第二部 6回(続編) 駒込・巣鴨界隈を巡る

昨年(令和2年)10月に前編を歩いて一年ぶりにその続きを巡ることができました。

白山神社がある白山駅上改札口に10時に集まりました。11月13日(土)、16日(火)、19日(金)共に天気に恵まれまさに小春日和の中を歩きました。

国道17号線を横切ると本郷通りで別名、御成街道を中心に歩きます。

浄土宗瑞泰寺の狛象を見て先に進みました。お釈迦様のお母様のマーヤーは白象が胎内に入る夢を見て妊娠し釈迦を産んだ事によると思われますが狛象は大変珍しく私たちの目を引きました。

すぐに浄土宗清林寺へ入りました。手水鉢の佱(ホウ)の字に注目し飛鳥時代様式の建造中の三重塔にも近付いてみました。花陽稲荷の緑色の幡は奉納された旗と知りました。又、徳本文字の蔦文字を見ました。

3分位で曹洞宗海蔵寺に着きました。ペリー来航時に怪力を示した第十代横綱雲龍久吉の墓がありました。土俵入りの雲龍型というのはこちらの名からきているとのことです。

そして鳥居のあるお墓は行者身禄の墓でした。角行藤仏亡き後、富士信仰を再興した人で江戸末期に男女平等を唱えた身禄に敬愛の念を覚えながらお詣りしました。

細道を入り10時半すぎに夏目漱石旧宅跡に着きました。塀の上に猫が乗っていて昭和46年に川端康成筆による棗漱石旧居跡の石碑を見ました。家屋は明治村に移築されているとの事ですが森鴎外が住み漱石の学友の斉藤阿具が住み、その後、漱石が住み「我輩は猫である」をここで執筆しました。

元の本郷通りに戻るまでにいくつかのお寺を巡りました。まず10分位で浄土宗光源寺に入りました。駒込観音と呼ばれていた元禄10年(1697)の十一面観音像は江戸の鰹節商の丸屋宗閑の寄進でしたが戦火で焼失しました。平成5年に再建されました。3・6メートルと少し小ぶりになったとの事です。金色の大観音様を見上げました。また庭の隅に手の表現がおもしろい千手観音や庚申塔にも注目しました。

11時すこし前に浄土宗蓮光寺に着きました。蝦夷地を探索した最上徳内の墓があります。天明5年(1785)に蝦夷地、寛政10年(1798)には近藤重藏らと共に択捉・ウルップ島を調査しました。そして後に「蝦夷草紙」を著しました。

大垣藩主戸田家の菩提寺でもありました。

少し通りに近づいた場所に曹洞宗高林寺がありました。表に「山門不幸」と書かれた札が建てられていて一般の人が入る事ができませんでした。こちらは緒方洪庵の墓がある寺でとても残念ですが門前で講師の話を聞きながら改めて緒方洪庵の偉大さを知りました。江戸幕府奥医師となり西洋医学所頭取を兼ねて種痘の普及に奔走しました。大坂の適塾では優秀な門下生を育て人材育成に貢献しました。福沢諭吉、大村益次郎、襲われて大けがをした井上馨を手術した所郁太郎、日赤を創った佐野常民等、600余名にのぼります。又、八重というすばらしい伴侶の存在も知りました。

日光御成街道に戻りました。江戸三大青果市場遺跡の碑がありました。天栄寺境内の「さいかち」の木の下で毎朝、土物(大根や人参・牛蒡など土の付いた野菜)が取引されました。

11時半頃、浄土宗定泉寺に入りました。こちらは夢見地蔵菩薩の堂がまずあり。各々がガラス戸の隙間から覗いて進みました。線刻の閻魔大王と地蔵の碑があります。至徳3年(1386)のものでなんとなく見えました。

六角宝塔印塔が奥まった場所にありました。

すぐに天台宗の南谷寺にはいりました。

江戸五色不動の目赤不動がある場所です。目が赤いのではなく伊賀国赤目山で本尊を授かったからとのことです。お堂の中を覗くと炎の光背が見えました。

通りを東に入り進みました。長禄2年(1458)、大田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥天」の金印を発見した事から吉祥寺と称されたとありました。

水道橋に移転後、明暦の大火にあい、ここに移ったとの事です。

その水道橋時代に近辺に住んでいた人が立ち退かされて江戸郊外の吉祥寺の名を付け移り住んだそうです。栴檀林の山門を潜りました。これは曹洞宗修行所で湯島聖堂と並ぶ学問所で後に駒沢大学へと発展しました。

参道が長いのが印象的でした。

墓地に入る前に二宮尊徳の像を見ました。小田原藩領の農村復興に寄与し幕府の日光神領の復興を命じられたが事業半ばに病没しました。大きな墓と小さな尊徳像が印象的でした。

こちらにある膨大な少し朽ちかけた大名の墓に驚きました。その中をどんどん進み鳥居家の墓がありました。鳥居耀蔵は南町奉行の時に蛮社の獄で蘭学者を取り締まりました。

古い経蔵がありました。毘沙門天の使いと言われる虎の狛犬を見ながら次ぎへと進むと奥に榎本武楊の広く立派な墓がありました。旧幕臣でオランダに留学し幕府の軍艦奉行の後、五稜郭にて降伏し3年の在獄を経て明治7年に海軍中将からロシア公使となり千島・樺太交換条約を締結しました。その後に大臣も歴任しました。

街道に戻り講談社のビルと鉛筆のモニュメントの前を進み大きく東へと曲がりどんどん進みました。

10分位で天祖神社に着きました。大きな黄色の銀杏の樹が迎えてくれました。源頼朝が奥州征伐の時に霊夢を見て祀った神社です。江戸時代には駒込神明社と呼ばれ村の鎮守でした。

戦災に会い戦後に復興されました。

境内社や美しい菊を眺めたり庚申塔群を見ました。

すぐに駒込名主屋敷の高木家に着き門の脇の小さな入口から入らせてもらいました。

慶長年間の伝通院領であった駒込一帯の開拓を許され、そのままに土着しました。狭い通路の奥に昔の屋敷があり大きな玄関を拝見しました。

5分位で午後の部、最後の駒込富士神社に着きました。

延文年間(1356~61)にはすでに大きな塚があり一説によると前方後円墳があったとも云われています。江戸で最初の富士講が駒込富士神社で組織されたと云われています。

階段の上に鳥居があり、盛り上がった岩には彩色された富士講塔が沢山ありました。一時ちかくになっています。一路、昼食を取る六義園を目指します。

後編に続く

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