第二部6回(後編) 駒込・巣鴨界隈を巡る

六義園には1時頃に着きました。1時間の休憩で昼食と見学を楽しみました。丁度、紅葉が美しくなりかけていて、私たちの訪れを待っていたかの様に感じました。

五代将徳川綱𠮷の信任の厚かった川越藩主、柳沢吉保が元禄15年(1702)に築園した回遊式築山泉水の大名庭園です。ベンチでお弁当を頂いてから、さあ見学へと踏み出しました。男女の間柄を表す妹山背山の中の島を見ながら渡月橋へと進みました。

藤代峠から見下ろした大泉水の景色を堪能しました。その内、時間が押して来て茶屋の辺りは急いで回りお手洗いを済ませると丁度、集合時間となってしまいました。2時頃,六義園をあとにし、道路を渡り東へ行くと10分位で木戸邸跡に着きました。

木戸孝允は元長州藩士で旧名が桂小五郞で版籍奉還や廃藩置県を進めました。又、欧米使節団の全権副使として随行、45歳の若さで他界し、その後、西郷が死亡、翌年には大久保が暗殺され短い間に維新の三傑が亡くなった事を講師から聞きました。明治天皇は病床の木戸を2回見舞ったということです。

5~6分で鳥居の大きな日枝神社に着きました。江戸時代は東に開けていて朝日に輝く所で朝日山王宮と呼ばれていました。東京の空襲で焼け残り蘇った銀杏の樹を見ました。余りにも大きな空洞が在り、樹が生きていてみんなで感動しました。

大国神社の祭神は大黒天で出世大黒、日出大黒ともいわれました。駒込橋を渡り、駒込駅を見て過ぎました。

通りの右手に子育て地蔵が在り、左端には昭和8年に交通事故で亡くなった11歳の仲良しの少女の像が立っていました。ランドセルを背負った姿に胸が痛み昭和8年でも交通事故があったのかと皆でため息をつきました。

2時頃、建設中のビル右手に妙義神社がありました。16日には工事もしていなかったので階段を上がり新しい神社を見る事ができました。日本武尊が東征の折、陣地にしたとの伝説があり、大田道灌も戦勝祈願をしたとの事です。

森と蔵のある公園には子供達が遊んでいましたのでさっと通り抜けながら見ました。こちらは染井の里といい植木職人集団の棟梁であった伊藤伊兵衛政武が大規模な園芸植物を栽培していたこと事です。

3時になった頃、新義真言宗西福寺に入りました。こちらには伊藤政武の墓がありました。仙台藩最後の藩主、伊達慶邦の記念碑が高くそびえていました。

すぐ側に染井稲荷神社がありました。絵馬を見ました。劉邦が項羽と戦い漢を建国するのを助けた将軍の若き日の韓信の股くぐりのシーンの絵馬でした。

十二地蔵は六地蔵が二段になって刻まれた珍しいもので享保15年(1730)の大火の供養塔と伝わっています。浄土宗専修院には3時20分頃に入りました。伊藤家の屋敷跡で淺草から移されたとの事です。

本日最後のお寺は臨済宗勝林寺です。家康が関ヶ原の合戦で勝利したので正林寺を勝林寺と改称したとの事です。門を入るととてもモダンな建物に重厚さが加わった様な新しい寺院でした。

墓地に入り田沼意次の墓を拝見しました。父は紀州徳川家の足軽から八代将軍吉宗の旗本となりました。意次は幕府側用人から老中にまで累進しました。

そのまま染井霊園へと入っていきました。北海道と命名した蝦夷探検家の松浦武四郎の墓、小説家の二葉亭四迷、美術評論家で思想家の岡倉天心や高村光雲、光太郎夫婦の四つの墓を見学しました。

急ぎ巣鴨通りを目指しました。高岸寺のそばの「みずの」の元祖塩大福をお土産に買い帰路に着きました。あたりは薄暗くなりかけていました。皆様大変お疲れ様でした。

此処彼処 菰巻きの松 陽に映える。 豊治

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