第十二回 本郷台から鎌倉

鎌倉街道中道も今回が最後となりました。20日(火)と24日(土)総勢31名の方々でいつもの様に元気よくスタートしました。お天気の方が残念ながら台風の影響や秋の長雨とぶつかり雨天決行と相なりました。img_5135 本郷台の駅を右に折れしばらく行くと数分で前回の終点の場所にやってきました。 この辺りの山内本郷についての説明を受け、しばらく行くと双体道祖神があるお稲荷さんに着きました。img_5013img_5012 二体とも丸いお顔で同じ様な衣が印象的です。道沿いにはお地蔵様や馬頭観音様もいらっしやいました。   子供の行き倒れを救ったという薬師堂を過ぎ、8分位歩くと延命地蔵尊には菊のお花が供えられていました。鎌倉時代には川岸に宿駅があったとのことです。川の名は吉田兼好の歌から歌の頭の字をとり「いたち」とした説や、この場所で武士たちが出陣のいでたちを整えたということから付けられた説など面白い話を聴きました。img_5015 img_5018img_5020 歩道橋を渡り笠間道標を過ぎ住宅地の中の道を進みます。今泉村不動尊の像はトラックがぶつかり、作り直されたとの事で、いかついお顔と赤い火焔が印象的でした。img_5025 浄土宗の法安寺に10時30分頃に着きました。笠間領主の生実藩森川氏所縁の寺で徳本上人さんの名号塔を拝見しました。img_5027庚申塔やお地蔵さまも集められていて可愛らしい三猿に雨のうっとうしさを一瞬忘れさせられる私たちでした。   img_5030img_5035   11時少し前に長い階段が見えてきました。火曜日は雨が本降りの青木神社でした。何と120段!!しっかり数えてくれた方がいらっしゃいました。我々は頑張り頑張り昇りました。img_5037img_5039img_5041 こちらは、笠間村の氏神さまです。二十三夜供養塔の丁寧な説明板があり、信仰の中に楽しみをみつける当時の人々の生活ぶりを思い浮かべました。 川沿いを歩いていると講師は一旦、ここで街道は途切れますと言いました。我々は昼食の場所の大船駅へと向かいました。img_5043 駅のそばはいろいろなお店があり、火曜日は中華、土曜日は海鮮のお店に入りました。少し早めのお昼です。雨を心配しましたが土曜日は、この時間まで降られずに済みました。img_5171img_5047       午後一番に訪れたのは鎌倉で唯一と云われる浄土真宗の成福寺です。本堂の中を拝見させてもらいました。真中に阿弥陀如来、右に聖徳太子、左には親鸞聖人像軸です。img_5051img_5052 さて、私たちの関心を引いたのは笠智衆のお墓でした。熊本県の浄土真宗、住職の息子で東洋大学印度哲学科に入ったとのことです。そこで思い出されたのが中道の真ん中頃に寄った江古田の哲学堂公園の事でした。笠智衆と、こんな所で繋がっていたとは・・・。「東京物語」や「麦秋」や「たまゆら」等々が思い出されます。ずっとずっと日本人に愛され続ける俳優の一人でしよう。img_5048img_5175img_5056茅葺の美しい山門を後にし「せゐ志くばし」の道標とすぐに「右とつか左藤さわ道」と書かれた地蔵を見ました。     img_5059img_5058 img_5066一行は北鎌倉駅手前の線路を渡りました。八雲神社の石段は青木神社ほどではなくほっとし、滑らないように気を付けて上りました。ここは山之内の鎮守とのことです。阿部清明の石が祀られていて実朝暗殺以降、京都と同じように幕府は陰陽道の活動を本格化させたようです。img_5067 img_5183img_5073北鎌倉駅を左に見ながら進み、山之内交番の前を過ぎようとする時に左手のこんもりした木の辺りを指さし、昔はここまで白鷺池だったという話を聞きました。img_5078円覚寺の駐車場でトイレ休憩をしました。北条時宗が建立した大きな禅寺ですがこちらだけでも半日は説明が必要との講師の話で、本日は寄ることができないとのことです。img_5079 2時頃に東慶寺の前に来ました。静かで美しいたたずまいで、鎌倉では女性が最も好むお寺の一つです。1285年に北条時宗の妻が開いてより昭和36年まで尼寺だったとは、何と心惹かれるではありませんか。豊臣秀頼の娘が天秀尼となり20世住職を務めたのは有名な話です。img_5081 img_5083そして女性の駆け込み寺として重要な役割を果たしましたが生活費を納めると聞き、庶民では無理だったのではと考えさせられました。ともあれ、ただ我慢するだけの道だけではなく女性にとってこのような寺があったという事に救われる思いがしました。 少し行くと甘露の井があり、今もきれいな水が湧いていました。img_5186img_5088           そして、皆様お楽しみの北鎌倉で有名な菓子舗に寄り、御手洗いもお借りしました。img_5092 うさぎ饅頭や鎌倉殿というどらやきが有名で、思い思いに買い物をすませました。 img_5190   謡曲世阿弥の鉢木の話を聞き、金龍水があった道路の敷石を見ました。img_5194 建長寺前では、若いお坊さまが大きな山門に入って行く姿を見ましたが、この辺が昔は刑場だつたとは何と恐ろしい話ではありませんか。多くの人はケンチン汁の事しか頭にないとはちよっと情けない話です。img_5093 亀谷ケ谷切通の入口横の寺は長寿寺といい、足利尊氏の創建ですが入る事は出来ません。門の右手に亀の形をした贔屓の上に「仏頂尊勝陀羅尼塔」が目立っていました。誰も居ないお庭に咲く曼珠沙華の赤と白が印象的でした。img_5196img_5197 どちらの日も雨に降られて、滑らないように気を付けて切通を歩きました。img_5199 img_5200 薬王寺の門を入ると家光の弟の忠長の供養塔を拝見し説明を聞きました。 img_5102奥に進み、小高い場所にある松山藩主蒲生忠知の正室(家康の孫)と息女の墓二基が堂々と建っていました。img_5104img_5105 切通を下ったところの岩船地蔵に着いたのは3時過ぎでした。 頼朝の長女の大姫の墓所との云い伝えがあります。大姫は、許嫁で人質でもあった義高が処刑されてしばらくして命を落としました。悲しい姫君として有名です。小さな隙間から覗くと位牌と立派なお坊様の像が見えました。img_5106img_5107

一本横の通りには本田さんのお庭の奥の矢倉の下に扇谷の名前の元となったと言われる扇の井があります。土曜日にはお家の方のご好意により庭に入れていただき側まで行けたのですが、トタンのカバーが掛けられていて扇の形を確かめる事はできませんでした。img_5209img_5206 そっちは突き当りよと子供が声をかけてくれましたが、通りを進むと千葉氏の一族である相馬氏の墓がありました。相馬氏は陸奥の国に移り、江戸時代には相馬中村藩6万石として明治を迎えたとの事です。img_5111 格式の高いお寺がこんな所にもありました。浄光明寺は藤原定家の孫である冷泉家の始祖為相の墓があり母である阿仏尼の京から鎌倉への紀行文「十六夜日記」が有名です。img_5115 そして講師が思わず力を入れる様子で、こちらには楊貴妃観音があると我々を導くのでした。中国の時代劇をよく見ている筆者は貴妃の位が皇后の次であると思うのでした。img_5113img_5114 鎌倉十井の一つの泉の井の苔むした小さな井を見ました。img_5116 img_51183時半すぎにJRの列車とすれ違いました。扇ケ谷上杉屋敷跡の碑を見て細い道を進みます。img_5119鶴岡八幡宮の横を通り石像群を草の中に見ながら、小袋坂の切通を行ける所まで歩みを進めました。 img_5124暗い行き止まりでした。img_5222 丸山稲荷の赤い鳥居をくぐります。八幡宮を勧請する前の地主神であるお稲荷ということです。狭く曲がった階段を私達は力を振り絞り登り下りました。img_5127img_5230 鶴岡八幡宮を脇から入る形となりましたが中道の終点に到着しました。 土曜日は婚礼の儀式の最中で雅楽が響いておりました。img_5233大半の方々はこれより懇親会の場所へと移りました。img_5131img_5237   昨年、岩槻を出発して今年の9月までの12回に渡り歩きつないで鎌倉までたどり着きました。 鎌倉街道の中でこの中道は短い方とのことですが、「あるき隊」として最初の街道を完歩したことに皆さまと共に達成感をかみしめながら乾杯いたしました。 皆様さまとご一緒出来た懐かしい時を思い返しながら、この中道の紀行文を閉じさせていただきます。

