江戸名所巡り 第七回  𠮷原界隈を巡る(前編)

10月9日(火)、11日(木)、13日(土)の三日間、江戸時代から明治の始めまで、あの吉原が存在していたという場所を巡りました。

先月とうって変わり、うす曇りまたは秋晴れの中を歩く事ができました。10時、東武スカイツリー線浅草駅前を出発しました。浅草寺脇のベンガラ色の通りを浅草神社へと進みました。

浅草寺をちらりと左に見て神社の鳥居をくぐりました。すぐ右手に蕋雲(ズイウン)女子人麻呂歌碑がありました。柿本人麻呂を慕う江戸の新吉原の遊女粧太夫が人麻呂の歌を万葉仮名で歌碑に書き献納しました。「ほのぼのと明石の浦の朝霧に鳥かくれゆく船をしぞ思う」。

神木の槐(エンジュ)を見ました。推古天皇の時代(628)隅田川で漁をしていた兄弟が観音様を見つけてこの樹の切株に安置したと言われています。その後、幾度も涸れては叉、生えてこの槐の木は続いているとの事です。

 

檜前浜成、竹成の兄弟とその主である土師仲知が祭神ですが、この三人が観音に深く帰依し、自邸を寺に変えたのが浅草寺の始まりとのことです。

 

 

新門辰五郎が妻のために伏見稲荷社内にある被官稲荷を勧請しました。江戸ではヒをシと発音し仕官を願う人や浪人が多く参拝したとのことです。町火消組頭の辰五郎の娘は徳川慶喜の妾だったので、辰五郎は常に慶喜の警護をしていたそうです。

 

一葉観音は工事中の為に見る事が出来ませんでしたが蓮の花びらを舟にして櫂を持った童顔の観音様をちゃんと拝見したいと思いました。

山東京伝机塚の碑がありました。京伝は浅草や吉原を題材にした戯作を多く書いた人で親が買ってくれた机を生涯大切にしたとの事です。弟は兄を偲び、その机を埋めて碑を建立しました。

二天門から出てふり返り門を鑑賞しました。慶安2年(1649)浅草寺の東門として建立されましたが、その後に観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられています。現在は持国天と増長天の二天像に変わり名称も二天門となりました。ずっと先にスケイツリーが見えています。

すぐに花川戸公園に着きました。履物屋さんが多くあった場所でその碑がありました。昔、旅人を石枕と大石で殺していた老婆がいました。999人殺した時に観音様が稚児の姿になり現れて、娘が稚児の身代わりになり死にました。老婆は悲しみ悪業を悔やみ池に身を投げたといいます。

何の変哲もない池が造られていてその側に助六の歌碑がありました。団十郎の立派な歌よりも講師は助六寿司の話をします。助六の女が揚巻という名前でしたから稲荷寿司と巻き寿司の助六寿司が誕生したとの話ばかりが残り、助六寿司が早く食べたくなるのでした。

10時40分頃、浄土宗九品寺の大きな阿弥陀如来像を見ました。反対側に沓履地蔵尊と小さな可愛いほほえみ地蔵を見ました。門が閉まっていて入れず次へと進みました。

10時50分頃に言問橋の手前の隅田公園がありました。東京大空襲の霊よやすらかにの碑に我々は手を合わせました。この公園からスカイツリーがとても綺麗に見えます。少し休憩をして水分補給などをしました。

正岡子規の句碑「雪の日の隅田は青し都鳥」の字体に見とれながら寒々とした、それでも青い川に白のカモメが浮かんでいるという、しばし句の世界に入りました。子規は東京でもいろいろな場所で句をつくっています。

花の碑「春のうららの隅田川~」を見て誰もが歌いたくなったのではないでしようか。鳩がしきりに木の実を食べています。黒く熟している実でした。

竹屋の渡し跡がありました。ここをまっすぐに行ったところが三囲神社ということです。講師が美しい絵をかざしました。宵闇の中でしようか美女が河のほとりに佇んでいます。芸者の小万ではないかとの事です。

11時過ぎに待山聖天に着きました。海抜10メートル足らずの待乳山にある天台宗の本龍院です。出世観音ののっぺりしたお顔が印象的で蓮のつぼみを一本持っていらっしゃいました。江戸末期の築地塀が残っていて瓦としっくいが重ねてあり、どっしりとした塀に見入りました。

こちらの紋である二股大根と巾着がめだっています。立派な大根が売られているのが印象的でした。銅造りの宝篋印塔は天明元年(1781)蔵前の札差等16名が奉納したものです。ほぼ完全な形で残された唯一のものとして、貴重な歴史的な物とされています。

道灌稲荷の狐の顔を見て、糸塚(長唄の三弦の名人の遺志)や江戸初期の歌人の戸田茂睡碑を見ながら進みました。モッコクの木の赤い実が目を惹きました。

隣接した所に池波正太郎生誕の地の碑がありました。大川(隅田川)、待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものと記していたとの事です。

少し歩いたところに浅草歌舞伎発祥の地がありました。マンションの隅に小さな碑を見ました。日本橋堺町の中村座が火事で焼け江戸市中を避けて北町奉行の遠山金四郎の計らいで浅草の門外の地に移されたとの事です。この様な風景だったと、広重の絵を私達は眺めました。現在の風景の何と味気ない事でしようか。

叉、待乳山聖天まで戻り左に曲がりました。11時半頃に山谷堀公園に着きました。

吉原までの舟が出ていてその名を山谷船とか親不孝船と呼ばれていたとの事でした。又、山谷堀の両側に船宿が並び客で賑わっていたそうです。

トクサの中にある子規句碑は「 牡丹載せて今戸へ帰る小舟かな 」とあり待乳山で詠んだとの事です。

紙洗橋がありました。この辺に再生紙を作る人々が住んでいました。紙を溶かしてさます事を「冷やかす」と呼びその間に吉原に行き遊女をからかうので、遊女をからかう客を「ひやかし客」との事から「ひやかし」の言葉が出来たとの面白い話を聞きました。

5~6分進むと地方橋とあり地方(ジカタ)とは舞踊で音楽を受けもった人々のことで立方は踊り手のことです。

12時少し前に地方橋通りを歩き丁度昼頃に浄土宗春慶院に着きました。右の塀沿いに奥へ入ると高尾太夫の墓がありました。仙台藩主、伊達綱宗とのロマンスで知られる吉原の遊女です。「君はいま駒形辺りほととぎす」との恋の句、辞世の句は「寒風にもろくもくずる紅葉かな」。19歳でなくなっています。何と短命だったのでしようか。供花の白菊が悲しみをそそりました。

側の曹洞宗東禅寺には江戸六地蔵の2番として宝永7年(1710)に建立された地蔵が私たちを見降ろしていらっしゃいました。左手奥には明治のアンパンの元祖である木村安兵衛夫妻の座像がこちらも高い場所にありました。

細い通りに駿馬塚跡がありました。平安中期、源義家が奥州討伐の途中、ここで愛馬を葬った塚です。付近の人々がこの塚に馬頭観音を祀り覆屋を設けて大切に守っているとの事です。奥まった所にありました。

本日のお昼は日本堤1丁目の土手の伊勢屋です。火曜日、木曜日は残念ながら築地市場が豊洲市場に移転の為、お休みでした。土曜日はとても混んでいましたが、根気よく30分以上ならび店に入ってからもかなり待ちました。天ぷらの匂いを十分嗅いだ後、有名な天丼を味わいました。

後編に続きます。

 

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江戸名所巡り  第六回 亀戸・向島を巡る(後編)

 

13時過ぎに後半がスタートしました。

 

ここ区役所やアサヒビールの敷地は江戸時代には秋田藩佐竹氏の下屋敷があり造養園という庭園だったことをと知りました。隅田川沿いにアサヒビールのビルを見上げて勝安房(海舟)の像を見上げました。スカイツリーの上方が雲に隠れていました。

