鎌倉街道上道  第五回 児玉~小前田

 

 

2月14日(火)、18日(土)両日で40名のご参加で五回目の上道をスタート致しました。

本庄駅西口のバス停から児玉行バスに乗り20分余りで児玉駅入り口に着き、5分~6分で塙保己一記念館に着きました。

ビデオを流したり編纂した和綴じの本の山、中でも保己一が生涯大切にしていたという母の帯での手縫いの巾着が心に残りました。

20分位の間、見学をしました。

芭蕉句碑をいくつも建てた伊藤石材店の前を通ります。

前回の鎌倉街道の終了地点を左に見ながら進みます。

10分位歩くと競進社模範蚕室に着きました。明治10年に、家蚕に炭火の火力で湿気を除いた暖育により病蚕を防ぐ方法を考案しました。明治27年に児玉蚕業伝習所を開設し、現在の白楊高校に至ったとの事です。

11時25分、すぐ側の日蓮宗玉蓮寺へ入りました。

日蓮が佐渡に流される時と放免になり帰国の折の二度、泊まった地で児玉六右衛門は上人入寂後、宅地に一寺を建立したのがこちらの玉蓮寺なのです。

井桁に橘の紋は日蓮上人の御実家の紋で児玉党の軍配団扇紋が屋根の漆喰に浮き上がっていました。日蓮足洗い井戸、時国供養塔の板碑が残っており児玉氏の子孫の久米家の墓には家紋が彫られていました。

梅の咲く参道へと続く東石清水八幡神社は1063年に源頼義、義家が奥州征伐の時に戦勝祈願をし安倍氏を亡ぼし京都に帰る際にも、この地に寄り八幡宮を勧請したのが始まりという事です。

青銅の鳥居と赤い随身門が印象的でした。最後に御嶽神社が祀られている岩の山を眺めました。

玉蔵寺は新田義貞が挙兵した際の児玉党の戦死者を慰める為に、八幡山の雉岡城がある所に祀りましたが、後に現在地に移されたとの事です。

山門は戦国時代の造りで釘を使わない飛騨匠の作という事です。

5分位の処に赤い鳥居の龍體稲荷神社があります。講師は釈迦が誕生の際に九頭竜が甘露の雨と花を散らして祝福したと話していました。

1800年の庚申塔があり、見ながら通りました。

法養寺は八幡宮の別当寺との事で菊と桐の寺紋です。六角堂はボケ防止の観音様で皆でお参りしました。お堂の中を写真で撮らせて頂きました。おもちや花が供えられていました。

芭蕉句碑の「父母のしきりに恋し雉の声」の句に各自、両親を思うのでした。

庚申塔は1728年と古いものがありシヨケラや三猿の彫りには時代を感じながら鑑賞しました。

鐘楼の門をくぐり、法養寺を後にしました。

10分位あるくと見馴川に出ました。水量はとても少なく千本桜と云われる桜の木の並木が続いています。

しばらく川辺を歩き横切った先に工場が見えてきました。大きな壁絵でガリガリ君のアイス工場とわかりました。

そして、その先の一里塚跡に着きました。樹齢300年以上あった榎は現在はなく、誰もいない公園がありました。

お昼過ぎに久々の屋内でのランチを楽しむ事ができました。梅の活花が迎えてくれました。

天婦羅や海鮮丼、唐揚げ等の中で土曜日はお薦めの海鮮丼にしてみました。

ランチすべてに飲み物付きでリーズナブルなお値段にも満足でした。45分位ゆっくりと過ごす事ができました。

綺麗に舗装された広い通りに出て南方へと歩みを進めました。左手を見ると田圃の中に盛り上がった土がポコポコとあります。何と古墳という事です、一番大きいのは前方後円墳との事です。方墳や円墳等10個ちかく残っているとの事です。我々は遠く古墳時代に思いを馳せるのでした。

芭蕉句碑の「麦刈て桑の木ばかり残りけり」を見て、そのまんまの句だとどなたかが・・・。

镹蕤(みか)とは酒造りに使う大瓶の意味で土器や窯跡が見つかっているとの事です。本殿の彫刻が思いの他に立派で見入りました。

摩珂池は古代からあった池で水利の悪いこの地に摩珂般若経を納めて築いたとの伝承があります。

池に球を打つゴルフ練習場は現代人の驕りの様に見えてしまうのですが。摩訶不思議な光景は昔の人々に申し訳ないような気分になりました。

一方で、本日の浅間山の美しい姿は私たちを大変感動させてくれました。

10分位で真言宗智山派の常福寺に着きました。

天平年間創建で空海の弟子の空與が開山し摩珂般若経の秘法を修し摩珂池を開いたと言われています。今でも灌漑に利用されているとの事です。

7分~8分で大伴部真足女歌碑にきました。防人の妻が別れの悲しさを詠んでいました。「枕太刀腰に取り佩きまかなしき背ろがまき来む月のしらなく」

大伴部とは大伴の使用人であるとの意味だと講師は説明しました。

すぐそばに曝井がありました。万葉集に詠まれた織布を晒す井戸があり、若い女性が集まるところから男女交際の場となったといいます。かれる事のない水が湧いたという社交の場は、今でも細い川がありますが、当時を偲ぶことは出来ない眺めでした。

富士講の碑が奥に見えている道を進みました。石碑群の中には篆書の庚申塔もありました。鎌倉街道の案内板も立っています。

大仏の集落は鎌倉時代の北条氏の親類である大仏陸奥守の居住地でした。道しるべに大仏村と刻まれています。

六道能化地蔵尊のそばの小さな薬師堂を見て、浅間大神の石碑や北口登山の碑を見ながら進みました。

雷電坂に雷電神社がありました。雷坂さんの表札には思わず笑いが出ましたが、誰もが何かつながりがある気がしてくるのでした。

30分位頑張って進みました。この辺りの地名となっている甘粕氏や猪俣氏の話を聞きました。満州国で暗躍した甘粕正彦を思い出しました。

真言宗の普門寺へと入りました。龍頭観音が美しく、江戸時代の四十九院石仏群も一体一体じつくり見たいと思うのでした。

杉並木の参道を歩く時、陽差しが西陽へと替わっていてとても良い雰囲気でした。

 

大きな白梅の木が満開で右手に立っていました。数分で寄居町へと入りました。

諏訪神社をちらりと左手に見て先を急ぎます。道路表示に小前田駅が現れました。

JR八高線の踏切には鎌倉街道踏切と表示されています。

折れた場所が修復された「脇往還川越道」の碑は2Mとありますが高く感じました。

ここを西に真っすぐ入った所に用土城(藤田康邦が築く)があったとの事です。

マンホールは、はなぞのの可愛い絵になりました

常光寺に着いたのは電車の時刻があと20分位に迫っている頃でした。コンクリートの本堂とそれに連なる建物はすべて新しく講師の案内する墓の前でその訳が解りました。

鳥羽家の立派な墓はドトールの創業者一族のもので、菩提寺としてかなりの力をそそいだとの事でした。

常光寺持の神社へも寄りました。原宿八幡神社は赤い屋根で神殿の彫刻は小さいながらも美しいものでした。

急ぎに急ぎ小前田駅を目指します。

秩父線の電車の方が早かったのですが駅員さんの計らいで全員乗せてもらいました。今回は10キロ以上の行程で、皆さま大変お疲れ様でした。

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