江戸名所巡り  第九回 西新井界隈を巡る(後編)

 

短い時間でしたが、食事と買い物を楽しみました。年末の福引に当たった方もいらっしゃいました。

午後、江戸名所図会にも大きくあります真言宗五智山遍照院総持寺に入っていきました。天長3年(826)弘法大師空海により創建されたと云われています。

山門は江戸後期の建造との事です。塩地蔵は疣取りに御利益があるとの事です。

三匝(サンソウ)堂は別名が栄螺(サザエ)堂といい、堂内が螺旋状になっているとの事です。

稚児大師像もありました。お庭の方へと進み池を一回りしました。

戦争中に供出された鐘が昭和30年にアメリカから返されました。

 

五色の旗の意味を聞き本堂にしっかりお参りをして、光明殿にある珍しい変形宝篋印塔を見て西新井大師を後にしました。

交差点を渡り満願寺へ入りました。入って直ぐの処にたぬき塚があり住職と狸の民話を聞きました。住職の囲炉裏で暖をとっていた狸の荷に囲炉裏の灰を入れたところ、狸が焼け死に可哀そうに思った住職が塚を立て供養したとの事です。

東武線の陸橋を渡り桜並木を過ぎ今度は猿仏塚のお堂の中の庚申塔を見ました。昔、利口な猿が人間の子供の子守をしていて誤って死なせてしまい、その事を悩んで餓死した猿の供養をした塚は、今はありませんが子供の厄除けとして信仰されています。

それから住宅地に入り、午後の部から約1時間過ぎた頃に真言宗来迎寺に着きました。樹齢400年の榎があり、一里塚の木の説明がありました。こちらには未だ新しい舎利殿があり、とても立派な建物でした。庚申塔や地蔵も拝見しました。

旧家の前が旧奥州街道だったという桐田家の松の木には驚かされました。300年と説明板にありましたがもっと古いはずとの事です。こちらには将軍の鹿狩りの際に勢子が持っていた各々の村を示す旗が保存されています。

桐田家の後ろを右に曲がり日蓮宗の国土安穏寺が見えてきました。日光参拝の折に将軍が立ち寄ったという御成門がありました。

その右手に日蓮の像が見えています。境内を見せてもらいました。ぐるつと廻って山門の天井絵の龍は爪が五本持ち皇帝の龍とされるものでした。また、両側に大草鞋も目を引きました。

冬桜や家光御手植えの松を拝見しました。そして高村光雲作の日蓮像を正面から拝見しました。その迫力に圧倒されました。寺を出てずっと先に日光街道が見えていました。

六六通りを行きブロック塀をささえてある旧家の大きな御屋敷が見えてきました。門が立派で時代劇の中に迷い込んだようでした。今時、これを維持していくのはさぞかし大変だろうと、どなたかがおっしゃっていました。先程、通ってきた桐田家の前からこちらに旧奥州街道が通っていたそうです。

今度は栗六通りとありました。15時頃、真言宗炎天寺に入りました。一茶ゆかりの俳句寺とも呼ばれています。

入口には石田波郷の「日洩れては急ぐ落葉や炎天寺」の句碑が立ち丁度この季節だと思い山門を潜りました。庚申塔を過ぎると蛙の置物や像で溢れた池がありました。「やせ蛙まけるな一茶これにあり」あまりにも有名な一茶の幼くして亡くなった子供たちへの思いが込められているのでしよう。

小林一茶は信濃柏原と江戸を何度も行き来した事から炎天寺の句を詠んでいます。「蝉鳴くや六月村の炎天寺」

「むら雨や六月村の炎天寺」

隣には八幡神社があり源義家が旗を立てかけたと云われる松があります。

すぐに真言宗西光院に着きました。本日最後の訪問場所です。

大師像の横におだやかなお顔が少し大きな大日如来座像がありました。江戸末期の竹の塚村の名主で教育者の河地武胤は無料で村内の子弟の教育をした寺子屋の師匠です。門人が建立した碑がありました。

15時半、竹ノ塚駅へと急ぎました。

いつもよりすこし早や目の解散です。そして本年最後の江戸名所巡りが無事終わりました。皆様、ご協力ありがとうございました。

どうか良いお年をお迎えください。

 

菩提子をお大師様で拾ひけり    豊治

 

佳き句碑のあまたに逢へし年暮るる  慶月

 

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