第八回 荏田~中山

 

4月12日(火)4月16日(土)総勢29名の皆様のご参加でお天気に恵まれた中を歩きました。

荏田駅を9時半すぎに出発して、前回の女性の為の庚申講のお堂が左手に見える鎌倉街道の場所まで10分で着きました。桜がほんの少し残っていました。IMG_4266

橋を渡り5分位で樹形の美しい大木が見えてきました。鶯の声が聞こえる中、まず訪ねたのは真福寺です。大正10年にすこし北にあったのをこの地に移したとのことです。IMG_4276

鎌倉時代の五輪塔は少し傾き三輪になっていました。

IMG_4272風の神様に早く治ります様にお願いしました。

右の手前にはおしやもじも立てられていました。 昔の人は、何にでも救いを求めお願いするのだとつくづく思います。昔も今もある意味大変ですが、昔の人は心の拠り所を沢山持っていたのかもしれません。 IMG_4278

一輪草の花が咲いている若葉の細道を抜け尾根の道を進みます。IMG_4366

 

 

 

 

 

 

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IMG_4286街道から少しそれて幼稚園の前を通り、畑の間の道を進むとこんもりとした若葉の中に劔神社がありました。IMG_4287

 

良質の炭を納めた商人に刀鍛冶よりお礼にと劔を一振り与えられました。その劔が、大蛇から商人を救ったのでした。商人は祠を建てて劔を祀ったのが始まりといいます。

この神社前の道も鎌倉古道という事です。

荏田の西をずっと歩きます。講師はタンポポが、国によって名前が違うという面白い話をし、また日本人がいかに美しい表現力を持っていたかを語るのでした。IMG_4295

新しい住宅地を進みます。そしてここが鎌倉街道だったとはと感じるのでした。

IMG_4294八重桜や花ミズキ、ミモザも満開です。IMG_4296

木香バラが咲き始め、西洋しやくなげの見事な花のお宅もあり、我々の目を楽しませてくれました。IMG_4373

 

 

11時過ぎに広い道路に出ました。横浜市青葉区の樹々に囲まれた公園の脇が鎌倉街道だとの説明を受けてから、本日は早めのお昼になりました。ラーメン屋さんかマックか、はたまた公園でお弁当か皆様は三択をせまられました。

 

 

1時間のお昼休みの後、20分位で手斧橋を渡ります。

レンタカー屋の道を抜けると文字の庚申塔等を集めた石造物群がありました。私達は二十三夜塔の二十の字に注目をしました。IMG_4378IMG_4304

すぐにまた、小さなお堂の中に集められた庚申塔等が六、七体ありました。IMG_4305

新緑の小道を進むと10分位で赤い鳥居の川和八幡に出ました。IMG_4325

立派な狛犬と子供の犬の可愛い格好に私達は笑顔になるのでした。IMG_4308IMG_4380

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内の奥の草原の中に二十三夜塔や庚申塔が集められていて、人々の暮らしの中にある身近な信仰をこちらでも垣間見ることができました。IMG_4312

榛名神社や浅間神社のおもしろい逸話を講師から聞きました。

 

1時少し過ぎた頃、九曜紋の天宗寺へ着きました。IMG_4317

IMG_4315新しくてきれいな六地蔵様をすぎると右手に芭蕉句碑があります。「うき我をさびしからせよかんこ鳥」嵯峨野の落柿舎での句ということです。

こちらでも暫らく時間を取り、ゆっくり鑑賞させてもらいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川和の渡しにいらしたお地蔵様にもお参りしました。IMG_4318

 

又、八幡様の前の道に戻りました。川和宿跡にある二十三夜塔の側には木造で一部三階建ての城所家本家がありました。朱の屋根の下には州浜の紋がはっきりとあり、これは現在話題の大河ドラマの真田家の家紋と同じという事です。城所家は平塚の出身といいます。ちなみに真田家は六文銭以外に州浜と雁金の紋があるという事です。IMG_4329IMG_4330

2時頃に地下鉄グリーンラインの川和町駅で御手洗い休憩を取りました。火照ったからだをしばし休める事ができました。IMG_4334

鶴見川を見下ろしながらはっさく橋を渡り、梨の花に見とれながらも進みました。IMG_4335

 

 

 

 

 

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2時半頃、日蓮宗の蓮生寺へと入りました。こちらでは地名として残る青砥大明神について知る事ができました。祀られている由来を記さなければなりません。IMG_4342

鎌倉の北条時頼の忠臣である青砥藤綱の所領でした。藤綱は人々にたいして援助し続け、民から大変慕われ、没後ここに墳墓をかまえて祀られていました。しかし時代は下り、享保17年に悪病が流行した際に青砥大明神を顧みないからとのお告げがあり、人々はそれ以来、守り神として崇めたということです。青砥大明神に供えられてある花は確かに立派だと感じました。

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つつじが咲き始めていた美しい階段を降りながら髭文字の寺を後にしました。

2時42分、本日最後に訪ねたのは鶴見川の側にある杉山神社です。多摩川の西側に多く分布しているのが、この杉山神社なのです。大きな楠が迎えてくれました。IMG_4346

名木古木の欅がありましたが桜の残花もあり、静かに我々は神域に身を置くことができました。IMG_4347

通りに出ますと、京セラのビルを左手に見上げて又、細い鎌倉街道へと入りました。

芝桜の美しいお宅を見ながらどんどん進みました。IMG_4353

JR中山第二踏切も鎌倉街道ということです。この踏切を渡ると本日の街道はこれまでと講師が言いました。IMG_4354

3時過ぎに横浜線中山駅に到着です。こんなに早い解散は初めてです。埼玉県からのご参加の方々も明るいうちにご帰宅出来ますね。

皆様お疲れさまでした。

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鎌倉街道・東海道連絡道 第1回

 

3月26日(土)29日(火)、鎌倉街道の東海道連絡道がいよいよ始まりました。両日で32名の参加者でした。藤沢本町を9時半過ぎにスタートしました。29日(火)は小田急線で事故があり、皆様大変な思いで集合され、御苦労さまでした。

最初に訪れた白旗神社は太古関東地方を開拓した神様を祀り後に寒川神社を勧請したといいます。IMG_4085

源義経の霊を頼朝の命により白旗明神として祀り、後に白旗神社と呼ばれるようになりました。IMG_4079IMG_4078

笹竜胆の紋が輝いていました。

義経の鎮魂碑に胸が痛みましたが、グラスファイバーの鳥居には驚かされてしまった我々でした。

義経首洗井戸は、神社を後にして200メートル位の所にありました。腰越での首実検の後、浜に捨てられたのがこちらに流れ着き里人によりこの井戸で清められたそうです。  IMG_4089

 

妙善寺をお参りし左側の正宗稲荷を訪れました。鎌倉の刀工岡崎五郎入道正宗が刀剣を鍛える際にこの神に祈ってから宝剣を造ったといいます。IMG_4097

お酒の名で○○正宗というのが多いのは、味の切れがいいからだと講師は話しました。

永勝寺には、小松屋という旅籠を営んでいた者の墓域にずらりと飯盛り女の墓が並び、小松屋の温情が今に伝わってくるのであります。IMG_4099

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白旗神社の別当寺である荘厳寺のあとは、井本菓子舗へ寄りました。

 

 

IMG_4109なんと、手作りのあるき隊の旗を立てて歓迎してくださいました。

明治創業のお菓子屋でお茶の接待を受け見本を一口ずつ頂戴しました。真中に大きな栗が入っていて甘すぎないお饅頭に、昔懐かしい味を感じました。

裏の肥料庫の蔵の内部を見せてもらい土壁の造りに目を奪われました。IMG_4111

もうすぐ文化財の指定を受けるとの事です。

井本菓子舗様には、お忙しいところご丁寧に案内していただきましてありがとうございました。

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IMG_4125常光寺の後方の丘には弁慶の首塚がありますが現在は立ち入りを禁止されています。

寺の前に藤沢警察署跡の記念碑がありました。IMG_4127

先に出ました小松屋の子孫の方が経営するラーメン屋の前を通ります。IMG_4129

通りは藤沢宿のおもかげを残す建物が沢山あり、私たちを楽しませてくれました。IMG_4203

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IMG_4138そして清浄光寺(遊行寺)へと進みました。