2時前に着いた隅田公園は水戸藩邸下屋敷跡で広さが2万坪程だったとの事です。まず尊王攘夷者の藤田東湖の漢詩の碑を見ました。昭和19年6月、南の島で玉砕が相次いだ時に東湖会が建立したとの事です。小じんまりとした大名庭園を回遊しながら足元が悪い中、滑らないように一歩一歩進みました。清澄庭園の小型版のように思えました。

直ぐ隣の牛島神社に入りました。平安初期の創建で牛頭天王社と稲田姫御前の夫婦を祀っています。撫で牛もあり包丁塚と牛の慰霊像もありました。そしてこちらの鳥居の形が何とも立派で三輪鳥居という形でしばし皆で拝見しました。

名所図会の当時の大きな牛島神社の絵を眺めて、次の三囲神社へと進みました。こちらは古くは田中稲荷と称し江戸時代三井家の鬼門に当たる事で、深く尊信したとのことでした。三越池袋店にあったライオン像や三井邸より移した三柱鳥居もありました。

目尻の下がった狛狐は大変ほほえましくてカメラおさめる人が大勢いらっしゃいました。奥の方に三井家の先祖を祀る社があり小雨の中にひっそりとありました。又、基角の雨乞の句碑も興味深く見る事ができました。こちらの稲荷の白狐を手なずけていたという老婆老翁像もしっかりと祀られていました。元禄の頃、人民の願い事をこの老夫婦が白狐に頼むと叶えられたそうです。

14時過ぎに黄檗宗洪福寺に入りました。屋根が二階建てになった立派な本堂が目に入りました。勝海舟が少年時代に座禅に通ったとの事です。咳の翁媼尊を祀っていて風邪よけのお札もありました。風邪の心配な人はしっかりとお願いしました。資料を見るとこちらも素晴らしい名所図会が描かれてありました。

すぐ側の天台宗長命寺へと進みました。こちらは長寿を願う江戸町民の雪見や花見の名所として賑わっていました。家光の腹痛を治したという井戸水は長命水と名付けられ、今も水滴が手水として落ちていました。

十返舎一九の辞世の狂歌、芭蕉の句碑、木の実ななさんの言葉の石碑もありました。此の辺りの出身とのことです。

裏の隅田川に面した長命寺桜餅のお店へと急ぎました。丁度、おやつの時間です。享保2年(1717)隅田川の桜の葉を塩漬けにして餅を包んで門前で売ったのが始まりとの事です。面白い小噺を聞きながら店内の赤い毛氈に腰かけてお茶と共に頂きました。すぐ見えている隣には言問団子店があり、こちらは江戸末期の創業です。一皿630円で三色のあんこの団子でこちらの方を頂いた方もいらっしゃいました。

一休みした後、本日の最後の地に向かって頑張って歩きました。王貞治さんが子供のころ練習していた小さな球場がありました。

本日も残り少なくなりました。白髭神社祭神は猿田彦命です。平安末期に近江の白髭神社を勧請し向島百景の一つとして白髭の森と呼ばれたそうです。

幕臣の外国奉行であった岩瀬忠震の石碑がありました。

すこし戻り向島百花園に到着しました。文化・文政時代(1804~30)骨董商の佐原鞠塢が文人・墨客の協力でこの花園(新梅屋敷)を開きました。雨の日でしたので鑑賞したい人とそうでない人に分かれましたので、ここで本日の解散といたしました。65歳以上は70円です。少しの間ですが萩、あけび、へびうり、ひょうたん、ききょう等々を見て廻りました。芭蕉句碑や日本橋石柱を見つけたり萩のトンネルを楽しみ帰路に付きました。

9月は秋雨前線と台風の影響で雨の中の何と多かった事でしようか。皆様お疲れ様でした。十月は秋晴れの元、巡れますように!!

 

霧雨の川に向き食むさくらもち 幸子

団栗の転がる社人疎ら     豊治

秋雨や御手に経ある観世音   慶月

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江戸名所巡り  第六回  亀戸、向島を巡る(前編)

25日(火)15名、27日(木)13名、29日(土)16名、どの日もどこかで雨に見舞われましたが第6回目の江戸名所巡りをとり行いました。JR総武線亀戸駅を10時に元気よく出発しました。

 

10分位で真言宗東覚寺に入りました。1531年玄覚法印の開山で燈籠は延宝9年(1681)飛騨国主金森頼時とありました。上野寛永寺のもので葵の御紋がちやんと入っていました。

 

 

又、江戸中期の僧侶で是心軒一露が創始した華道の松月堂古流の碑がありました。心なしか供花も華道のものらしく感じると講師は話すのですが・・・・。

3,4分で次の亀戸香取神社に着きました。藤原鎌足がこの地を訪れ太刀一振りを納め旅の無事を祈願したのが始まりで、平将門討伐の藤原秀郷も戦勝を祈願して勝利したので勝矢を奉納した故事からスポーツの神として多くが参拝しています。

平成28年に置かれた勝石に触れ、復元された亀ケ井戸も見ました。境内社がずらりと並んであり、稲足社は足の神様という事で皆様と一緒にちやんと歩ける様にしっかりとお詣りしました。

 

亀戸大根碑があり、その存在を知りましたが現在は葛飾区の三軒の農家が作っていてすこし苦味があるとの事です。

雨雲に見え隠れするスカイツリーを見ながら5分位進むと吾嬬神社がありました。日本武尊を助ける為に弟橘媛命が海に身を投げ、遺品が辿りついた所に塚を築いたのが始まりと言われています。日本武尊が樟の箸を地に刺すとそれが根付いたという連理の樟は枯れて木の皮のみが立っている状態でした。

奥の本殿の狛犬の小ささに思わず笑いがおこりました。

山県大弐の碑もありました。享保10年(1725)甲斐に生まれて皇室の衰えは幕府にあることを非難して42歳で死罪になりました。

通りに戻り2,3分で亀戸梅屋敷跡がありました。呉服商伊勢屋が3600坪の庭に300株の梅を植えて清香庵と名付けたとの事です。名所図会では着飾った人々が梅を見物しています。臥龍梅とは、ここを訪れた水戸光圀が命名したとの事で吉宗も鑑賞したと言われています。一説には、吉原の初代高尾太夫の鉢植えの梅をこの地に移したのが大きくなったとも伝わっています。

通りを折れ南に歩くと11時頃に普門院に着きました。うっそうとした木々の中を進み奥にある伊藤左千夫の墓を拝見しました。野菊の墓やアララギを思いました。錦糸町辺りで牛を飼い酪農をしたという話は興味深いものでした。

物がいたる所に置かれていて、この雑然さは何故かと不思議に感じましたが、持経観音の美しいお姿には見とれてしまいました。

又、2〰3分で着いたのは亀戸天満宮でした。火曜日は丁度里神楽のお囃子の演奏中でした。

まず左手奥に見た事もない狛犬に塩を盛り上げている塩狛犬がいました。こちらで塩断ちをして願い事が叶うと塩を奉納したと言います。その左には重い物に耐え忍ぶ龍の子供のヒイキの像もありました。

そして亀戸天神社の拝殿にお詣りしました。土曜日には、七五三をお祝いする姿を見かけました。民権運動の中江兆民の碑は大きいものでした。

累卵の碑を過ぎ、鷽替え神事の碑や五歳の道真公の像、又、道真の師を祀っている御嶽神社とその左手にある塩原太助が寄進したという石燈籠もありました。

次は道真の妻と子供が祀れれている花園神社にも詣りました。芭蕉句碑に思いを馳せ、琴字燈籠を見て金沢の兼六園を思い浮かべました。とても盛沢山です。

筆塚の側には櫂の木あり見上げながら御手洗い休憩をとりました。中国原産の櫂の木は孔子廟に弟子の子貢が植えたと伝わっていて湯島聖堂の脇でも見ました。

こちらの天満宮は藤がとても立派で広重の絵でもとても美しく手前に描かれています。

船橋屋は文化2年(1805)創業の葛餅屋さんです。小麦粉を練って蒸し黒蜜ときな粉で頂きます。「大江戸風流くらべ」の甘いもの番付で横綱にランクインしたものですから食べてみる価値はあると思い購入しました。天気が悪いにも関わらず次々とお客が訪れていました。

