鎌倉街道上道第三回  鮎川から神流川

12月13日(火)と17日(土)の両日で37名の皆様のご参加で10時過ぎに群馬藤岡駅に集合しました。 タクシーに乗り合わせ鮎川の公民館まで移動して本日のあるき隊のスタートです。img_6176

img_6177冬晴れの中、10時40分頃に公民館の火の見櫓前を出発しました。5分で道標を見て進みます。 img_6179img_6285img_6180山々の間に真っ白く谷川岳が見えます。麦畑には10センチに伸びた葉が出ています。 11時過ぎに小さな白山神社に着きました。鳥居も狛犬も神鈴も手水も何もない簡素な建物に細い縄に四手が下がっていました。資料では全国で8番目に多い神社という事です。img_6288大正9年の国勢調査記念碑がありました。大正9年(1920)から以来5年毎に行われ現在に至っています。 img_6184 すぐに庚申山へ登る道があり、私たちは近道を通る事にしました。落ち葉ですべりやすく倒れた枝や切株をよけながら気をつけ気を付け登りました。img_6292img_6187img_6185思ったより早く11時半には山頂と云っても広場になっている場所に着きました。img_6191 img_6295北側と南側にベンチやテーブルがあり、東には庚申塔が集められていました。西側には展望台があり二階と三階共に椅子とテーブルがありました。 30分の昼食タイムを取りました。体を動かした後のお弁当の美味しいこと。眺めもよく気持ちのいい時間を過ごしました。img_6196img_6299img_6297 12時少し過ぎに山頂を後に緩やかな下りの坂を降りていきました。img_6200 二十二夜尊は平成元年とありました。右手を頬にあて思考にふける半跏思惟像の彫りはとても美しく感じました。 img_6204img_6205自動車教習場を見ながら竹藪の道を行き止まりまで鎌倉街道を数十メートル歩き、引き返しました。 img_6207 img_6210 山茶花の垣根の美しい道を折れると龍田寺です。車竜胆紋が、すりガラスに透明な模様で浮き上がっていました。これは村上源氏の紋です。img_6306img_6308 img_6212庚申塔群の中に巳待塔があり、この地で多くあった養蚕農家の蚕の敵である鼠を、蛇が食べてくれる事からによる信仰との話を聞きました。img_6213   先程、途切れた道はここに繫がっているという場所を見ました。竹藪がうっそうとしています。室町時代に孟宗竹が伝わったそうで鎌倉時代には、また違った光景だった事でしよう。img_6220 img_6221

一級河川の笹川を通ります。一級河川とに二級河川、準用河川の違いを講師より聞きました。最上川だけが例外で山形県内だけを流れているとのことです。芭蕉の、五月雨を集めて速し最上川 を思い出します。img_6224

美九里小学校の校庭の脇に鎌倉街道が通っていたとの説明板があり、大きな楠は日清戦争勝利の記念樹という事です。街道は校庭を斜めに横切っていたそうです。立派な屋根付き土俵に私たちは驚きましたが理由は後に分かりました。 img_6226img_6319img_6318また、美九里小学校の前の道路は、鎌倉街道山道との説明に私たちは、秩父の方角を見て想像を掻き立てられるのでした。img_6228

樹形の美しいメタセコイアの横を1時頃通りました。畑の真中の道を進みます。 img_6230 img_6231そして、畑の中へと入り込み小さな祠の前まで進みました。木曽義仲の若き愛妾の葵御前を祀っていました。義仲亡き後一族を頼り子供と共にここまで逃げたが、あと一歩のところで捕えられ殺されたとの事。横の板石は葵御前が隠れた石橋と云われています。 img_6236img_6234img_6235800年以上前の出来事が永々と伝えられている話を知り得たことに喜びを感じながらのどかな道を進みました。 立派な上州造りの屋根が目に入ってきました。 img_6238img_6239ビニールハウスのはるか向こうに山々の美しい稜線が浮かんでいます。

私達は神流川に着きました。名の由来の話やら昔はこの土手堤はなく水量があふれた時はこの辺まで水が来ていたと講師は話します。 img_6241img_6243まっすぐに続く神流川を後にして庚申塔の集められている横を通り土師神社へ進みました。 img_6245img_6246土師神社の祭神は野見宿禰で、都から招かれこの地で埴輪を焼きました。又、力比べで名をはせていた当麻蹴建を負かした事から相撲の神様とも言われています。赤い鳥居の奥に土師の辻と呼ばれている土俵があります。此の地は相撲発祥の地だったのです。拝殿の壁には大鵬の「忍」の一字額や昭和46年奉納の大鵬、柏戸、北富士、佐田山の手形額が掛けられていました。私達は薄くなった手形に目を凝らして見つめました。img_6333 img_6250img_6249 img_6252 5分程で埴輪窯跡に着きました。埴輪という大昔のことを私たちは目の当たりにしているのです。窯の跡が建物で守られて、ちやんとあるではありませんか。img_6262img_6259 img_6256明治39年に発見され昭和18,19年に発掘されたとの事です。人物、馬、家、太刀、矛、盾が出土したそうです。相撲の祖の野見宿禰は、垂仁天皇の命を受け殉葬者を埴輪に代える改革をし、土師氏後に菅原氏を賜ったそうです。img_6264 そして本日最後の訪問先である諏訪神社へ2時半頃に着きました。こちらに埴輪を必要とした前方候円墳があるのです。その古墳の上に建つ諏訪神社ヘ先ずお参りをし、古く痩せた狛犬にも注目しました。そして古墳の入口を覗きました。朱の太鼓橋が池に映り美しい光景です。img_6266 img_6267img_6273img_6276

途中で地元のスーパーでトイレ休憩を取り3時半すこし前に八高線群馬藤岡駅に無事到着しました。img_6354一時間に一本しかない八高線ですが余裕をもって行動が出来ました。3時43分、一行は埴輪の地を後にしました。 12月のお忙しい時期に大勢の方々のご参加、本当にありがとうございました。 img_6277 img_6278皆様どうか良いお年をお迎えくださいませ。

新年の第四回上道で元気にお会いいたしましょう。 img_6342img_6344

カテゴリー: 未分類 | コメントする

鎌倉街道三浦道  第二回  逗子から鎌倉

12月6日(火)と10日(土)はとても良いお天気に恵まれ26名のご参加で逗子駅を出発しました。img_5878

20分位で最初に訪れたのは岩殿寺です。こちらは坂東三十三観音の第二番札所です。徳道上人と行基の開創と伝えられる鎌倉時代以前からの古いお寺です。img_5880img_5883img_5886石段を上がると爪堀地蔵が二体あります。弘法大師が彫ったとの伝承があります。階段を上がると右手に鏡花の池があります。泉鏡花は、明治35年から3年位逗子に住み、ここが春昼の舞台となったお寺です。 二、三度すれ違った人妻に男は恋をし、寺の裏山の横穴の舞台で芝居をした夢を見る・・・・。img_5888観音堂の裏には、奥の院岩殿観音が安置されています。見上げて通り、そして紅葉にうっとりしながらも急な階段を降りました 。img_5896img_5900下のお庭には慈母観音と慈父観音が並び、キリシタン(常夜灯)塔を見て参道を下りました。早くもボケの花が咲いていて驚きました。img_5902 img_5906通りに出て横須賀線とすれ違いました。歩道すれすれに庚申塔が集められていました。img_5908

img_5909説明板には、この辺りは鎌倉時代には「鎌倉道」江戸時代は「浦賀道」だったと記されていました。

10分位で法性寺です。img_5911img_5912日蓮が、松葉谷の草庵が焼き討ちにあい山沿いに逃げて来た時に、白猿が畑から食べ物を運んだという話があります。まず白猿が扁額を持っている門を潜ります。

img_5915img_5917img_5916私達は又、どんどんと上へと昇りお寺の屋根々々が見える高さまで来ました。お堂の左上に、白猿が食べ物を運んだという窟屋があり中を覗く人もありました。

