は締まっていましたが土曜日は中に入れました。慈覚大師作と伝えられる目黄不動があり、江戸五色不動の一つです。お堂の中を拝見しましたが目が黄色には見えませんでした。

すぐに泪橋の交差点がありました。現在、橋はありませんが小塚原刑場で処刑される囚人たちが涙を流しながら橋を渡った、あるいは知人たちが別れを惜しんだという泪橋があった所です。

10分位北上し、その小塚原刑場跡(延命寺)に着きました。江戸時代の刑場で明治初年に廃止されるまで約20万人が刑を受けました。資料にも外国人が写した写真があり、我々は恐ろしい光景を写真で見てしまったのです。これらの刑死者の菩提を弔う為に寛保元年(1741)に造立されたのが、こちらの大きな延命地蔵尊(首切り地蔵)です。脇にはお題目石と馬頭観音がありました。

すぐ傍の小塚原回向院は明暦の大火での焼死者や無縁者の霊を弔う為に造られた本所回向院が手狭になり、ここ小塚原に別院が設けられたとの事です。まず最初に吉展地蔵尊がありました。これは村越家の菩提寺だからという事です、

入ってすぐの処に杉田玄白らが刑死者の腑分けを行った記念碑として、昭和34年に再建されたものがありました。

腕の喜三郎墓、高橋お伝墓、ねずみ小僧墓、片岡直治郎墓がずらりと並んでいました。正面奥の屋根の中にあるお墓は一橋慶喜擁立を計った橋本左内の墓です。井伊直弼の安政の大獄で処刑されました。今年の大河ドラマで西郷どんの青白い小顔の風間俊介が浮かんできました。土曜日には一般の女性がお詣りに来ていました。

その左奥には吉田松陰の「松陰二十一回猛士墓」はあり、こちらは伊勢谷友介のきりりとした顔が浮かんできました。

また桜田門外の変でなくなった桜田烈士墓がずらりと両側に並んでいました。何だか気持ちが沈んできます。しかしながら、ここが江戸であった事を改めて感じながら拝見しました。

本日は少し早目のお昼です。

南千住駅前で思い思いの店に入り昼食を取りました。12時半過ぎに午後の部のスタートまで休憩をとりました。

後半に続きます。

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江戸名所巡り 第七回 𠮷原界隈を巡る(後編)

火、木は1時半頃、土曜日は40分位遅くなり2時過ぎにスタートしました。土手の伊勢屋の天丼は、昔、吉原で働いていた人たちが食べていたから味が濃い目と聞きましたが、程よい濃さで天ぷらもさくさく。殆どの方が満足されたようでした。

すぐに見返り柳を見ました。吉原からの帰りの客が髪を引かれる思いで振り返ったという柳です。現在の物は昭和に植えられたものです。信号を渡り反対側をあるきました。

いざいざ新吉原へと心がはやります。男性は叉、格別の思いがあるのでしよう。日本橋にあった元吉原が元和3年(1617)に火災にあい、ここ新吉原に移り昭和33年の売春防止法で終わりを告げられるまで永々と続いた場所ですが、今もその様な部類の店がずらりと並び一般の人の立ち入りを拒む一角となっています。

鉄漿溝(オハグロドブ)の跡の少し残る石垣を見ました。周囲を溝で囲んであり、黒い色で濁っていて臭いもひどかったとの事です。この様な跡を見ると少々生々しくて、美しい浮世絵とは違う哀しくはかない女たちと、華やかな場所を作り上げ利用した巨大な商売の世界、そしてそこへくり出す男達の性(さが)、今では時代劇の世界ですがそれぞれの生き様が想像されて胸がつまる思いがしてきました。

黒いタクシーが出てきました。

そして我々は、たけくらべの悲しい終わり方を思いながら樋口一葉記念館を目指しました。火曜日は休館日で申し訳ありませんでした。記念館では自筆の文章を見る事ができとても美しい字に見とれる程でした。

一葉は、25歳で結核で世を去った後に認められました。菊池寛の撰文碑には、明治文壇の天才一葉の旧居あとなり。一葉の霊欣びて必ずや来たり留まらん。と表し碑を建てましたが、戦災に合い昭和24年に建て直された様です。旧居跡では荒物や駄菓子を売る店を7ケ月程、出していたとの事です。店を出す資金もとても苦労して借金して作ったようです。商売はうまくいきませんでしたがしかし、ここでの経験が「かけくらべ」を生んだと言われています。

2~3分の処に飛不動(天台宗、正法院)がありました。飛不動だけあって空の安全を守る不動ですので飛行関係の人々の信仰を集めています。修行僧が持ち出した本尊が大峰山から飛んで戻って来たという伝説があります。あのハヤブサの関係者の絵馬もあるとの事です。又、落ちないという事から受験生にも支持されているとの事です。落ちない!戻ってくる!素晴らしいではありませんか。

 

