善国寺に集合し大体、午後1時位のスタートで後半がはじまりました。すぐ先を左に折れ地蔵坂にさしかかるとすぐに光照寺に着きました。浄土宗増上寺末です。正保2年(1645)に神田の誓願寺町から移転しました。快慶作の三井寺から移された地蔵菩薩があり、子安地蔵として親しまれていたから地蔵坂と呼ばれました。
門の内に入り左に曲がると酒井氏の墓所があります。出羽松山藩酒井家の江戸における菩提寺で2万石とはいえ、なかなか立派でした。鐘は戦時中に供出されましたが返還されたそうです。すこし小ぶりな鐘です。どの様な音色なのでしようか。海ほうずき供養塔の横には立派な正保4年(1647)の釈迦像が立っていました。そして本堂の奥の墓地も拝見させてもらいました。奥の突き当たりに諸国旅人供養塔がありました。安政5年(1858)までに旅先で亡くなった人は49名で俗名と生国が刻まれているとの事でしたが文字はすでに風化したのでしようか、いくら見ても分かりませんでした。
徳本の名号塔には○に十字をきったような花押が刻まれています。浄土宗の僧で寺を持たずに一生、旅をして広める念仏行者徳本上人の塔です。又、すこし横には切支丹仏像と言われる額に花菱クルスがある如意輪観音がありました。石をいくつも並べた石庭風の珍しい墓は大久保北陰のもので大正6年、81歳で亡くなった人の墓です。また、便々館湖鯉鮒(ベンベンカンコリウ)の墓は江戸時代中期の狂言師で文化15年(1818)、70歳で没したとの事です。本堂の前に牛込城とあり、ここに牛込氏の屋敷があった事が解ります。
新坂という坂を下り住宅地を通り7分位で若宮八幡神社に着きました。源頼朝が文治5年(1189)に奥州藤原氏討伐の時、ここで祈願し奥州平定後、鎌倉若宮八幡を勧請しました。すぐに次へと進みました。坂道を下る時、すばらしく大きな屋敷の横を通りました。聞くと最高裁判所長官の官舎という事です。庾嶺坂(ユウレイサカ)にそって高い塀が続いていました。
そこから2~3分で小さな筑土神社があり、その前に堀兼の井がありました。掘っても堀ってもなかなか水が出ず皆が苦労してやっと掘ったという意味ですが、継母に素手で掘るように言われた子が水が出ないまま息絶えたとの話が残っています。現在はポンプの井の形をした防災用井戸となっています。
外堀通りを南に向かって10分位歩き、ちよっと折れて住宅地に入った所に浄瑠璃坂の柱がありました。光円寺の主尊が薬師如来で東方浄瑠璃世界の教主だったという説とか人形浄瑠璃師が住んでいたとかの説があります。しかし、その名前は現在に残り私たちに何か伝えている様でした。江戸の三大仇討ちの一つである浄瑠璃坂の仇討ちが行われた所です。寛文12年(1672)、宇都宮藩の家老同士の口論から刃傷沙汰におよび切腹、息子は改易となりました。4年後に息子が本懐を遂げた時の絵を講師が掲げて見せました。
通りに出て進み市ヶ谷見附跡の信号を右に曲がると市谷亀ヶ岡八幡宮の石段が見えました。大半の方々は右手の女坂(駿台予備校の中を通る)を選び上り始めました。太田道灌が江戸城築城の折、西の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請しました。坂を上り切ると網のフエンスの中に自衛隊のトラック等が置かれていました。広大な土地と建物がある防衛省の用地となっていました。さてぐるりと廻り後ろから入った市谷八幡にお参りと見学をしました。琴平の酒である金陵が奉納されています。水盤の左側面の台座にはあの几号水準点の印がありました。狛犬はどちらも江戸時代のものです。
石段を少し下った所に琴平神社がありました。これは近くに港があったという事を意味しているとの事です。木曜日はここで少し風が吹いたのでしようか、銀杏落葉が私たちに振り注ぎました。又、少し下がり茶木稲荷に詣りました。茶の木稲荷には白狐がいて茶の木で目を突いたとの事です。信者は正月の三が日はお茶を絶ったという話があります。又、長崎から横尾道益という医者が怪我をした旅人を手当したのがここの狐だったのです。狐の予言どおりに道益は出世したり、火事の時には狐の助言で命拾いをしたとの事です。