反対側へ進むと切岸と呼ばれている場所で垂直に切られた岩を見上げ、その岩は右手の方へずっと続いていました。所々に紅葉があり、何とも言えない他にはない風景でした。

img_5921大切岸の脇から名越の切通に入る細い道があります。

img_5923いよいよ本日のメインの一つ、名越の切通しです。

img_5930

10分位でまんだら堂やぐら群へと登る石段がありました。すぐに目の前が開け、見た事もない墓地群が現れました。土曜日は近くまで行くことができ、ガイドの方から説明を聞く事ができました。五輪塔を一つ一つはずしていきます。一番下の地輪の中央に穴があり、そこに陶器製の骨壺を入れたという事です。陶器は当時大変貴重のものでよく盗難にあったとのことです。img_6111img_6105img_6110高台から後ろに目を転じれば由比ヶ浜の海がきれいに見えました。

img_6106もとの切通しに戻り、切通しの逗子側の入口まで来て、改めて鎌倉への切通しを歩みはじめる事にしました。高い岩盤の間を進み、細い道や置き石を除けながら進みました。img_5934img_5942img_6115img_6116

10分余りで下に線路が見えてきて鎌倉へと入っていきました。img_5947

img_5949日蓮乞い水と云われる井戸が石柱に囲まれてありました。日蓮が水を求めて杖を突きさしたところ清水が湧いたといい鎌倉五水の一つです。又、すぐ近くに銚子の井の跡碑もあり、こちらは鎌倉十井の一つです。

img_5950img_5952通りを左に入り午前の部最後の長勝寺へ行きました。日蓮が伊豆伊東の配所から戻りここに庵を結んだのがこの寺の始まりといいます。きれいな石畳の両脇にある木々の手入れが行き届いています。img_5954

img_5956img_5961法華堂の前に四天王に守られた日蓮のどっしりとした銅像が立っていました。高村光雲作です。又、2月12日の國祷会と云われる冷水を浴びる荒行の場がそばにありました。img_5960左の脇の紅葉が何と美しい事でしようか。そして講師が皆さまに懐かしい方をお見せしますと言い、連れていかれた一角に赤木圭一郎の胸像がありました。高い場所から東京の方を見ているとも海を見ているとも言われています。

img_5963

大町の通りに出て10分位で昼食の場所に着きました。火曜日はスペインの台所というレストランしか空きがなく、入れなかった人はコンビニ前のベンチでおにぎりやサンドイッチなどを頂きました。

土曜日の方々はイタリア、スペイン、中華にお寿司。ちなみに筆者は火曜日のベンチでの昼食の反動でお寿司にしました。 材木座にあった正田家の別邸御用達のお寿司屋さんです。 並2050円、とても美味でした。img_6124午後の部は1時少し廻ってから始まりました。ウルシかハゼの紅葉が美しい道を進み安国論寺へ着きました。日蓮が安国論を書いた庵があった場所であり日朗の霊場でもあります。img_6126img_5969img_5970山門を潜るとすぐに正岡子規のレリーフと歌碑が目に入りました。こちらを訪問し後に日蓮という随筆を書いたそうです。

松葉で巴紋を染めぬいた幕に注目しました。土光敏夫の墓は力強い字ときれいな供花が印象的でした。img_6132 img_5975

細い石段を上がります。ここは、松葉が谷で焼き討ちに合った際にひとまず隠れたという場所で、南面窟といいます。img_5977 img_5978img_5979もう少し上がり、寺院の屋根屋根が見える所に来ました。何と眺めの良いことでしょう。形のいい鐘楼があり、この高台から鐘を打つと海まで届くのではと思われました。img_5980 img_5981稲村ケ崎の半島がはっきりと見え、火曜日には、雪を頂いた富士山がうっすらと見えました。img_5984 しばらく観賞してまた急な階段を降りました。日蓮聖人のお杖が根付いたという山桜の古木が、細い枝を広げていました。 御法窟には、立正安国論を書いている日蓮像があり、硯の水に使用した井戸もありました。 img_5985img_5988img_5994img_5995

7,8分で妙法寺へと進みました。こちらは苔の石段が有名です。日蓮が1253年安房の国から鎌倉へ来て初めて小庵を営んだという所です。日蓮宗の最初の寺院と云える場所です。img_5996img_6000img_6001

300円の拝観料を納め太めのお線香を頂きお参りしました。 本堂の屋根の九曜の紋に注目するように講師は話し始めました。これは、九曜紋の細川家が寄進した事によります。本堂の脇の大覚殿には加藤清正の像が安置されています。赤い仁王門の奥の苔の石段が目に入ってきました。 静寂の中にある美に感じ入りました。img_6004進入禁止の中央の石段を避け、右手の細い階段を上がると法華堂がありました。

img_6005img_6010日叡上人お手植えの蘇鉄を見て鐘楼との間の石段をまた上がりました。 尾根に出て左にすすむと最初にあったのが南の方(日叡の母)の墓、その奥に日叡(護良親王の遺児)の墓が並んで海に向っていました。img_6013

img_6014img_6023img_6020護良親王の墓は、反対の方向に戻り小庵跡よりまた少し上った所にありました。海への見晴らしがよく狭い場所でしたが感慨深いものがありました。img_6018

下る時も細心の注意をはらいます。化粧窟の中の日蓮座像はどっしりとした姿でした。img_6024img_6027

名越家の供養塔と薩摩屋敷事件戦没者の墓もありました。img_6028そして赤い仁王門や苔の石段、残る紅葉を後にしました。

5分程でこちらも日蓮宗の大宝寺です。新羅三郎の館跡で後に子孫の佐竹氏が住みました。頼朝から家紋を扇子にするように言われた経緯を講師から聞きました。img_6036

img_6037img_6038

三郎義光の墓は小高い場所にありました。資料の系図を見ると三郎の長兄義家の玄孫が頼朝なのです。img_6039

3時 頃に安養院に着きました。政子が頼朝の冥福を祈るために建立した寺で鎌倉末期にこの地に移されました。樹齢700年の槇の木が大きく枝葉を広げて聳えていました。

img_6044

政子の墓は思ったより小さく、右にある尊観上人の墓とされている宝篋印塔の方が立派で、これは鎌倉に現存する最古のものといわれています。img_6046

img_6047

人丸の墓は扇ガ谷から移されたもので父である平景清を尼となり、菩提を弔ったということです。img_6045

すぐそばの上行寺も日蓮宗で、門の内側にある左甚五郎作の龍を見上げました。桜田門外の変の水戸浪士が逃げてここで自害したとのことで、正五位の大きな墓がありました。img_6167

img_6057

別願寺は時宗の寺です。足利持氏の墓はとても大きくて、四方に鳥居形の四門が浮き彫りになっていました。img_6058

八雲神社では、新羅三郎の何十キロもありそうなお手玉石を皆で笑いながら眺めました。img_6062img_6169

元鶴岡八幡(石清水八幡)を頼朝が現在の鶴岡八幡宮へ移したことを知りました。通り道の延命寺にも寄り、若宮大路へと出ました。img_6075

4時頃下馬の交差点で、鎌倉街道あるき隊の三浦道は終了しました。

img_6077本日は、大変魅力的でしたがハードな行程を皆さまお疲れ様でした。img_6112img_6117

カテゴリー: 未分類 | コメントする

鎌倉街道上道 第二回  山名から鮎川

 