持ち寄りてニ十三夜のおなごたち

鎌倉に 秋霖止まず 智衆墓碑    慶月

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第十一回 東戸塚から本郷台

 

7月12日(火)16日(土)ともに15名ずつの参加で行われました。

天気予報より少し気温も上がり水分補給を小まめに取りながら進みました。鎌倉街道街中道も今回を入れてあと二回となりました。IMG_4771

9時半過ぎ東戸塚駅を出発しました。横浜市立川上小学校の横を通り暑さに負けずどんどん進みました。住宅地を抜け平戸永谷川を渡るとしばらくして緑豊かな道にさしかかりました。IMG_4776IMG_4773

 

 

 

 

 

中道の中で一番長く残っている街道へと入っていきました。何と狭い事でしようか。IMG_4778

この道を頼朝や北条義時らが通ったのです。IMG_4779

早駆けの道という名が付いていて坂東武者たちに思いを馳せる私たちでした。

市民の森という公園では五山見亭跡や山の神稲荷を見て、講師のいつもの面白い話をまじえての説明を受けました。

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畑の間の道に出ると日陰がなく汗が滴ります。しばらくするとまた緑陰の道に入っていきました。IMG_4881

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11時半よりお楽しみのお昼です。今日は早目に休憩に入り12時40分までといたしました。IMG_4887

ほてった身体を冷やし、水分と栄養を十分に補給しました。

午後、スタートして10分位でこの辺りの石碑を集めた丸山台の碑を見て通ります。右とつかミち 相刕鎌倉郡と刻まれてありました。少年野球をしている広場は笹山砦跡で宅間上杉の居城跡との説明を受けました。IMG_4795

福徳院の日限地蔵尊には1時頃着きました。石仏で日本三体地蔵と云われているとの事です。日数を限って祈願をすれば願いがかなうと聞きますと、早速みなお参りをしました。老犬がおりの中からこちらを見ていました。IMG_4799IMG_4896IMG_4895IMG_4897IMG_4898

30分位しばらく頑張って進みました。

奥にスダジイの大樹があり手前に庚申塔の道標がありました。元はスダジイの洞にあったが樹は奥に移植したとの事です。IMG_4806IMG_4810

バイパスの新しい道路でしようか、高い場所から見ながら通りました。舞岡南の橋です。高台で気持ちのいい眺めです。IMG_4908

 

 

 

 

 

 

 

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IMG_4813右手にうっそうとした緑地がある擦小鉢坂を下り始めました。IMG_4816

見晴橋をすぎ、また少し下ります。

西谷稲荷に着きました。右手に石仏が集められていました。IMG_4820IMG_4821

左手を下ると赤坂の湧水があり、私たちは手をひたしハンカチを濡らし、小さな凉を味わいました。IMG_4822

2,3分で木曽の石仏へ。道路工事のために集められたもので赤い布の巻物が印象的でした。IMG_4918

ブラックベリーやコブシの実を見ながら渡戸庚申塔を見て通りました。IMG_4827IMG_4828

IMG_4919元文3年(1737)のものがありました。

2時半過ぎに長光寺の階段を上がりました。IMG_4921

IMG_4922ナンジャモンジャの樹と云われるクロガネモチの大木がまず目に入ります。

菅谷山の山号の門をくぐり本堂へと進みました。IMG_4924

振り返ると木瓜庵の寺紋がはっきりと見えます。開基が伊東氏なので伊東氏所縁の紋でした。本尊は阿弥陀如来ですが、家康の伝承のある木彫りの薬師如来があるという事です。

長光寺を後にしてすぐに田中家の長屋門が見えてきました。IMG_4845

 

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家康が鷹狩をしたときの追い上げ坂のそばには、茅葺を瓦ぶきに変えたという長屋門もありました。

3時過ぎに七石山横山古墳群へ着きました。IMG_4937

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上を見上げると岩のほら穴があります。この古墳は玄室の奥壁に小さな奥窓があるのが特徴といいます。

本郷の名の由来を聞き3時半頃、本郷台の駅に着きました。IMG_4857

暑い中を皆様本当にお疲れさまでした。

8月は、あるき隊はお休みです。そして9月は、いよいよ中道の最終回を迎えます。

しばらくお会いできませんが、皆様どうかお元気でお過ごしくださいませ。IMG_4883

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 鎌倉街道・東海道連絡道 第3回

 

6月21日は雨の中、6月25日はうすぐもりの中をJR藤沢駅を出発しました。まず境川を渡ります。橋に立派な石の常夜燈が立っていました。街道は住宅地へと入って行きました。IMG_4651

本日最初に訪れたのは舩玉神社です。源実朝が宋に行く為に船を造らせたが浮かばなかったという伝承があります。この辺りに大鋸が住んでいて船大工などの御用をしていたといい、それが地名にもなっています。二宮金次郎の石像も右前にありました。IMG_4659

進んで行きますと10時すぎに左手に石造物が集められている場所が、右手には紫陽花が咲き空が開けてきました。IMG_4538IMG_466130分位進むとこちらの地名は村岡町です。使われていないという道路を潜り弥勒寺(みろくじ)に来ました。ひげ文字の碑が迎えてくれました。IMG_4666

IMG_4667IMG_4669実を見てみたいと思う仏手柑の小さな木を見ました。芭蕉のバナナのような実もなっていました。

こちらは北条泰時が父の義時を弔う為に創建したといいます。始めは禅宗の寺でしたが、後に日蓮宗に改宗したとの事でした。

 

 

JR線の横を通り踊り子号とすれ違いました。古い道祖神を見て通り大門跡を通り御霊神社へと長い参道を進みます。鶯が鳴いています。IMG_4678太いタブの木が常緑樹の葉を茂らせていました。「梅が香にのっと日の出る山路かな」の芭蕉句碑を見ました。

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私達は女坂を登り旗立山の由来を聞きました。源義家が前九年の役のとき、山の頂上に白旗を立てて兵を集めたとのことです。IMG_4681

登り切った拝殿の鈴には鰐口も付いていました。IMG_4683兜山に会った七面宮や疱瘡神にもお参りして今度は男坂である階段を降りました。IMG_4686

 

 

 

 

 

 

 

 

 

IMG_4688すぐ脇にある草の空地になっている別当寺の徳寿院跡も見ました。IMG_4690

10分余り進むと鎌倉古道上の道の石柱が建っていました。IMG_4691

権五郎景政が兜を松の根本に埋めたと言われる兜松跡は立ち入り禁止で側まで行けませんでした。IMG_4694古館橋の交差点を過ぎ八丁面という広々とした草原の横を進みました。IMG_4700

 

 

 

IMG_4701モノレールの下を潜り進むと本日のお昼ごはんの場所です。

21日は大きな喫茶店で25日は絹蕎麦を頂きました。

 

 

 

