江戸名所巡り 第十二回  白鬚・橋場界隈を巡る 前編

平成31年3月12日(火)14日(木)16日(土)の三日間、春の隅田川沿いを歩きスカイツリーが遠くに近くに見え隠れしていました。

 

10時に東武スカイツリーライン鐘ケ淵駅を出発しました。すぐ前の踏切がある通りは旧東海道(鎌倉街道下道)ですよと講師の説明がありました。

2~3分で着いたのが通称赤門寺と呼ばれている曹洞宗円徳寺で慶長18年(1613)の開山です。こちらでは、大変珍しい台座に三猿がある庚申阿弥陀立像を見ました。

陽光の中を歩いていると「しあわせだなあ」と加山雄三の言葉をおっしゃる男性がいらっしゃいました。この気持ちのよい春の日に好きな事ができている喜びを改めて感じながら歩きを進めました。昭和の古い木造の家が残っています。ここは近くに鐘ケ淵紡績の工場があったので、大東亜戦争の空襲で焼夷弾でなく普通の爆弾で攻撃をうけたとの事でポツリポツリと古い家屋が残っていました。

10時半ちかくに真言宗多聞寺の前で広重の絵を見て、隅田川が直角に曲がりそこに綾瀬川が流れ込んで淵を造っているので曲尺の形から「かねが淵」と呼ばれる難所だったと知りました。また運んでいた鐘が落ちたことから鐘ケ淵と呼ばれるようになった由来を聞きました。

多聞寺は平安中期の創建というのには驚きました。当初は隅田寺(グウデンジ)と称して本尊は不動明王でしたが天正18年(1590)にこの地に移り弘法大師作の毘沙門天(多聞天)を勧請して多聞寺にしたという歴史がありました。山門が切り妻造の四脚門で現在では珍しい茅葺き屋根となっています。享保3年(1718)建立と知りしみじみと見入りました。

榎本武揚の書である隅田川七福神碑の大きな石碑や六地蔵座像を見て本堂にお参りしました。

そしてここにも狸塚がありました。この寺に住み着いた狸が村人や旅人にいたずらをするので和尚が毘沙門天に祈ると翌日に大狸が死んでいたのでした。狸塚を建て霊を慰めたという事です。

東京大空襲で被災した浅草国際劇場の歪んだ鉄骨の側を通り多聞寺を後にしました。

もと来た道をしばらく歩くと旧鎌倉街道で旧東海道でもあった道を見て進みました。10時50分過ぎに真言宗智山派正福寺に入りました。慶長7年(1602)の開基で本尊は阿弥陀如来です。

又、都内最古の宝治2年(1248)の板碑に見入りました。大師堂や庚申講が寄進した三猿が彫られた手水盤もありました。首塚地蔵は天保4年(1830)、橋場付近の工事で発掘された多くの頭蓋骨の供養の為に建立されました。首から上の病に効験があるとの事です。

 

11時頃、都営白鬚アパートの前を通りました。隅田川神社参道跡の石碑がありました。

大きく長く連なっている都営アパートの前に建っているのは榎本武揚の銅像でした。天保7年(1836)下谷三味線堀に生まれ、天性の聡明さで昌平坂学問所で儒学を学び、その後オランダ語・英語を学び洋式海軍技術、蒸気機関製造等を習得し化学まで学んだとの事です。文久2年(1862)にオランダに留学し海軍技術や国際法規なども学び帰国後軍艦奉行や海軍副総裁など幕府海軍の核となりました。五稜郭の戦いで敗れ降伏するが明治政府にその人物を必要とされて、罪を許され海軍中将・逓信大臣・農商務大臣・文部大臣・外務大臣等々を歴任しました。

すぐ側に梅若塚がありました。伝承の謡曲「隅田川」として有名です。梅若は2歳で父を失い7歳で比叡山にて修行します。比叡山の争乱で逆けたところ人買にだまされ東国に連れてこられる途中で病となり12歳で亡くなります。里人が供養をしている所に梅若を探していた母が通り合わせ悲観の末、草堂を建て供養したのが木母寺の始まりという事です。家康は梅若山という山号と20石を与え保護したとの事です。

アパートの通路を通り反対側に出ました。災害時に10万人分の水と食糧と毛布が備蓄されているというこの大都営アパートの全体を見ました。屋上のタンクもとても大きくて防火用の赤い放水銃が目立っていました。公園の中にあるお手洗いも立派で災害時仕様という事です。

 