11月8日(火)、12日(土) 両日共に晴れて、とても気持ち良く歩けました。10時に皆さまが揃っていましたが、下仁田行き上信電鉄の電車は16分の発車です。山名に向けて、ペインティングされた車両に乗り込みました。img_5875img_5709

10時半過ぎ、山名駅より本日のスタートです。細い真っすぐな道の田園風景の中、左手にこんもりとしたものが古墳だと聞き、長い歴史の流れを感じながら歩みを進めました。img_5714img_5716img_5718

img_5719前回の追分より道がここへと続いているという場所を見ながら、20分位で西山名駅の線路を渡りました。

石碑群の中に扶桑教碑が大きく立っていました。鎌倉街道中道の新井宿での不二道(富士道)の小谷三志を思い出します。明治になり多数に分立していた講を統合して扶桑教としたそうです。img_5722前方に妙義山が見えています。

民家のローズガーデンやオリーブの実を見ながら歩きます。からすうりも赤く熟れています。img_5814

img_5730

img_572611時20分頃、真光寺に着きました。輪違の紋が屋根に輝いていました。こちらは石尊山大権現(大山の阿夫利神社)の石碑があり、天狗の人事異動のおもしろい話を講師より聞きました。img_5731img_5733

img_573411時45分、迂回して鏑川の松ノ木橋を渡りました。12日には真っ白な鳥がいて感動しました。

img_5825

img_5827img_5828のどかな風景から細道に入り、三ツ木城址へと進みました。苔むした堀の跡を入りました。1467~87年に三ツ木信守が、平井城の北の防衛としていた城です。豊受神社が奥にあり、伊勢神宮の外宮を勧請しているとの事です。img_5830img_5831img_5752

おしやれな白い建物はケーキ屋さんだったとか。だんだんと廃墟化していくのは悲しいですね。 また下仁田ねぎらしいしっかりしたねぎ畑が目に着きました。

img_5834img_5754

img_583512日は良く晴れていて山々がとてもきれいに見えました。 12時半過ぎ、本日の昼食を取る公園に着きました。石のテーブルといすがあり、持参のお弁当を広げました。

img_5837

30分余り休憩して、御手洗いも済ませ、隣の神社にお参りしました。

img_5839img_5840そして、先程通って来た吉良上野介陣屋跡へと戻りました。途中に喜蔵塚古墳(通称田村塚)で7世紀の円墳を遠目に見ました。

上野介の陣屋跡は広々とした田村さんのキヤベツ畑になっています。母親である吉良若狭守の正室が伊香保温泉からの帰途、この館で上野介を産んだとのことです。 産湯をくんだと伝えられている井戸も残っていました。この地では三河の吉良と同じく上野介を敬い忠臣蔵はご法度との事です。誰も通らないこの場所で、松の廊下事件の話などを聞きました。img_5762img_5760

img_5842

img_5846

天狗党が通ったという道を眺めながら、また細い道路に入り柿がたわわに実をつけた奥の墓地に入りました。四代将軍家綱の時に、凶作にも関わらず地頭の過酷な年貢に対し幕府に直訴して果てた緑埜の名主である堀越三右衛門の墓がありました。この地の民の為に命を掛けた名主の存在に感動しながら次に進みます。img_5771

img_57722時少し過し前に平井の公民館で御手洗いをお借りし休憩しました。目の前の交番の建物img_5774の屋根に千木があり目立ていました。img_5849img_5851緑埜の交差点を右に曲がると山内上杉の最後の拠点だった平井城址ということですが、我々は先へと進み、住宅地を入り千部供養塔を見ました。1783年の浅間山の大爆発の模様と被害状況を刻んだ供養塔です。昔の養蚕を物語る上州造りの屋根が見えました。img_5775

img_5778

ビニールハウスのある草原を過ぎ鮎川沿いを歩きます。

img_5784

img_5785img_58573時少し前に凱旋馬頭観音尊の前に来ました。明治31年、日露戦争の時の秋山好古の黒溝台の戦いの話を聞きました。勝つために、馬を降りて騎兵らしからぬ戦いをした格好の良い軍服姿の好古を私たちは思い浮かべるのでした。

img_5861北野天神の鳥居の前を通りましたが、参道が細く長く続いている風景を見るだけで本日は寄らずに先へと急ぎました。img_5862真言宗光厳寺はひっそりとしていた古い石碑と新しいお地蔵さまが対照的に立っていました。甲子塔は甲子又は子の日に講を行った供養塔でこれまであまり見かけなかった物でした。img_5796

img_5792

img_5795img_5793img_5743img_5802タクシーでJR群馬藤岡駅へ3時30分頃に着きました。8日は15分余り、12日はかなり余裕があり自動販売機のアイスクリームを大勢の方が楽しんでおられました。真っ直ぐな線路を見て、八高線で高崎方面へと出て、それぞれの帰路に着きました。

本日は静かな田舎道を気持ちよく歩く事が出来ました。次回の集合場所は群馬藤岡駅ですから、どのように集合すればいいのか頭を巡らしながらのお別れでした。

img_5864img_5812img_5756

カテゴリー: 未分類 | コメントする

鎌倉街道上道 第一回 高崎から山名

 

平成28年10月いよいよ鎌倉街道上道がスタートしました。18日は夏日の暑さとなってしまいました。両日ともに19名のご参加で、中道より隊員の皆様が増え賑やかに高崎駅に集合しました。img_5423

10時2,3分過ぎにいざ鎌倉と、鎌倉に向けての第一歩を踏み出しました。数分であら町の交差点を渡りました。講師が「いま渡っているのが中山道ですよ。」といい、あら町の小さな諏訪神社を右手に見ながら進みました。img_5596

高崎城跡の高崎公園を通り抜け、低い石垣の角までやってきました。赤坂の庄というこの地に和田氏が築城した和田城は戦国時代まで続き、徳川家康の命で井伊直政が和田城を囲むように築城したのが高崎城です。三の丸の堀と土塁が昔の面影を止めていました。img_5429img_5431

すぐそばに頼政神社があります。img_5435

こちらの境内で上道からのご参加の新しい隊員の方々の紹介がありました。

高崎城主の大河内氏の祖先である源頼政を祀ってあります。歌人であり鵺退治で有名ですが平氏との宇治川の戦いで没しています。また社殿の前には内村鑑三記念碑があり、全国からの寄附でできたということです。無教会主義や非戦論の提唱で知られています。

5,6分で光明寺に着きました。弘法大師の像が建っています。鑑三が建てた内村家の墓を見せていただく為にご挨拶をしてから、道を隔てた墓地へ向かいました。img_5607

又2,3分の所に高崎藩の御典医だつた佐藤病院がありました。この病院の右手の狭い場所に化け石と呼ばれる大きな石が置かれていました。馬蹴り石とも呼ばれたこの石の表面をみていると何かの顔が浮かんできます。img_5447img_5448