赤城の子守歌で有名な板割浅太郎の墓があり、蘇鉄の実が沢山出来かけていて南国情調も味わいました。IMG_4148IMG_4146

又、江ノ島神社の一の鳥居の土台もあり遊行寺の庭はもり沢山です。放生池に、金魚や鯉を放せばその功徳により家が繁盛し長寿を保てるとの事でした。IMG_4149

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安政年間の菊と三つ葉葵が美しい中雀門を見ました。

弁才天は徳川家の祖である新田有親が信仰したので徳川家縁りの寺となりました。

浄瑠璃で有名な小栗判官、瑛手姫伝説の話を講師から聞きました。

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藤沢橋交差点を過ぎ昔の面影のある建物を見ながら進みました。

1時過ぎにやっとお昼です。藤沢場外卸売市場の物をあつかうお店へ。マグロなどの丼物が美味でした。IMG_4187IMG_4188

かっこいいお兄さんが何人もいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

午後は2時よりスタートです。

この辺りは砥上ケ原と云われ今に至っています。

西行や鴨長明により歌が残されている所です。

馬喰橋(ウマクラハシ)を渡り、江ノ島弁才天道標を過ぎ泉蔵寺へ進みました。

三鱗紋と鯱が大屋根を飾っています。IMG_4206

弘法大師像の下には八十八カ所の寺の砂が納められていると聞きました。

古い庚申塔にも我々はとても魅了されました。

諏訪神社へと石段を昇りました。723年という昔に諏訪大社から分祀され、上社下社があるのはここだけというのです。IMG_4212

高台からは江ノ島が見えました。

密蔵寺では、愛染明王が祀られているので愛染かつらが植えられていましたが、葉はまだ見られず残念でした。

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そばに熊野大社の御神木である梛(ナギ)の木があり、見上げては葉がおちていないか何人かの人が探しましたがこちらも見つかりませんでした。

本蓮寺では、頼朝の上洛の際に駒繋の松を眺めました。日蓮が瀧の口法難を逃れ佐渡に流される時に、こちらで休息したといわれています。IMG_4224IMG_4231

 

 

 

 

 

 

その隣には西行法師の戻り松があります。西行がどこへ行くのかとたずねたら、子供たちが『夏枯れて冬ほき草を刈りに行く』の和歌で答えたというのです。レベルの高さに西行が驚いてもと来た道を引き返したという伝承があります。IMG_4235

 

常立寺では、江ノ島弁才天道標を見て元使供養塔の大きなひげ文字と青の布が印象的でした。元寇の時に蒙古からの使者で斬られた五人を供養したという事です。

瀧口神社の石段を見上げてすぐに隣の龍口寺へと進みました。本日最後の場所です。門の彫刻もすばらしく疲れた私たちは目を見張りました。IMG_4248IMG_4251

左手に御霊窟があり、刑場で難を逃れた日蓮が一夜を過ごした洞窟です。

本堂に入る前に一人ずつ大鐘を打たせてもらいました。

男性は男らしく女性は女らしい美しい音だと皆、聞きほれていました。

火曜日には本堂も拝見でき日蓮が座ったという石を見る事ができました。IMG_4254

信者の方は大いに涙すると聞きました。

何度目かの道標を見て一路、小田急駅へと向かいました。IMG_4261次回訪ねる江の島が見えています。皆さまお疲れ様でした。IMG_4262

本日は大変見所満載の一日で頭を少し整理しなければと思う車中でした。

 

 

 

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第七回二子玉川~荏田

 

3月15日㈫19名晴天の中を、19日(土)12名は小雨の中を、9時40分に二子玉川駅を出発しました。東急田園都市線を左に見ながら多摩川を渡ります。渡り切った場所に「ふたごばし」という大正時代の親柱と二子の渡しの立札が立っていました。IMG_3868IMG_3866

右手に岡本かな子文学碑があり、築山は丹下健三設計で、モニュメントはあの岡本太郎の作品です。純白の羽を広げた鶴のような像が空に向き立っていました。すぐ側に小さな二子神社ありました。IMG_3870

岡本かな子の実家である大貫家は苗字帯刀を許された豪商で明治時代も蔵が17もあったといいます。その大貫家の菩提寺である大悲山光明寺に10時過ぎに着きました。IMG_3886

楠の巨木の下に大貫家の塋域(エイイキ)である墓地が広がっていました。釜形の水盤に金魚が可愛く泳いでいました。IMG_3882

本堂には二子学舎という高津小学校の前身が置かれていたというのです。

そこで講師から江戸時代が進むにつれていかに寺子屋の数が増えていったか、その結果、明治維新以降の日本がスムーズに発展を遂げたという話を聞きました。IMG_3888

舗道のない歩きにくい道をすすんでいると大釜が右手にありました。この大釜は大河ドラマ「黄金の日々」で石川五右衛門が釜茹で使用したといいます。本物の釜茹の刑に使った釜は会津にあったとのことです。

江戸時代になると残忍な刑はなくなり磔獄門が一番重い刑だったようです。

図書館まえには国木田独歩の碑があり溝口の亀屋で泊まり「忘れ得ぬ人々」のモデルとなったと言います。田中屋呉服店の珍しい蔵造りを見ながら高津の信号を渡りお茶の田中屋と進みました。IMG_3893

1751年頃の宝暦年間の創業ではじめは万屋で後にお茶とはかりを売るようになったといいます。IMG_3897

ここで珍しい武州茶をいただきながら店主より量りについて説明を受けました。小さな5尺の桝が1合桝にぴったりはいるのには皆でほおと関心しました。しかし私たちは周りに気を取られもして緑茶、紅茶、羊羹にビスケット、お茶のミルまで購入した方もいらっしゃいました。

講師のメートル法に移行した話は頭を素通りしてしまいました。でも資料にありますから大丈夫です。IMG_4007

 

 

 

 

明和年間から薬屋で今も続いている灰吹屋がありました。土蔵は明治のものといいます。又、二代目の仁兵衛さんは俳句が上手で俳号が老人亭宝水とは笑えます。IMG_4013

大山街道道標を見ながら11時にふるさと館に着きました。ここで御手洗いと資料館内を見ました。IMG_3903IMG_3904納めの木太刀は、三人位で担ぎ大山阿夫利神社へ奉納するというレプリカの大きさに驚きました。

又、一階奥に我国初の人間国宝、浜田庄司の作が展示されていて私たちの目を引き付けました。IMG_4017

ふるさと館の隣は浜田庄司の家との札が立っていました。

11時半近くになっていたでしょうか、石橋がありました。大石橋と呼ばれたこの橋は稲毛郷と川崎郷の二ケ領にわたる用水で二ケ領用水と呼ばれています。1611年からの流れに思いをはせました。IMG_4024

11時半、ここでお昼の場所へと向かいました。地元の会員さんの案内で一部の人は溝口ビル8階のインド料理を楽しみました。IMG_4029

12時半に歩道橋を降りたところに集合し、さあ午後の出発。

午後一番の訪問先は溝口神社。宝永5年(1709)に溝口村鎮守でしたが明治には高津村等も含めた総鎮守となり合祀されている神社も多く中でも松尾神社は酒造の神様で珍しく手を合わせる方々もいらっしゃいました。IMG_3916

IMG_3920樹齢300年以上の御神木の親楠や樹齢500年以上の長寿けやきを見上げ本殿の石造りの珍しさにも驚く私たちでした。

しかい一番忘れられないものと言えば水盤をささえている四人の我慢さんでした。IMG_3914

2、3分で宗隆寺へ。明和3年の古い髭文字の題目塔が迎えてくれました。こちらには浜田庄司のお墓や筆供養塔もありました。IMG_3924

IMG_3927「世を旅に代かく小田の行きもどり」の芭蕉句碑は灰吹屋二代の主人の玉川宝水が建立とのことです。さてここで講師が大変珍しいという日蓮の幼名である善日麿像を示すのでした。おだやかで聡明そうなお顔と上等な衣服に数か月前に見た聖徳太子像を思い出すのでした。IMG_3928

 

 

3分程で栄橋の交差点へ溝口村上宿と下作延村片町の境だったことが名前からわかります。さかえ橋の親柱が残されていました。

又、少し進むと陶芸家浜田庄司の生誕の地の立札もありました。

大山道の道標と庚申塔を過ぎると多摩丘陵特有な道に我々は入っていきます。

はらへりとも呼ばれたという「ねもじり坂」から始まりました。昔はもっと急な坂で野菜や魚を江戸に運んだといいこの坂下辺に食べ物屋さんがあったようです。私たちはこれからその坂を登っていきます。IMG_3944

8分位登ると平らな道に入り笹原子育て地蔵がありました。12年毎のご開帳とのことです。筆者は孫の為にお願い致しました。横に大きな秩父・西国。坂東供養塔が立っていました。