 

天台宗の龍眼寺には11時分頃に着きました。江戸時代には萩寺と呼ばれていただけあり今が見頃の萩が咲き揃ってした。芭蕉句碑や其角の碑があり、三猿が上にある面白い庚申塔も見ました。

柳島橋を渡ると正面にスカイツリーが見えています。12時過ぎに妙見山法性寺に入りました。

妙見堂の中を拝見すると白い紙垂のような物が垂れ下がり、神様か仏様かよく分からない祀り方で中央からリボンが伸びていて参拝者が引くような仕組みでした。

此方には侠客上萬の墓がありとても珍しく目を引きました。近松門左衛門の墓や歌川豊国の筆塚の断片もありました。

お昼の場所はまだかしらの声がちらほら聞こえる中、午前中最後の場所へ向かいました。12時半頃にコンクリートのビルの日蓮宗春慶寺に着きました。通りに面した所に四世鶴屋南北の墓がありました。四谷怪談の作者です。我々は寄贈した歌舞伎役者の名前ばかり見入ってしまいました。

火曜日、木曜日は隅田区役所へ、土曜日は区役所が休みなので近くのお店での自由昼食としました。区役所ではその名もムサシランチ!お値段が630円を美味しくいただきました。

後編に続きます。

 

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鎌倉街道上道 第二十回 深沢から鎌倉

平成28年10月、高崎よりスタートした上道はいよいよ最終回を迎えました。

まだまだ残暑の厳しい9月18日(火)、曇り空の22日(土)モノレール湘南深沢駅を10時に出発しました。

モノレールの下を真っすぐに暫らく歩きました。洲崎古戦場碑がありました。足利尊氏の妻、登子の兄の赤橋守時がここで新田方の堀口貞満、大島守之率いる軍勢との激戦で敗れ自刃しました。碑の足元に彼岸花が咲き始めていました。

モノレールから別れて南下して行きます。臨済宗の大慶寺に着きました。

樹齢700年以上の柏槇が宝塔の両脇にありました。鎌倉末期と言われる小振りの宝塔二基を見ました。

東光寺の鎮守である駒形神社の鳥居を潜りました。石段を上がりお詣りをしました。駒形神社は関東から東日本に多い神社で馬を保護する霊験を尊んで祀るのが駒形信仰とうことです。

奥の赤い鳥居の向こうにやぐらがいくつもありました。やぐらの中に馬頭観音がありました。とても鎌倉らしい風景です。

すぐ側の高野山真言宗東光寺に入りました。本尊の不動明王は平安時代の物と伝わっています。弘法大師御修行像があり私たちは左廻りに四国八十八ケ所のお砂踏みを体験致しました。

街道がとぎれているという方向を眺め梶原1丁目の辺りを歩き進みました。梶原御霊神社に着きました。ぼたんの花を加えている優雅な狛犬を見ました。これは江戸狛犬という事です。

桓武平氏の流れの鎌倉景久が梶原村に住み梶原氏を名乗りました。梶原景時は頼朝の死後に殺害され一族は滅びました。しかし現在も神社として祀られ地名として残っています。石段を上がると景時公没800年忌供養塔があり、秋の供花がちやんと供えられてありました。

さて、ここ梶原1丁目辺りは寺分大工谷といわれ鎌倉時代に大慶寺を修繕した工匠が住んでいたとの事です。寺分という地名で残っています。

長い昇り坂がずうっと続いていました。鎌倉街道は尾根道が多いからだと講師は説明します。

こもれび広場という公園に着き持参のお弁当を広げました。久しぶりのお弁当の美味しいこと。土曜日はしつこいカラスに悩まされました。お菓子を取られた人も、、、。

40分位、休憩しました。広場の中に藤原仲能の墓があり、説明がないとまったく分からないこんもりとした所に木があるだけのものでした。

目の前の葛原岡神社をお詣りしました。桓武天皇の王子の葛原親王の御霊を祀っていましたが、その後、梶原1丁目に移され御霊神社になりました。左手の方に合槌稲荷社というおもしろい名前の神社がありました。これは鍛冶屋さんが向かい合って槌を打つ事からきている名前で、鍛冶屋さんが信仰しました。現在は夫婦円満の神様です。

元弘2年(1332)に元弘の変の首謀者として日野俊基がこの地で斬首されました。終焉の地の碑がありました。1332年6月3日とありました。

尾根を断ち切って造った大堀割を見ました。

ほんの少し行くと日野俊基墓入口とありました。明治17年従三位を追贈された折に室町時代の石を寄せ集めて建立したとのことです。苔むしていて、とても趣きがあり哀れを感じました

急坂を下ると銭洗い弁天があります。頼朝に宇賀福神の夢のお告げがあり、この地の湧き水があったので祀ったとの事です、鎌倉五名水の一つでお金を洗うと何倍にもなるというのは本当でしようか。火曜日には大きな御札を洗った方がいらっしやいました。どうか何倍にも増えます様に。

いきなり広い原っぱの奥に頼朝像があり鎌倉の地を見下ろすかのようでした。

最後の日に相応しい記念撮影をしました。

さて、いよいよ本日の難所の化粧坂を下ります。土曜日は前日が雨でしたので滑りそうでおそるおそる下りました。新田義貞はここから攻めるのを断念して海に廻ったと言われています。何とか全員の方が無事に下ることができました。

 

 

中道の大仏の切通しを苦労して下ったことを想い出しました。

緩やかな下りを進むと右手に景清土牢跡がありました。平氏の侍大将で平家滅亡後も生き延びたとの事です。

鎌倉らしい静かな道を進むと臨済宗建長寺派の海蔵寺に着きました。

まるで萩寺のように萩が豊かに垂れていました。鎌倉十井の一つの底脱の井がありました。又弘法大師が掘ったと言われる十六の井も暗い場所に清い水をたたえてありました。

線路沿いに歩きました。十六日記の著者である阿仏尼の墓がありました。

冷泉為家の側室で息子の為相の相続を認めてもらう為に60歳近くの母が京から鎌倉を目指しました。

同じ街道沿いにある浄土宗英勝寺に着きました。鎌倉に残る唯一の尼寺との事です。300円の拝観料を支払い庭を鑑賞しました。尼寺だけあって所々に配置された花や石の置物にも、竹林と共に心ひかれました。開基の英勝尼は太田道灌の末流の娘で家康の側室のお勝です。関ヶ原、大坂の陣には家康に従ったといいます。

鎌倉五山の三位である寿福寺に入りました。門を潜ると長い参道が美しく、心が和みます。頼朝の父の義朝の館があったと言われています。

本堂の方には入る事が出来ず政子と実朝の墓へと進みました。

ずっと奥のやぐらの中にあり母と子は少し離れた場所に供養されていました。

やぐらの中の墓がずらりと並んでありました。

叉、こちらには虚子の墓もやぐらの中で、幼くして亡くなった娘さんのものが両脇に小さくありました。毎年4月8日の命日には寿福寺内で句会が開かれます。

叉、大仏次郎の墓は向かって左手の方にありました。

八坂神社は相馬師常が京都の祇園社を勧請したとのことです。

少し進み岩窟不動尊の小さな祠にお参りしました。本尊は弘法大師作といわれていますがどうも新しいとの事です。。右手にコーヒーシヨップがあり良い香りが漂っていました。

火曜日は川喜多邸は休みでしたが土曜日は人の出入りがあり賑わっていました。

映画製作者で妻のかしこは日本映画の母と呼ばれているそうです。記念館は和風モダンな建物で鎌倉の雰囲気にとて合っていました。又、敷地内にある旧別邸(江戸後期の物)は和辻哲郎氏の居宅を東京から移築したとの事です。