5,6分の場所に吉原神社に着きました。万治元年(1658)千葉九郎助が白狐と黒狐が天下るのを見て勧請したそうです。吉原出火の折も無傷だったので人気が出、吉原の世界から一日も早く出たい人々の信仰を集めました。吉原の今昔図が張り出されていて目を引きました。

 

4~5分で弁天池へと進みました。女郎達の絵や美人画の浮世絵も展示されていました。華やかな世界を想像しました。お堂の中には裸の弁天様がいらっしゃいました。周囲は紅や桃色の派手な色で何だか別世界に入って来た様でした。しかし大震災の殉死者追悼の碑が高々とあり悲しい出来事が刻まれてありました。よしの原を埋めたてて造った事や日本橋からここに移転した事、そして廃止となった事までの歴史が記されています。

 

6~7分で広い通りにある鷲(オオトリ)神社に着きました。天の岩戸に隠れていた天照大神へ楽器を奏でると鷲が弦の先に止まつたとの事です。そしてその時、踊っていたのがお多福という事で正面に大きななでおかめがありました。私たちもしっかり願いを込めて、おでこや頬を撫でました。

少し細い道を行き普通の家の入口に見える浄土真宗の大照寺の中の仏足石を見せてもらいました。

 

木曜日と土曜日には大照寺の前に、第18代中村勘三郎の墓にお参りとしました。平成中村座でも次々と企画し精力的に歌舞伎を演じ、はたまたロマンスでも何かと話題になっていた勘三郎の顔が浮かんできました。

大照寺から5~6分で広場の奥の曹洞宗朝日弁才天に着きました。江戸初期、備中松山藩の水谷伊勢守の屋敷に祀ったのが始まりで不忍池を夕日の弁天といい水の谷は東にあるので朝日弁天とよばれたと言います。不忍池のにぎやかさに比べ、こちらは何と寂しいことでしようか。現在は、朝日とは名ばかりだと感じた次第です。

真言宗竜泉寺は中に入れず歩道から見て通りました。

本日最後の千束稲荷に16時頃着きました。樋口一葉の大きな石の胸像が左手にありました。とても美人だったという事です。たけくらべの美登利と共に、この薄幸と薄命の美人を日本人はずっと忘れないでしょう。私達はもう一度、一葉をじっくり見て別れを告げました。

三ノ輪駅には5分位で着きました。本日も盛り沢山で大変お疲れ様でした。吉原の興奮からまだまだ醒めやらないままに帰路についた私たちでした。

 

木斛の紅き実たわわ社脇

千束や枯れ葉一葉舞ひ散りぬ   豊治

 

秋天や飛行機落ちぬ札のあり

吉原の図面買ふ人神の留守    慶月

 

たけくらべの冒頭より

「廻ければ大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝の燈火(トモシビ)うつる三階の騒ぎも手に取る如く‥‥南無や大鳥大明神…..」

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江戸名所巡り 第七回  𠮷原界隈を巡る(前編)

10月9日(火)、11日(木)、13日(土)の三日間、江戸時代から明治の始めまで、あの吉原が存在していたという場所を巡りました。

先月とうって変わり、うす曇りまたは秋晴れの中を歩く事ができました。10時、東武スカイツリー線浅草駅前を出発しました。浅草寺脇のベンガラ色の通りを浅草神社へと進みました。

浅草寺をちらりと左に見て神社の鳥居をくぐりました。すぐ右手に蕋雲(ズイウン)女子人麻呂歌碑がありました。柿本人麻呂を慕う江戸の新吉原の遊女粧太夫が人麻呂の歌を万葉仮名で歌碑に書き献納しました。「ほのぼのと明石の浦の朝霧に鳥かくれゆく船をしぞ思う」。

神木の槐(エンジュ)を見ました。推古天皇の時代(628)隅田川で漁をしていた兄弟が観音様を見つけてこの樹の切株に安置したと言われています。その後、幾度も涸れては叉、生えてこの槐の木は続いているとの事です。

 

檜前浜成、竹成の兄弟とその主である土師仲知が祭神ですが、この三人が観音に深く帰依し、自邸を寺に変えたのが浅草寺の始まりとのことです。

 

 

新門辰五郎が妻のために伏見稲荷社内にある被官稲荷を勧請しました。江戸ではヒをシと発音し仕官を願う人や浪人が多く参拝したとのことです。町火消組頭の辰五郎の娘は徳川慶喜の妾だったので、辰五郎は常に慶喜の警護をしていたそうです。

 

一葉観音は工事中の為に見る事が出来ませんでしたが蓮の花びらを舟にして櫂を持った童顔の観音様をちゃんと拝見したいと思いました。

山東京伝机塚の碑がありました。京伝は浅草や吉原を題材にした戯作を多く書いた人で親が買ってくれた机を生涯大切にしたとの事です。弟は兄を偲び、その机を埋めて碑を建立しました。

二天門から出てふり返り門を鑑賞しました。慶安2年(1649)浅草寺の東門として建立されましたが、その後に観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられています。現在は持国天と増長天の二天像に変わり名称も二天門となりました。ずっと先にスケイツリーが見えています。