花壇を過ぎると天台宗木母寺にいりました。木母寺の由来は梅の字を分解して木と母の二つにしたものですと講師が言うと、おー!!と皆さんの声がしました。木母寺と梅若塚は元隅田河堤通り(榎本武揚銅像付近)にありましたが防災計画でこちらに移転したとの事です。人々の悩みや苦しみの身代わりになってくださるという身代わり地蔵尊にお参りしました。

梅若堂の中の美しい人形を見ながら「たずね来て問わばこたえよ都鳥すみだ川原の露と消えぬと」辞世の歌を思い石碑を見て回りました。

天下の糸平の碑がひときわ大きく建てられていました。藤島平八は信濃駒ヶ根の資産家に生まれましたが家は天保5年(1834)米相場に失敗し没落しました。平八は魚屋に奉公し独立その後、江戸に出て斉藤弥九郎の練兵館の門下生となり水戸天狗党に参加し投獄されました。慶応元年に商店を開業し為替・米相場等で巨利を得るも持船が座礁して財産を失いますが立ち直り、明治に入り横浜金穀相場会所頭取、東京株式取引所・東京米商会所設立など大実業家となりました。石碑は伊藤博文の揮毫です。

又、へび観音といわれている蛇の身体に顔が観音の像を見て蛇(青大将)が人々の暮らしの中で助けになっている話を聞きました。

先にも触れましたがこちらの隅田公園は災害の際の避難場所となっています。大きな七番の纏のモニユメントが建てられていました。

首都高の直ぐ下辺りに隅田川神社がありました。元は隅田川総鎮守で水神社と呼ばれていました。昔ここから入江が始まり海となっていたので「江の口」と言われ江戸の名前の元になった場所です。亀の狛犬とされていますがよく見ると耳があり贔屓に見えました。源頼朝が下総から武蔵国に渡る為に川に舟橋を架けた時に大きな亀が現れた奇瑞と喜んだという伝説によるものです。

フエンスの中の立て看板に「近代映画スタジオ発祥の地」がありました。日活のスタジオが明治44年に建設されたそうです。

10分ぐらい歩くと昼食を取るビルに着きました。フアミレスやインド料理等が入っていました。50分の休憩を取りました。

後編に続きます

 

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江戸名所 第十一回  入谷。谷中界隈を巡る(後編)

13時少し前から午後のスタートです。

江戸時代末期に御徒町では下級武士の間で朝顔を育てる事が流行したとの事です。入谷朝顔発祥の地碑を通り日蓮宗真源寺へと進みました。

入谷鬼子母神は祖師谷とともに有名です。「恐れ入谷の鬼子母神」は誰でも知っている言葉ですね。筆者は昨年7月の朝顔市でこちらのお寺の境内で一鉢買いました。あの時のにぎわいが嘘のように静かでゆっくりお詣りすることができました。

5,6分で小野照崎神社に着きました。平安時代の漢学者、歌人の小野篁が上野山国司として上野山忍岡の風光を賞していたと伝わっています。852年に篁の霊を忍岡に奉祀しましたが江戸時代に寛永寺が創建され、現在の地に祀られているとの事です。

天明2年(1782)富士山の岩石を運び造ったという富士塚を見ましたが、現在のものは文政11年(1828)に修復されたという事です。高さ5メートル、直径16メートルとなかなか見応えがありました。古い庚申塔もたくさんあり近くの物を集めたという事です。

13時30分頃、御行の松不動尊に着きました。輪王寺宮が上野山内の巡拝の際にこの松の下に来て必ず休まれたので御行の松の名が付きました。こちらの松は三代目という事です。側に子規の句碑がありました。「薄緑のお行の松は霞みけり」。

狸塚にはお若と伊之助の恋を両親が離しお若をこの辺りに住まわせました。お若は悲しみそれを見た大狸が伊之助に化けて再会しましたが、それを知った両親が人に頼んで殺しました。その後にお若は狸の双子を産んだが死んだという落語の話です。細い路地を入ると陸奥宗光の別邸がありました。

根岸一丁目の通りを歩いていると向かい側のビルに笹の雪とありました。元禄年間に上野の宮様のお供をして初代玉屋忠兵衛が京都から下向し絹ごし豆腐を作りました。創業320年で赤穂浪士や正岡子規ゆかりのお店です。

根岸田圃の道筋にあった庚申塔が集められていました。陸橋を渡りホテル街の中を進むと古い木の門の子規庵がありました。今日はゆっくり見る事ができませんでしたが、筆者が何度か訪れた時には子規が使った机が庭に向かって置かれていました。庭にはもちろん糸瓜の棚があり鶏頭やホトギスの草花が咲いていました。母と妹と三人で暮らしで門人たちが集まって句会を開き、多くの俳人を育て35歳の若さで亡くなるまで8年間住みました。