19日は雨がすっかり上がったので、地蔵堂の前をお借りして皆で雨具を脱ぐ事が出来ました。5,6分で庚申塔があり「右大山道」「左やうがすじ道」とありました。

宮前平駅前に八幡神社があり石段が急ですが15日は頑張って登りました。5,60段はあったでしようか。

光背がある庚申塔は珍しいと講師はかたるのでしたが他には拝見するところもなく早々に失礼しました私たちでした。IMG_3951

しかしこの宮があったので宮前平という駅名が付いたのです。この駅で御手洗いと水分補給をしました。

246号を渡り又、登り坂です。坂の上にあゆみが丘の字と横浜のマンホールを見つけました。IMG_3959

横浜市に入ったのです。皆川家のそばには立場があり馬に休息所だったということです。IMG_3961

今は大きな造園業を営んでいるようです。登り切ると住宅地の間から丹沢山系がきれいに見えます。しかしこの辺りは刑場があったという事です、すぐに下り坂になりましたが別名を血流坂という地名とは何と恐ろしい名前でしょうか。

不動の滝という名ばかりちょろちょろの水が落ちていました。IMG_3968

急な石段の上に老馬鍛冶山不動尊堂があり、傍にあった椿の花や葉について、西洋でとても人気がある花との話をしながら一息入れました。小さな石坂供養塔が石段の脇にありました。昔はここから大山がきれいに見えた事でしよう。急斜面にも家やマンションが立ち並んでいます。IMG_3962

3時半過ぎに平坦な道に出て川の側に出ました。ほっとした一行を小さな土筆が和ませてくれました。IMG_3977

荏田下宿庚申堂はなんと婦人たちのためというから驚きました。この辺の女性たちは昔からすすんでいたのかもしれません。造花ですがきれいな花が供えてあります。

民家の中に中宿秋葉常夜燈が立っています。IMG_3985なぜ庭の中にあるのか疑問に思いながら又、246号に出て荏田町の字がどれ程うれしかったことでしようか。今日は多摩丘陵を上がったり下ったりとてもハードでした。ちょうど4時頃、江田駅に到着しました。本日は大変お疲れさまでした。IMG_4051

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第六回梅ヶ丘~二子玉川

2月16日㈫は晴天、20日㈯は午前中より雨の降る中、あるき隊の皆さんは頑張り、かつ大いに楽しみました。今回もとても内容の濃いコースだったと思います。 梅ヶ丘駅を9時40分頃出発しました。そして10分位で杓子稲荷神社へ着きました。ここは、世田谷城の表鬼門に当たる場所で、伏見稲荷を勧請したということです。赤い鳥居に杓子稲荷とあり、杓子は食べ物をすくうことから全ての災難から救う御箆大明神として祀られていたのでした。また、日清戦争の時は敵を召捕るという意味で人々に信仰されたそうです。IMG_3579 少し歩くと、国士舘大学の辺りに差し掛かります。福岡の武士たちが作った玄洋社の流れを組み、アジアの文化圏を中心とした考えを広めていく思想で、あの孫文を助けたと言われています。その教育部門が現在の国士舘大学等の姿というのです。随分立派な建物が幾つも立ち並んでいました。IMG_3588 IMG_3591直ぐに、桂太郎の墓が木々の間から見えてきました。松陰の教え子で、遺言通りに松陰のそばに墓を建てたとのことです。 さてとなりの松陰神社の鳥居が見えてきました。毛利家の抱え屋敷の敷地内に造られた吉田松陰を祀る神社です。門下生たちが処刑された松陰の遺体を運び、丁重に埋葬したとのことです。IMG_3595IMG_3593 筆者は講師と共に小伝馬町の刑場跡を訪ねたことがあり、あの陰気な場所を見ていだけに少し救われた気がしました。瓜に卍の吉田家の紋が輝いています。松陰の座像の後ろで紅白の梅が美しく咲いています。松下村塾のレプリカが右手奥に建てられていて我々は当時を偲ぶのでした。 IMG_3597IMG_3600奉献された石燈籠の並び方も主君と臣下をはっきりと示していました。松蔭のお墓には花や榊が供えてあり、徳川家からの水盤や燈籠が傍にありました。やはり松陰が政治に関わっていたとしたら、明治の時代がどうであったかと思った人は多かったのではないでしょうか。IMG_3605 20分位過ごし次へと向かいました。 世田谷城の裏鬼門に建てられた勝国寺を見ました。こちらは江戸幕府より112石の朱印を与えられた御朱印寺です。IMG_3607 10分位進むと石積みが連なっている世田谷城址です。吉良治家が室町時代に築城したとのことで、全盛期には南関東の主要な場所だったとのことです。IMG_3617

御手洗い休憩も兼ねて10分位思い思いに辺りを散策しました。 7、8分で本日のメインの一つの豪徳寺へ着きました。福を招くという招き猫の話を講師が詳しくします。ここで全員の記念写真を写しました。中道のコースの半分程度歩いたので招き猫と撮りたいとの四宮講師の発案に、皆さまご協力をいただきましてありがとうございました。IMG_3628IMG_3621 細工の巧みな五重塔の中心に白い猫がいてとても笑えました。IMG_3780 無名戦士慰霊記念碑の横たわる人の像の胸から木が生えています。いったい何を語ろうしているのでしょうか。5300余人の供養をしているとのことです。IMG_3787IMG_3635 しかし何といってもここでは井伊大老直弼の墓へ行かなければなりません。白梅が満開の前を進むと立派なお墓がありました。とても長い法号です。   後ろには桜田殉難八士の墓もあり、そばで紅梅が咲いていました。IMG_3636IMG_3634 桜田門外の変の際に、直弼と親しい水戸藩の何某から投げ文が届いたにもかかわらず、直弼は警護を増やさなかったという話を聴き、心中が複雑になる私たちでした。そして旧幕府軍と戦い戦死した彦根藩士11名のえい首塚を見上げてから、豪徳寺を後にしました。IMG_3639 安政の大獄を行った者と、その人により流刑から斬首とされた者の墓が世田谷のこんなにも近くにあるのですから、悲しくも不思議な縁を感じずにはいられません。 世田谷線の踏切を渡ります。緑色の昔の車両が駅に置かれていて懐かしんでおられる方もいらっしゃいました。IMG_3655

 

 

すぐに世田谷八幡宮へ着きました。源義家が1091年に勧請したとされています。また疱瘡の神様を祀り、疱瘡を鎮めようとした昔の人々の苦労がうかがえます。IMG_3649IMG_3652狛犬の子どもが親の尾をくわえていて何とも微笑ましく和ませてくれました。 世田谷線をまた渡り5、6分で吉良家の墓所である勝光院へ着きました。。駕篭が上がれるように石段がとても緩やかで奥行きがたっぷりありました。IMG_3653 10分位でボロ市通りに入りました。 すぐに代官屋敷の閉められた門を眺めながら通用口へと進みました。お天気の良かった16日は大きな蟇蛙が出ていて驚きました。屋敷の玄関や、恐ろしい白州や道沿いあったと石造物の説明を聴きました。重要文化財の大場家の住宅もゆっくり鑑賞したかったのですが私たちは先へ進まなければなりません。IMG_3676IMG_3672 IMG_3675IMG_3680IMG_367720日は小雨が降っていたのでこれらを急ぎ見てから昼食にしました。今回は大きな店がなくて4,5軒の、寿司屋やカフェ、小さなレストラン等に別れてお昼にしました。 さて、この通りのボロ市祭りは毎年ものすごい賑わいと聞きます。小田原北条家がここに楽市を開いたのが始まりといいますから歴史を感じます。IMG_3671 代官屋敷の後方には、大場家の菩提寺浄光寺があります。そして、5分位で鶴松山実相院へ。定規塀と大きな塔が目立っていました。世田谷城主の吉良氏朝が北条氏の滅亡で下総に逃れている間に家康が江戸に入り、吉良氏は城に戻ることが許されず、ここにて死亡したということです。午前中に城跡を見ていただけに、世田谷という地もいろいろと歴史が動いて今に至ったのだと感じ入りました。 しばらく進むと児童公園の端に大山道参拝人像があり、木漏れ日の下で誠にのどかな格好をしているのでした。IMG_3690

 