しかし私たちはゆっくりすることはできず、早々に次へと向かいました。興禅寺は高崎宿で最も由緒ある寺ということです。新田義重が創建して戦国時代には和田信輝が再興したそうです。img_5439

img_5440明治の大火で山門だけが焼けなかったのは雲竜図の龍が水を吐いたからだとされています。

11時半頃、上信鉄道の踏切を渡りました。明治5年開設の日本で一番古い私鉄です。鎌倉街道記念碑が植え込みの中にありました。img_5453

img_5455

琴平神社に着いたのは11時40分位でした。本日は二手に別れ神社の境内でお弁当の人と、近くに1軒しかないトンカツ屋へ行く人との昼食となりました。定食1200円はまあまあ、あっさりとしていてよかったとのお声をいただきました。img_545812時半頃から午後の部の始まりです。琴平神社に戻り随身門をくぐりました。狛犬の手前に天狗の像が立っています。左側の天狗は鼻が高くない烏天狗です。拝殿の左には赤と黒の天狗の顔の額がありました。img_5460img_5462

img_5463

 

 

img_5465

img_5468江戸時代に四国の琴平宮を、江戸藩邸に勧請していて、明治になってからこちらに移したとのことです。神紋が、天狗が持っている団扇だなんて、とてもユーモアが感じられます。横にある飯玉神社へもお参りをしました。

真言宗の荘厳寺では、大きな魚板が目に飛び込んできました。賽銭箱の前に横たわっているではありませんか。お釈迦様と、ある魚の大王との関わりから木魚と魚板が生まれたと講師の面白い話を聞きました。img_5472

高崎観音を建立した井上保三郎の墓の前で、あの田中角栄が務めていたのがこの井上土建の東京支店だったと聞きました。皆でへぇ~と言いながら大きなお墓を見上げるのでした。

img_5474

天保時代の男女双体道祖神を見て通りました。石に文字を刻んだ大きな道標を兼ねた馬頭観音もありました。img_5479img_5481

10分位歩くと万葉集にも歌われた佐野の渡しにやってきました。こちらでは烏川を挟んでの悲恋の謡曲舟橋の話もあります。

img_5485碑の東には朝日長者の屋敷跡ともいわれる西光寺があります。

10分弱で常世神社です。中道の北鎌倉で聞いた鉢の木で知られている佐野源左衛門常世が祀られています。大きな絵を見ながら火曜日は丁度、地元の人たちが神社のお掃除をされていて拝殿の中も見せて頂きました。img_5497img_5489

img_5492

公園で御手洗休憩と水分補給をして、隣の定家神社に1時半頃に向かいました。広い敷地の奥に赤い社がありました。江戸時代の中頃に高崎在住の文人たちにより創建されたといいます。源実朝の歌も添削したという藤原定家が祀られています。本殿の彫刻や柱をを眺めて几帳面という言葉の由来を聞きました。また歌碑や芭蕉句碑も味わいました。img_5500img_5499img_5501

新古今和歌集の定家の歌の「駒とめて袖打ち払う陰もなし 佐野のわたりの雪の夕暮れ」はとても有名です。

広い境内の隅には、火除けの古峰神社が小さく祀られていてお参りしました。

img_5503

2,3分で放光寺跡と放光神社を過ぎました。

img_5504

その後はしばらく歩き続けました。30分近くすると烏川を渡ります。川の水量を測る石を見ました。鴨の集団が泳いでいてのどかな風景です。img_5511img_5512

img_5513img_5515高崎商科大学も大きく見えてきました。2時半頃、大学前の駅で御手洗い休憩と水分補給をしました。

さあこれから自然歩道へとわけ入ります。イノシシ、マムシ注意の看板に身が引き締まります。

 

img_5519img_5517

万葉集の歌碑の多さに驚きながら鑑賞したくとも、18日はむし暑さと蚊に悩まされながら坂道を必死に上るしかありませんでした。22日は比較的涼しくて天候による違いをまざまざと感じさせられた次第です。img_5520img_5526img_5530

img_5527

実際に山名城祉にのぼったのは22日で、広い草原はあるものの眼前は、樹々に覆われていてその見晴らしの悪さには少々がっかりしました。img_5671img_5676img_5674

高崎商科大学前駅から1時間ぐらいの所に山の上古墳がありました。飛鳥時代の円墳で石室の奥に馬頭観音が祀られていました。img_5539img_5681img_5682石碑には681年10月3日に記すとあり、最初にこの地を支配していた者と、大和政権から管理者としてきていた者との間の子孫である長利が母のために記したと書かれてあります。よって古墳は長利の母を埋葬したとされています。img_5542

3時半すぎ手すりの付いた細い階段を下りはじめました。

img_5547

又15分位すると二十二夜待供養塔と、その右に扉と屋根が付いた祠の様な物の中には阿弥陀如来板碑(1278)があり、興味のある人は丸い穴から覗いてみました。線刻の阿弥陀如来の御光の線がきれいに見えました。img_5559img_5690

講師はアミダくじはこの線が元で出来た言葉だと言い、我々はほお~と感心するのでした。

5分位で道が二手に分かれていました。追分地蔵がどっしりと座っていらっしゃいました。石碑群を見ながら左へと曲がりました。

img_5563百番供養塔は西国33ケ所、坂東33ケ所、秩父34カ所の観音巡礼を達成した記念の供養塔です。img_5567そして、4時に本日最後の山名八幡へと入りました。太刀割石を見て線路の下の通路を通り上がれば神社の随身門です。

img_5571神馬には五七桐根の紋が金色に輝いていました。

img_5573

img_5574応仁の乱の山名宗全の祖がこちらの神社造営をした山名義範であったとは。宗全と言えば応仁の乱の日野富子の顔が浮かんできます。お稲荷さまの前には宗全の石碑がありました。

img_5576

img_5580拝殿にお参りし本殿を見上げると彫刻の美しさに私達は驚きました。img_5581img_5583img_5589img_5588裏神様も拝見しお参りしてさらに御利益をいただき、お神木を見上げながら山名駅へと入りました。4時46分発の上信鉄道で高崎駅へと向かいました。img_5707

本日は何と言っても高崎自然歩道の厳しさを頑張って歩いたことですね。解散は高崎駅、5時になってしまいました。皆様大変お疲れさまでした。img_5560

img_5692img_5591

 

カテゴリー: 未分類 | コメントする

鎌倉街道三浦道 第一回 田浦から逗子

二回に分けて三浦道を歩きますが本日はその第一回目です。両日で28名のご参加でした。10月4日はぐんぐん気温が上がり真夏日となってしまいました。このところしばらくは涼しかったので、この日は熱中症に気を付けながら歩きました。8日は雨が昼過ぎまで降り、どちらも大変な歩きとなってしまいました。

img_5330img_5333日本書紀より三浦の地名が御浦郡からきていることを知りました。img_5246

しばらくの間、自衛隊の病院や学校などの横を通りました。有刺鉄線が張り巡らされている所もあり、さすがに土地柄だと感じながら進みました。img_5247

img_5249隧道を抜けて景徳寺へ着きました。行基作の十一面観音が本尊として伝えられています。img_5339

観音堂が刈込の奥に静かな佇まいでありました。img_5341img_5340

階段を上がり、10時には船越神社に着きました。立派な狛犬が迎えてくれました。img_5257img_5258

 

 

高くなっている場所で見晴らしもよく樹齢160年の銀杏の御神木が大きくなり過ぎたので、平成14年より植樹された御神木の梛木の木を皆で眺めました。針葉樹なのに広葉樹の葉形の珍しさに感心しました。熊野ではこの木を神木によくしているとの事です。img_5259船越新田の守り神として様々な神社を合祀しながら今に至っているそうです。半島の付け根のこの場所は昔の船着場があり重要な所だったのでしよう。