1時間の休憩の後、午後の始まりです。20分位歩くと、この辺りの領主であった梶原景時が創建して時代を経て明治より八雲神社となったという神社の紫陽花の石段を昇りました。IMG_4708

室町時代の創建の円久寺にも寄りました。気温も上がって辛くなってきました。IMG_4571それから10分位歩き北条氏常盤亭跡に着きました。緑に囲まれた草々に覆われた場所です。IMG_4573

大仏の切通の北の要所で北条一族の有力者の別邸跡で重要な史跡ということです。

来た道を引き返し八雲神社辺りまで戻りました。IMG_4575

いよいよ大仏切通坂の入口です。すぐに岩を削ったような所に出ました。皆さんのおーという声が聞こえます。IMG_4715

IMG_4719美しい緑の苔の中ですが置石が行く手を阻みます。IMG_4718IMG_4588IMG_4720

雨上がりの切通はぬかるみにはまりながら、手すりをたよりに茂みの中を降りはじめまた。IMG_4590

一列しか通れない細い道を25日は土曜日でしたので、下から登ってこられる人達とすれ違いました。切通の中で一番困難と言われている大仏切通を、私たちは無事通過したのです。

切通のそばに高徳院があり大仏さまが奥におられました。IMG_4727

こちらで自由散策となりました。御手洗いと水分補給もしました。IMG_4598

その昔は木造だったそうですが1252年に青銅像に造りかえられた大仏様は、近年の改修も終え美しいお姿でした。「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」与謝野晶子の歌を鑑賞しながら感動を新たに致しました。IMG_4726

手焼きせんべいのお店に寄り5,6分で買い物を済ませて次へ進みます。IMG_4731

桑ケ谷養生所跡に立ち、1200年代にここで貧者や病人を救った施設があったとはと私たちは大変感心致しました。

光則寺は日蓮が佐渡に流された際に日朗上人がこちらの裏山の土牢に入れられた土牢があります。IMG_4736

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IMG_4742まず花の道を縫いながら石段を上がりました。大きな閉ざされたままの土牢を見ました。その後は思い思いに庭を鑑賞しました。宮沢賢治の雨にも負けずの歌碑があり、日蓮宗の信者と知りました。IMG_4611

白い半夏生の花がきれいでした。しもつけ、ぎぼうし、色んな紫陽花も咲いていました。IMG_4748IMG_4750IMG_4610

一休みして、いよいよ次は長谷寺です。4時すこし前に着き、赤いちょうちんの前で記念撮影をしました。講師が皆様にどうしてもお見せしたいという金魚葉椿の葉を見て20分位、思い思いの散策時間です。IMG_4620IMG_4754

「永き日のわれらが為の観世音」の虚子の句が刻まれた聖観音を見上げました。

立派な本堂の前にも紫陽花が美しく咲いていました、見晴台からは海が見えました。IMG_4632IMG_4758IMG_4629

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本日最後に訪れたのは収玄寺です。日蓮の弟子である四条金吾は終生日蓮につくしました。IMG_4645

四条金吾邸址碑を書いたのが日蓮宗信者である東郷平八郎という説明を受け大きな石碑を眺めました。

人力車の俥夫の御兄さんは皆かっこいい人ばかりでした。IMG_4760

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長谷寺の駅にはほんの1,2分で着きました。4時半過ぎに江ノ電の鎌倉行と藤沢行に分かれて乗り込みました。IMG_4646

本日も盛沢山の連絡道でした。無事に大仏切通を通れたことが最高の思い出になりそうです。

皆様、大変お疲れさまでした。IMG_4625

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鎌倉街道中道 第十回 鶴ヶ峰から東戸塚

6月7日(火)、11日(土)合わせて30名のご参加で9時30分鶴ヶ峰駅を出発しました。

スカラップ形のモニュメントがありました。この川(帷子川)をはさんで鎌倉時代の初期に畠山氏方と北条氏方が対峙し戦ったのです。IMG_4431

数分進むと源頼朝の忠臣であった畠山重忠の首塚が七重塔として小さな敷地に建てられていました。IMG_4434

少し進むと首洗い井戸があった跡があり、重忠の首を洗い清めたということです。智・仁・勇を備えた武将は北条時政の至急参上せよとの命により、ここで大軍に待ち伏せられて、弓の名手愛甲三郎季隆の弓に当たり42才の生涯を閉じたのです。IMG_4441

帷子川を渡るとき鎧が濡れないように頭に乗せて渡ったということから、この辺りを鎧の渡しと呼びました。この時代の大鎧は40キロ程もあったと講師から聞き、そんなに重かったのかと驚く我々でした。

相鉄線の踏切を渡り街道は住宅地へと入っていきます。IMG_4443

紫陽花が咲き、蛍袋もまだ咲いています。IMG_4445

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神奈川坂説明柱があります。こちらの地名は本宿です。IMG_4451IMG_4457

ゆるやかな坂を上がりました。道の脇から入ったところは神明社です。全国にある神明社はみな伊勢神宮を分祀したとの事です。

お詣りしてから正面の鳥居をくぐり、長い参道を出てきました。IMG_4454

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土曜日には気温がぐんぐん上がり日陰が恋しくなるばかりでした。IMG_4464IMG_4463

11時少し前に鎌倉道と大山道の分かれ道にさしかかりました。

東に行けば今井街道を経て旧東海道の保土ヶ谷宿へ、南へ行けば鎌倉街道です。IMG_4468

子供自然公園で講師はまた小さな椋の実を見上げて説明し始めます。IMG_4470

この辺りの町名は万騎が原です。万騎が迎え打つために集まった地から、この字が使われていると言う事です。IMG_4472

中央商店街を通り古い市営アパートの様な建物の前を通ります。IMG_4473

 

 

 

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大山道と戸塚道の道標がありました。IMG_4475IMG_4480

畠山地蔵尊、畠山碑を見て二俣川駅へと向かいます。

どなたかが昼食が一番楽しみとおっしゃっておいででした。本日は横浜らしくオムライスのお店に入りました。オムレツとご飯を一緒にしてはという発想から生まれたオムライス。ランチメニュー900円はボ゙リユームがありサラダとスープ、コーヒーもついていてお得感がありました。

12時半過ぎに午後の部スタートです。

先程ちらりと見えた大池に着きました。この大池のめだかの歌である「めだかの学校」の碑を見ました。フエリス女学校の音楽教師の中田喜直氏は旭区に30数年在住され、氏はこの公園を深く愛されたという事です。IMG_4482

そして講師は山桃の樹を見つけ神話の話をするのでした。IMG_4483

朱の橋を渡り坂道を昇ります。山法師の花が咲いています。IMG_4485

上り切り、尾根道を行くと地蔵堂がありました。ヒマラヤ杉の松ぼつくりを講師は差し上げて、実からもわかるようにこの木は松科なのだと証拠を見せるのでした。 IMG_4492 IMG_4494     IMG_4497

元の道に戻った場所に武相境説明柱がありました。

いままで、中道はずっと武蔵の国を歩いていましたがここからは相模国に入ります。又、鎌倉の都が一望できることから都塚という名だと標されていました。IMG_4500

IMG_4501下り坂をどんどん進みます。30分位ずって戸塚カントリークラブのゴルフ場の脇を歩きました。

2時頃に着いたのは霊源山倫勝寺で東京都の小松川にありましたが、区画整理でここに移ってきたそうです。

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IMG_4504治水工事の際に掘り出された元禄時代の地蔵二体と観音様を拝見し、御手洗いをお借りしました。

講師は、こちらにある木で中国では櫻の字で表す「ゆすら梅」の実を示しながら、我が国との違いを話しました。

土曜日は晴天で暑く、平坦な道が終わりまで続くようにと願いながら進みました。10分位歩くと、この奥が戸塚カントリクラブから続いた街道ですが、今は入れないという場所がありました。フェンスの向こうを眺める私達でした。IMG_4507