すぐに花川戸公園に着きました。履物屋さんが多くあった場所でその碑がありました。昔、旅人を石枕と大石で殺していた老婆がいました。999人殺した時に観音様が稚児の姿になり現れて、娘が稚児の身代わりになり死にました。老婆は悲しみ悪業を悔やみ池に身を投げたといいます。

何の変哲もない池が造られていてその側に助六の歌碑がありました。団十郎の立派な歌よりも講師は助六寿司の話をします。助六の女が揚巻という名前でしたから稲荷寿司と巻き寿司の助六寿司が誕生したとの話ばかりが残り、助六寿司が早く食べたくなるのでした。

10時40分頃、浄土宗九品寺の大きな阿弥陀如来像を見ました。反対側に沓履地蔵尊と小さな可愛いほほえみ地蔵を見ました。門が閉まっていて入れず次へと進みました。

10時50分頃に言問橋の手前の隅田公園がありました。東京大空襲の霊よやすらかにの碑に我々は手を合わせました。この公園からスカイツリーがとても綺麗に見えます。少し休憩をして水分補給などをしました。

正岡子規の句碑「雪の日の隅田は青し都鳥」の字体に見とれながら寒々とした、それでも青い川に白のカモメが浮かんでいるという、しばし句の世界に入りました。子規は東京でもいろいろな場所で句をつくっています。

花の碑「春のうららの隅田川~」を見て誰もが歌いたくなったのではないでしようか。鳩がしきりに木の実を食べています。黒く熟している実でした。

竹屋の渡し跡がありました。ここをまっすぐに行ったところが三囲神社ということです。講師が美しい絵をかざしました。宵闇の中でしようか美女が河のほとりに佇んでいます。芸者の小万ではないかとの事です。

11時過ぎに待山聖天に着きました。海抜10メートル足らずの待乳山にある天台宗の本龍院です。出世観音ののっぺりしたお顔が印象的で蓮のつぼみを一本持っていらっしゃいました。江戸末期の築地塀が残っていて瓦としっくいが重ねてあり、どっしりとした塀に見入りました。

こちらの紋である二股大根と巾着がめだっています。立派な大根が売られているのが印象的でした。銅造りの宝篋印塔は天明元年(1781)蔵前の札差等16名が奉納したものです。ほぼ完全な形で残された唯一のものとして、貴重な歴史的な物とされています。

道灌稲荷の狐の顔を見て、糸塚(長唄の三弦の名人の遺志)や江戸初期の歌人の戸田茂睡碑を見ながら進みました。モッコクの木の赤い実が目を惹きました。

隣接した所に池波正太郎生誕の地の碑がありました。大川(隅田川)、待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものと記していたとの事です。

少し歩いたところに浅草歌舞伎発祥の地がありました。マンションの隅に小さな碑を見ました。日本橋堺町の中村座が火事で焼け江戸市中を避けて北町奉行の遠山金四郎の計らいで浅草の門外の地に移されたとの事です。この様な風景だったと、広重の絵を私達は眺めました。現在の風景の何と味気ない事でしようか。

叉、待乳山聖天まで戻り左に曲がりました。11時半頃に山谷堀公園に着きました。

吉原までの舟が出ていてその名を山谷船とか親不孝船と呼ばれていたとの事でした。又、山谷堀の両側に船宿が並び客で賑わっていたそうです。

トクサの中にある子規句碑は「 牡丹載せて今戸へ帰る小舟かな 」とあり待乳山で詠んだとの事です。

紙洗橋がありました。この辺に再生紙を作る人々が住んでいました。紙を溶かしてさます事を「冷やかす」と呼びその間に吉原に行き遊女をからかうので、遊女をからかう客を「ひやかし客」との事から「ひやかし」の言葉が出来たとの面白い話を聞きました。

5~6分進むと地方橋とあり地方(ジカタ)とは舞踊で音楽を受けもった人々のことで立方は踊り手のことです。

12時少し前に地方橋通りを歩き丁度昼頃に浄土宗春慶院に着きました。右の塀沿いに奥へ入ると高尾太夫の墓がありました。仙台藩主、伊達綱宗とのロマンスで知られる吉原の遊女です。「君はいま駒形辺りほととぎす」との恋の句、辞世の句は「寒風にもろくもくずる紅葉かな」。19歳でなくなっています。何と短命だったのでしようか。供花の白菊が悲しみをそそりました。

側の曹洞宗東禅寺には江戸六地蔵の2番として宝永7年(1710)に建立された地蔵が私たちを見降ろしていらっしゃいました。左手奥には明治のアンパンの元祖である木村安兵衛夫妻の座像がこちらも高い場所にありました。

細い通りに駿馬塚跡がありました。平安中期、源義家が奥州討伐の途中、ここで愛馬を葬った塚です。付近の人々がこの塚に馬頭観音を祀り覆屋を設けて大切に守っているとの事です。奥まった所にありました。