道の曲がり角に鉄の井がありました。この井戸から鉄観音の首が掘り出され安置されていましたが現在、日本橋人形町の大観音寺の本尊となっています。江戸名所巡りで立ち寄りまだ記憶に新しいことです。

道を曲がると八幡宮の脇の通りです。3時少し過ぎた頃、とうとう鶴岡八幡宮までやった来ました。

土曜日は婚礼が何組もとり行われていました。赤橋を渡り源平池の蓮の葉の繁りを見、茶色の蓮の実もできていました。

流鏑馬道を眺め、御手洗いもお借りしました。舞殿で結婚式が行われていました。

大銀杏の場所を見ながら石段を登りお詣りをしました。二年間、無事に歩いてこられた事に感謝しました。

鶴亀石や、権現造りの若宮がありました。最終回は、ここで終わらず左に折れて北条氏終焉の場所を目指しました。

彼岸花がとても綺麗です。宝戒寺は後醍醐天皇が執権の北条氏の霊を慰める為に高時邸の地に足利尊氏に命じて建立させたものです。入口だけ拝見して次に進みました。

滑川にかかる東勝寺橋から見た石垣はまるでお城のように続いていました。

そして広い空地がありました。ここで北条高時に従った千人もの人々が最後を迎えました。恐ろしい名前もそのままの腹切りやぐらを少し離れた処から見ました。

そうして、八幡宮まで戻って来ました。段葛が何事もなかったかのように明るく海へ延びています。

少し早めですが打ち上げ会場に入りました。

上道は新田義貞が攻め上った道として有名ですが、私たちはゆっくり2年をかけて鎌倉に到着しました。また、元気に再会できますように。様々な思い出を胸に別れを惜しみながら解散しました。皆様、大変お疲れさまでした。そしてこのブログを読んで下さった皆さま、長い間本当に有難うございました。

 もののふの都に曼珠沙華白く

 萩の花揺らすは魂の風らしき    慶月

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江戸名所巡り 第五回 両国界隈(後編)

お昼を済ませて、13時30分頃になっていました。暑い中を午後の部の始まりです。午前中の暑さは午後、益々増していて気温は34度か35度に達していたと思います。

旧国技館跡を通り回向院参道へと入って行きました。浄土宗諸宗山無縁寺回向院は明暦3年の大火の死者10万人を幕命で葬った万人塚が始まりとの事です。

力塚の碑は相撲協会が建立し力士の髻(モトドリ)や死亡した力士の分骨を納めています。又、一葉観音の美しい像の曲線美にも心引かれました。水子塚の廻りの風車がとても哀れを感じました。鼠小僧次郎吉の墓は市川団十郎が狂言で大当たりをした御礼に明治9年に建立したとの事です。目猫塚は日本橋の時田家が逼迫した時に愛猫が小判を咥えてきて、家運も隆盛に向かい猫の死後に供養したとの事です。

 

ぼうずしゃものお店の看板を見上げました。店名の由来は初代が喧嘩の仲裁をするのに頭を丸めた事からきています。資料の回向院、柳橋の色あざやかな絵を見ました。又、勧進相撲の状況の図絵も細かく描かれています。どちらも両国橋のお向こうに富士山があります。

与兵衛寿司発祥の地とありました。屋台から店を構えられる程となり狂歌にも詠われる人気ぶりという事でした。江戸握りは小泉与兵衛が創ったという事です。

大きなビルの様な真言宗大徳院がありました。弘法大師の大と徳川家の徳を合わせて大徳院したとの事です。

 

出羽海部屋がありました。現在話題の関脇御嶽海が所属している部屋です。

塩原太助の住居跡がありました、薪炭商人として成功した人で太助が次回に訪問する亀戸天神に寄進した灯篭が今も境内にあるとの事です。

そしていよいよ吉良邸の裏門跡という立札がありました。少し進むと講師がここが上野介が隠れていた物置辺ですといいました。灰色の濃い古い建物がありました。

 

当時2250坪あったが今はほんの一部しかない吉良邸に入りました。首洗い井戸(おしるし洗の井戸)が目に入りました。上野介の座像や犠牲になった家臣の供養碑もありました。そして吉良上野介の追慕碑などを見ながら影になっているので一息入れる事ができました。講師の話によれば幕府隠密の報告書であること土芥寇讎記(ドカイコウシュウキ)によると浅野内匠頭や家老の大石が批判されているとの事で、時代劇の様ではないらしいことが分かりました。

 

本日のメインの場所でしたのでじっくりと説明を聞きました。

すぐに吉良邸正門跡がありました。又、しばらくすると駆逐艦の錆びた錨が置かれていました。日露戦争当時の駆逐艦の錨という事です。特に男性の方が見入っておられました。

すぐ近くに芥川龍之介文学碑がありました。龍之介は京橋区入舟町に生まれここ本所小泉町に住んでいました。杜子春の一部が刻まれていました。会員の方は龍之介の小説で何が浮かんできたのでしようか。筆者は蜘蛛の糸が思い出されました。

又すぐに両国公園に入りました。勝海舟生誕の地とありました。よく見かける勝の若い写真が大きく表示され歩みが紹介されていました。

 

公園を進むと幕臣の洋学者・教育者の尺振八の説明板や共栄学舎跡がありました。

現在、両国小学校があるところは共立学舎跡だったのです。暑さの中を水分補給しながら進みました。

龍之介生育の地とあります。龍之介が育った頃の街はどんな佇まいだったのでしょうか。

路地を進むと横網横町とありました。そして国技館の前を通りました。大相撲のチケット売り場が見えました。

船橋聖一生誕地には代表作の「花の生涯」の碑がありました。

15時頃、安田庭園に着きました。回遊式大名庭園で本庄松平氏の下屋敷だったところです。元禄時代に本庄宗資が造園しました。明治24年に安田財閥の創始者である安田善次郎の所有となり逝去後、故人の遺志により東京都に寄附されました。火曜日は花嫁さんの撮影があり、とても華やかな庭園となっていました。10分位の急ぎの鑑賞で次へと進みました。

2〰3分で横綱公園にある東京都復興記念館に入りました。関東大震災の記録がVTRでも見られました。慰霊堂の中は冷房がなく扇風機だけでしたが一通りぐるりと拝見して正面には祭壇があり犠牲者に哀悼の意を表す事が出来ました。

私たちは昔も今も、逃れられない災害に襲われながらの暮らしがずっと続いているのだと空恐ろしくなりました。

蔵前橋通りを横切り徳の山稲荷に着きました。本所築地奉行だった徳山五兵衛の屋敷にあった稲荷社です。

こちらにも井戸があり。日本左衛門首洗井戸碑があり、強盗を働いた浜島庄兵衛の首洗井戸です。

10分位歩き野見宿禰神社に入りました。相撲の神様は鎌倉街道上道(上野国)で昨年神社に行きました。初代高砂親方がこの地に創建しました。

少し歩くと北斎美術館がありました。この場所が北斎の生誕地という事です。富岳百景があまりにも有名で、世界的に評価されています。南割下水についての説明板もありました。江川太郎左衛門屋敷前跡の説明板もありました。江戸湾お台場の築場や大砲の鋳造など幕末の知識人でした。

16時過ぎ江戸東京博物館の変化に富んだ建物が見えてきました。ことらも希望者のみの鑑賞です。

本日は北斎美術館で解散となりました。猛暑の中を無事終える事が出来ました。皆様、大変お疲れ様でした。8月は夏休みとさせていただきます。

皆様、どうかお元気で過されますように。9月の最終週ですが江戸名所巡り第六回(亀戸界隈)で又お会いしましょう。

 

仄暗き夏の灯の間やももんじ屋   慶月

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江戸名所巡り 第五回 両国界隈(前編)