10分位で市谷駅構内へと入っていきました。江戸歴史散歩コーナがあり石垣が改札の中にドンとあり江戸の古地図が床に描かれたありました。ここが市谷見附です。私たちはトイレを借りながら足元の絵図を楽しみました。
エスカレータを上がりもと来た道に戻り橋を渡ると市ヶ谷駅が右手にありました。左の交差点の千代田区の標識の下辺りの道が帯坂で番町皿屋敷の話がある所です。腰元のお菊が帯を引きずり逃げた事から帯坂と名がついたとの事です。
説明を聞きながら外堀の土手(江戸城外堀公園)を歩きました。松が植えられているのは非常時に松を切り倒しバリケードにするためだそうです。銀杏の黄葉を踏み風景を楽しみました。10分位で左側の大きな品の良い入口の建物を見ました。雙葉小学校と中学校とありました。
四谷見附(説明は次回の半蔵門から新宿の時)の側を通り迎賓館へと進みました。紀州藩中屋敷の20万坪の広大な敷地は現在、赤坂御用地となっています。明治42年にベルサイ宮殿を模して片山東熊(コンドルの弟子)が統轄し完成しました。本日はフエンスの外から見ながら通りました。15時過ぎた頃、紀州藩中屋敷の御門がありました。人通りが少なくて上野と同じ景色を見た時を思い出しました。江戸時代にタイムスリップしたような気がしました。白壁の塀が長く続いていました。
外堀の橋を渡る時は右手には水鳥が遊んでいました。左手は広いグランドになっていますが戦災の瓦礫をここで処分して埋め立てたという事です。上智大学が協力したとの事で周辺には上智大学の立派な校舎がそびえていました。橋を渡った先が当時の道が左右に折れ曲っていたので喰違見附跡と言われています。紀伊国坂上に讃岐高松藩生駒氏により築かれたもので三十六見附中、最高の地点です。明治7年に岩倉具視襲撃事件がここで起こりましが軽傷で暗闇の濠へ逃れ助かりました。
ホテルニューオオタニが見えて来ました。歩道の右手に尾張名古屋藩屋敷跡碑の石柱がありました。近江彦根藩井伊家屋敷跡もありました。静かな裏庭の様な場所にホテルオオタニの創業者である大谷米太郎が購入した上野寛永寺の灯籠が2つありました。萱の大木も見上げました、江戸中期より井伊家の庭にあった萱の木です。冬桜も近くに咲いていました。
ホテルを出て紀尾井坂を下りました。銀杏並木の美しさにうっとりとしながら滑らないように踏みしめながら歩きました。
ホテルの外に沿って右に曲がると清水谷公園です。またまた美しい紅葉が池に映っていて外国人も楽しんでいました。その奥に大久保利通慰霊碑が大きく建てられていました。明治11年にこの地で石川・島根県の不平士族に殺害されました。懐に西郷隆盛の手紙を持っていたとは胸の詰まる話でした。落葉の奥に石桝が置かれていました。
公園を出ると新しく建ったガーデンテラスホテルのイルミネイションが月曜日は灯り始めていました。弁慶橋を渡ります。弁慶小左衛門が神田の藍染川に掛けた橋の廃材で造りました。擬宝珠もある日本風の美しい橋と桜の木で東京の名所だったそうです。
左に曲がると赤坂見附跡がありました。赤坂見附門の石垣の高さは外堀随一の高さです。大山街道はここから始まります。これまで内堀・外堀を歩きましたが江戸城の大きさが少し分ったような気がします。この城を中心に100万人の人達の暮らしがあった事を偲びながら帰路に就きました。
暮れの月にもかかわらず大勢様のご参加をありがとうございました。そして一年間大変お世話になりました。
令和元年もあと少しです。新しい年が皆様にとって素晴らしいお年でありますように。
山の手の社静かな年の暮 豊治
茶屋の名を刻み稲荷の冬日和
山茶花を掃き黒塀へ消えゆけり 慶月