ここで一つ寄り道をしますと講師は言い、そして下り坂を進み始めます。という事は上がってこなくてはなりません。私達はかなり疲れていましたが、もうひと頑張りしなくてはならなくなりました。

2時半頃着いたのは乗国山徳翁寺です。かやぶきの門がとても立派です。門は閉ざされていて中に入ることはできませんでしたが、ずらりと並んだ十三仏像を拝見しました。IMG_4513IMG_4518IMG_4514

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時間と体力が残っていたらもっとじっくり拝見したいと思いました。そして、本日一番印象に残るかもと思える樹を見たのです。世界三大美樹の一つであるアラウカリアの樹が、不思議な枝を伸ばして立っていました。針葉樹というのに尖った小さな葉がびっしりと枝に付いていて、何と珍しいことかと私たちは疲れも忘れて見上げました。IMG_4511IMG_4516

元の街道に戻り、本日終点の東戸塚駅を目指しました。天候に左右される街道歩きですが、万緑の中の綺麗な花、可憐な花たちに大いに癒された私達でした。

丁度3時頃東口に着きました。火曜日は小雨の中、土曜日は猛暑の中大変、お疲れさまでした。IMG_4526

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五月のあるき隊ブログは、筆者体調不良のためお休みさせていただきました。

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第八回 荏田~中山

 

4月12日(火)4月16日(土)総勢29名の皆様のご参加でお天気に恵まれた中を歩きました。

荏田駅を9時半すぎに出発して、前回の女性の為の庚申講のお堂が左手に見える鎌倉街道の場所まで10分で着きました。桜がほんの少し残っていました。IMG_4266

橋を渡り5分位で樹形の美しい大木が見えてきました。鶯の声が聞こえる中、まず訪ねたのは真福寺です。大正10年にすこし北にあったのをこの地に移したとのことです。IMG_4276

鎌倉時代の五輪塔は少し傾き三輪になっていました。

IMG_4272風の神様に早く治ります様にお願いしました。

右の手前にはおしやもじも立てられていました。 昔の人は、何にでも救いを求めお願いするのだとつくづく思います。昔も今もある意味大変ですが、昔の人は心の拠り所を沢山持っていたのかもしれません。 IMG_4278

一輪草の花が咲いている若葉の細道を抜け尾根の道を進みます。IMG_4366

 

 

 

 

 

 

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IMG_4286街道から少しそれて幼稚園の前を通り、畑の間の道を進むとこんもりとした若葉の中に劔神社がありました。IMG_4287

 

良質の炭を納めた商人に刀鍛冶よりお礼にと劔を一振り与えられました。その劔が、大蛇から商人を救ったのでした。商人は祠を建てて劔を祀ったのが始まりといいます。

この神社前の道も鎌倉古道という事です。

荏田の西をずっと歩きます。講師はタンポポが、国によって名前が違うという面白い話をし、また日本人がいかに美しい表現力を持っていたかを語るのでした。IMG_4295

新しい住宅地を進みます。そしてここが鎌倉街道だったとはと感じるのでした。

IMG_4294八重桜や花ミズキ、ミモザも満開です。IMG_4296

木香バラが咲き始め、西洋しやくなげの見事な花のお宅もあり、我々の目を楽しませてくれました。IMG_4373

 

 

11時過ぎに広い道路に出ました。横浜市青葉区の樹々に囲まれた公園の脇が鎌倉街道だとの説明を受けてから、本日は早めのお昼になりました。ラーメン屋さんかマックか、はたまた公園でお弁当か皆様は三択をせまられました。

 

 

1時間のお昼休みの後、20分位で手斧橋を渡ります。

レンタカー屋の道を抜けると文字の庚申塔等を集めた石造物群がありました。私達は二十三夜塔の二十の字に注目をしました。IMG_4378IMG_4304

すぐにまた、小さなお堂の中に集められた庚申塔等が六、七体ありました。IMG_4305

新緑の小道を進むと10分位で赤い鳥居の川和八幡に出ました。IMG_4325

立派な狛犬と子供の犬の可愛い格好に私達は笑顔になるのでした。IMG_4308IMG_4380

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内の奥の草原の中に二十三夜塔や庚申塔が集められていて、人々の暮らしの中にある身近な信仰をこちらでも垣間見ることができました。IMG_4312

榛名神社や浅間神社のおもしろい逸話を講師から聞きました。

 

1時少し過ぎた頃、九曜紋の天宗寺へ着きました。IMG_4317

IMG_4315新しくてきれいな六地蔵様をすぎると右手に芭蕉句碑があります。「うき我をさびしからせよかんこ鳥」嵯峨野の落柿舎での句ということです。

こちらでも暫らく時間を取り、ゆっくり鑑賞させてもらいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川和の渡しにいらしたお地蔵様にもお参りしました。IMG_4318

 

又、八幡様の前の道に戻りました。川和宿跡にある二十三夜塔の側には木造で一部三階建ての城所家本家がありました。朱の屋根の下には州浜の紋がはっきりとあり、これは現在話題の大河ドラマの真田家の家紋と同じという事です。城所家は平塚の出身といいます。ちなみに真田家は六文銭以外に州浜と雁金の紋があるという事です。IMG_4329IMG_4330

2時頃に地下鉄グリーンラインの川和町駅で御手洗い休憩を取りました。火照ったからだをしばし休める事ができました。IMG_4334

鶴見川を見下ろしながらはっさく橋を渡り、梨の花に見とれながらも進みました。IMG_4335

 

 

 

 

 

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2時半頃、日蓮宗の蓮生寺へと入りました。こちらでは地名として残る青砥大明神について知る事ができました。祀られている由来を記さなければなりません。IMG_4342

鎌倉の北条時頼の忠臣である青砥藤綱の所領でした。藤綱は人々にたいして援助し続け、民から大変慕われ、没後ここに墳墓をかまえて祀られていました。しかし時代は下り、享保17年に悪病が流行した際に青砥大明神を顧みないからとのお告げがあり、人々はそれ以来、守り神として崇めたということです。青砥大明神に供えられてある花は確かに立派だと感じました。

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つつじが咲き始めていた美しい階段を降りながら髭文字の寺を後にしました。

2時42分、本日最後に訪ねたのは鶴見川の側にある杉山神社です。多摩川の西側に多く分布しているのが、この杉山神社なのです。大きな楠が迎えてくれました。IMG_4346

名木古木の欅がありましたが桜の残花もあり、静かに我々は神域に身を置くことができました。IMG_4347

通りに出ますと、京セラのビルを左手に見上げて又、細い鎌倉街道へと入りました。

芝桜の美しいお宅を見ながらどんどん進みました。IMG_4353

JR中山第二踏切も鎌倉街道ということです。この踏切を渡ると本日の街道はこれまでと講師が言いました。IMG_4354

3時過ぎに横浜線中山駅に到着です。こんなに早い解散は初めてです。埼玉県からのご参加の方々も明るいうちにご帰宅出来ますね。

皆様お疲れさまでした。

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鎌倉街道・東海道連絡道 第1回

 

3月26日(土)29日(火)、鎌倉街道の東海道連絡道がいよいよ始まりました。両日で32名の参加者でした。藤沢本町を9時半過ぎにスタートしました。29日(火)は小田急線で事故があり、皆様大変な思いで集合され、御苦労さまでした。

最初に訪れた白旗神社は太古関東地方を開拓した神様を祀り後に寒川神社を勧請したといいます。IMG_4085

源義経の霊を頼朝の命により白旗明神として祀り、後に白旗神社と呼ばれるようになりました。IMG_4079IMG_4078

笹竜胆の紋が輝いていました。

義経の鎮魂碑に胸が痛みましたが、グラスファイバーの鳥居には驚かされてしまった我々でした。

義経首洗井戸は、神社を後にして200メートル位の所にありました。腰越での首実検の後、浜に捨てられたのがこちらに流れ着き里人によりこの井戸で清められたそうです。  IMG_4089