7月17日(火)、21日(木)、21日(土)の三日間、両国界隈を巡りました。

3月から始まった江戸名所巡りも今回で5回目となりました。熱中症が危ぶまれる中、有志の皆様が集まり、JR浅草橋駅東口を10時に出発しました。

神田川に架かる浅草橋を見ながら進むとすぐに柳橋に着きました。手前に創業安政元年の亀清楼があります。大相撲の横綱審議会が開かれる所です。橋の欄干には柳橋芸者を表す簪のレリーフがあり、進むと赤や緑、青と簪の色が変化していきます。

柳の樹もありました。橋を渡った所に柳橋と両国広小路の説明板があり明暦の大火で10万人に及んだ死傷者を出した事で橋と火除地としての広小路が造られたことが記されてありました。

10時半頃、大橋(両国橋)ばたの広重の絵と両国花火の絵を見ながら説明を聞きました。武蔵と下総両国に架かる大橋で両国橋と呼んだという話に大きくうなずき納得するのでした。江戸庶民を楽しませた花火は、最初は凶作や疫病の死者の慰霊と悪疫退散を祈願してここ両国で始まりとの事です。玉屋が川上,鈎屋が橋の下流を受け持ち花火を打ち上げたそうです。

その後、交通事情などにより現在は隅田川花火大会となり少し上流で行われています。

明暦2年(1656)創業の大木唐辛子店がありました。

両国橋西詰一帯の広範囲に幕府の米蔵があり、矢ノ倉といいました。米を搬入する為に水路が彫られました。これが後世まで残された薬研堀という事です。

薬研堀不動院へ道を進みました。不動尊の幟の間を登りました。御本尊は紀州根来寺に安置されていたが秀吉の根来攻めにより東国に逃れ隅田河畔に安置されたのが始まりとの事です。みんなでお詣りしました。庭には弘法大師の像がありました。

賀茂真淵の旧宅跡の説明板がありました。国学の振興に尽力した人です。

明治座の横を通り浜町公園に着きました。熊本藩細川家の下屋敷跡です。木陰がとても嬉しいです。加藤清正を祀っている清正公堂がありました。

2,3分すると新大橋がありました。明治45年に架けられた新大橋は関東大震災(大正12年)の折、火災を免れる人々が橋詰の派出所の巡査の誘導や適切な処置(燃えやすい荷物を捨てた)により多くの人々を救い人助け橋と呼ばれるようになりました。その説明板と避難記念碑を見ました。

そして現在の新大橋を渡りました。中央に橋の由来や広重の江戸百景のレリーフがありました。前回歩いた場所に新大橋跡がありましたが、あの場所が江戸時代の橋の場所です。

橋を渡り切り公園に入ると安宅丸由来碑がありました。北条氏が造船した舟で400人の水夫が200本の艪で交代して漕いだと言われています。米4000石(1万俵)を乗せられました。その後、豊臣・徳川の手に渡り、御船蔵のこの地に繫がれましたが家光の時代に新造船にとってかわられ解体されたとの事です。白鳥の親子の置物にほっとしながら水分補給をしたりして次へと進みました。

15分余り歩いて少し離れた菊川駅前に長谷川平蔵宣以の住居跡がありました。池波正太郎の小説で鬼平犯科帳の主人公のモデルでもあります。火付盗賊改加役の役宅として使用し49歳でこの地で逝っています。叉、拷問の手洗さは町民を恐れさせましたが、松平定信に意見書を出し受刑者救済の授産所を実現させたという話もあります。

平蔵の孫の代には、遠山金四郎の屋敷となっていたというのもちょっと面白い話です。

又、同じ場所に戻ってきました。

途中,新大橋通りを右に折れ12時13分頃に真言宗弥勒寺に着きました。行基作といわれる本尊弥勒菩薩から弥勒寺としました。江戸名所図会から当時の大きさが分かり驚きました。杉山検校の墓もあります。

すぐに臨済宗要津寺がありました。芭蕉句碑に前回の芭蕉庵での事などを思いだしました。12時半すぎに初音森神社に着きました。ここでは安政年間の幟立が残っていて印象的でした。

江島杉山神社には直ぐに着きました。ここは鍼術杉山流の祖である杉山和一が幕府より2700坪の宅地を賜った際に信仰していた江島弁才天を勧請したのが始まりです。検校のレリーフもあり盲人教育の開祖を云われ、点字の説明が表示されていました。境内の奥には江ノ島弁才天を模した洞窟が造られていました。

40分頃、赤穂浪士が討ち入りした後、最初に渡った橋である一の橋を渡りました。

立派な春日野部屋の前を通りました。一階が稽古場、2階が大部屋、三階は11代春日野親方の自宅という事です。最近は栃ノ心(大関)が注目されています。

赤穂浪士休息の地の説明板や石尊垢離場跡説明板を見て進みました。俳諧、茶事に通じていた赤穂浪士の大高源吾の「日の恩やたちまち砕く厚氷」の句碑を見ました。

 

いよいよお楽しみの昼食です。ももんじ屋は火曜日がお休みだったのですが木、土曜日は享保3年(1718)創業のももんじ屋に入った方が多くいらっしゃいました。山くじらすき焼と書かれた店の中の2階の部屋に入りました。ランチ1350円とお手頃で猪肉の好き焼と鹿肉のローストの薄切りが少々ついていました。50分位、ゆっくり出来てほてった身体を冷やす事が出来ました。

 

火曜日には、昼食は江戸NOREN12店で好きな店を選んで入り楽しむ事が出来ました。ほてった身体を冷たいもので冷やそうとした人もいました。

塩分補給に明太子と高菜のお茶漬けもなかなか美味でした。土俵が真ん中に造られているのは、さすがに両国駅前だと感じました。

 

後編に続きます。

 

 

 

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鎌倉街道上道 第十九回  飯田から深沢

7月10日(火)、14日(土)前回、解散した相鉄いずみ野線ゆめが丘駅を10時に出発しました。

 

関東地方はいつもより早い梅雨が明けて夏空の青と白雲が印象的でした。夏草の原っぱを抜けようとしていた時、お坊様二人の姿や何人もの人が集まっていました。石像物を移動させるとの事でした。昔の石像仏が集められ新しい道や街が造られていくのでしようか。

 

前回、歩いた鎌倉街道を正面に見て左に曲がりました。それから3分位で左馬神社に着きました。石塔を見て鳥居をくぐり前回も左馬神社はありましたが、この辺りに集中してあり全国に11社しかないとの事です。

 

5分の滞在でしたが静けさの中で領主飯田五郎家義が勧請したとも言われていて、1590年には領主筧為春が社殿を修復したという境内を歩きました。いずみ野線、横浜地下鉄の高架を潜り進みます。

10時20分頃、富士塚公園に入りました。飯田五郎家義の館跡です。木陰で源頼朝に従った相模の武士団の話を聞きました。

次の琴平神社に行くまでに双体道祖神がありました。鳥居までも段々があり社殿までも叉、階段がありました。神紋は天狗羽団扇です。

観音様を両脇の天狗が守っている石像があるのは曹洞宗巨木山東泉寺です。飯田家義の墓が建てられていました。

下飯田の交差点名を通りました。所々に地元の無人野菜売り場があります。ミニトマトを購入した方が何人もいらっしゃいました。

水田の中を通る時の風が心地よく、おたまじゃくしを沢山見る事ができました。蓮田もありました。

11時過ぎ、台座にいくつもの庚申塔が埋め込まれている二階建て庚申塔を見ました。10分位歩きました。森の向こうに変わった高層ビルが見えています。どなたかがドリームランドのあとの建物だと教えてくれました。