陸軍大将一戸兵衛は乃木将軍の友人であったという忠魂碑のことや、集められた庚申塔の説明も受けました。img_5263img_5264

途中、造船工場の前を歩きました。男性の方が見上げながら、何トンくらいかなと呟きました。img_535130分位で榎戸湊に面している八王子社に着きました。img_5352

浦郷公園は町内会館があり、子供達の広場になっていました。鎌倉時代には金沢(六浦)、榎戸、浦賀の三湊の一つとして重要だってとのことです。

すぐそばに時宗の能永寺は、開山は古く1394年ということです。踊念仏の一遍上人像が建っていました。img_5273img_5269

img_5270img_5272

次に正観寺の坂を昇ります。天台宗の智証大師作の阿弥陀座像と薬師如来があるとの事です。img_5276img_5275

上からの眺めが開けていて住宅の屋根の向こうに水辺が見え小さな船も見えていました。img_5278

一面の石に掘られた一石六地蔵様にもお参りしました。どくろの首飾りをされている庚申塔も見ました。img_5274

梅田隧道の薄暗い中に入っていきました。img_5282img_5366

お昼は白若稲荷社、または側にあるコンビニのイートインとなりました。稲荷社は船越三郎左衛門が祠を背負って田越村(旧鎌倉道)より移したということです。8日は雨のため皆でコンビニへ、椅子が足りないところ、譲り合ってのお昼となりました。

午後はすぐに坂道を上がり始めました。30分位で着いたのは日蓮宗の法勝寺です。幼稚園が前にあり、本堂の後方には源義朝の館があったと言われています。img_5368img_5370img_5371img_5369

沼間の鎮守である五霊神社で水分補給をしました。大銀杏は樹齢800年以上との事です。img_5290

img_5291

さて、本日一番の難所と云える神武寺へと向かいます。頼朝が平家追討祈願の為に文覚という僧を住持させた寺院です。img_5295img_5297img_529820分位で逗子八景の一つの神武寺の晩鐘に着きました。白壁の塀の横の階段を昇ります。img_5300img_5301

2~3分で赤い山門を潜りました。屋根が美しく、今年の8月に塗り直したばかりという天井の青龍や朱雀、白虎、玄武の絵も鮮やかで苦しさを忘れて眺めました。img_5302img_5311

img_5308

 

 

薬師堂の前のナンジャモンジャのホルトの木は平賀源内がオリーブと間違えたとのことです。実が本当によく似ていました。

img_5306

img_5307

img_5303薬師堂の屋根の形がとても美しく感じました。

img_5312急な階段を下り始めました。滑らない様に気を付けて下りました。余りにも過酷だった神武寺を後にしながら、よくぞ頑張ったと自分を褒めたいと思ったのは私だけではなかったはずです。

真言宗の光照寺へは20分で着きました。源義朝の長男の義平の菩提を弔うために建立されたと言われています。img_5318img_5319

 

又数分で曹洞宗の海宝院に着きました。茅葺の趣のある門を入りました。家康の代官頭の長谷川長綱の創建で四脚門・梵鐘それぞれ立派なものばかりです。img_5320

樹型の美しい木のタラヨウや梛木の木がありました。img_5326

img_5325img_5324

長い参道を後にして狭い道を進むと観蔵院の石段が見えてきました。

img_5387

img_5388桜山とよばれるこの地の桜を鎌倉時代に夢想国師が吉野山に移植したと言われています。「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月のころ」の西行が見た吉野の桜から百年余り後の世の桜なのでしょう。高野槇の緑が美しく、小さな松ぼっくりを付けていました。img_5389

石碑群の中に浅間を「仙元大菩薩」とした珍しい碑を見つけました。img_5393img_5394

img_5395延命寺は、逗子の地名の由来となった弘法大師が立ち寄った際に、地蔵尊を安置する厨子を設けたとの事です。また地図を描く図師が住んでいたとも言われています。寺は三浦氏や北条氏の祈願所でもありました。そして三浦主従の七基の宝篋印塔があります。img_5403

清水橋を渡ると後鳥羽上皇が北条氏を討伐しようとした承久の乱で三浦義村、胤義兄弟が上皇方と幕府方に分かれて戦い、負けた上皇方の胤義の子息四名がこの田越川の川原で処刑されたのです。碑の周りには秋草が生い茂っていました。img_5407

本日最後の亀岡八幡宮に4時前に着きました。大きな亀の石像がありました。亀の背に似た地形からの名前と言う事です。それから真っ赤な萬栄稲荷の鳥居をくぐりました。img_5409