本日のお昼は日本堤1丁目の土手の伊勢屋です。火曜日、木曜日は残念ながら築地市場が豊洲市場に移転の為、お休みでした。土曜日はとても混んでいましたが、根気よく30分以上ならび店に入ってからもかなり待ちました。天ぷらの匂いを十分嗅いだ後、有名な天丼を味わいました。

後編に続きます。

 

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江戸名所巡り  第六回 亀戸・向島を巡る(後編)

 

13時過ぎに後半がスタートしました。

 

ここ区役所やアサヒビールの敷地は江戸時代には秋田藩佐竹氏の下屋敷があり造養園という庭園だったことをと知りました。隅田川沿いにアサヒビールのビルを見上げて勝安房(海舟)の像を見上げました。スカイツリーの上方が雲に隠れていました。

2時前に着いた隅田公園は水戸藩邸下屋敷跡で広さが2万坪程だったとの事です。まず尊王攘夷者の藤田東湖の漢詩の碑を見ました。昭和19年6月、南の島で玉砕が相次いだ時に東湖会が建立したとの事です。小じんまりとした大名庭園を回遊しながら足元が悪い中、滑らないように一歩一歩進みました。清澄庭園の小型版のように思えました。

直ぐ隣の牛島神社に入りました。平安初期の創建で牛頭天王社と稲田姫御前の夫婦を祀っています。撫で牛もあり包丁塚と牛の慰霊像もありました。そしてこちらの鳥居の形が何とも立派で三輪鳥居という形でしばし皆で拝見しました。

名所図会の当時の大きな牛島神社の絵を眺めて、次の三囲神社へと進みました。こちらは古くは田中稲荷と称し江戸時代三井家の鬼門に当たる事で、深く尊信したとのことでした。三越池袋店にあったライオン像や三井邸より移した三柱鳥居もありました。

目尻の下がった狛狐は大変ほほえましくてカメラおさめる人が大勢いらっしゃいました。奥の方に三井家の先祖を祀る社があり小雨の中にひっそりとありました。又、基角の雨乞の句碑も興味深く見る事ができました。こちらの稲荷の白狐を手なずけていたという老婆老翁像もしっかりと祀られていました。元禄の頃、人民の願い事をこの老夫婦が白狐に頼むと叶えられたそうです。

14時過ぎに黄檗宗洪福寺に入りました。屋根が二階建てになった立派な本堂が目に入りました。勝海舟が少年時代に座禅に通ったとの事です。咳の翁媼尊を祀っていて風邪よけのお札もありました。風邪の心配な人はしっかりとお願いしました。資料を見るとこちらも素晴らしい名所図会が描かれてありました。

すぐ側の天台宗長命寺へと進みました。こちらは長寿を願う江戸町民の雪見や花見の名所として賑わっていました。家光の腹痛を治したという井戸水は長命水と名付けられ、今も水滴が手水として落ちていました。

十返舎一九の辞世の狂歌、芭蕉の句碑、木の実ななさんの言葉の石碑もありました。此の辺りの出身とのことです。

裏の隅田川に面した長命寺桜餅のお店へと急ぎました。丁度、おやつの時間です。享保2年(1717)隅田川の桜の葉を塩漬けにして餅を包んで門前で売ったのが始まりとの事です。面白い小噺を聞きながら店内の赤い毛氈に腰かけてお茶と共に頂きました。すぐ見えている隣には言問団子店があり、こちらは江戸末期の創業です。一皿630円で三色のあんこの団子でこちらの方を頂いた方もいらっしゃいました。

一休みした後、本日の最後の地に向かって頑張って歩きました。王貞治さんが子供のころ練習していた小さな球場がありました。

本日も残り少なくなりました。白髭神社祭神は猿田彦命です。平安末期に近江の白髭神社を勧請し向島百景の一つとして白髭の森と呼ばれたそうです。

幕臣の外国奉行であった岩瀬忠震の石碑がありました。

すこし戻り向島百花園に到着しました。文化・文政時代(1804~30)骨董商の佐原鞠塢が文人・墨客の協力でこの花園(新梅屋敷)を開きました。雨の日でしたので鑑賞したい人とそうでない人に分かれましたので、ここで本日の解散といたしました。65歳以上は70円です。少しの間ですが萩、あけび、へびうり、ひょうたん、ききょう等々を見て廻りました。芭蕉句碑や日本橋石柱を見つけたり萩のトンネルを楽しみ帰路に付きました。

9月は秋雨前線と台風の影響で雨の中の何と多かった事でしようか。皆様お疲れ様でした。十月は秋晴れの元、巡れますように!!