俣野神社に入りました。平氏方の大庭景親の弟で俣野五郎景久がこの辺りにいたとの事です。鳥居を進むと夏祭りの準備中でした。

俣野五郎景久の守護仏の十面観音が納められている観音堂の前に立ちました。交差点名も真にその通りのものでした。庚申塔も沢山集められていました。

12時頃、うだ川橋を渡りました。暑いけれども水田からの風を感じながら進みました。右手の草むらに雉が歩いていました。旧鎌倉街道の道筋の説明板が建っていました。

曹洞宗龍長院に着きました。林の中の庚申塔や、不動明王の姿をしたものがあり珍しく感じました。

近くに八坂神社があり祇園守の紋を見ました。叉、見ごたえのある石造物群がありました。道路拡張の為に鳥居だけが残されていましたが、その側に鎌倉街道西道の説明板がありました。

しばらくの間、25分位でしようか頑張って歩き東海道の歩道橋を昇りました。藤沢バイパス出口とあります。

歩道橋を降りると待望のお昼の場所に着きました。そば処しら石さんです。冷やしそば茶が美味でおかわりをしながら注文した物を待ちました。出しが薄味で盛がたっぷりでした。

50分間位の休憩の後、午後のスタートです。鉄砲宿の地名がありました。私達は講師の話す物語に耳をかたむけました。大鋸引の森家に飼われていた「おはん」という蛇の悲話と、「おはん」を撃った鉄砲の名人が泊まった小屋があった所が鉄砲宿と呼ばれたとの事です。

14時半頃、柄沢神社の庚申塔を見ながら鳥居を潜りました。建久4年(1194)に頼朝が入間川で狩りをした時に寄ったとの記述がある所です。境内には鐘楼もありました。

社殿の彫刻が立派でもっとしっかり拝見したいと思いましたが先を急がなければなりません。

10分位歩くと曹洞宗無量山慈眼寺に着きました。玉縄城主北条綱茂が開基で寺紋は三鱗です。平氏満という飯盛旅籠屋の小松屋の隠居の小さな墓がありました。

こちらで目を見張ったのは大きな寄木があり樹齢が300年ということです。モチの樹、タブの樹、スダジイの樹の根本が融合していました。叉、本堂脇には欅と桜の寄木もあり私たちは鑑賞しながら木陰の涼しさを味わいました。山門の龍の浮彫も立派でした。

本堂の右手にある梵鐘は上州藤岡の住人が「現世安穏、後世善処」の梵鐘を江島寺に寄進し、その後、慈眼寺に寄進されたとの事です。現世も後世もこうありたいものです。最後にもう一度、山門の龍をしっかり見て後にしました。

20分位後に日枝神社の階段を昇る元気が出ずに、代表の方がお詣りをしてくださいました。下に集められている道祖神や庚申塔を拝見して先に進みました。

15時半頃、浄土宗戒法山二伝寺に入りました。1505年鎌倉玉縄北条氏により創建され寺紋は三鱗です。叉、戦国時代から江戸初期にかけての高僧の幡随院白道の墓もありました。

六地蔵も拝見して坂道を通り少し階段を上がると平良文、少し離れて忠通また少し離れて忠光の墓がありました。三つ塚と呼ばれている父子の墓です。

 

15分位進むと村岡城址公園に着きました。平良文以下、忠光、忠道、景成、是政五代の村岡氏居城跡です。

良文は921年に醍醐天皇より鎮守府将軍に任ぜられ相模国の国司を兼任しました。忠通の子の是通の子孫が三浦、鎌倉、大庭、梶原、俣野、長尾の鎌倉党の各氏の祖になったとの事です。将来の栄枯盛衰が待っているのですね。現在は子供たちの公園となり脇に忠魂碑が建っていました。

村岡東という地名を東方へと、どんどん歩きました。左手に武田製薬の大きな工場がありました。20分位歩き地下道を通り抜けました。JR東海道本線を横断したのです。まっすぐ鎌倉街道を歩きました。

16時半頃、町屋橋を渡りました。真言宗泉光院に入りました。こちらは江戸時代に入ってからの開山で傾いた萱の樹が珍しく、徳本名号塔も見て説明を聞きました。本堂を拝むときに大きくさがった数珠を引くとかたかたと音がして、一回りさせるとの事でした。

16時45分頃まで、頑張って歩きました。いつの間にか鎌倉市に入っていました。上町屋天満宮に着きました。938~47年に平良文の霊場に天神を祀ったのが始まりで上町屋の鎮守です。「南無仙元大菩薩」や「食行身禄供」の富士講の石碑がありました。小さな本殿にお参りし次へと進みました。

17時近くにおしろい花が咲いています。私たちは行程の長さに疲れていましたが本日最後の場所へと歩きました。

広々とした空地の奥へと進みました。洲崎の戦いで戦死した者の供養塔がとても分かりにくい右手の岩山の奥にありました。一時、青蓮寺に移すと住職の枕許で元に戻してほしいと泣いたといいます。元に戻し、以降は「泣塔」と呼ばれました。洲崎の戦いは一夜の内に65回も斬り合いがあったと太平記に記されています。悲しい物語を聞くと共に見えにくい供養塔を眺めました。

17時少し過ぎてしまいました。モノレールの駅が奥に見えてきました。

湘南モノレール深沢駅から上り下りに別れて乗り帰宅の途につきました。

皆様、大変お疲れさまでした。これからの夏休みをどうかお元気にお過ごしください。次回で鎌倉街道上道がいよいよ終了致します。一抹の寂しさを感じますが、鎌倉を目指して九月に元気よくお会いしましょう。

 

 

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江戸名所巡り 四回  深川・清澄界隈を巡る(後編)

深川、清澄界隈の後編です。

50分位の昼休みを取り午後の部がスタートしました。永代通りを西方に進みました。

10分位で渋沢栄一邸跡に着きました。明治9年から12年間こちらが本邸でその後に兜町に本邸を移した後は別邸として利用したとの事です。小さなポケット公園のようになっていて大きな木が一本、説明板の側に象徴的に立っていました。

細い橋を渡るときスカイツリーが綺麗に見えました。

すぐに佐久間象山砲術塾跡がありました。砲術塾を開いた松代藩下屋敷があった場所です。説明板の写真は日本人には見えない顔付です。勝海舟も入門しました。後には木挽町にて塾を開き吉田松陰や坂本龍馬等が門下生となります。まるで大河ドラマの世界です。

又、10分位、歩くと黒御影石に赤穂義士休息の地とありました。大高源五は俳人で、同じ其角の門下である竹口作兵衛の棟上式の日が赤穂義士の討ち入りの日だったのです。本懐を遂げた一向が永代橋にさしかかった折に、準備していたあたたかい甘酒かゆを皆にふるまったそうです。

ここに立派な永代橋が架かっていたのですが、20年が経ち橋梁改修を目前にした1807年9月20日に12年ぶりに富岡八幡宮の祭礼の日、多くの群集の重みで橋が崩れて死傷者1400人を超える大惨事になったそうです。資料の永代橋の絵の何と大きく美しいことでしようか。

5分位で紀文稲荷に着きました。オレンジ色の鳥居はみかん色を表しているかの様でした。こちらに紀伊国屋文左衛門の舟蔵があったとの事です。

紀伊国屋文左衛門は綱吉御側用人の柳沢吉保と結びつき材木、みかん、塩鮭などの商いで富を得たのでした。

すぐに御船橋を渡りました。しばらくして伊能忠敬の住居跡がありました。1795年〰1814年の間、八丁堀に転居するまでの住居跡です。

首都高を潜るとすぐに真言宗豊山派の法乗院です。見たこともない面白い場面に出会いました。日本最大の閻魔大王が賽銭によって話しだします。

夫婦円満、家内安全、浮気封じ等々何でもアドバイスしてくれますが、その内容を聞くと漠然としたもので余り良く分からないままで去るしかありませんでした。

一階には江戸時代に描かれた地獄極楽絵が展示されていました。

曽我五郎足跡石には子供をこの石に乗せると健康で親孝行になるそうです。

隣にある浄土宗心行寺にも入りました。とても古そうな(1324)五重層石塔が奥まったところにありました。すらりとした影窓院地蔵も拝見しました。

宝篋印塔は名妓が川口直(清元の北州)のために建てたものです。湯吞みが供えてありました。

境内を出ると小津安二郎生誕の地の説明板がありました。伊勢松坂の豪商、小津家の子孫です。一族に本居宣長がいるということを聞き驚きました。紳士的で穏やかな表情が思い浮かびます。何と言っても映画東京物語での原節子、笠智衆を思い出します。