 

妙善寺をお参りし左側の正宗稲荷を訪れました。鎌倉の刀工岡崎五郎入道正宗が刀剣を鍛える際にこの神に祈ってから宝剣を造ったといいます。IMG_4097

お酒の名で○○正宗というのが多いのは、味の切れがいいからだと講師は話しました。

永勝寺には、小松屋という旅籠を営んでいた者の墓域にずらりと飯盛り女の墓が並び、小松屋の温情が今に伝わってくるのであります。IMG_4099

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白旗神社の別当寺である荘厳寺のあとは、井本菓子舗へ寄りました。

 

 

IMG_4109なんと、手作りのあるき隊の旗を立てて歓迎してくださいました。

明治創業のお菓子屋でお茶の接待を受け見本を一口ずつ頂戴しました。真中に大きな栗が入っていて甘すぎないお饅頭に、昔懐かしい味を感じました。

裏の肥料庫の蔵の内部を見せてもらい土壁の造りに目を奪われました。IMG_4111

もうすぐ文化財の指定を受けるとの事です。

井本菓子舗様には、お忙しいところご丁寧に案内していただきましてありがとうございました。

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IMG_4125常光寺の後方の丘には弁慶の首塚がありますが現在は立ち入りを禁止されています。

寺の前に藤沢警察署跡の記念碑がありました。IMG_4127

先に出ました小松屋の子孫の方が経営するラーメン屋の前を通ります。IMG_4129

通りは藤沢宿のおもかげを残す建物が沢山あり、私たちを楽しませてくれました。IMG_4203

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IMG_4138そして清浄光寺(遊行寺)へと進みました。

赤城の子守歌で有名な板割浅太郎の墓があり、蘇鉄の実が沢山出来かけていて南国情調も味わいました。IMG_4148IMG_4146

又、江ノ島神社の一の鳥居の土台もあり遊行寺の庭はもり沢山です。放生池に、金魚や鯉を放せばその功徳により家が繁盛し長寿を保てるとの事でした。IMG_4149

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安政年間の菊と三つ葉葵が美しい中雀門を見ました。

弁才天は徳川家の祖である新田有親が信仰したので徳川家縁りの寺となりました。

浄瑠璃で有名な小栗判官、瑛手姫伝説の話を講師から聞きました。

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藤沢橋交差点を過ぎ昔の面影のある建物を見ながら進みました。

1時過ぎにやっとお昼です。藤沢場外卸売市場の物をあつかうお店へ。マグロなどの丼物が美味でした。IMG_4187IMG_4188

かっこいいお兄さんが何人もいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

午後は2時よりスタートです。

この辺りは砥上ケ原と云われ今に至っています。

西行や鴨長明により歌が残されている所です。

馬喰橋(ウマクラハシ)を渡り、江ノ島弁才天道標を過ぎ泉蔵寺へ進みました。

三鱗紋と鯱が大屋根を飾っています。IMG_4206

弘法大師像の下には八十八カ所の寺の砂が納められていると聞きました。

古い庚申塔にも我々はとても魅了されました。

諏訪神社へと石段を昇りました。723年という昔に諏訪大社から分祀され、上社下社があるのはここだけというのです。IMG_4212

高台からは江ノ島が見えました。

密蔵寺では、愛染明王が祀られているので愛染かつらが植えられていましたが、葉はまだ見られず残念でした。

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そばに熊野大社の御神木である梛(ナギ)の木があり、見上げては葉がおちていないか何人かの人が探しましたがこちらも見つかりませんでした。

本蓮寺では、頼朝の上洛の際に駒繋の松を眺めました。日蓮が瀧の口法難を逃れ佐渡に流される時に、こちらで休息したといわれています。IMG_4224IMG_4231

 

 

 

 

 

 

その隣には西行法師の戻り松があります。西行がどこへ行くのかとたずねたら、子供たちが『夏枯れて冬ほき草を刈りに行く』の和歌で答えたというのです。レベルの高さに西行が驚いてもと来た道を引き返したという伝承があります。IMG_4235

 

常立寺では、江ノ島弁才天道標を見て元使供養塔の大きなひげ文字と青の布が印象的でした。元寇の時に蒙古からの使者で斬られた五人を供養したという事です。

瀧口神社の石段を見上げてすぐに隣の龍口寺へと進みました。本日最後の場所です。門の彫刻もすばらしく疲れた私たちは目を見張りました。IMG_4248IMG_4251

左手に御霊窟があり、刑場で難を逃れた日蓮が一夜を過ごした洞窟です。

本堂に入る前に一人ずつ大鐘を打たせてもらいました。

男性は男らしく女性は女らしい美しい音だと皆、聞きほれていました。

火曜日には本堂も拝見でき日蓮が座ったという石を見る事ができました。IMG_4254

信者の方は大いに涙すると聞きました。

何度目かの道標を見て一路、小田急駅へと向かいました。IMG_4261次回訪ねる江の島が見えています。皆さまお疲れ様でした。IMG_4262

本日は大変見所満載の一日で頭を少し整理しなければと思う車中でした。

 

 

 

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第七回二子玉川~荏田

 

3月15日㈫19名晴天の中を、19日(土)12名は小雨の中を、9時40分に二子玉川駅を出発しました。東急田園都市線を左に見ながら多摩川を渡ります。渡り切った場所に「ふたごばし」という大正時代の親柱と二子の渡しの立札が立っていました。IMG_3868IMG_3866

右手に岡本かな子文学碑があり、築山は丹下健三設計で、モニュメントはあの岡本太郎の作品です。純白の羽を広げた鶴のような像が空に向き立っていました。すぐ側に小さな二子神社ありました。IMG_3870

岡本かな子の実家である大貫家は苗字帯刀を許された豪商で明治時代も蔵が17もあったといいます。その大貫家の菩提寺である大悲山光明寺に10時過ぎに着きました。IMG_3886

楠の巨木の下に大貫家の塋域(エイイキ)である墓地が広がっていました。釜形の水盤に金魚が可愛く泳いでいました。IMG_3882

本堂には二子学舎という高津小学校の前身が置かれていたというのです。

そこで講師から江戸時代が進むにつれていかに寺子屋の数が増えていったか、その結果、明治維新以降の日本がスムーズに発展を遂げたという話を聞きました。IMG_3888

舗道のない歩きにくい道をすすんでいると大釜が右手にありました。この大釜は大河ドラマ「黄金の日々」で石川五右衛門が釜茹で使用したといいます。本物の釜茹の刑に使った釜は会津にあったとのことです。

江戸時代になると残忍な刑はなくなり磔獄門が一番重い刑だったようです。

図書館まえには国木田独歩の碑があり溝口の亀屋で泊まり「忘れ得ぬ人々」のモデルとなったと言います。田中屋呉服店の珍しい蔵造りを見ながら高津の信号を渡りお茶の田中屋と進みました。IMG_3893

1751年頃の宝暦年間の創業ではじめは万屋で後にお茶とはかりを売るようになったといいます。IMG_3897

ここで珍しい武州茶をいただきながら店主より量りについて説明を受けました。小さな5尺の桝が1合桝にぴったりはいるのには皆でほおと関心しました。しかし私たちは周りに気を取られもして緑茶、紅茶、羊羹にビスケット、お茶のミルまで購入した方もいらっしゃいました。

講師のメートル法に移行した話は頭を素通りしてしまいました。でも資料にありますから大丈夫です。IMG_4007

 

 

 

 