大山道と鎌倉街道が重なっている辺りをしばらく進みます。陸上自衛隊という交差点を過ぎ、衛生材料廠跡も過ぎ、小さな大山道追分の石柱を見ながら行きました。IMG_3694IMG_3696IMG_3693 直ぐに瑜迦山真福寺へ着きました。バラモンのヨガからきていると講師はいいます。皆が健康のために行っているあのヨガが山号になっていて、山号から地名の用賀はきているという話になるほどと皆さんは大きくうなずくのでした。IMG_3698 三椏の花が咲いていました。立派な庚申塔と芭蕉句碑も鑑賞しました。IMG_3704 道の辺の木槿は馬に喰われけり     花も次の瞬間には無くなるという無常を詠んだ句といいます。今を大切に生きなければと感じる次第です。 またすぐそばに、無量寺があります。品川の浜で漁師の網にかかった十一面観音様が本尊で十二年に一回御開帳されるということです。ここにある草木供養塔之碑は、数ある供養塔の中で大変珍しいと講師は言いました。IMG_3708 大空閣寺は新しい寺で、ハモニカ製作所の小林氏が建立した観音と鮮やかで沢山のかざぐるまが印象的でした。IMG_3822IMG_3725 もう3時半近くになっていました。喜楽山慈眼寺の大きな門をくぐりました。鎌倉時代長崎氏が開山したとのことです。20日はもうすっかり本降りになっていて、会員の方々は弱音もはかずぬ講師の話に耳を傾ける姿に感動しました。IMG_3829 となりは瀬田玉川神社です。鈴と鈴緒がなくて、手に持って鳴らす鈴が拝殿前に置かれていて珍しく思わず鳴らしてしまうのでした。IMG_3732IMG_3832 親にそっくりな顔で甘える狛犬の子があまりに可愛くて、私たちは立ち止まりました。 慶長年間に小泉治大夫というひとが造った灌漑用水で、この地の人は治大夫堀、治大夫橋と呼んだそうです。IMG_3738IMG_3734 二子玉川商店街に入りました。今は無くなった玉川線の跡を通り兵庫島へと田園都市線の高架をくぐります。兵庫橋を渡ると河津桜の花でしょうか、一本の桜が咲いていました。多摩川の中州のここは、新田義興(義貞の次男)の供の由良兵庫助の遺骸が流れ着き、この地の漁師が悼み葬った場所です。高級感ただようここ二子玉川で、その名が残る兵庫島の話をいったいどれだけの人が知っているのでしょうか。IMG_3743 若山牧水の歌碑を見て、二子の渡し跡を見て駅へと向かいました。IMG_3752赤レンガの近年の堤防跡の見学し、大きくモダンな二子玉川の駅に到着しました。雨に降られた20日の皆さまも最後まで頑張られました。お疲れさまでした。IMG_3747 堂守りてしだるる梅や寺の雨

渡し跡けぶりて雨や遠き春     幸子

 

梅香る座像説きをり志

首塚に刻む字美しく春の雨     慶月

トピックス

鎌倉街道あるき隊の四宮功講師が、二回目のテレビ出演をいたします! 3月7日(月)テレビ朝日(5チャンネル)羽鳥のモーニングショウ。 9時15分頃からです。お時間のおありの方はご覧くださいませ。 石原良純氏を中山道の板橋から蕨宿まで案内します。IMG_3842IMG_3845

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第五回 新井薬師~梅ケ丘

新しい年に入り暖かな日が続いておりましたが、この週の始めのあたりからぐっと冷え込むようになって来た12日(火)と16日(土)、中道第5回目を歩きました。

12日は小雨の中を13名お集まりいただきました。16日は19名の方々が出席下さいまして好天の中を快調に歩くことが出来ました。

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9時半すぎに新井薬師前駅を出発し、新井薬師へと向かいました。

10分もしない内に到着。瑠璃殿と書かれた扁額を見上げ本堂にお参りしました。

親子地蔵の珍しさとともに、首切りにあったであろうお地蔵様を私達は胸を痛めながら見つめました。IMG_3450

墓地には沢山の窪寺氏の墓があります。新田義貞に従った信濃の武士で、ここ武蔵国新井に土着したといいます。

又、新井の由来の白龍権現水の像を鑑賞しながら龍についての話を聞きました。IMG_3458

 

 

 

 

筆者は、近頃テレビで中国の歴史ドラマを観ています。絶対的権力者である皇帝(陛下)は龍に例えられ、衣服には龍の刺繍が施されています。龍は強い生き物を寄せ集めた想像上の動物なのですね。

十六歳の凛々しい聖徳太子の像は戦後の建築職人の技能低下を憂いて鏝(コテ)で製作したといいます

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竹垣が長く続くこの辺は名主鈴木家で大きな屋敷林があり通称欅屋敷と呼ばれていました。又、ここは「たきび」の歌の発祥の地でもあります。

鈴木家の前で目にした焚火がモチーフとなり巽聖歌(タツミセイカ)の詩が生まれたのです。可愛らしいお地蔵さまが欅の祠の中にいらっしゃいました。

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さて出発して丁度一時間、本日のメインの一つである万昌院功運寺に着きました。こちらは、団体のお参りは前もって予約が必要というお寺さんです。みかんの木がありいい色に色づいていました。IMG_3466

万昌院と功運寺が合併しましたが、もとはどちらも江戸城の近くにあったということです。境内に入ると一切写真が取れないので、それぞれの脳裏に焼き付けておくしかありません。門前のたて札の前でまず説明を聴いてから門をくぐりました。IMG_3376

あの吉良上野介の墓がたっていることにまず感動を覚えました。

五輪塔をスマートにした型の四本の石柱の墓の右端のものに従四位源義央その右側に十二月十五日と日付が刻まれていてはっきりと読み取れました。IMG_3467

細く狭い石畳の通路を皆で気を使いながら賤ヶ岳七本槍の一人の糟屋武則の墓、今川家の墓地、南蛮医の栗崎路有や浮世絵師の歌川豊国等の墓にもお参りしました。

女性としては「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の林芙美子の墓が興味深くつつじの帰り花が小さく咲いていたのが印象的でした。

12日は寒い小雨の中に和風のコーヒーカップが供えてありました。どなたかが放浪記の森光子さんもきっとお参りしたのでしようねとおっしゃっておられました。

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隣にある宝泉寺には島原の乱で鎮圧の指揮をとったが討死した板倉重昌の墓がありました。正月朔日(ツイタチ)と刻まれていてなおいたましく感じました。

講師は相模の大雄山最勝寺の僧であった道了の宿坊跡の碑から天狗の話へと移行するのでした。

2,3分で、前回の三井文庫前で道が途切れていた鎌倉街道に繫がる場所(上高田2丁目)の道に出ました。何の変哲もない道路に停ずみ、そうなのかとそれぞれに思いをはせるのでした。

しばらく歩き早稲田通りを横切り右に入ると10分位で北野神社へ着きました。こちらは石造物が面白く、狛犬や元禄期の如意輪観音、庚申塔を拝見しました。申年の新年ですから三猿を見てもちょっと今までとは違う思いで見てしまう我々でした。IMG_3474IMG_3473

 

5分位進み、この辺りの30万坪が徳川綱吉時代の犬屋敷跡だという話にその面影など全くない交差点でへえ~というしかありません。尾張藩上敷の人の排泄物を汲み取る役の名主の堀江家の話にも皆、興味をそそられました。藩の上屋敷は年間50両程で買い取るということです。庶民は粗末な食物の排泄物だから大根5本程度だとか。食べ物の差でこんなにも肥料に差が付くとは思えませんが笑ってしまう値段の差ではないでしようか。

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堀越学園前を通過し、城山の砦跡へと。太田道灌の陣跡でスポーツ広場となっていました。ここで御手洗い休憩です。

三味線橋の由来は近くで音が聞こえたからと云います。橋の名の何と粋なことでしようか。IMG_3390

三味線が趣味の歩き隊の会員さんが、橋柱をなでておられたのを筆者は嬉しく眺めました。IMG_3392

10分位で商家や料亭が軒を並べていたという鍋屋横町へと入りました。

丁度12時半です。これから1時間楽しいランチタイムです。お店はいろいろありましたが角の中華料理店に決めました。チヤイナドレスのお姉さんが魅力的で雰囲気もお味も良くて今回も満足!!幸せな時間を過ごしました。

1時半、三菱UFJ銀行前に集合して午後のスタートです。

鍋屋横町の由来の説明板を見ると、名物の草餅や梅林も人気があったというから今残っていたら私たちもどんなに楽しかったことでしようか。

妙法寺のお題目石は舗道に立っている碑で妙法寺への道しるべです。是より妙法寺へ十八丁と刻まれています。大きなお寺といいますが鎌倉街道からはかなり離れていますので今回は石碑だけ見て先へ進みます。IMG_3394

 5分程で和田十貫坂にさしかかりました。中野長者の鈴木九郎が埋めた古銭十貫が入った壺が掘り出されたといいます。地蔵堂のお地蔵様も庚申塔も1700年代の初めのものでガラス戸の穴から眺める事ができました。IMG_3401IMG_3405