 

霧雨の川に向き食むさくらもち 幸子

団栗の転がる社人疎ら     豊治

秋雨や御手に経ある観世音   慶月

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江戸名所巡り  第六回  亀戸、向島を巡る(前編)

25日(火)15名、27日(木)13名、29日(土)16名、どの日もどこかで雨に見舞われましたが第6回目の江戸名所巡りをとり行いました。JR総武線亀戸駅を10時に元気よく出発しました。

 

10分位で真言宗東覚寺に入りました。1531年玄覚法印の開山で燈籠は延宝9年(1681)飛騨国主金森頼時とありました。上野寛永寺のもので葵の御紋がちやんと入っていました。

 

 

又、江戸中期の僧侶で是心軒一露が創始した華道の松月堂古流の碑がありました。心なしか供花も華道のものらしく感じると講師は話すのですが・・・・。

3,4分で次の亀戸香取神社に着きました。藤原鎌足がこの地を訪れ太刀一振りを納め旅の無事を祈願したのが始まりで、平将門討伐の藤原秀郷も戦勝を祈願して勝利したので勝矢を奉納した故事からスポーツの神として多くが参拝しています。

平成28年に置かれた勝石に触れ、復元された亀ケ井戸も見ました。境内社がずらりと並んであり、稲足社は足の神様という事で皆様と一緒にちやんと歩ける様にしっかりとお詣りしました。

 

亀戸大根碑があり、その存在を知りましたが現在は葛飾区の三軒の農家が作っていてすこし苦味があるとの事です。

雨雲に見え隠れするスカイツリーを見ながら5分位進むと吾嬬神社がありました。日本武尊を助ける為に弟橘媛命が海に身を投げ、遺品が辿りついた所に塚を築いたのが始まりと言われています。日本武尊が樟の箸を地に刺すとそれが根付いたという連理の樟は枯れて木の皮のみが立っている状態でした。

奥の本殿の狛犬の小ささに思わず笑いがおこりました。

山県大弐の碑もありました。享保10年(1725)甲斐に生まれて皇室の衰えは幕府にあることを非難して42歳で死罪になりました。

通りに戻り2,3分で亀戸梅屋敷跡がありました。呉服商伊勢屋が3600坪の庭に300株の梅を植えて清香庵と名付けたとの事です。名所図会では着飾った人々が梅を見物しています。臥龍梅とは、ここを訪れた水戸光圀が命名したとの事で吉宗も鑑賞したと言われています。一説には、吉原の初代高尾太夫の鉢植えの梅をこの地に移したのが大きくなったとも伝わっています。

通りを折れ南に歩くと11時頃に普門院に着きました。うっそうとした木々の中を進み奥にある伊藤左千夫の墓を拝見しました。野菊の墓やアララギを思いました。錦糸町辺りで牛を飼い酪農をしたという話は興味深いものでした。

物がいたる所に置かれていて、この雑然さは何故かと不思議に感じましたが、持経観音の美しいお姿には見とれてしまいました。

又、2〰3分で着いたのは亀戸天満宮でした。火曜日は丁度里神楽のお囃子の演奏中でした。

まず左手奥に見た事もない狛犬に塩を盛り上げている塩狛犬がいました。こちらで塩断ちをして願い事が叶うと塩を奉納したと言います。その左には重い物に耐え忍ぶ龍の子供のヒイキの像もありました。

そして亀戸天神社の拝殿にお詣りしました。土曜日には、七五三をお祝いする姿を見かけました。民権運動の中江兆民の碑は大きいものでした。

累卵の碑を過ぎ、鷽替え神事の碑や五歳の道真公の像、又、道真の師を祀っている御嶽神社とその左手にある塩原太助が寄進したという石燈籠もありました。

次は道真の妻と子供が祀れれている花園神社にも詣りました。芭蕉句碑に思いを馳せ、琴字燈籠を見て金沢の兼六園を思い浮かべました。とても盛沢山です。

筆塚の側には櫂の木あり見上げながら御手洗い休憩をとりました。中国原産の櫂の木は孔子廟に弟子の子貢が植えたと伝わっていて湯島聖堂の脇でも見ました。

こちらの天満宮は藤がとても立派で広重の絵でもとても美しく手前に描かれています。

船橋屋は文化2年(1805)創業の葛餅屋さんです。小麦粉を練って蒸し黒蜜ときな粉で頂きます。「大江戸風流くらべ」の甘いもの番付で横綱にランクインしたものですから食べてみる価値はあると思い購入しました。天気が悪いにも関わらず次々とお客が訪れていました。

 

天台宗の龍眼寺には11時分頃に着きました。江戸時代には萩寺と呼ばれていただけあり今が見頃の萩が咲き揃ってした。芭蕉句碑や其角の碑があり、三猿が上にある面白い庚申塔も見ました。

柳島橋を渡ると正面にスカイツリーが見えています。12時過ぎに妙見山法性寺に入りました。

妙見堂の中を拝見すると白い紙垂のような物が垂れ下がり、神様か仏様かよく分からない祀り方で中央からリボンが伸びていて参拝者が引くような仕組みでした。

此方には侠客上萬の墓がありとても珍しく目を引きました。近松門左衛門の墓や歌川豊国の筆塚の断片もありました。

お昼の場所はまだかしらの声がちらほら聞こえる中、午前中最後の場所へ向かいました。12時半頃にコンクリートのビルの日蓮宗春慶寺に着きました。通りに面した所に四世鶴屋南北の墓がありました。四谷怪談の作者です。我々は寄贈した歌舞伎役者の名前ばかり見入ってしまいました。

