鎌倉街道上道 第一回 高崎から山名

 

平成28年10月いよいよ鎌倉街道上道がスタートしました。18日は夏日の暑さとなってしまいました。両日ともに19名のご参加で、中道より隊員の皆様が増え賑やかに高崎駅に集合しました。img_5423

10時2,3分過ぎにいざ鎌倉と、鎌倉に向けての第一歩を踏み出しました。数分であら町の交差点を渡りました。講師が「いま渡っているのが中山道ですよ。」といい、あら町の小さな諏訪神社を右手に見ながら進みました。img_5596

高崎城跡の高崎公園を通り抜け、低い石垣の角までやってきました。赤坂の庄というこの地に和田氏が築城した和田城は戦国時代まで続き、徳川家康の命で井伊直政が和田城を囲むように築城したのが高崎城です。三の丸の堀と土塁が昔の面影を止めていました。img_5429img_5431

すぐそばに頼政神社があります。img_5435

こちらの境内で上道からのご参加の新しい隊員の方々の紹介がありました。

高崎城主の大河内氏の祖先である源頼政を祀ってあります。歌人であり鵺退治で有名ですが平氏との宇治川の戦いで没しています。また社殿の前には内村鑑三記念碑があり、全国からの寄附でできたということです。無教会主義や非戦論の提唱で知られています。

5,6分で光明寺に着きました。弘法大師の像が建っています。鑑三が建てた内村家の墓を見せていただく為にご挨拶をしてから、道を隔てた墓地へ向かいました。img_5607

又2,3分の所に高崎藩の御典医だつた佐藤病院がありました。この病院の右手の狭い場所に化け石と呼ばれる大きな石が置かれていました。馬蹴り石とも呼ばれたこの石の表面をみていると何かの顔が浮かんできます。img_5447img_5448

しかし私たちはゆっくりすることはできず、早々に次へと向かいました。興禅寺は高崎宿で最も由緒ある寺ということです。新田義重が創建して戦国時代には和田信輝が再興したそうです。img_5439

img_5440明治の大火で山門だけが焼けなかったのは雲竜図の龍が水を吐いたからだとされています。

11時半頃、上信鉄道の踏切を渡りました。明治5年開設の日本で一番古い私鉄です。鎌倉街道記念碑が植え込みの中にありました。img_5453

img_5455

琴平神社に着いたのは11時40分位でした。本日は二手に別れ神社の境内でお弁当の人と、近くに1軒しかないトンカツ屋へ行く人との昼食となりました。定食1200円はまあまあ、あっさりとしていてよかったとのお声をいただきました。img_545812時半頃から午後の部の始まりです。琴平神社に戻り随身門をくぐりました。狛犬の手前に天狗の像が立っています。左側の天狗は鼻が高くない烏天狗です。拝殿の左には赤と黒の天狗の顔の額がありました。img_5460img_5462

img_5463

 

 

img_5465

img_5468江戸時代に四国の琴平宮を、江戸藩邸に勧請していて、明治になってからこちらに移したとのことです。神紋が、天狗が持っている団扇だなんて、とてもユーモアが感じられます。横にある飯玉神社へもお参りをしました。

真言宗の荘厳寺では、大きな魚板が目に飛び込んできました。賽銭箱の前に横たわっているではありませんか。お釈迦様と、ある魚の大王との関わりから木魚と魚板が生まれたと講師の面白い話を聞きました。img_5472

高崎観音を建立した井上保三郎の墓の前で、あの田中角栄が務めていたのがこの井上土建の東京支店だったと聞きました。皆でへぇ~と言いながら大きなお墓を見上げるのでした。

img_5474

天保時代の男女双体道祖神を見て通りました。石に文字を刻んだ大きな道標を兼ねた馬頭観音もありました。img_5479img_5481

10分位歩くと万葉集にも歌われた佐野の渡しにやってきました。こちらでは烏川を挟んでの悲恋の謡曲舟橋の話もあります。

img_5485碑の東には朝日長者の屋敷跡ともいわれる西光寺があります。

10分弱で常世神社です。中道の北鎌倉で聞いた鉢の木で知られている佐野源左衛門常世が祀られています。大きな絵を見ながら火曜日は丁度、地元の人たちが神社のお掃除をされていて拝殿の中も見せて頂きました。img_5497img_5489