又、5分程度で神田川沿いを歩きます。営団地下鉄車庫を過ぎ、多田小学校の校庭に卒業生が石で造った記念碑を見て通ります。

すぐに宝福寺に着きました。憤怒のお顔が決まりとされている馬頭観音ですが、こちらは優しいお顔で片膝を立てていらっしゃいました。大きな筆塚もあり、これは明治三年雑色村の戸村塾の生徒たちが筆を供養したといいます。IMG_3411

男15名、女10名と資料にありますが女性もちゃんと勉強していたというのが解り、とても嬉しい気持ちになるではありませんか。IMG_3409

地続きの多田神社へ入っていきました。

九百年もの歴史があり源義家ゆかりの神社でずっと雑色村の鎮守であったといいます。IMG_3414

狛犬も立派で、鈴緒を被う紫の奉納幕の笹竜胆の紋が印象的でした。御神木は二株に分かれている楠の巨木で鳥居と鳥居の間にそびえていました。IMG_3415

中野区南台の商店街をどんどん進みます。道の両側はにぎやかになってきます。

商店の上には謹賀新年ののぼりも立てられています。IMG_3420

25分位、ずっと歩くと甲州街道に出ました。右手すぐに笹塚の一里塚跡がありました。

新宿より3里と云う事です。又、近くのスーパーで御手洗い休憩を取りました。バーゲンセールが気がかりでしたが3時にスタートしました。

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甲州街道の歩道橋を渡り5分位で玉川上水です。IMG_3503

江戸芝口の町人の兄弟が幕府に願い出ると共に自分達の家・屋敷も売り造ったという12里半の上水です。しかしゆっくり眺める事なく過ぎました。

又5分位すると鎌倉街道は、下北沢へ行く方と二子玉川へ行く方に別れています。

我々は左手の玉川方面へと目指しました。15分位進み環七を渡ると羽根木神社へと進みます。細く長い参道を行くと赤い鳥居が目に入ります。狐さまや常夜灯は金網の中で覆われていました。

皇太子殿下ご誕生紀念と彫られた碑があり、昭和十年二月十一日と刻まれ在郷軍人、青年団とありました。IMG_3432IMG_3508

 

 

 

 

京王線東松原駅の踏切を渡ると4~5分で羽根木公園です。ここは東武鉄道を造った根津嘉一郎氏の別荘があった場所で広い梅園にした事から小田急線の駅名が梅ケ丘なったそうです。IMG_3516IMG_3440

丁度、紅白の梅が咲き初めていました。古事記橋の小さな石柱はこの橋の近くに乞食が住んでいた事からだそうです。IMG_3518

4時に小田急線梅ヶ丘駅に着きました。今日の終点です。お疲れさまでした。IMG_3447

火曜日は美登里寿司本店の席は少しありましたが土曜日はもう行列ができていました。

来月、又この駅でお会い致しましょう。IMG_3433

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第四回 赤羽(岩渕)から新井薬師

 

12月8日(火)19日(土)両日お天気に恵まれた中を9時半に赤羽駅に集まりました。

赤羽駅から鎌倉街道に出るまで少し歩き本尊薬師如来前からのスタートです。まず講師は御家人株は何両で手に入るかという話から始まりました。与力1000両、同心株200両が相場といいますが、庶民にそんなお金はないのではと筆者は思うのですが、夢のなさすぎでしようか。

4~5分歩き本日最初に訪ねたのは赤羽根八幡宮です。右手に天保11年是ヨリ左ヘ一丁という道標がありました。IMG_3063

坂上田村麻呂が陣を張ったという、この辺りの総鎮守であったそうです。

三十段位の石段を登り説明を聴きました。石段の奥ゆきがあるのは駕籠が昇れるようにしているからというのです。IMG_3065

本殿脇の左右の彫刻は大変立派で赤ん坊は応神天皇という事です。IMG_3068

境内には色々な神社が合祀されていて、なで牛や兎、狐、大黒さまなどの置物が

ずらりと並んでいて思い思いに鑑賞し、撫でると吉事があるという牛を撫でたりしました。IMG_3070

そしてこちらで私たちを驚嘆させたのは社務所の下を線路が通っていたことでした。

神殿の下でなくてよかったと皆で思いながら坂道を降りました。IMG_3075

坂本庚申塔を過ぎゆるやかな「うつり坂」を登っていきます。

URの工事現場らしき間を抜けて15分位で善徳寺です。

御手洗いをお借りし、墓地にも入れていただくので心ばかりの御布施をしましたら全員にお供え物の小袋を頂戴しました。19日には本堂内のしやもじ形の仏像(お竹さん)を見せてもらえました。講師より女中のお竹さんの美談を聴き、お竹如来にもお参りいたしました。御伝馬役の名主の馬込家の墓を拝見させていただきました。IMG_3244IMG_3085

 

 

 

 

お竹さんのような女性の鏡にほんの少しでも近づきたいと思いながら善徳寺を後にしました。

お隣の大恩寺へと移りました。仁王さまが立つ門をくぐると観音様がずらりと並んでいました。美しい観音様方に見ほれる程でした。IMG_3092

私たちはいったいどの観音様に救われるのでしようか。地下の墓所には琵琶を持った弁才天が立っておられ、前には可愛い子供の地蔵さまが並べられていました。IMG_3096

又、地上に戻るとお堂の内に金箔を施された水子観音があり、木造では日本一の大きさという華麗なお姿で立っておられました。

最後にこれらの観音様たちの元のお姿の聖観音様の美しく穏やかなお姿を境内で拝見して、こちらを後にしました。

中山道を横切り、又15分位進むと長徳寺です。道標や馬頭観音等石造物の多いお寺を鑑賞しました。

しばらく進むと山中橋(中山道の板橋より古い)を渡り、商店街へと入ります。IMG_3119

野菜や果物の安いこと安いこと。半額セールの焼肉屋もありました。

さあここで一時間のランチタイムです。どの店に入るか悩んだすえに火曜日はトンカツ屋、土曜日は「キッチン亀」とへ。

どちらも安くて美味でした。へそハンバーグランチは、この辺の「へそ祭り」からのメニューという事です。ハンバーグはクリーム煮仕立てで香辛料がきいていました。

午後一番に訪れたのは専称院。前身は鎌倉時代の武将が行基に地蔵を造らせたという伝説の場所です。溺水亡霊解脱塔、救世除水難宝塔、長夜塔が並んで立っています。

さすがに荒川のそばにあったお寺で、水難がいかに大きな事だったか伺えるのでした。又、子育地蔵尊が座像であった事、門にある葵の紋に異なる葉が入っているのはめずらしいとのことです。

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次が名前がユニークな轡神社です。この辺りは通りからすぐに境内となり参道がありません。義経が鎌倉へ、はせ参じた際の馬がこちらの前で倒れ咳で苦しみながら亡くなったそうです。轡を外し祀ったという伝説があり、馬の草鞋を奉納するようになったといわれています。咳の神様として長く信仰されてきているということです。IMG_3127

通りの舗道をどんどん進みますと15分位すると大きな水道タンクがそびえていて、初めて見る巨大なタンクに驚きました。関東大震災後に都市部から逃れた人が急増したので、水不足を補う為に造られたものです。IMG_3138IMG_3134

IMG_3139幼稚園の奥にある西光寺に着きました。お正月用の庭の葉ボタンが迎えてくれました。お堂の中に座っているお地蔵は、代掻きをしてくださったという昔話で有名な代掻き地蔵さまです。

途切れていた鎌倉街道にまた入りました。しばらく進むと現在は公園となっている千川上水跡があります。元禄時代、幕府の命により河村瑞賢の設計で玉川上水から分流したといいます。後にこの上水は農業用水としても認められたとの事です。桜の名所でもあった場所の名残は何もありませんでした。IMG_3147

西武池袋線を渡った辺りに明治乳業の前身である籾山牧場があったという立札がありました。IMG_3149

15分位歩くと野方配水塔がそびえていました。こちらも前出のタンクと同じ用途でしたが、先の戦争の空襲時の弾痕跡が残っていて私たちはため息とともに見上げたのでした。

8日と19日は順序が入れ替わりましたが、まだ黄色が残る銀杏並木の横を通り哲学堂公園へと向かいました。本日のメインの一つです。東洋大学の創始者井上円了はあらゆる学問の基礎である哲学こそ日本の近代化にとって重要とし、この哲学館を造ったといいます。IMG_3194