火曜日、木曜日は隅田区役所へ、土曜日は区役所が休みなので近くのお店での自由昼食としました。区役所ではその名もムサシランチ!お値段が630円を美味しくいただきました。

後編に続きます。

 

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鎌倉街道上道 第二十回 深沢から鎌倉

平成28年10月、高崎よりスタートした上道はいよいよ最終回を迎えました。

まだまだ残暑の厳しい9月18日(火)、曇り空の22日(土)モノレール湘南深沢駅を10時に出発しました。

モノレールの下を真っすぐに暫らく歩きました。洲崎古戦場碑がありました。足利尊氏の妻、登子の兄の赤橋守時がここで新田方の堀口貞満、大島守之率いる軍勢との激戦で敗れ自刃しました。碑の足元に彼岸花が咲き始めていました。

モノレールから別れて南下して行きます。臨済宗の大慶寺に着きました。

樹齢700年以上の柏槇が宝塔の両脇にありました。鎌倉末期と言われる小振りの宝塔二基を見ました。

東光寺の鎮守である駒形神社の鳥居を潜りました。石段を上がりお詣りをしました。駒形神社は関東から東日本に多い神社で馬を保護する霊験を尊んで祀るのが駒形信仰とうことです。

奥の赤い鳥居の向こうにやぐらがいくつもありました。やぐらの中に馬頭観音がありました。とても鎌倉らしい風景です。

すぐ側の高野山真言宗東光寺に入りました。本尊の不動明王は平安時代の物と伝わっています。弘法大師御修行像があり私たちは左廻りに四国八十八ケ所のお砂踏みを体験致しました。

街道がとぎれているという方向を眺め梶原1丁目の辺りを歩き進みました。梶原御霊神社に着きました。ぼたんの花を加えている優雅な狛犬を見ました。これは江戸狛犬という事です。

桓武平氏の流れの鎌倉景久が梶原村に住み梶原氏を名乗りました。梶原景時は頼朝の死後に殺害され一族は滅びました。しかし現在も神社として祀られ地名として残っています。石段を上がると景時公没800年忌供養塔があり、秋の供花がちやんと供えられてありました。

さて、ここ梶原1丁目辺りは寺分大工谷といわれ鎌倉時代に大慶寺を修繕した工匠が住んでいたとの事です。寺分という地名で残っています。

長い昇り坂がずうっと続いていました。鎌倉街道は尾根道が多いからだと講師は説明します。

こもれび広場という公園に着き持参のお弁当を広げました。久しぶりのお弁当の美味しいこと。土曜日はしつこいカラスに悩まされました。お菓子を取られた人も、、、。

40分位、休憩しました。広場の中に藤原仲能の墓があり、説明がないとまったく分からないこんもりとした所に木があるだけのものでした。

目の前の葛原岡神社をお詣りしました。桓武天皇の王子の葛原親王の御霊を祀っていましたが、その後、梶原1丁目に移され御霊神社になりました。左手の方に合槌稲荷社というおもしろい名前の神社がありました。これは鍛冶屋さんが向かい合って槌を打つ事からきている名前で、鍛冶屋さんが信仰しました。現在は夫婦円満の神様です。

元弘2年(1332)に元弘の変の首謀者として日野俊基がこの地で斬首されました。終焉の地の碑がありました。1332年6月3日とありました。

尾根を断ち切って造った大堀割を見ました。

ほんの少し行くと日野俊基墓入口とありました。明治17年従三位を追贈された折に室町時代の石を寄せ集めて建立したとのことです。苔むしていて、とても趣きがあり哀れを感じました

急坂を下ると銭洗い弁天があります。頼朝に宇賀福神の夢のお告げがあり、この地の湧き水があったので祀ったとの事です、鎌倉五名水の一つでお金を洗うと何倍にもなるというのは本当でしようか。火曜日には大きな御札を洗った方がいらっしやいました。どうか何倍にも増えます様に。

いきなり広い原っぱの奥に頼朝像があり鎌倉の地を見下ろすかのようでした。

最後の日に相応しい記念撮影をしました。

さて、いよいよ本日の難所の化粧坂を下ります。土曜日は前日が雨でしたので滑りそうでおそるおそる下りました。新田義貞はここから攻めるのを断念して海に廻ったと言われています。何とか全員の方が無事に下ることができました。

 

 