img_5411img_5410

img_5413

4時頃、本日の終了地点であるJR逗子駅に到着です。両日ともに大変お疲れさまでした。

どなたかが、苦しかったのもいい思い出として忘れないものよとおっしゃいました。img_5414

img_5367img_5281

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第十二回 本郷台から鎌倉

鎌倉街道中道も今回が最後となりました。20日(火)と24日(土)総勢31名の方々でいつもの様に元気よくスタートしました。お天気の方が残念ながら台風の影響や秋の長雨とぶつかり雨天決行と相なりました。img_5135 本郷台の駅を右に折れしばらく行くと数分で前回の終点の場所にやってきました。 この辺りの山内本郷についての説明を受け、しばらく行くと双体道祖神があるお稲荷さんに着きました。img_5013img_5012 二体とも丸いお顔で同じ様な衣が印象的です。道沿いにはお地蔵様や馬頭観音様もいらっしやいました。   子供の行き倒れを救ったという薬師堂を過ぎ、8分位歩くと延命地蔵尊には菊のお花が供えられていました。鎌倉時代には川岸に宿駅があったとのことです。川の名は吉田兼好の歌から歌の頭の字をとり「いたち」とした説や、この場所で武士たちが出陣のいでたちを整えたということから付けられた説など面白い話を聴きました。img_5015 img_5018img_5020 歩道橋を渡り笠間道標を過ぎ住宅地の中の道を進みます。今泉村不動尊の像はトラックがぶつかり、作り直されたとの事で、いかついお顔と赤い火焔が印象的でした。img_5025 浄土宗の法安寺に10時30分頃に着きました。笠間領主の生実藩森川氏所縁の寺で徳本上人さんの名号塔を拝見しました。img_5027庚申塔やお地蔵さまも集められていて可愛らしい三猿に雨のうっとうしさを一瞬忘れさせられる私たちでした。   img_5030img_5035   11時少し前に長い階段が見えてきました。火曜日は雨が本降りの青木神社でした。何と120段!!しっかり数えてくれた方がいらっしゃいました。我々は頑張り頑張り昇りました。img_5037img_5039img_5041 こちらは、笠間村の氏神さまです。二十三夜供養塔の丁寧な説明板があり、信仰の中に楽しみをみつける当時の人々の生活ぶりを思い浮かべました。 川沿いを歩いていると講師は一旦、ここで街道は途切れますと言いました。我々は昼食の場所の大船駅へと向かいました。img_5043 駅のそばはいろいろなお店があり、火曜日は中華、土曜日は海鮮のお店に入りました。少し早めのお昼です。雨を心配しましたが土曜日は、この時間まで降られずに済みました。img_5171img_5047       午後一番に訪れたのは鎌倉で唯一と云われる浄土真宗の成福寺です。本堂の中を拝見させてもらいました。真中に阿弥陀如来、右に聖徳太子、左には親鸞聖人像軸です。img_5051img_5052 さて、私たちの関心を引いたのは笠智衆のお墓でした。熊本県の浄土真宗、住職の息子で東洋大学印度哲学科に入ったとのことです。そこで思い出されたのが中道の真ん中頃に寄った江古田の哲学堂公園の事でした。笠智衆と、こんな所で繋がっていたとは・・・。「東京物語」や「麦秋」や「たまゆら」等々が思い出されます。ずっとずっと日本人に愛され続ける俳優の一人でしよう。img_5048img_5175img_5056茅葺の美しい山門を後にし「せゐ志くばし」の道標とすぐに「右とつか左藤さわ道」と書かれた地蔵を見ました。     img_5059img_5058 img_5066一行は北鎌倉駅手前の線路を渡りました。八雲神社の石段は青木神社ほどではなくほっとし、滑らないように気を付けて上りました。ここは山之内の鎮守とのことです。阿部清明の石が祀られていて実朝暗殺以降、京都と同じように幕府は陰陽道の活動を本格化させたようです。img_5067 img_5183img_5073北鎌倉駅を左に見ながら進み、山之内交番の前を過ぎようとする時に左手のこんもりした木の辺りを指さし、昔はここまで白鷺池だったという話を聞きました。img_5078円覚寺の駐車場でトイレ休憩をしました。北条時宗が建立した大きな禅寺ですがこちらだけでも半日は説明が必要との講師の話で、本日は寄ることができないとのことです。img_5079 2時頃に東慶寺の前に来ました。静かで美しいたたずまいで、鎌倉では女性が最も好むお寺の一つです。1285年に北条時宗の妻が開いてより昭和36年まで尼寺だったとは、何と心惹かれるではありませんか。豊臣秀頼の娘が天秀尼となり20世住職を務めたのは有名な話です。img_5081 img_5083そして女性の駆け込み寺として重要な役割を果たしましたが生活費を納めると聞き、庶民では無理だったのではと考えさせられました。ともあれ、ただ我慢するだけの道だけではなく女性にとってこのような寺があったという事に救われる思いがしました。 少し行くと甘露の井があり、今もきれいな水が湧いていました。img_5186img_5088           そして、皆様お楽しみの北鎌倉で有名な菓子舗に寄り、御手洗いもお借りしました。img_5092 うさぎ饅頭や鎌倉殿というどらやきが有名で、思い思いに買い物をすませました。 img_5190   謡曲世阿弥の鉢木の話を聞き、金龍水があった道路の敷石を見ました。img_5194 建長寺前では、若いお坊さまが大きな山門に入って行く姿を見ましたが、この辺が昔は刑場だつたとは何と恐ろしい話ではありませんか。多くの人はケンチン汁の事しか頭にないとはちよっと情けない話です。img_5093 亀谷ケ谷切通の入口横の寺は長寿寺といい、足利尊氏の創建ですが入る事は出来ません。門の右手に亀の形をした贔屓の上に「仏頂尊勝陀羅尼塔」が目立っていました。誰も居ないお庭に咲く曼珠沙華の赤と白が印象的でした。img_5196img_5197 どちらの日も雨に降られて、滑らないように気を付けて切通を歩きました。img_5199 img_5200 薬王寺の門を入ると家光の弟の忠長の供養塔を拝見し説明を聞きました。 img_5102奥に進み、小高い場所にある松山藩主蒲生忠知の正室(家康の孫)と息女の墓二基が堂々と建っていました。img_5104img_5105 切通を下ったところの岩船地蔵に着いたのは3時過ぎでした。 頼朝の長女の大姫の墓所との云い伝えがあります。大姫は、許嫁で人質でもあった義高が処刑されてしばらくして命を落としました。悲しい姫君として有名です。小さな隙間から覗くと位牌と立派なお坊様の像が見えました。img_5106img_5107

一本横の通りには本田さんのお庭の奥の矢倉の下に扇谷の名前の元となったと言われる扇の井があります。土曜日にはお家の方のご好意により庭に入れていただき側まで行けたのですが、トタンのカバーが掛けられていて扇の形を確かめる事はできませんでした。img_5209img_5206 そっちは突き当りよと子供が声をかけてくれましたが、通りを進むと千葉氏の一族である相馬氏の墓がありました。相馬氏は陸奥の国に移り、江戸時代には相馬中村藩6万石として明治を迎えたとの事です。img_5111 格式の高いお寺がこんな所にもありました。浄光明寺は藤原定家の孫である冷泉家の始祖為相の墓があり母である阿仏尼の京から鎌倉への紀行文「十六夜日記」が有名です。img_5115 そして講師が思わず力を入れる様子で、こちらには楊貴妃観音があると我々を導くのでした。中国の時代劇をよく見ている筆者は貴妃の位が皇后の次であると思うのでした。img_5113img_5114 鎌倉十井の一つの泉の井の苔むした小さな井を見ました。img_5116 img_51183時半すぎにJRの列車とすれ違いました。扇ケ谷上杉屋敷跡の碑を見て細い道を進みます。img_5119鶴岡八幡宮の横を通り石像群を草の中に見ながら、小袋坂の切通を行ける所まで歩みを進めました。 img_5124暗い行き止まりでした。img_5222 丸山稲荷の赤い鳥居をくぐります。八幡宮を勧請する前の地主神であるお稲荷ということです。狭く曲がった階段を私達は力を振り絞り登り下りました。img_5127img_5230 鶴岡八幡宮を脇から入る形となりましたが中道の終点に到着しました。 土曜日は婚礼の儀式の最中で雅楽が響いておりました。img_5233大半の方々はこれより懇親会の場所へと移りました。img_5131img_5237   昨年、岩槻を出発して今年の9月までの12回に渡り歩きつないで鎌倉までたどり着きました。 鎌倉街道の中でこの中道は短い方とのことですが、「あるき隊」として最初の街道を完歩したことに皆さまと共に達成感をかみしめながら乾杯いたしました。 皆様さまとご一緒出来た懐かしい時を思い返しながら、この中道の紀行文を閉じさせていただきます。

持ち寄りてニ十三夜のおなごたち

鎌倉に 秋霖止まず 智衆墓碑    慶月

img_5014   img_5136img_5159img_5139

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第十一回 東戸塚から本郷台

 

7月12日(火)16日(土)ともに15名ずつの参加で行われました。

天気予報より少し気温も上がり水分補給を小まめに取りながら進みました。鎌倉街道街中道も今回を入れてあと二回となりました。IMG_4771

9時半過ぎ東戸塚駅を出発しました。横浜市立川上小学校の横を通り暑さに負けずどんどん進みました。住宅地を抜け平戸永谷川を渡るとしばらくして緑豊かな道にさしかかりました。IMG_4776IMG_4773

 

 

 

 

 

中道の中で一番長く残っている街道へと入っていきました。何と狭い事でしようか。IMG_4778

この道を頼朝や北条義時らが通ったのです。IMG_4779

早駆けの道という名が付いていて坂東武者たちに思いを馳せる私たちでした。

市民の森という公園では五山見亭跡や山の神稲荷を見て、講師のいつもの面白い話をまじえての説明を受けました。

IMG_4873IMG_4875IMG_4876

畑の間の道に出ると日陰がなく汗が滴ります。しばらくするとまた緑陰の道に入っていきました。IMG_4881

IMG_4885

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

11時半よりお楽しみのお昼です。今日は早目に休憩に入り12時40分までといたしました。IMG_4887

ほてった身体を冷やし、水分と栄養を十分に補給しました。

午後、スタートして10分位でこの辺りの石碑を集めた丸山台の碑を見て通ります。右とつかミち 相刕鎌倉郡と刻まれてありました。少年野球をしている広場は笹山砦跡で宅間上杉の居城跡との説明を受けました。IMG_4795