「お化け博士」と呼ばれただけあって幽霊と天狗の像が迎えてくれます。IMG_3162

中に入って自由散策の前に楷書の筆使いを思わせる楷の木と美しい樹形のビヤクシンを見ました。約25分間ゆっくりと見学しました。IMG_3178

三学亭は冬紅葉に包まれていました。正面の赤い四聖堂はひときわ目をひきました。孔子、釈迦、ソクラテス、カントの四哲人を祀っていました。IMG_3344IMG_3170

理想橋を渡り哲学の庭を散歩しました。IMG_3341

すぐそばの蓮華寺は円了の墓所がありました。井桁の上に円をのせた大きなお墓に氏のユーモアを皆で感じた次第でした。IMG_3327

ここは少し高台になっていて南西の方角が開けていて江古田原の合戦があった一帯だとの説明を受けました。太田道灌が豊島氏を滅ぼした戦いが行われたところです。

10分位歩き御霊神社へと進みました。

前九年の役の帰途、京都の桂の里一族が土着して八幡宮を勧請したといいます。少しうっそうとした場所でお参りをしました。イボを取ってもらえる石が疣天神の傍の箱にはいっているそうです。IMG_3347

哲学堂通りをひたすら歩きました。メタセコイアの並木が夕日に映えて益々濃く見え、それはそれは美しい風景でした。IMG_3211

10分位で本日最後の場所の三井文庫に着きました。こちらは三井家の墓所がありましたが今は京都に移転し、美術工芸品も日本橋に移されたそうです。IMG_3351

現在はただ静寂の中に四角い建物があるのみでした。三井という表札の家が入口付近に建っていて国産車が停まっていました。

10分少し歩き西武新宿線新井薬師前駅南口に着きました。

皆様お疲れさまでした。27年の「鎌倉街道あるき隊」は無事終了致しました。

ありがとうございました。新しい年が皆さまにとって良いお年でありますように。IMG_3105

 

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第三回 新井宿から赤羽(岩渕)

第三回中道は晩秋の中を講師以下11月17日(火)は20名、21日(土)は15名で新井宿駅をスタートしました。

すぐに鎌倉街道(後に日光御成道となる)に出ました。

資料の分間延絵図で現在地を確かめます。そして土橋、板橋、石橋の違いの説明を受けました。

IMG_2778今回、初めに訪ねたのは真言宗智山派の地蔵院で寺紋が巴紋とは珍しいとの事。

門に入り、まず右手の良縁地蔵の昔話を聴き、筆者もお嫁さんともっと仲良くしたいとお願いしました。

奥左手の墓地に入れていただき小谷三志の墓へと進みました。富士講を不二道と改め二宮尊徳にも影響を与えたという人です。

この鳩ヶ谷の地で1765年生まれの人が男女平等主義者ということに驚きました。IMG_2780        IMG_2787

そして三志の遺言通りに自然石を二つ重ねた墓なのでした。

また、板碑のような形の石に刻まれた庚申塔はとても立派で頭に蛇がとぐろを巻いていてシヨケラを高く差し上げています。

帰り道の参道には「近江屋」という名の店を見つけ、ふと歴史を感じたのでした。

 

街道に出て進むと三志生家跡がありましたが石柱と案内板があるのみの空地でした。

また10分位進み、鳩ヶ谷本陣の菩提寺であった法性寺へと。室町時代末期と云われる山門をくぐると大きな銀杏の黄葉が迎えてくれました。こちらにあった石造物は特に

IMG_2796印象的で、まず変形六地蔵に驚きました。それぞれの表情が異なるお顔のお地蔵さまが大きな山型の石に彫られていて、なんとも芸術的なことでしょうか。皆で感心しながら見入ってしまいました。

もう一つは怖いお顔の庚申塔です。どくろの首飾りにはちょっと笑えました。

 

当時、一番華やかな場所にあったという高札場に立ち現在の番地を見ると本町一丁目一番地ではありませんか!なるほどねと納得しました。

昔をちゃんと引き継いでいるのですね。

小さな市神社の前を通り、100円出して資料館に入りました。御手洗いを利用させていただきました。そして

小谷三志の優しそうな像を見る事ができました。老人の像ですが、この方が女人禁制の富士山へ弟子の女性を連れて登った人かと、また一つ知識が増えた事を嬉しく思いました。

 

鳩ヶ谷宿の総鎮守の氷川神社へと進み大きな狛犬の間を上がるとここでも黄葉の銀杏が迎えてくれま

す。

きらびやかな神輿三体を見ながら神殿の裏手へとまわりました。IMG_2809IMG_2805

夫婦樟の御神木がたくましく立っていました。赤い着物の七五三の子が手を振ってくれました。

4、5分あるき「日光御成道のみちすじ」という大きな案内所がありました。

大きな壁画の前で講師が大名行列の説明等をしました。「下に下に下に」は将軍で、「下に下に」は御三家、御三卿、「下に」は老中などと格式により違っていた事。大名は「寄れ寄れ」といっていたのがいつの頃からか「下に下に」になったとの事で、色々細かく決め事があり面白いものだと思いました。

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子供が行列を横切った時は元の場所に戻して(原状復帰)罪にはしなかった事を知り一同ほっとして、次へと歩み始めました。

 

 

本陣跡は今ではファッションストアの藤屋さんになっておりました。

その先に吹上橋の両側にあったという一里塚跡に立ちました。

小さな川に架かっている吹上橋を渡ります。IMG_2818

れが資料一枚分にも及ぶ説明がある見沼代用水なのです。

吉宗の時代に紀州の治水家により利根川から新田への用水路を

造り、全長60キロをわずか半年で仕上げたのですから驚嘆の一言です。

今は両側に住宅が立ち並んでいますが脇にある絵図を眺めては昔に想いをはせるのでした。

 

当時使われていたとんぼ橋の一部の石を見てから、10分程歩くと紀伊藩の鷹場杭跡の説明板が立っています。

御三家には江戸より、五里から十里の間に鷹場が与えられたという事や、鷹匠、鳥見役や綱差等の職についての面白い話も聞きました。IMG_2823

そして鷹狩は軍事訓練の一部でもあったというのですから、平和の時代においても武士の生活の一端が解った気が致しました。

 それからしばらくは車に気をつけながら黙々と歩きました。新芝川の鳩ヶ谷大橋を渡りますと、ここは元々は桶川から流れている芝川を明治以降に付け替えた事で、明治の測量地図には記載されていないということです。

午前中最後の中居神社跡が、通りを右に入った所にありました。鎌倉権五郎が源義家に従い奥州へ出兵した時の逸話の絵が納めれれているとの事ですが、あまりにも小さな建物でした。IMG_2829

バス停に「中居」とあります。昔の地名はバス停や小学校名として残っているとの事です。どなたかがスマップの中居くんの話に触れたりして和気あいあいと進みました。 

ここで約一時間のランチタイムです。皆さん揃って「とんでん」へ入りました。海の幸や飲み物を楽しみ、午後へと備えました。

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お昼の後はどんどん南下していきました。午後一番に訪ねたのは朝日氷川神社です。

裏の道が芝川の堤防跡ということで、赤い鳥居をくぐり裏手への回りました。

御神木の銀杏の木を両手で抱いてそれぞれに気をいただきました。

また、10分位進むと薬林寺の前を素通りしてまずは御成り街道沿いにある不動明王堂と庚申塔を拝見しました。IMG_2842

そして薬林寺へ引き返し緑青の水子観音、首振り観音の話と二代将軍徳川秀忠の恐妻ぶりなどの逸話を講師から聴き、ちょっと疲れが和らぎ、次へと進む一行でした。

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鎌倉街道をほんの少しそれたのは重厚なレンガ造りの洋館を見る為です。

材木と味噌醸造で財を成したという田中家は洋館の他に和館、茶室、庭園などがあるというのですから拝見できたらどんなにいいかと思いました。

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十二月田(しわすだ)の交差点を過ぎると又、一里塚跡が、ビル入り口脇の植え込みの中にあり、石柱はあるものの見落としそうな場所でした。

日本橋から四里で川口元郷駅がすぐに見えてきました。

 

それから10分位歩き本日のメインの一つである錫杖寺に着きました。こちらには見処が沢山あります。五筋の定規塀の中に晩秋の色が美しく残り御成門の奥に見えています。本堂の屋根の寺紋は菊の御紋とその下に葵の紋が黄金色に輝いています。IMG_2864

IMG_2862ハゼの樹の紅葉が残っていて八角の六地蔵と二仏の灯篭や鋳物地蔵も印象的でした。大きな茶筅塚もあります。

しかし私たちの心を捉えたのはなんといっても瀧山の墓です。山茶花の高い垣根を進み墓地の奥へ進みました。IMG_2857大河ドラマ篤姫で稲盛いずみが演じたあの瀧山の墓が広いスペースの中に堂々とありました。21日には墓を洗う男性がいてとても丁寧に扱っていました。大奥を閉じる折もその役目を立派に果たしたという女傑の眠る場所でした。山茶花があまりにも美しく、この季節に来られた幸いを感じた次第です。