13時半頃、深川一の八付近に採茶庵跡がありました。杉山杉風は蕉門十哲に数えられ、芭蕉を経済的にも支えた人です。

芭蕉は奥の細道に旅立つまえに、しばらく採茶庵で過ごし門人と別れを惜しんだとのことです。

5,6分進むと、滝沢馬琴生誕の地がありました。(1767~1848)南総里見八犬伝は余りにも有名です。説明板のしたに銅製の本が積まれてあり、凝った造りに感心してつぎに進みました。

また、4,5分で日蓮宗本立寺に着きました。間宮林蔵顕彰碑がありました。地理や算術語学力の才能にたけ、北方の島の地図を作り、また幕府の隠密として働き知識、見解の高さで重用されました。間宮海峡の名として私たちはずっとその名を目にする事でしよう。

手に軍配を持ち子供を抱いている不思議な石仏を眺めながら加藤清正が朝鮮から持ち帰った鬼子母神という説のある事を聞きました。

14時近くにコンクリートの壁の参道を浄心寺へと入っていきました。

墓地の狭い通路の奥にある遊女の合葬墓を見ましたが洲崎遊郭の遊女貸席組内が建立しました。この殺風景な墓に胸がつまる思いでした。

伊達宗村寄進の石燈籠がありました。また、河越の時の鐘として使用されていた行伝寺の梵鐘も見ることが出来ました。

浄心寺を後にして数分歩きました。間宮林蔵の墓は植木の奥に凜と立ち供花もありました。64歳でここ深川で没したとの事です。

すぐそばの浄土宗雲光院に入りました。こちらは家康の側室阿茶局の墓があります。局により建立された雲光殿は大火で1682に現在の地に移転しました。。側室でありながら家康の影の政治的ブレーンとはどんな人だったのか興味が湧いてきます。本堂の脇から入って、ちょっと離れた場所から墓を拝見しました。

又、吉原遊郭をつくった庄司甚内の墓もありました。

5分位歩き江戸深川資料館に着きました。建物の中で一息つき下町を再現した地下へと降りました。屋根の上の動いて鳴く猫が迎えてくれました。長屋住まいの平均的な広さは四畳半だなんて現在の私たちには考えられません。ちよっと良くて六畳、一家が暮らす広さです。土蔵や船宿も再現されています。観覧料は400円、江戸の下町の生活を垣間見ることができました。

大鵬のコーナもありました。20分ですが楽しむ事が出来ました。

次は浄土宗霊厳寺です。中央区の埋め立て地の霊厳島にあった寺です。明暦の大火の折に何万人もの人が犠牲になり幕府の火事対策により現在地に移り深川の発展の基点となったといわれます。

 

大きくて座っている江戸六地蔵の一つがありました。松平定信の墓は大きな玉垣の中にありました。

又、法然上人の幼名である勢至丸の像も見ました。定信は白川藩主で天明7年(1787)に老中で寛政の改革を進めた人です。

4,5分位で浄土宗本誓寺へと入りました。綱吉から20石の朱印地を授かり浄土宗の触頭の一つです.迦楼羅像はカルダ(インド神話の神が仏教に取り込まれ守護神となった姿)は朝鮮の高麗時代の作とされています。

龍の水盤は、リラックスしている姿が面白く、私たちを和ませてくれました。

15時、清澄庭園を見学しました。本日のメインの一つです。しかしながら30分では、ゆっくり巡ることは出来ず、要所要所を抑えて見て廻りました。

元禄期に紀伊国屋文左衛門の屋敷があったそうですが、享保には久世家の下屋敷となり、明治に岩崎弥太郎が買い取りました。全国の名石や池を見ながら進みました。大きな芭蕉句碑も印象的でした。凉亭は池に突き出すように建てられています。明治4年の建物ですが震災と戦災から免れました。

23日は七夕の笹と短冊がありましたので私たちの願いを一筆したためました。

又、4,5分で臨川寺に着きました。碑が三つ並んでいました。梅花仏は芭蕉十哲の一人の各務支考の碑で墨直しの碑も玄武仏碑もすべて芭蕉に対する各務らが建立した碑なのです。屋根方向を見ると蛙の銅像があり私たちを笑わせてくれました。

黄色い派手な建物は三野村家跡です。三井財閥の大番頭だったかたは洋館に住んでいたのですね。小栗上野介が処刑された時にその家族を会津に逃がし、その後もずっと保護をしたという事でした。

16時前に万年橋を渡りました、名所図会にも美しい風景が描かれています。小名木川には川船番所が万年橋の北詰に設置されていました。美しい眺めはドイツのケルン橋を参考にしたとの事です。

芭蕉庵旧地や展望庭園を見て廻りました。

又、大正時代の津波で芭蕉が愛好した蛙の石像が発見されたという芭蕉稲荷を詣り、また反対側にある正木稲荷は、船乗りの目標となる征木の大木があったとの事です。

そしてこの辺は赤穂浪士ゆかりの道とされています。本懐をとげ47人が永代橋を渡り袂で一息入れたと伝わっています。

路地を曲がり通りを少し歩きました。次回の名所巡りで現在の新大橋を渡りますが、江戸時代の新大橋の場所はここでした。

芭蕉記念館に着きました。少し瘦せた芭蕉の木が迎えてくれました。芭蕉が詠んだ草木を配した小さな庭園を巡ることが出来ました。また希望者は、200円で2,3階の芭蕉に関する品々を鑑賞しました。

7,8分歩き本日の最後の深川神明社に着きました。23日は悪いことを祓う茅の輪くぐりが出来ました。

お詣りをした後、道に出ますと伊藤深水生家の標記がありました。

神明社の門前で生まれた一(はじめ)の雅号は深川の水にちなんで深水としました。女性の美しさを創りだした画家と言われています。今年4月に亡くなった朝丘雪路は娘でとても可愛がっていた事は有名な話です。

近くの駅の森下駅へ急ぎました。本日も盛沢山で大変お疲れ様でした。

 

まがごとも青葉の蔭に八幡宮  豊治

翁見る現世の河船遊び

池涼し文左衛門の遥かなる   慶月

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江戸名所を巡る 第四回  深川・清澄界隈(前編)

六月、江戸名所巡りもはや4回目を迎えました。19日(火)、21日(木)はお天気に恵まれ23日(土)お昼頃から雨になりました。

梅雨の真只中ですので仕方のない事です。本回は31ケ所を巡ります。10時、木場駅を出発しました。

木場とは木置場のことで、寛永と明暦の大火による江戸再開発の折に木材商が集められた所です。

真っ赤な新田橋を渡るとすぐに洲崎神社がありました。津波がここまで来たという波除碑がありました。

神紋は江島弁天と同じ波に三鱗でした。

下木塲碑前を通り潮見橋を渡りました。

三十三間堂旧跡のプレートがあり、浮彫りにされている建物は真に京都の三十三間堂の様に見えました。こちらも名所図会と広重、両方に表されています。弓の競技である通矢が行われていました。

鉄で造った日本最古の橋という旧弾正橋(八幡橋)は明治11年のもので島田弾正の屋敷があったので付けられた名です。現在地に大正12年に移されとの事です。橋の下は公園になっていました。

昭和の佇まいの木造の家を曲がると、その名も数矢小学校がありました。三十三間堂の通し矢から付けられた校名と思われ、私たちを何とも楽しい気持ちにさせてくれました。

裏手の方から富岡八幡宮へ入りました。横綱力士碑は初代から現在までの名を見る事ができました。

貞享元年(1684)勧進相撲が行われたとの事です。

左手に回ると最初の花本社は芭蕉を祭神としたもんです。七渡神社や木場の角乗り碑、神馬、次々と見事な碑や奉納物が並んでいます。

本殿が見えましたがまずは左右の碑から説明を受けました。昭和天皇が民を慈しむ歌碑、関東郡代の伊奈忠宥が奉納した灯篭、巨人力士等身碑はなんと2メートル26センチの円柱が立っていました。大鳥居から向かって左側はまず伊能忠敬の銅像で平成13年に建立されたものです。