福徳院の日限地蔵尊には1時頃着きました。石仏で日本三体地蔵と云われているとの事です。日数を限って祈願をすれば願いがかなうと聞きますと、早速みなお参りをしました。老犬がおりの中からこちらを見ていました。IMG_4799IMG_4896IMG_4895IMG_4897IMG_4898

30分位しばらく頑張って進みました。

奥にスダジイの大樹があり手前に庚申塔の道標がありました。元はスダジイの洞にあったが樹は奥に移植したとの事です。IMG_4806IMG_4810

バイパスの新しい道路でしようか、高い場所から見ながら通りました。舞岡南の橋です。高台で気持ちのいい眺めです。IMG_4908

 

 

 

 

 

 

 

IMG_4814

 

 

 

 

 

 

 

 

IMG_4813右手にうっそうとした緑地がある擦小鉢坂を下り始めました。IMG_4816

見晴橋をすぎ、また少し下ります。

西谷稲荷に着きました。右手に石仏が集められていました。IMG_4820IMG_4821

左手を下ると赤坂の湧水があり、私たちは手をひたしハンカチを濡らし、小さな凉を味わいました。IMG_4822

2,3分で木曽の石仏へ。道路工事のために集められたもので赤い布の巻物が印象的でした。IMG_4918

ブラックベリーやコブシの実を見ながら渡戸庚申塔を見て通りました。IMG_4827IMG_4828

IMG_4919元文3年(1737)のものがありました。

2時半過ぎに長光寺の階段を上がりました。IMG_4921

IMG_4922ナンジャモンジャの樹と云われるクロガネモチの大木がまず目に入ります。

菅谷山の山号の門をくぐり本堂へと進みました。IMG_4924

振り返ると木瓜庵の寺紋がはっきりと見えます。開基が伊東氏なので伊東氏所縁の紋でした。本尊は阿弥陀如来ですが、家康の伝承のある木彫りの薬師如来があるという事です。

長光寺を後にしてすぐに田中家の長屋門が見えてきました。IMG_4845

 

IMG_4934

家康が鷹狩をしたときの追い上げ坂のそばには、茅葺を瓦ぶきに変えたという長屋門もありました。

3時過ぎに七石山横山古墳群へ着きました。IMG_4937

IMG_4938

上を見上げると岩のほら穴があります。この古墳は玄室の奥壁に小さな奥窓があるのが特徴といいます。

本郷の名の由来を聞き3時半頃、本郷台の駅に着きました。IMG_4857

暑い中を皆様本当にお疲れさまでした。

8月は、あるき隊はお休みです。そして9月は、いよいよ中道の最終回を迎えます。

しばらくお会いできませんが、皆様どうかお元気でお過ごしくださいませ。IMG_4883

IMG_4920

 

 

カテゴリー: 未分類 | コメントする

 鎌倉街道・東海道連絡道 第3回

 

6月21日は雨の中、6月25日はうすぐもりの中をJR藤沢駅を出発しました。まず境川を渡ります。橋に立派な石の常夜燈が立っていました。街道は住宅地へと入って行きました。IMG_4651

本日最初に訪れたのは舩玉神社です。源実朝が宋に行く為に船を造らせたが浮かばなかったという伝承があります。この辺りに大鋸が住んでいて船大工などの御用をしていたといい、それが地名にもなっています。二宮金次郎の石像も右前にありました。IMG_4659

進んで行きますと10時すぎに左手に石造物が集められている場所が、右手には紫陽花が咲き空が開けてきました。IMG_4538IMG_466130分位進むとこちらの地名は村岡町です。使われていないという道路を潜り弥勒寺(みろくじ)に来ました。ひげ文字の碑が迎えてくれました。IMG_4666

IMG_4667IMG_4669実を見てみたいと思う仏手柑の小さな木を見ました。芭蕉のバナナのような実もなっていました。

こちらは北条泰時が父の義時を弔う為に創建したといいます。始めは禅宗の寺でしたが、後に日蓮宗に改宗したとの事でした。

 

 

JR線の横を通り踊り子号とすれ違いました。古い道祖神を見て通り大門跡を通り御霊神社へと長い参道を進みます。鶯が鳴いています。IMG_4678太いタブの木が常緑樹の葉を茂らせていました。「梅が香にのっと日の出る山路かな」の芭蕉句碑を見ました。

IMG_4679IMG_4680

私達は女坂を登り旗立山の由来を聞きました。源義家が前九年の役のとき、山の頂上に白旗を立てて兵を集めたとのことです。IMG_4681

登り切った拝殿の鈴には鰐口も付いていました。IMG_4683兜山に会った七面宮や疱瘡神にもお参りして今度は男坂である階段を降りました。IMG_4686

 

 

 

 

 

 

 

 

 

IMG_4688すぐ脇にある草の空地になっている別当寺の徳寿院跡も見ました。IMG_4690

10分余り進むと鎌倉古道上の道の石柱が建っていました。IMG_4691

権五郎景政が兜を松の根本に埋めたと言われる兜松跡は立ち入り禁止で側まで行けませんでした。IMG_4694古館橋の交差点を過ぎ八丁面という広々とした草原の横を進みました。IMG_4700

 

 

 

IMG_4701モノレールの下を潜り進むと本日のお昼ごはんの場所です。

21日は大きな喫茶店で25日は絹蕎麦を頂きました。

 

 

 

1時間の休憩の後、午後の始まりです。20分位歩くと、この辺りの領主であった梶原景時が創建して時代を経て明治より八雲神社となったという神社の紫陽花の石段を昇りました。IMG_4708

室町時代の創建の円久寺にも寄りました。気温も上がって辛くなってきました。IMG_4571それから10分位歩き北条氏常盤亭跡に着きました。緑に囲まれた草々に覆われた場所です。IMG_4573

大仏の切通の北の要所で北条一族の有力者の別邸跡で重要な史跡ということです。

来た道を引き返し八雲神社辺りまで戻りました。IMG_4575

いよいよ大仏切通坂の入口です。すぐに岩を削ったような所に出ました。皆さんのおーという声が聞こえます。IMG_4715

IMG_4719美しい緑の苔の中ですが置石が行く手を阻みます。IMG_4718IMG_4588IMG_4720

雨上がりの切通はぬかるみにはまりながら、手すりをたよりに茂みの中を降りはじめまた。IMG_4590

一列しか通れない細い道を25日は土曜日でしたので、下から登ってこられる人達とすれ違いました。切通の中で一番困難と言われている大仏切通を、私たちは無事通過したのです。

切通のそばに高徳院があり大仏さまが奥におられました。IMG_4727

こちらで自由散策となりました。御手洗いと水分補給もしました。IMG_4598

その昔は木造だったそうですが1252年に青銅像に造りかえられた大仏様は、近年の改修も終え美しいお姿でした。「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」与謝野晶子の歌を鑑賞しながら感動を新たに致しました。IMG_4726

手焼きせんべいのお店に寄り5,6分で買い物を済ませて次へ進みます。IMG_4731

桑ケ谷養生所跡に立ち、1200年代にここで貧者や病人を救った施設があったとはと私たちは大変感心致しました。

光則寺は日蓮が佐渡に流された際に日朗上人がこちらの裏山の土牢に入れられた土牢があります。IMG_4736

IMG_4737

 

 

 

 

 