寺を出るとすぐに凱旋橋跡があります。これは日露戦争と深く関わった川口の姿とその歴史を感じる遺産でもありました。

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川口の説明板を過ぎ、薬局の古い木造の家の前を通りました。店名が右からの表記も歴史を感じましたが、未だに営業しているとは時間があれば寄ってみたいと思ったのは私だけだったでしようか。

5分位で道を右に曲がると川口宿の永瀬家本陣門(薬医門)がありました。瓦の一部がはがれかけていて荒れ果てていましたが、門だけでも見られた我々は幸いだと思いました。IMG_2873

 

さて、これからはどんどん頑張って歩くのみ!荒川を渡りはじめました。歩道は自転車道と一緒になっていてうっかりすると危ないのですが、21日はお天気が良くて富士山が見えました。そして左手にはスカイツリーも見えてきました。IMG_2887

東京側に近づくにつれ土手の桜並木の紅葉が大きくなってきます。

新荒川橋を渡りきる手前で振り向き、あの白い建物が川口善光寺があった場所でここから眺めるとこの広重の浮世絵と一緒ですねと講師が綺麗な絵を掲げて説明するのでした。

東京都北区の標識があります。埼玉県から東京都に入りました。

 

八雲神社の中の小さな水神社に進みました。鎌倉時代ここに渡し場があった証拠だという事です。

街道に戻り岩渕問屋跡の碑を過ぎると東京23区内唯一の造り酒屋の小山酒造があります。小山酒造は真の辛口という男性好みのお酒らしいのですが、女性の会員さんもにこにこしながら買い物をしていらっしゃいました。17日の火曜日は定休日で残念でしたが、21日は営業していました。IMG_2896

分位先の正光寺は笹竜胆の源氏の紋で正観音が源頼朝の守り本尊と云われています。観音堂が新しくされていてとてもきらびやかでした。

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大満寺は小さいながらも不動明王像が鎌倉時代の作ですし、四国霊場札所の銘板や仏足石も興味深く拝見しました。講師は自分の実家に一番近い讃岐一宮寺、八十三番札所を指しておりました。

4時を過ぎました。板橋道と岩槻道(御成り街道)の追分を通り本日最後の宝幢院へ着きました。道標と板碑形の庚申塔と思われる阿弥陀如来に向く二猿の線刻が見事でした。IMG_2912

 

少し暗くなり始めた中を駅へ向かいます。赤羽駅の何とにぎやかな事でしようか。やはり東京ですねと誰かの声が。今回も無事終了する事が出来ました。皆様お疲れさまでした。赤羽駅北口改札口で12月に又お会いしましよう。IMG_2910

 

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冬木影水子地蔵の女かな

水神を祀る宮あり新酒買ふ   幸子

 

山茶花の生垣奥に眠りをり   慶月

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お知らせ 大変長らくお待たせしていますモーニングショウでの放映の件ですが、またもディレクターから連絡が入りまして、1週間延びる事になりました。

12月14日になりましたのでよろしくお願いいたします。

 

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第二回 釣上から新井宿

 

IMG_2479 第2回中道は10月20日(火)講師以下20名、31日(土)は14名で歩きました。9時半に浦和美園駅に集合10時少し前に釣上交差点がある鎌倉街道に出ました。

右に曲がり、その交通量の多さに驚きながら進みました。

しばらく行くと道の角に大きめの彫りがよく分かる庚申塔がありました。

IMG_2488本日最初に訪れたのは保寿院跡の原家の墓石群です。中心には現在の新しい墓が建てられていて家紋の九曜の紋が歴史を今に伝えていました。武田二十四将の一人の原氏が落ち延びてこの地に土着したといわれています。

又、古い庚申塔が集められている一角がありました。

 

神明社の狛犬の面白さはいろいろとありました。屋根のあIMG_2495る中に居て注連縄が張られ、首に手ぬぐいが巻かれ、のっぺりとした変なお顔なのです。何と云っても右足にひもの様なものが二重に巻かれています。理由は妻子の家出の足止めというから噴出してしまいます。

こちらで行われている神事で、十年前に国指定の無形文化財になった子供の土俵入りが有名とのことです。その石碑の前に力石が沢山並べられていました。昔を今に伝え残している人々に感動致します。

それにしても、他にも古い狛犬が長い参道にいくつもあるのです。それらに別れを告げ次へと向かいました。

 

IMG_2519三面がはっきりとしている馬頭観音(1765)はとても古く講師がこれはいいものですねという。

民家のプロパンを背に街道に向いていました。

 

 

 

 

 

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綾瀬川にかかる畷(ナワテ)橋からの眺めと大正時代の写真を見比べて、この辺に河岸があり帆掛け船で荷を運んでいた光景をみんなで想像しました。

 

さて本日は少し早目のお昼です、交差点を挟んでチエーン店群があります。ここで一時間の食事休憩です。

私たちは四人で回転寿司店に入りました。一番若い男性の会員さんが、美味しい美味しいと言いながらランチに加え別に追加されていました。

 

午後は10分位に歩いて大きくカーブしている坂にかかりました。IMG_2523

ここは貝殻坂といい、大昔この辺りまで潮がきていたという事です。

上がり切ると旧日光御成道との追分になっていました。

 

又10分ほど歩くと諏訪神社に着きました。立派な鳥衾(トリブスマ)の瓦があり、小さいながら拝殿と本殿、それを繋ぐちょっと粗末な幣殿がありました。

別当寺の延寿寺は十代将軍家治の小休所でしたが廃寺となっていました。

 

さてしばらく歩道のない道路を気をつけながら15分程進みました。手入れの行き届いた寺院に着きました。

IMG_2538西光院の階段を数段上り門をくぐると仏像と美しい庭が広がっていました。ここで御手洗いをお借りし休憩もさせていただくので、会から心ばかりの御布施をさせて頂きました。

お釈迦さまが苦行されているお姿の骨と皮の釈尊像が恐ろい程に私たちの目の前に迫ってきました。

ここで水分補給しながら、美しい石のテーブルや腰掛けで一息入れました。

右手が天を指しているふっくらした像を見て、講師からお釈迦さまは母親の脇に下から生IMG_2540まれたという話にへえ~と皆さんから声がもれてくるのでした。

ぽっくり薬師や七福神にもお参りして庭に作られた数々の仏像を拝見しました。20分余り、ゆっくりさせていただきましたが金色の魚籃観音様の大魚の上で丸みをおびた腰が

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なんと艶めかしいことでしようか。筆者はどこの魚籃観音を見てもいつもそう感じるのでした。

 

すぐ脇に七郷の神社を合祀した七郷神社があります。ここは小宮氏が天正年間に築城したという場所。

次に訪ねたのは紅葉の寺という本行寺。金色のもみじの紋が本堂の上で美しく輝いていました。紅葉の木は何本かありましたがほんの僅かの薄紅葉という状態で残念でした。

 

しばらく歩くと戸塚の一里塚が。と云っても表示とポケット公園があるだけでした。IMG_2565ここで一里の長さが時代により異なり、その地方により異なるという話を聞く。

律令時代は一里が六町で約109メートルだったとか。千葉の九十九里浜の長さが66キロなのでなる程と思うのでした。

 

次に妙延寺跡の女郎仏という大きな旗に男性達がオッと声をあげます。しかし今は何もなく説明板とお百度の石柱があるだけでした。若く気品のある身分の高そうな女性がこの近くで急病になり帰らぬ人となったとか。余りの美しさと身分をあかさなかったために、もしかすると女郎ではないかということで土地の人が女郎堂を建てたということです。女郎仏に関するものは残っていなく期待感があっただけにがっかりとした人も多かったではないでいしょうか。

IMG_2566頭上に髑髏(どくろ)があり、シヨケラをしっかり握っている庚申塔がありました。右手にベルのような五鈷鈴(ゴコレイ)を持っているのは珍しいという事です。

 

5分ぐらい進むと吉宗の休息所として使ったという真乗寺へ。スダジイの巨木がある寺でした。

 

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街道沿いの敷地から十月桜が小さな花がはみ出しています。山茶花が咲いています。花ミズキは赤い実をつけています。道沿いに庭木屋さんや造園業の家が沢山ある場所です。