忠敬は現在の門前中町に居住しており測量に出かける時には必ず、この宮に参詣したとのことです。

日本一の神輿も見ました。ダイヤモンドが埋め込まれている場所を我々は目を凝らしてみるのでした。紀伊国屋文左衛門が奉納したものが関東大震災で焼失し、平成3年に佐川急便社長が奉納したものです。

ここでお休み処があったので御手洗いと水分補給をしました。力持碑や力石も沢山集められていました。社殿は再建や修繕を繰り返し昭和31年に鉄筋コンクリートとなりました。末社を拝見して次へと進みました。

深川公園の中に入りしばらく進むと深川不動堂の梵字が壁一面にある建物の参道へと進みました。成田山東京別院です。どんどんと太鼓が響いています。吨枳尼天尊も祀られています。

日清戦争戦勝記念の石造り灯明台がそびえていました。明治31年に竣工したもので奉納者の名や団体名の刻まれた石板で覆われています。

叉、富岡八幡宮別当寺の別当寺である永代寺跡の碑が側にありました。明治の初め神仏分離で廃寺になりましたが29年、塔頭の一つである吉祥院を永代寺として現在はその名を留めています。

さて参道には両側のいろいろなお店がならんでいます。15分だけですがお買い物の時間をとりました。歴史のある店として梅花亭と伊勢屋の名が上がりました。それぞれ急ぎ買い物をしました。梅花亭は江戸末期の創業で、平たいどら焼きには驚きました。又、日本で最初の焼き菓子という亜米利加まんじゅうを買った人もいます。

富岡八幡の門前町に、気っ風のいい深川名物の辰巳芸者を産んだと聞きました。男性はきっとその姐さんに憧れを抱いているのでしよう。成田山の赤い鳥居のような門で集合し昼食の深川飯屋さんの門前茶屋に11時45分頃に入りました。

平日はランチ価格で蒸籠深川飯980円とお得でした。それにしても量の多い事。先月のお蕎麦と反対ですねと講師が笑わせました。

後編に続きます。

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鎌倉街道上道 第十八回 瀬谷から飯田

6月5日(火)、9日(土)、相鉄線瀬谷駅から10時に出発しました。両日共にお天気に恵まれ暑い日差しの中を歩きました。

住宅地の道の真中に三角地が設けれら地神塔がありました。初めて見る地神塔はとても珍しく、春分、秋分に近い戊の日に祀る講があったとのことです。

そのまま、街道を進みました。大きな屋敷が目立っています。

5,6分で道路の案内標記があり。右へと曲がりました。

真言宗新義派西福寺は1535年の開山で次に行く左馬神社の別当寺でもあり、樹々が茂った参道を進みました。六地蔵の向こうに樹齢1000年以上というスダジイが支えられながら立っていました。茶筅塚、山王堂や仏足石を拝見しました。

こちらにも瀬谷八福神が祀られていました。

青梅の大きな実を見ながら次へと進みました。出て向かい側に左馬神社があり、鳥居をくぐりました。この辺りだけある神社で七つ位あるとの事です。神仏習合の名残りの鐘付堂があります。又、神紋は村上源氏の紋である笹竜胆でした。庚申塔、地神塔、道祖神が集められていました。

北新自治会館は火の見櫓も兼ねているようです。

日蓮宗の宗川寺へ入りました。1625年建立で檀家の名を取ったとの事でした。御手洗いをお借りしてゆっくり拝見しました。紋は鶴(富士門流)と鷹の羽根と巴(寄進者)との事です。

ここで一番印象に残ったのは、鐘付堂の下に穴があったことです。雨水が溜まるので音が良いとの事です。是非一度、聞いてみたいものだと思いました。

そして見事な夫婦銀杏を見て寺を後にしました。

大きな通りは中原街道といいます。東海道が整備されるまで、とても重要な道でした。家康が関東に入る際に通ったそうです。

お昼頃、準用河川の相沢河を通りました。市町村が管理する短い河川という訳です。

全通院勢至堂は1797年創建で本尊は勢至菩薩です。明治から昭和にかけて文教場があったとのことで子育ての仏様として親しまれていました。

大きな藤棚があり鮮麗の藤という名で昭和62年に奉納され立派に葉が茂り実が下がっていました。

下瀬谷を再び歩きます。ブルーベリーの畑の横を通り日向山団地を過ぎて大きな通りを進み昼食には、いつきラーメン店と中華料理店に入りました。気温が上がりほてった体もほっと一息つくことが出来ました。

1時過ぎ午後のあるき隊の始まりです。文化9年の道標には南大山道、北八王子道とありました。

赤い屋根の柳明神社は廃寺になった鎌倉郡観音24番札所の大石寺跡に、村境の伊勢山に祀れてていた神明社を遷しました。

江戸柳明古地図の大きな案内板がありましたが夏草が勢いよく茂っていました。下方に「かまくらかみのみち」とちゃんとあります。そうです、私達は高崎から歩いて来たのです。

住宅地を過ぎ東海道新幹線の高架を潜りました。夏鶯が鳴いていました。静かな緑豊かな道通っていきました。

日蓮宗本山、本興寺は赤い仁王門が立派です。1336年の建立で日蓮の遺骨を武蔵池上から甲斐の身延へ送る一行が宿としました。

手入れの行き届いた樹々の中を本堂まで進みました。箒目のついた庭にしやらの花が落ちて何とも風情がありました。本堂の上方を見ると彫刻が細かく驚嘆しました。

しばらく歩きました。バス停に中屋敷とありました。

飯田神社に着きました。祭神は源義朝で飯田五郎家義が祀ったということです。家義は始めから合戦で頼朝に加担したかったが遅れ、機会を狙って加わったとの事です。鐘楼は神仏習合の名残りでこちらにも小振りな物がありました。

又、縄文時代、この辺りは入海といい境川の近くは入江になっていて当時の土器が多く出土したそうです。鳥居を出てすぐに庚申塔と道祖神が集められていました。叉、七観音像がトタンの屋根の中に納められていました。

その後、上飯田団地を通り15時頃、浄土宗無量寺に着きました。本尊は鎌倉扇ケ谷の仏師作の阿弥陀如来像とのことです。

大銀杏を見上げました。寺を後にしても巨大な樹がしばらく見えていました。

長後から戸塚に向かう長後街道の説明を聞きました。

10分位すると大きな屋敷が次々と現れました。製糸業で栄えた家々です。持田家、宮崎家、石蔵も奥に見えています。

小さな日枝神社の後には又、大きな美濃口家がありました。代々、名主でしたが後には村長を務めたと云う事でした。江戸時代から相模を代表する俳人(春鴻)が俳諧道場を後見していたとの事です。美濃口家には芭蕉翁百年忌追悼の巻(写し)をはじめ句会での記録が多く遺されているとの事です。

この大きな屋敷をどのように維持しているのだろうかと、いらぬ心配をしてしまう程立派でした。

10分位、住宅のない道を駅まで歩きました。工事車両が動いていました。

近代的な駅が見えてみました。ゆめが丘駅です。横浜まで20分位で出られるそうです。これからどのように変ぼうして行くのでしょうか。

16時少し前に解散する事ができました。私たち以外はあまり人影がありませんでした。皆さまお疲れ様でした。

鎌倉街道上道もあと二回を残すのみとなりました。皆様と御一緒に7月、9月を心して楽しみたいと思います。

 

箒目に沙羅の花落つ古刹かな

鎌倉へ急くや老鶯追うて来る  慶月

 

 

 

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