明和年間から薬屋で今も続いている灰吹屋がありました。土蔵は明治のものといいます。又、二代目の仁兵衛さんは俳句が上手で俳号が老人亭宝水とは笑えます。IMG_4013

大山街道道標を見ながら11時にふるさと館に着きました。ここで御手洗いと資料館内を見ました。IMG_3903IMG_3904納めの木太刀は、三人位で担ぎ大山阿夫利神社へ奉納するというレプリカの大きさに驚きました。

又、一階奥に我国初の人間国宝、浜田庄司の作が展示されていて私たちの目を引き付けました。IMG_4017

ふるさと館の隣は浜田庄司の家との札が立っていました。

11時半近くになっていたでしょうか、石橋がありました。大石橋と呼ばれたこの橋は稲毛郷と川崎郷の二ケ領にわたる用水で二ケ領用水と呼ばれています。1611年からの流れに思いをはせました。IMG_4024

11時半、ここでお昼の場所へと向かいました。地元の会員さんの案内で一部の人は溝口ビル8階のインド料理を楽しみました。IMG_4029

12時半に歩道橋を降りたところに集合し、さあ午後の出発。

午後一番の訪問先は溝口神社。宝永5年(1709)に溝口村鎮守でしたが明治には高津村等も含めた総鎮守となり合祀されている神社も多く中でも松尾神社は酒造の神様で珍しく手を合わせる方々もいらっしゃいました。IMG_3916

IMG_3920樹齢300年以上の御神木の親楠や樹齢500年以上の長寿けやきを見上げ本殿の石造りの珍しさにも驚く私たちでした。

しかい一番忘れられないものと言えば水盤をささえている四人の我慢さんでした。IMG_3914

2、3分で宗隆寺へ。明和3年の古い髭文字の題目塔が迎えてくれました。こちらには浜田庄司のお墓や筆供養塔もありました。IMG_3924

IMG_3927「世を旅に代かく小田の行きもどり」の芭蕉句碑は灰吹屋二代の主人の玉川宝水が建立とのことです。さてここで講師が大変珍しいという日蓮の幼名である善日麿像を示すのでした。おだやかで聡明そうなお顔と上等な衣服に数か月前に見た聖徳太子像を思い出すのでした。IMG_3928

 

 

3分程で栄橋の交差点へ溝口村上宿と下作延村片町の境だったことが名前からわかります。さかえ橋の親柱が残されていました。

又、少し進むと陶芸家浜田庄司の生誕の地の立札もありました。

大山道の道標と庚申塔を過ぎると多摩丘陵特有な道に我々は入っていきます。

はらへりとも呼ばれたという「ねもじり坂」から始まりました。昔はもっと急な坂で野菜や魚を江戸に運んだといいこの坂下辺に食べ物屋さんがあったようです。私たちはこれからその坂を登っていきます。IMG_3944

8分位登ると平らな道に入り笹原子育て地蔵がありました。12年毎のご開帳とのことです。筆者は孫の為にお願い致しました。横に大きな秩父・西国。坂東供養塔が立っていました。

19日は雨がすっかり上がったので、地蔵堂の前をお借りして皆で雨具を脱ぐ事が出来ました。5,6分で庚申塔があり「右大山道」「左やうがすじ道」とありました。

宮前平駅前に八幡神社があり石段が急ですが15日は頑張って登りました。5,60段はあったでしようか。

光背がある庚申塔は珍しいと講師はかたるのでしたが他には拝見するところもなく早々に失礼しました私たちでした。IMG_3951

しかしこの宮があったので宮前平という駅名が付いたのです。この駅で御手洗いと水分補給をしました。

246号を渡り又、登り坂です。坂の上にあゆみが丘の字と横浜のマンホールを見つけました。IMG_3959

横浜市に入ったのです。皆川家のそばには立場があり馬に休息所だったということです。IMG_3961

今は大きな造園業を営んでいるようです。登り切ると住宅地の間から丹沢山系がきれいに見えます。しかしこの辺りは刑場があったという事です、すぐに下り坂になりましたが別名を血流坂という地名とは何と恐ろしい名前でしょうか。

不動の滝という名ばかりちょろちょろの水が落ちていました。IMG_3968

急な石段の上に老馬鍛冶山不動尊堂があり、傍にあった椿の花や葉について、西洋でとても人気がある花との話をしながら一息入れました。小さな石坂供養塔が石段の脇にありました。昔はここから大山がきれいに見えた事でしよう。急斜面にも家やマンションが立ち並んでいます。IMG_3962

3時半過ぎに平坦な道に出て川の側に出ました。ほっとした一行を小さな土筆が和ませてくれました。IMG_3977

荏田下宿庚申堂はなんと婦人たちのためというから驚きました。この辺の女性たちは昔からすすんでいたのかもしれません。造花ですがきれいな花が供えてあります。

民家の中に中宿秋葉常夜燈が立っています。IMG_3985なぜ庭の中にあるのか疑問に思いながら又、246号に出て荏田町の字がどれ程うれしかったことでしようか。今日は多摩丘陵を上がったり下ったりとてもハードでした。ちょうど4時頃、江田駅に到着しました。本日は大変お疲れさまでした。IMG_4051

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第六回梅ヶ丘~二子玉川

2月16日㈫は晴天、20日㈯は午前中より雨の降る中、あるき隊の皆さんは頑張り、かつ大いに楽しみました。今回もとても内容の濃いコースだったと思います。 梅ヶ丘駅を9時40分頃出発しました。そして10分位で杓子稲荷神社へ着きました。ここは、世田谷城の表鬼門に当たる場所で、伏見稲荷を勧請したということです。赤い鳥居に杓子稲荷とあり、杓子は食べ物をすくうことから全ての災難から救う御箆大明神として祀られていたのでした。また、日清戦争の時は敵を召捕るという意味で人々に信仰されたそうです。IMG_3579 少し歩くと、国士舘大学の辺りに差し掛かります。福岡の武士たちが作った玄洋社の流れを組み、アジアの文化圏を中心とした考えを広めていく思想で、あの孫文を助けたと言われています。その教育部門が現在の国士舘大学等の姿というのです。随分立派な建物が幾つも立ち並んでいました。IMG_3588 IMG_3591直ぐに、桂太郎の墓が木々の間から見えてきました。松陰の教え子で、遺言通りに松陰のそばに墓を建てたとのことです。 さてとなりの松陰神社の鳥居が見えてきました。毛利家の抱え屋敷の敷地内に造られた吉田松陰を祀る神社です。門下生たちが処刑された松陰の遺体を運び、丁重に埋葬したとのことです。IMG_3595IMG_3593 筆者は講師と共に小伝馬町の刑場跡を訪ねたことがあり、あの陰気な場所を見ていだけに少し救われた気がしました。瓜に卍の吉田家の紋が輝いています。松陰の座像の後ろで紅白の梅が美しく咲いています。松下村塾のレプリカが右手奥に建てられていて我々は当時を偲ぶのでした。 IMG_3597IMG_3600奉献された石燈籠の並び方も主君と臣下をはっきりと示していました。松蔭のお墓には花や榊が供えてあり、徳川家からの水盤や燈籠が傍にありました。やはり松陰が政治に関わっていたとしたら、明治の時代がどうであったかと思った人は多かったのではないでしょうか。IMG_3605 20分位過ごし次へと向かいました。 世田谷城の裏鬼門に建てられた勝国寺を見ました。こちらは江戸幕府より112石の朱印を与えられた御朱印寺です。IMG_3607 10分位進むと石積みが連なっている世田谷城址です。吉良治家が室町時代に築城したとのことで、全盛期には南関東の主要な場所だったとのことです。IMG_3617