高速道路の下をくぐり新井宿村へと入ります。

IMG_2591首都高の新井宿という案内板が見えてきて、もう少しだと嬉しくなってきました。こちらのコミュニティバスともすれ違いました。

歩行者からどこまで歩くのかと声をかけられました。

 

宝蔵寺には古い(1518年)の二十一仏庚申待供養板碑があるとのことですが、案内板でしか見る事が出来ず、庭を拝見してお向かいの子日神社へと。

日光御成道が境となり新井宿村が西と東に分けられて社寺が向かい合わせになってしまっIMG_2600たという事がよく分かる光景です。

沢山の草鞋が奉納されていました。

 

 

 

IMG_2608 いよいよ本日訪ねる最後の場所、源長寺です。まず沢山の板碑が集められているのを見ながら本堂の前へ。ここは足利一族である伊奈氏の頌徳碑があります。お墓に入らせて頂くので会よりお布施をさせて頂きました。

関東郡代であった伊奈氏歴代の墓が居並ぶ中で入口付近にある頌徳碑が目につきます。その下方に刻まれた見た事もない動物に注目しなければなりません。

重きを負う事を好んだ龍の子の贔屓(ヒイキ)が刻まれています。

IMG_2612これは龍である徳川家に対して伊奈氏を宋の時代の贔屓の姿として表現しているとの事です。

丁度4時となりました。すぐ近くの新井宿駅に向かいます。今日は約11キロの行程でした。

4時10分、埼玉高速鉄道の静かできれいな駅で解散です。11月に又、ここでお会いいたしましょう。皆さま、お疲れさまでした。IMG_2535

 

 

御成道地蔵そろひの秋羽織    幸子

 

お地蔵へ輪廻へ供ふ木の実かな  慶月

 

 

トピックス

IMG_2686さて10月31日はテレビ朝日のモーニングシヨーの取材のカメラが入りました。

11月16日のモーニングショーで中山道日本橋から板橋まで石原良純さんを案内する役の四宮講師の仕事ぶりを撮るためです。

会員の皆様にもインタビユーがあったようですね。

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10月26日にすでに本番撮りは終わっています。日本橋から板橋に至るおもしろい場所を案内しましたが、放映ではさてどれだけ紹介されるのでしようか。

皆様、5チヤンネル朝9時15分位からという事ですから、お時間のある方は是非ご覧ください。

お知らせ! テレビ局の都合で放映が12月7日に変更となりました。

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あるき隊道中記 いざ鎌倉へ

DSC_0140第一回 岩槻から釣上

鎌倉街道あるき隊が9月末、いよいよ鎌倉へ向けて始動いたしました。第一回22日は講師始め15名 26日は13名の一行です。9時半集合埼玉東武アーバンラインの岩槻駅からの出発です。

 

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22日と26日では最初に訪れる場所を入れ替えて時短をはかりました。まずりそな銀行前にあるみみずく土偶のレプリカを見てから歩き始めました。愛宕神社に参拝後、太田道灌ゆかりの芳林寺へ向かいました。馬に跨る雄々しい道灌の銅像が迎えてくれました。

 

 

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突然の雨に農家の娘に蓑を借りようとしたら娘は一輪の山吹を差し出した。それは八重咲の山吹に実が実らないので蓑がないという訳だったという話を地元では今も大切にしていて、岩槻区の花として黄色の山吹の花をシンボルとしています。

 

さて曼珠沙華が残る芳林寺の庭には開基の尼僧の像がありますが、なんと右の膝を立てていらっしゃる。なぜか韓流の時代劇の女性を思い出す筆者でした。IMG_2324

 

IMG_2323細い参道を振り返りながら、日光御成街道に出ました。高札場の横には∧に安の屋号の歴史を感じる青果店があります。

 

江戸時代嘉永年間創業の菓子店に寄り名物の栗最中を購入。お腹が空いたと言っておだんごをほうばる人もいました。店内には御殿雛など人形の棚もあり、さすがに人形の町岩槻を感じました。このお店のもう一つの注目すべき点は、屋根瓦の上に鐘馗さまが立っていらっしゃること。昔から今の世までずっとこの菓子舗を守っていたのでしよう。IMG_2437

御典医の御屋敷の前に金木犀が大木となり板塀からせりだしています。秋の香りのなかを遷喬館へと向かいました。岩槻藩藩校で児玉南柯が最初は家塾として開いたという。フイリヤブランが狭い庭に群れ咲き、日本家屋の清楚な佇まいです。しかし奥の厠辺りの柱に多くの疵が残っていて当時の若武者達のふれ合いや苦悩さえ垣間見た思いがしました。

お奉行様のお屋敷は立派な武家屋敷で、昔日の如くかわらずにありました。城の廻りの総構えの跡を見上げたあと、有名な鐘へと進みました。それは草生す場所にあり、日本橋や川越のものとは全く異なり哀れささえ感じました。さてここで一枚、全員での記念撮影です。そして講師のおもしろい話に皆で笑いました。昔はどうやって時間というものをしらせていたのか。資料の絵に線香がくゆっているその前に玉代の名札が!芸者さんの一単位の時間が線香一本が尽きる45分ということだと。だからお線香代というのはそこからきていると説明される。男性達はうんうんといたく納得した様子でした。IMG_2356

曽我兄弟の子孫の寺という浄源寺、根がある梶紋は由緒あるとの諏訪神社を経て、二股杉を右に見ながら岩槻城跡へ。突然視界が開けて赤い八橋が見えました。橋の下にはピンクの水連が咲いています。このあたりが太田道灌の時代の城跡という。障子堀の説明を受け、戦いにそなえを怠らないこの時代の厳しさを改めて感るのでした。ここでお昼を少し過ぎていたので国道に出てランチタイムです。水分補給をしっかりして午後に備えました。IMG_2446

江戸時代は岩槻街道と云われた鎌倉街道をすこし南下したところに、貝塚遺跡が、原っぱに石柱だけという姿で広がっていました。この場所から、最初に見たあのみみずく土偶が発見されたのです。縄文の頃、ここは海辺だったから貝塚遺跡があるのだと言われてもにわかには信じ難いものがありました。しかし、講師は昔の海陸の地図を高々と示すのでした。IMG_2377

20分くらい歩き久伊豆神社へ。とりぶすまの説明に屋根を見上げます。見やすい庚申塔があり踏まれている邪鬼の歪んだ顔が印象的でした。

そしてすぐ側の別当寺の正蔵院へ。あるき隊から心ばかりにお布施をさせていただきました。ここで御手洗いと休憩をとります。約15分間でしたが、庭に用意された冷たい麦茶と院の名の入った御煎餅で御接待を受けました。22日は暑くて本堂の中へもどうぞと云われお言葉に甘えさせていただきました。樹齢600年~700年の銀杏の樹形が美しく、手入れの良さを感じます。ご住職は古文書でここが真福寺だったらしいというお話をされました。その証拠がこの大樹らしいというのでした。26日はご住職お一人でお茶を用意してくださいました。湯呑茶碗を持ってこられるとき、かまちにつまずかれたのにお盆の湯呑を落とされずしかもご住職はさっと立ち上がられました。御仏のご加護を瞬間に感じた私たちでした。IMG_2389IMG_2393

 

そうしてまたずんずん南下しました。常福寺の一石一字書写供養塔へ。日本石仏事典にも載っていると講師に見せられ、本物と本を見比べて納得。どの場所に寄ってもとても静かなたたずまいです。ここではゆっくりと石造物を鑑賞しました。IMG_2398

街道に戻りまた南下、15分位で源義家ゆかりの笹久保八幡へ。終わりかけた曼珠沙華の群生がありその真中に土俵があり、木陰の中で小さな蚊の餌食にもなりました。尾立狛犬の後ろから見た模様がとてもきれいでした。IMG_2405

地蔵院の六地蔵は2体ずつ三段になって立っておられ300年の以前のものと見入ってしまいました。IMG_2409

20分又街道を南下し八幡宮の鳩の話を聞き、隣の勝軍寺の道標を兼ねた庚申塔もあることも知りました。榧の木の実と葉っぱの香りの清々しさに疲れを癒されながら、後すこしと力を振り絞りました。IMG_2417

そして又20分、本日最後の光秀寺へと。日本国中の霊場を巡った記念の六十六部満願塔を感心しながら見るのでした。さぞかし御利益があった事でしょう、そのお方は。

これであるき隊の訪ねる場所は全部終了です。後は駅までひたすら歩くのみ。これが長くて長くて!今日は15キロ強歩きました。皆さま本当にお疲れさまでした.

IMG_2427城跡や精霊とんぼ湧くやうに

一粒の榧の実炒りて良夜かな          幸子(あるき隊会員)

 

 

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