IMG_4742まず花の道を縫いながら石段を上がりました。大きな閉ざされたままの土牢を見ました。その後は思い思いに庭を鑑賞しました。宮沢賢治の雨にも負けずの歌碑があり、日蓮宗の信者と知りました。IMG_4611

白い半夏生の花がきれいでした。しもつけ、ぎぼうし、色んな紫陽花も咲いていました。IMG_4748IMG_4750IMG_4610

一休みして、いよいよ次は長谷寺です。4時すこし前に着き、赤いちょうちんの前で記念撮影をしました。講師が皆様にどうしてもお見せしたいという金魚葉椿の葉を見て20分位、思い思いの散策時間です。IMG_4620IMG_4754

「永き日のわれらが為の観世音」の虚子の句が刻まれた聖観音を見上げました。

立派な本堂の前にも紫陽花が美しく咲いていました、見晴台からは海が見えました。IMG_4632IMG_4758IMG_4629

IMG_4637

本日最後に訪れたのは収玄寺です。日蓮の弟子である四条金吾は終生日蓮につくしました。IMG_4645

四条金吾邸址碑を書いたのが日蓮宗信者である東郷平八郎という説明を受け大きな石碑を眺めました。

人力車の俥夫の御兄さんは皆かっこいい人ばかりでした。IMG_4760

IMG_4767

 

 

長谷寺の駅にはほんの1,2分で着きました。4時半過ぎに江ノ電の鎌倉行と藤沢行に分かれて乗り込みました。IMG_4646

本日も盛沢山の連絡道でした。無事に大仏切通を通れたことが最高の思い出になりそうです。

皆様、大変お疲れさまでした。IMG_4625

IMG_4644IMG_4537

 

 

カテゴリー: 未分類 | コメントする

鎌倉街道中道 第十回 鶴ヶ峰から東戸塚

6月7日(火)、11日(土)合わせて30名のご参加で9時30分鶴ヶ峰駅を出発しました。

スカラップ形のモニュメントがありました。この川(帷子川)をはさんで鎌倉時代の初期に畠山氏方と北条氏方が対峙し戦ったのです。IMG_4431

数分進むと源頼朝の忠臣であった畠山重忠の首塚が七重塔として小さな敷地に建てられていました。IMG_4434

少し進むと首洗い井戸があった跡があり、重忠の首を洗い清めたということです。智・仁・勇を備えた武将は北条時政の至急参上せよとの命により、ここで大軍に待ち伏せられて、弓の名手愛甲三郎季隆の弓に当たり42才の生涯を閉じたのです。IMG_4441

帷子川を渡るとき鎧が濡れないように頭に乗せて渡ったということから、この辺りを鎧の渡しと呼びました。この時代の大鎧は40キロ程もあったと講師から聞き、そんなに重かったのかと驚く我々でした。

相鉄線の踏切を渡り街道は住宅地へと入っていきます。IMG_4443

紫陽花が咲き、蛍袋もまだ咲いています。IMG_4445

IMG_4448

 

 

 

 

 

神奈川坂説明柱があります。こちらの地名は本宿です。IMG_4451IMG_4457

ゆるやかな坂を上がりました。道の脇から入ったところは神明社です。全国にある神明社はみな伊勢神宮を分祀したとの事です。

お詣りしてから正面の鳥居をくぐり、長い参道を出てきました。IMG_4454

IMG_4456

土曜日には気温がぐんぐん上がり日陰が恋しくなるばかりでした。IMG_4464IMG_4463

11時少し前に鎌倉道と大山道の分かれ道にさしかかりました。

東に行けば今井街道を経て旧東海道の保土ヶ谷宿へ、南へ行けば鎌倉街道です。IMG_4468

子供自然公園で講師はまた小さな椋の実を見上げて説明し始めます。IMG_4470

この辺りの町名は万騎が原です。万騎が迎え打つために集まった地から、この字が使われていると言う事です。IMG_4472

中央商店街を通り古い市営アパートの様な建物の前を通ります。IMG_4473

 

 

 

IMG_4474

大山道と戸塚道の道標がありました。IMG_4475IMG_4480

畠山地蔵尊、畠山碑を見て二俣川駅へと向かいます。

どなたかが昼食が一番楽しみとおっしゃっておいででした。本日は横浜らしくオムライスのお店に入りました。オムレツとご飯を一緒にしてはという発想から生まれたオムライス。ランチメニュー900円はボ゙リユームがありサラダとスープ、コーヒーもついていてお得感がありました。

12時半過ぎに午後の部スタートです。

先程ちらりと見えた大池に着きました。この大池のめだかの歌である「めだかの学校」の碑を見ました。フエリス女学校の音楽教師の中田喜直氏は旭区に30数年在住され、氏はこの公園を深く愛されたという事です。IMG_4482

そして講師は山桃の樹を見つけ神話の話をするのでした。IMG_4483

朱の橋を渡り坂道を昇ります。山法師の花が咲いています。IMG_4485

上り切り、尾根道を行くと地蔵堂がありました。ヒマラヤ杉の松ぼつくりを講師は差し上げて、実からもわかるようにこの木は松科なのだと証拠を見せるのでした。 IMG_4492 IMG_4494     IMG_4497

元の道に戻った場所に武相境説明柱がありました。

いままで、中道はずっと武蔵の国を歩いていましたがここからは相模国に入ります。又、鎌倉の都が一望できることから都塚という名だと標されていました。IMG_4500

IMG_4501下り坂をどんどん進みます。30分位ずって戸塚カントリークラブのゴルフ場の脇を歩きました。

2時頃に着いたのは霊源山倫勝寺で東京都の小松川にありましたが、区画整理でここに移ってきたそうです。

IMG_4503

IMG_4504治水工事の際に掘り出された元禄時代の地蔵二体と観音様を拝見し、御手洗いをお借りしました。

講師は、こちらにある木で中国では櫻の字で表す「ゆすら梅」の実を示しながら、我が国との違いを話しました。

土曜日は晴天で暑く、平坦な道が終わりまで続くようにと願いながら進みました。10分位歩くと、この奥が戸塚カントリクラブから続いた街道ですが、今は入れないという場所がありました。フェンスの向こうを眺める私達でした。IMG_4507

ここで一つ寄り道をしますと講師は言い、そして下り坂を進み始めます。という事は上がってこなくてはなりません。私達はかなり疲れていましたが、もうひと頑張りしなくてはならなくなりました。

2時半頃着いたのは乗国山徳翁寺です。かやぶきの門がとても立派です。門は閉ざされていて中に入ることはできませんでしたが、ずらりと並んだ十三仏像を拝見しました。IMG_4513IMG_4518IMG_4514

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時間と体力が残っていたらもっとじっくり拝見したいと思いました。そして、本日一番印象に残るかもと思える樹を見たのです。世界三大美樹の一つであるアラウカリアの樹が、不思議な枝を伸ばして立っていました。針葉樹というのに尖った小さな葉がびっしりと枝に付いていて、何と珍しいことかと私たちは疲れも忘れて見上げました。IMG_4511IMG_4516

元の街道に戻り、本日終点の東戸塚駅を目指しました。天候に左右される街道歩きですが、万緑の中の綺麗な花、可憐な花たちに大いに癒された私達でした。

丁度3時頃東口に着きました。火曜日は小雨の中、土曜日は猛暑の中大変、お疲れさまでした。IMG_4526

IMG_4446IMG_4444IMG_4521IMG_4525

カテゴリー: 未分類 | コメントする

五月のあるき隊ブログは、筆者体調不良のためお休みさせていただきました。

カテゴリー: 未分類 | コメントする