御手洗い休憩も兼ねて10分位思い思いに辺りを散策しました。 7、8分で本日のメインの一つの豪徳寺へ着きました。福を招くという招き猫の話を講師が詳しくします。ここで全員の記念写真を写しました。中道のコースの半分程度歩いたので招き猫と撮りたいとの四宮講師の発案に、皆さまご協力をいただきましてありがとうございました。IMG_3628IMG_3621 細工の巧みな五重塔の中心に白い猫がいてとても笑えました。IMG_3780 無名戦士慰霊記念碑の横たわる人の像の胸から木が生えています。いったい何を語ろうしているのでしょうか。5300余人の供養をしているとのことです。IMG_3787IMG_3635 しかし何といってもここでは井伊大老直弼の墓へ行かなければなりません。白梅が満開の前を進むと立派なお墓がありました。とても長い法号です。   後ろには桜田殉難八士の墓もあり、そばで紅梅が咲いていました。IMG_3636IMG_3634 桜田門外の変の際に、直弼と親しい水戸藩の何某から投げ文が届いたにもかかわらず、直弼は警護を増やさなかったという話を聴き、心中が複雑になる私たちでした。そして旧幕府軍と戦い戦死した彦根藩士11名のえい首塚を見上げてから、豪徳寺を後にしました。IMG_3639 安政の大獄を行った者と、その人により流刑から斬首とされた者の墓が世田谷のこんなにも近くにあるのですから、悲しくも不思議な縁を感じずにはいられません。 世田谷線の踏切を渡ります。緑色の昔の車両が駅に置かれていて懐かしんでおられる方もいらっしゃいました。IMG_3655

 

 

すぐに世田谷八幡宮へ着きました。源義家が1091年に勧請したとされています。また疱瘡の神様を祀り、疱瘡を鎮めようとした昔の人々の苦労がうかがえます。IMG_3649IMG_3652狛犬の子どもが親の尾をくわえていて何とも微笑ましく和ませてくれました。 世田谷線をまた渡り5、6分で吉良家の墓所である勝光院へ着きました。。駕篭が上がれるように石段がとても緩やかで奥行きがたっぷりありました。IMG_3653 10分位でボロ市通りに入りました。 すぐに代官屋敷の閉められた門を眺めながら通用口へと進みました。お天気の良かった16日は大きな蟇蛙が出ていて驚きました。屋敷の玄関や、恐ろしい白州や道沿いあったと石造物の説明を聴きました。重要文化財の大場家の住宅もゆっくり鑑賞したかったのですが私たちは先へ進まなければなりません。IMG_3676IMG_3672 IMG_3675IMG_3680IMG_367720日は小雨が降っていたのでこれらを急ぎ見てから昼食にしました。今回は大きな店がなくて4,5軒の、寿司屋やカフェ、小さなレストラン等に別れてお昼にしました。 さて、この通りのボロ市祭りは毎年ものすごい賑わいと聞きます。小田原北条家がここに楽市を開いたのが始まりといいますから歴史を感じます。IMG_3671 代官屋敷の後方には、大場家の菩提寺浄光寺があります。そして、5分位で鶴松山実相院へ。定規塀と大きな塔が目立っていました。世田谷城主の吉良氏朝が北条氏の滅亡で下総に逃れている間に家康が江戸に入り、吉良氏は城に戻ることが許されず、ここにて死亡したということです。午前中に城跡を見ていただけに、世田谷という地もいろいろと歴史が動いて今に至ったのだと感じ入りました。 しばらく進むと児童公園の端に大山道参拝人像があり、木漏れ日の下で誠にのどかな格好をしているのでした。IMG_3690

 

大山道と鎌倉街道が重なっている辺りをしばらく進みます。陸上自衛隊という交差点を過ぎ、衛生材料廠跡も過ぎ、小さな大山道追分の石柱を見ながら行きました。IMG_3694IMG_3696IMG_3693 直ぐに瑜迦山真福寺へ着きました。バラモンのヨガからきていると講師はいいます。皆が健康のために行っているあのヨガが山号になっていて、山号から地名の用賀はきているという話になるほどと皆さんは大きくうなずくのでした。IMG_3698 三椏の花が咲いていました。立派な庚申塔と芭蕉句碑も鑑賞しました。IMG_3704 道の辺の木槿は馬に喰われけり     花も次の瞬間には無くなるという無常を詠んだ句といいます。今を大切に生きなければと感じる次第です。 またすぐそばに、無量寺があります。品川の浜で漁師の網にかかった十一面観音様が本尊で十二年に一回御開帳されるということです。ここにある草木供養塔之碑は、数ある供養塔の中で大変珍しいと講師は言いました。IMG_3708 大空閣寺は新しい寺で、ハモニカ製作所の小林氏が建立した観音と鮮やかで沢山のかざぐるまが印象的でした。IMG_3822IMG_3725 もう3時半近くになっていました。喜楽山慈眼寺の大きな門をくぐりました。鎌倉時代長崎氏が開山したとのことです。20日はもうすっかり本降りになっていて、会員の方々は弱音もはかずぬ講師の話に耳を傾ける姿に感動しました。IMG_3829 となりは瀬田玉川神社です。鈴と鈴緒がなくて、手に持って鳴らす鈴が拝殿前に置かれていて珍しく思わず鳴らしてしまうのでした。IMG_3732IMG_3832 親にそっくりな顔で甘える狛犬の子があまりに可愛くて、私たちは立ち止まりました。 慶長年間に小泉治大夫というひとが造った灌漑用水で、この地の人は治大夫堀、治大夫橋と呼んだそうです。IMG_3738IMG_3734 二子玉川商店街に入りました。今は無くなった玉川線の跡を通り兵庫島へと田園都市線の高架をくぐります。兵庫橋を渡ると河津桜の花でしょうか、一本の桜が咲いていました。多摩川の中州のここは、新田義興(義貞の次男)の供の由良兵庫助の遺骸が流れ着き、この地の漁師が悼み葬った場所です。高級感ただようここ二子玉川で、その名が残る兵庫島の話をいったいどれだけの人が知っているのでしょうか。IMG_3743 若山牧水の歌碑を見て、二子の渡し跡を見て駅へと向かいました。IMG_3752赤レンガの近年の堤防跡の見学し、大きくモダンな二子玉川の駅に到着しました。雨に降られた20日の皆さまも最後まで頑張られました。お疲れさまでした。IMG_3747 堂守りてしだるる梅や寺の雨

渡し跡けぶりて雨や遠き春     幸子

 

梅香る座像説きをり志

首塚に刻む字美しく春の雨     慶月

トピックス

鎌倉街道あるき隊の四宮功講師が、二回目のテレビ出演をいたします! 3月7日(月)テレビ朝日(5チャンネル)羽鳥のモーニングショウ。 9時15分頃からです。お時間のおありの方はご覧くださいませ。 石原良純氏を中山道の板橋から蕨宿まで案内します。IMG_3842IMG_3845

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第五回 新井薬師~梅ケ丘

新しい年に入り暖かな日が続いておりましたが、この週の始めのあたりからぐっと冷え込むようになって来た12日(火)と16日(土)、中道第5回目を歩きました。

12日は小雨の中を13名お集まりいただきました。16日は19名の方々が出席下さいまして好天の中を快調に歩くことが出来ました。

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9時半すぎに新井薬師前駅を出発し、新井薬師へと向かいました。

10分もしない内に到着。瑠璃殿と書かれた扁額を見上げ本堂にお参りしました。

親子地蔵の珍しさとともに、首切りにあったであろうお地蔵様を私達は胸を痛めながら見つめました。IMG_3450

墓地には沢山の窪寺氏の墓があります。新田義貞に従った信濃の武士で、ここ武蔵国新井に土着したといいます。

又、新井の由来の白龍権現水の像を鑑賞しながら龍についての話を聞きました。IMG_3458

 

 

 