img_5492

公園で御手洗休憩と水分補給をして、隣の定家神社に1時半頃に向かいました。広い敷地の奥に赤い社がありました。江戸時代の中頃に高崎在住の文人たちにより創建されたといいます。源実朝の歌も添削したという藤原定家が祀られています。本殿の彫刻や柱をを眺めて几帳面という言葉の由来を聞きました。また歌碑や芭蕉句碑も味わいました。img_5500img_5499img_5501

新古今和歌集の定家の歌の「駒とめて袖打ち払う陰もなし 佐野のわたりの雪の夕暮れ」はとても有名です。

広い境内の隅には、火除けの古峰神社が小さく祀られていてお参りしました。

img_5503

2,3分で放光寺跡と放光神社を過ぎました。

img_5504

その後はしばらく歩き続けました。30分近くすると烏川を渡ります。川の水量を測る石を見ました。鴨の集団が泳いでいてのどかな風景です。img_5511img_5512

img_5513img_5515高崎商科大学も大きく見えてきました。2時半頃、大学前の駅で御手洗い休憩と水分補給をしました。

さあこれから自然歩道へとわけ入ります。イノシシ、マムシ注意の看板に身が引き締まります。

 

img_5519img_5517

万葉集の歌碑の多さに驚きながら鑑賞したくとも、18日はむし暑さと蚊に悩まされながら坂道を必死に上るしかありませんでした。22日は比較的涼しくて天候による違いをまざまざと感じさせられた次第です。img_5520img_5526img_5530

img_5527

実際に山名城祉にのぼったのは22日で、広い草原はあるものの眼前は、樹々に覆われていてその見晴らしの悪さには少々がっかりしました。img_5671img_5676img_5674

高崎商科大学前駅から1時間ぐらいの所に山の上古墳がありました。飛鳥時代の円墳で石室の奥に馬頭観音が祀られていました。img_5539img_5681img_5682石碑には681年10月3日に記すとあり、最初にこの地を支配していた者と、大和政権から管理者としてきていた者との間の子孫である長利が母のために記したと書かれてあります。よって古墳は長利の母を埋葬したとされています。img_5542

3時半すぎ手すりの付いた細い階段を下りはじめました。

img_5547

又15分位すると二十二夜待供養塔と、その右に扉と屋根が付いた祠の様な物の中には阿弥陀如来板碑(1278)があり、興味のある人は丸い穴から覗いてみました。線刻の阿弥陀如来の御光の線がきれいに見えました。img_5559img_5690

講師はアミダくじはこの線が元で出来た言葉だと言い、我々はほお~と感心するのでした。

5分位で道が二手に分かれていました。追分地蔵がどっしりと座っていらっしゃいました。石碑群を見ながら左へと曲がりました。

img_5563百番供養塔は西国33ケ所、坂東33ケ所、秩父34カ所の観音巡礼を達成した記念の供養塔です。img_5567そして、4時に本日最後の山名八幡へと入りました。太刀割石を見て線路の下の通路を通り上がれば神社の随身門です。

img_5571神馬には五七桐根の紋が金色に輝いていました。

img_5573

img_5574応仁の乱の山名宗全の祖がこちらの神社造営をした山名義範であったとは。宗全と言えば応仁の乱の日野富子の顔が浮かんできます。お稲荷さまの前には宗全の石碑がありました。

img_5576

img_5580拝殿にお参りし本殿を見上げると彫刻の美しさに私達は驚きました。img_5581img_5583img_5589img_5588裏神様も拝見しお参りしてさらに御利益をいただき、お神木を見上げながら山名駅へと入りました。4時46分発の上信鉄道で高崎駅へと向かいました。img_5707

本日は何と言っても高崎自然歩道の厳しさを頑張って歩いたことですね。解散は高崎駅、5時になってしまいました。皆様大変お疲れさまでした。img_5560

img_5692img_5591

 

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です