「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る(鎌倉編の2日目、27日)

二日目の27日(日曜日)は8時半に江ノ電、藤沢駅に集合しました。宿泊組9名と当日参加組の5名で14名でのスタートです。江ノ島電鉄で6駅目の腰越駅まで13分で行けました。

降りるとすぐに古義真言宗の満福寺です。義経が頼朝に宛てた腰越状を書いた所です。弁慶がまず草案を考えました。その時に墨の水を汲んでといわれる池がありました。青空に白い富士山が見えていました。

2~3分で小動神社に入りました。「こゆるぎ神社」の名の由来は弁慶が地団駄をふんだら地面が小動きした事によるとの伝承があります。他にも風がないのに揺れる美しい松の「小揺るぎの松」があったとの話もあります。美しい青の海と七里が浜を展望台から眺めました。

江ノ電の腰越駅に戻り長谷駅まで5駅で14分間、乗り、すぐに海に向いました。7~8分で海浜公園に着き実朝の歌碑を囲み記念撮影をしました。由比ヶ浜と海が美しく輝き実朝が宋に向けて船出を夢見た事に思いを馳せました。今夜、大河ドラマで実朝が悲劇に見舞われます。

実朝は「世の中はつねにもがもな渚こぐあまの小舟のつなでかなしも」と詠みました。漁師の何気ない日常の風景を見ながら世の中が常に変らずにあってほしいとの意味です。

10時には海と別れて道路を鎌倉まで歩きました。長谷寺には寄らずに右に曲がりしばらく行くと左手に甘縄神明社の参道入口がありました。神社の御神体が源義家の守り神といわれ頼朝、政子、実朝らがたびたび参拝しました。御家人の安達盛長が守護に当りましたので屋敷も此処にありました。

通りに出て又、鎌倉方面へ10分位歩くと主馬盛久の頸塚がありました。平家滅亡後、平家の武将の主馬は北条氏に捕えられ斬首された場所です。

寸松洞という鎌倉彫の立派な屋敷を過ぎて10分位すると問注所跡の石碑がありました。頼朝は幕府内に政所、侍所、問注所の三大行政機関を設けたのですが正治元年(1199)に問注所を幕府屋敷外に移したのが現在の問注所跡です。直ぐに裁許橋を渡りました。問注所で判決を受けた罪人が処刑場に引かれて行く時に渡ったことから裁許橋と呼ばれました。

11時6分頃に刑場のあった場所に六地蔵があり、芭蕉の句碑「夏草やつわののどもが夢の跡」の句碑を松尾百遊が建てたのもありました。殆ど読めなくて残念でした。11時11分頃に古代東海道から右へ曲がるとすぐに江ノ電の線路を渡りました。和田塚駅です。

すぐの左手の土を盛った場所に和田一族戦没地の石碑がありました。建保元年(1213)に幕府内の抗争により北条義時と和田義盛の間で武力衝突(和田合戦)があり和田の敗死した屍を埋葬したとの塚です。

11時半頃に海岸橋に出ました。海を背に5分程進むと一の鳥居です。江戸初期の姿を残す鳥居です。当時の美しい雪景色の絵を講師が掲げました。すぐに畠山六郎重保の墓がありました。ここは重忠の子供の屋敷跡です。明徳4年(1393)建立の室町時代の宝篋印塔です。京都での平賀朝雅との酒宴で喧嘩になり鎌倉に帰ったのちに平賀の内室の母である牧の方は北条時政と共に畠山父子をだまし討ちの形で先に重保をそして二俣川で父の重忠を殺害したのです。

約一時間の昼食休憩でハンバーガ屋さんか回転寿司を選んで入りました。12時45分に信号前に集合しました。

琵琶橋は今ではコンクリートとなりましたが昔は擬宝珠のある朱塗りの木橋だったとのことです。道筋に弁財天を祀る祠があったのでこれに因んで名づけられました。下馬碑があり若宮大路では上、中、下の三橋の前で下馬するのが鎌倉武士の礼儀であったとの事です。その為に三橋の前には「釘貫(クギヌキ)」と呼ばれる馬繋用の正方形の広場がありました。

大路から東に入り10分位、進むと日蓮宗妙本寺に着きました。

文応元年(1260)に比企能本(能員の末子)により開かれました。立派な山門を潜ると右手の方に一幡の袖塚が在りました。比企氏の乱後に小御所の焼跡から見つかった亡骸に一幡の着衣の小袖の文様が残っていた事から骨を供養しました。大河ドラマの中の何とも愛くるしい一幡を思い浮かべて胸が詰まりました。その奥にずらりと並んだ比企一族の墓が並んで居ました。大きな五輪塔は加賀前田家内室の墓です。

祖師堂の左脇の石段を登ると竹の御所の墓がありました。父の頼家が殺害された後もひっそりと邸内で住んでいました。実朝が殺されて京から迎えられた13歳の九条(藤原)頼経と竹の御所(源媄子、ヨシコ)28歳で結婚しますが4年後に男子を死産し自身も亡くなります。

本堂から一旦下がり坂道を登った所に蛇苦止堂があります。比企能員の娘で頼家の夫人となり比企氏滅亡で一族と共に没した若狭局(讃岐局とも)を妙本寺の鎮守として祀っています。

7代執権の北条政村の娘が病気で蛇のように苦しんでいる時に政村の写経と八幡宮長官の祈祷で治ったとの事です。直後に政村は堂を創建しました。右手の方には若狭局が身を投げたといわれる井戸があり、これも祀られています。そしてその頃からあった大樹の銀杏が色付いていました。

1時45分頃、頼朝が裏鬼門除けに建てた夷堂の近くにあった夷堂橋の石碑の前に立ちました。若宮大路をどんどん上がり10分位で北条時房の屋敷跡に着きました。

最後に訪ねる政子と実朝の墓のある寿福院へと急ぎました。八幡宮の手前を左に折れすごい人混みをかき分ける様に進み鉄の井を曲りすぐ西に進むと鎌倉五山の三位である寿福院です。広い境内をただひたすら奥上へと登りました。そのずっと奥に母(政子)と息子(実朝)の墓の「やぐら」がありました。日曜日でもあり、人だかりが出来ていました。虚子の墓をチラリと見て寿福寺を後にし八幡宮の前での解散となりました。

丁度3時になっていました。大河館へ行く人、宝物館を見学する人、買物をして帰る人、それぞれに別れて帰路に着きました。皆様、大河ドラマに因んでの企画はいかがでしたでしょうか。来年も楽しい企画をできたらと思っております。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です