 

筆者は、近頃テレビで中国の歴史ドラマを観ています。絶対的権力者である皇帝(陛下)は龍に例えられ、衣服には龍の刺繍が施されています。龍は強い生き物を寄せ集めた想像上の動物なのですね。

十六歳の凛々しい聖徳太子の像は戦後の建築職人の技能低下を憂いて鏝(コテ)で製作したといいます

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竹垣が長く続くこの辺は名主鈴木家で大きな屋敷林があり通称欅屋敷と呼ばれていました。又、ここは「たきび」の歌の発祥の地でもあります。

鈴木家の前で目にした焚火がモチーフとなり巽聖歌(タツミセイカ)の詩が生まれたのです。可愛らしいお地蔵さまが欅の祠の中にいらっしゃいました。

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さて出発して丁度一時間、本日のメインの一つである万昌院功運寺に着きました。こちらは、団体のお参りは前もって予約が必要というお寺さんです。みかんの木がありいい色に色づいていました。IMG_3466

万昌院と功運寺が合併しましたが、もとはどちらも江戸城の近くにあったということです。境内に入ると一切写真が取れないので、それぞれの脳裏に焼き付けておくしかありません。門前のたて札の前でまず説明を聴いてから門をくぐりました。IMG_3376

あの吉良上野介の墓がたっていることにまず感動を覚えました。

五輪塔をスマートにした型の四本の石柱の墓の右端のものに従四位源義央その右側に十二月十五日と日付が刻まれていてはっきりと読み取れました。IMG_3467

細く狭い石畳の通路を皆で気を使いながら賤ヶ岳七本槍の一人の糟屋武則の墓、今川家の墓地、南蛮医の栗崎路有や浮世絵師の歌川豊国等の墓にもお参りしました。

女性としては「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の林芙美子の墓が興味深くつつじの帰り花が小さく咲いていたのが印象的でした。

12日は寒い小雨の中に和風のコーヒーカップが供えてありました。どなたかが放浪記の森光子さんもきっとお参りしたのでしようねとおっしゃっておられました。

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隣にある宝泉寺には島原の乱で鎮圧の指揮をとったが討死した板倉重昌の墓がありました。正月朔日(ツイタチ)と刻まれていてなおいたましく感じました。

講師は相模の大雄山最勝寺の僧であった道了の宿坊跡の碑から天狗の話へと移行するのでした。

2,3分で、前回の三井文庫前で道が途切れていた鎌倉街道に繫がる場所(上高田2丁目)の道に出ました。何の変哲もない道路に停ずみ、そうなのかとそれぞれに思いをはせるのでした。

しばらく歩き早稲田通りを横切り右に入ると10分位で北野神社へ着きました。こちらは石造物が面白く、狛犬や元禄期の如意輪観音、庚申塔を拝見しました。申年の新年ですから三猿を見てもちょっと今までとは違う思いで見てしまう我々でした。IMG_3474IMG_3473

 

5分位進み、この辺りの30万坪が徳川綱吉時代の犬屋敷跡だという話にその面影など全くない交差点でへえ~というしかありません。尾張藩上敷の人の排泄物を汲み取る役の名主の堀江家の話にも皆、興味をそそられました。藩の上屋敷は年間50両程で買い取るということです。庶民は粗末な食物の排泄物だから大根5本程度だとか。食べ物の差でこんなにも肥料に差が付くとは思えませんが笑ってしまう値段の差ではないでしようか。

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堀越学園前を通過し、城山の砦跡へと。太田道灌の陣跡でスポーツ広場となっていました。ここで御手洗い休憩です。

三味線橋の由来は近くで音が聞こえたからと云います。橋の名の何と粋なことでしようか。IMG_3390

三味線が趣味の歩き隊の会員さんが、橋柱をなでておられたのを筆者は嬉しく眺めました。IMG_3392

10分位で商家や料亭が軒を並べていたという鍋屋横町へと入りました。

丁度12時半です。これから1時間楽しいランチタイムです。お店はいろいろありましたが角の中華料理店に決めました。チヤイナドレスのお姉さんが魅力的で雰囲気もお味も良くて今回も満足!!幸せな時間を過ごしました。

1時半、三菱UFJ銀行前に集合して午後のスタートです。

鍋屋横町の由来の説明板を見ると、名物の草餅や梅林も人気があったというから今残っていたら私たちもどんなに楽しかったことでしようか。

妙法寺のお題目石は舗道に立っている碑で妙法寺への道しるべです。是より妙法寺へ十八丁と刻まれています。大きなお寺といいますが鎌倉街道からはかなり離れていますので今回は石碑だけ見て先へ進みます。IMG_3394

 5分程で和田十貫坂にさしかかりました。中野長者の鈴木九郎が埋めた古銭十貫が入った壺が掘り出されたといいます。地蔵堂のお地蔵様も庚申塔も1700年代の初めのものでガラス戸の穴から眺める事ができました。IMG_3401IMG_3405

又、5分程度で神田川沿いを歩きます。営団地下鉄車庫を過ぎ、多田小学校の校庭に卒業生が石で造った記念碑を見て通ります。

すぐに宝福寺に着きました。憤怒のお顔が決まりとされている馬頭観音ですが、こちらは優しいお顔で片膝を立てていらっしゃいました。大きな筆塚もあり、これは明治三年雑色村の戸村塾の生徒たちが筆を供養したといいます。IMG_3411

男15名、女10名と資料にありますが女性もちゃんと勉強していたというのが解り、とても嬉しい気持ちになるではありませんか。IMG_3409

地続きの多田神社へ入っていきました。

九百年もの歴史があり源義家ゆかりの神社でずっと雑色村の鎮守であったといいます。IMG_3414

狛犬も立派で、鈴緒を被う紫の奉納幕の笹竜胆の紋が印象的でした。御神木は二株に分かれている楠の巨木で鳥居と鳥居の間にそびえていました。IMG_3415

中野区南台の商店街をどんどん進みます。道の両側はにぎやかになってきます。

商店の上には謹賀新年ののぼりも立てられています。IMG_3420

25分位、ずっと歩くと甲州街道に出ました。右手すぐに笹塚の一里塚跡がありました。

新宿より3里と云う事です。又、近くのスーパーで御手洗い休憩を取りました。バーゲンセールが気がかりでしたが3時にスタートしました。

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甲州街道の歩道橋を渡り5分位で玉川上水です。IMG_3503

江戸芝口の町人の兄弟が幕府に願い出ると共に自分達の家・屋敷も売り造ったという12里半の上水です。しかしゆっくり眺める事なく過ぎました。

又5分位すると鎌倉街道は、下北沢へ行く方と二子玉川へ行く方に別れています。

我々は左手の玉川方面へと目指しました。15分位進み環七を渡ると羽根木神社へと進みます。細く長い参道を行くと赤い鳥居が目に入ります。狐さまや常夜灯は金網の中で覆われていました。

皇太子殿下ご誕生紀念と彫られた碑があり、昭和十年二月十一日と刻まれ在郷軍人、青年団とありました。IMG_3432IMG_3508

 

 

 

 

京王線東松原駅の踏切を渡ると4~5分で羽根木公園です。ここは東武鉄道を造った根津嘉一郎氏の別荘があった場所で広い梅園にした事から小田急線の駅名が梅ケ丘なったそうです。IMG_3516IMG_3440

丁度、紅白の梅が咲き初めていました。古事記橋の小さな石柱はこの橋の近くに乞食が住んでいた事からだそうです。IMG_3518

4時に小田急線梅ヶ丘駅に着きました。今日の終点です。お疲れさまでした。IMG_3447

火曜日は美登里寿司本店の席は少しありましたが土曜日はもう行列ができていました。

来月、又この駅でお会い致しましょう。IMG_3433

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