中道の大仏の切通しを苦労して下ったことを想い出しました。

緩やかな下りを進むと右手に景清土牢跡がありました。平氏の侍大将で平家滅亡後も生き延びたとの事です。

鎌倉らしい静かな道を進むと臨済宗建長寺派の海蔵寺に着きました。

まるで萩寺のように萩が豊かに垂れていました。鎌倉十井の一つの底脱の井がありました。又弘法大師が掘ったと言われる十六の井も暗い場所に清い水をたたえてありました。

線路沿いに歩きました。十六日記の著者である阿仏尼の墓がありました。

冷泉為家の側室で息子の為相の相続を認めてもらう為に60歳近くの母が京から鎌倉を目指しました。

同じ街道沿いにある浄土宗英勝寺に着きました。鎌倉に残る唯一の尼寺との事です。300円の拝観料を支払い庭を鑑賞しました。尼寺だけあって所々に配置された花や石の置物にも、竹林と共に心ひかれました。開基の英勝尼は太田道灌の末流の娘で家康の側室のお勝です。関ヶ原、大坂の陣には家康に従ったといいます。

鎌倉五山の三位である寿福寺に入りました。門を潜ると長い参道が美しく、心が和みます。頼朝の父の義朝の館があったと言われています。

本堂の方には入る事が出来ず政子と実朝の墓へと進みました。

ずっと奥のやぐらの中にあり母と子は少し離れた場所に供養されていました。

やぐらの中の墓がずらりと並んでありました。

叉、こちらには虚子の墓もやぐらの中で、幼くして亡くなった娘さんのものが両脇に小さくありました。毎年4月8日の命日には寿福寺内で句会が開かれます。

叉、大仏次郎の墓は向かって左手の方にありました。

八坂神社は相馬師常が京都の祇園社を勧請したとのことです。

少し進み岩窟不動尊の小さな祠にお参りしました。本尊は弘法大師作といわれていますがどうも新しいとの事です。。右手にコーヒーシヨップがあり良い香りが漂っていました。

火曜日は川喜多邸は休みでしたが土曜日は人の出入りがあり賑わっていました。

映画製作者で妻のかしこは日本映画の母と呼ばれているそうです。記念館は和風モダンな建物で鎌倉の雰囲気にとて合っていました。又、敷地内にある旧別邸(江戸後期の物)は和辻哲郎氏の居宅を東京から移築したとの事です。

道の曲がり角に鉄の井がありました。この井戸から鉄観音の首が掘り出され安置されていましたが現在、日本橋人形町の大観音寺の本尊となっています。江戸名所巡りで立ち寄りまだ記憶に新しいことです。

道を曲がると八幡宮の脇の通りです。3時少し過ぎた頃、とうとう鶴岡八幡宮までやった来ました。

土曜日は婚礼が何組もとり行われていました。赤橋を渡り源平池の蓮の葉の繁りを見、茶色の蓮の実もできていました。

流鏑馬道を眺め、御手洗いもお借りしました。舞殿で結婚式が行われていました。

大銀杏の場所を見ながら石段を登りお詣りをしました。二年間、無事に歩いてこられた事に感謝しました。

鶴亀石や、権現造りの若宮がありました。最終回は、ここで終わらず左に折れて北条氏終焉の場所を目指しました。

彼岸花がとても綺麗です。宝戒寺は後醍醐天皇が執権の北条氏の霊を慰める為に高時邸の地に足利尊氏に命じて建立させたものです。入口だけ拝見して次に進みました。

滑川にかかる東勝寺橋から見た石垣はまるでお城のように続いていました。

そして広い空地がありました。ここで北条高時に従った千人もの人々が最後を迎えました。恐ろしい名前もそのままの腹切りやぐらを少し離れた処から見ました。

そうして、八幡宮まで戻って来ました。段葛が何事もなかったかのように明るく海へ延びています。

少し早めですが打ち上げ会場に入りました。

上道は新田義貞が攻め上った道として有名ですが、私たちはゆっくり2年をかけて鎌倉に到着しました。また、元気に再会できますように。様々な思い出を胸に別れを惜しみながら解散しました。皆様、大変お疲れさまでした。そしてこのブログを読んで下さった皆さま、長い間本当に有難うございました。

 もののふの都に曼珠沙華白く

 萩の花揺らすは魂の風らしき    慶月

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江戸名所巡り 第五回 両国界隈(後編)

お昼を済ませて、13時30分頃になっていました。暑い中を午後の部の始まりです。午前中の暑さは午後、益々増していて気温は34度か35度に達していたと思います。

旧国技館跡を通り回向院参道へと入って行きました。浄土宗諸宗山無縁寺回向院は明暦3年の大火の死者10万人を幕命で葬った万人塚が始まりとの事です。

力塚の碑は相撲協会が建立し力士の髻(モトドリ)や死亡した力士の分骨を納めています。又、一葉観音の美しい像の曲線美にも心引かれました。水子塚の廻りの風車がとても哀れを感じました。鼠小僧次郎吉の墓は市川団十郎が狂言で大当たりをした御礼に明治9年に建立したとの事です。目猫塚は日本橋の時田家が逼迫した時に愛猫が小判を咥えてきて、家運も隆盛に向かい猫の死後に供養したとの事です。

 

ぼうずしゃものお店の看板を見上げました。店名の由来は初代が喧嘩の仲裁をするのに頭を丸めた事からきています。資料の回向院、柳橋の色あざやかな絵を見ました。又、勧進相撲の状況の図絵も細かく描かれています。どちらも両国橋のお向こうに富士山があります。

与兵衛寿司発祥の地とありました。屋台から店を構えられる程となり狂歌にも詠われる人気ぶりという事でした。江戸握りは小泉与兵衛が創ったという事です。

大きなビルの様な真言宗大徳院がありました。弘法大師の大と徳川家の徳を合わせて大徳院したとの事です。

 

出羽海部屋がありました。現在話題の関脇御嶽海が所属している部屋です。

塩原太助の住居跡がありました、薪炭商人として成功した人で太助が次回に訪問する亀戸天神に寄進した灯篭が今も境内にあるとの事です。

そしていよいよ吉良邸の裏門跡という立札がありました。少し進むと講師がここが上野介が隠れていた物置辺ですといいました。灰色の濃い古い建物がありました。

 

当時2250坪あったが今はほんの一部しかない吉良邸に入りました。首洗い井戸(おしるし洗の井戸)が目に入りました。上野介の座像や犠牲になった家臣の供養碑もありました。そして吉良上野介の追慕碑などを見ながら影になっているので一息入れる事ができました。講師の話によれば幕府隠密の報告書であること土芥寇讎記(ドカイコウシュウキ)によると浅野内匠頭や家老の大石が批判されているとの事で、時代劇の様ではないらしいことが分かりました。

 

本日のメインの場所でしたのでじっくりと説明を聞きました。

すぐに吉良邸正門跡がありました。又、しばらくすると駆逐艦の錆びた錨が置かれていました。日露戦争当時の駆逐艦の錨という事です。特に男性の方が見入っておられました。

すぐ近くに芥川龍之介文学碑がありました。龍之介は京橋区入舟町に生まれここ本所小泉町に住んでいました。杜子春の一部が刻まれていました。会員の方は龍之介の小説で何が浮かんできたのでしようか。筆者は蜘蛛の糸が思い出されました。

又すぐに両国公園に入りました。勝海舟生誕の地とありました。よく見かける勝の若い写真が大きく表示され歩みが紹介されていました。

 

公園を進むと幕臣の洋学者・教育者の尺振八の説明板や共栄学舎跡がありました。

現在、両国小学校があるところは共立学舎跡だったのです。暑さの中を水分補給しながら進みました。

龍之介生育の地とあります。龍之介が育った頃の街はどんな佇まいだったのでしょうか。

路地を進むと横網横町とありました。そして国技館の前を通りました。大相撲のチケット売り場が見えました。

船橋聖一生誕地には代表作の「花の生涯」の碑がありました。

15時頃、安田庭園に着きました。回遊式大名庭園で本庄松平氏の下屋敷だったところです。元禄時代に本庄宗資が造園しました。明治24年に安田財閥の創始者である安田善次郎の所有となり逝去後、故人の遺志により東京都に寄附されました。火曜日は花嫁さんの撮影があり、とても華やかな庭園となっていました。10分位の急ぎの鑑賞で次へと進みました。

2〰3分で横綱公園にある東京都復興記念館に入りました。関東大震災の記録がVTRでも見られました。慰霊堂の中は冷房がなく扇風機だけでしたが一通りぐるりと拝見して正面には祭壇があり犠牲者に哀悼の意を表す事が出来ました。

私たちは昔も今も、逃れられない災害に襲われながらの暮らしがずっと続いているのだと空恐ろしくなりました。

蔵前橋通りを横切り徳の山稲荷に着きました。本所築地奉行だった徳山五兵衛の屋敷にあった稲荷社です。

こちらにも井戸があり。日本左衛門首洗井戸碑があり、強盗を働いた浜島庄兵衛の首洗井戸です。

10分位歩き野見宿禰神社に入りました。相撲の神様は鎌倉街道上道(上野国)で昨年神社に行きました。初代高砂親方がこの地に創建しました。

少し歩くと北斎美術館がありました。この場所が北斎の生誕地という事です。富岳百景があまりにも有名で、世界的に評価されています。南割下水についての説明板もありました。江川太郎左衛門屋敷前跡の説明板もありました。江戸湾お台場の築場や大砲の鋳造など幕末の知識人でした。

16時過ぎ江戸東京博物館の変化に富んだ建物が見えてきました。ことらも希望者のみの鑑賞です。

本日は北斎美術館で解散となりました。猛暑の中を無事終える事が出来ました。皆様、大変お疲れ様でした。8月は夏休みとさせていただきます。

皆様、どうかお元気で過されますように。9月の最終週ですが江戸名所巡り第六回(亀戸界隈)で又お会いしましょう。

 

仄暗き夏の灯の間やももんじ屋   慶月

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