向かいには書道博物館がありました。2,3分で林屋一門の三平堂が三階建てでありました。

根岸薬師堂は輪王寺宮の隠居所で敷地が3000坪もあったそうです。

善性寺には将軍橋跡がありました。将軍の徳川家宣がこの寺に隠遁した弟をしばしば訪ねたので門前の橋を将軍橋と呼んだそうです。

角に見えているのは羽二重団子の藤の木茶屋です。現在は改装中という事で5分位の支店に向かいました。

日暮里の駅前に太田道灌の騎馬像があり、その後ろに山吹の一枝を差し出す娘の像もありました。ロータリーの角に藤の木茶屋で一緒に羽二重団子を買い求めた人が何人かいらっしゃいました。お店の内が空いていたらその場で味わうこともできましたが、土曜日は混んでいて持ち帰ることにしました。

14時45分、日暮里駅を後にして天台宗天王寺へと入りました。日蓮の弟子の日源が開山、不綬不施問題で天台宗に改宗されました。本堂は奈良の十輪寺を模したとの事です。

谷中霊園に入っていきました。五重塔跡がありました。まず立派なお墓に美しい供花を供えているのは長谷川一夫さんの墓です。水子の墓もありました。

甲14号右と左の両側に桜の古木があります。一旦、霊園を出て日蓮宗の本行寺に15時頃に寄りました。道灌物見塚は江戸城の防衛の為に築き、日夜見張りを置き監視させた丘です。永井尚志の墓は、旗本の養子になり幕府海軍の功労者が、鳥羽伏見の戦い、函館の戦いで敗れますが後に元老院に勤め76歳で死亡しました。一茶の句碑もありましたが、山頭火らしい句碑にちょっと心引かれました。

日蓮宗経王寺の門を潜りました。彰義隊の分隊が駐屯した寺です。そしてこちらの門にも銃弾の跡が残っていました。私たちは今回も又、上野戦争の激しさを思うのでした。

2,3分歩き真言宗豊山派の養福寺に入りました。江戸時代、多くの文人たちが「日暮里」を訪れました。こちらの養福寺でもさまざまな文人達の碑が残されています。

諏方神社前に別当寺の真言宗の浄光寺があります。こちらは雪見寺と言われていました。地蔵菩薩座像を拝見しました。庚申塔は手が八本ある珍しい物でそれぞれの持ち物を見て楽しみました。

15時半頃に諏訪神社を参拝し、とても立派な狛犬を見ました。鎌倉時代末期に、この地の豪族豊島氏が上諏訪神社を勧請したものです。

又、2~3分進むと道灌山は太田道灌の砦跡とも出城ともいわれ、草々の虫の音を人々は集まり秋風の夕暮れを楽しんでいたとの事です。何と風流ではありませんか。

16時少し前に富士見坂に出ました。こちらからはさぞかし美しい富士が見えたのでしょう。今もお天気がいいときはビルの間から富士山が見えるそうです。下り坂の先に谷中銀座のにぎやかな通りが見えています。これが有名な「夕焼け段々」ですと講師が言いますがじっくりと風景を味わう時間はありませんでした。

朝倉彫塑館のある細い通りを進みました。すぐに観音寺に着きました。大きな赤穂浪士供養塔があり、こちらは赤穂浪士所縁の寺だったのです。どっしりとした風情が美しい築地塀が長く続いていました。

16時過ぎに荼枳尼天を祀る笠森稲荷がありました。新しい社ですが狛狐は古いものでした。できもの(カサブタ)を治す稲荷です。

どんどん先へ進み左手に曲がると又、谷中霊園の墓地に入りました。高橋お伝の碑がとても大きく可愛い供花もありました。川上音二郎の円柱の碑も大きくて驚きました。大河ドラマの貞奴さんを思い出しました。

徳川慶喜の墓の矢印が見えましたが、その前にニコライ大主教の立派な墓があり花に囲まれていました。ニコライ堂に行った時に聞いた日本の苦難の際にロシアに帰り資金を集めて戻ってきたカザートン・ニコライ司教の事を思い出しました。

16時20分、いよいよ慶喜のお墓に着きました。左側が慶喜、右側が正室の美賀子の神式のお墓が並んでいます。慶喜は仏式でなく神式の葬儀を生前から望んでいました。又、近くにある同じ形の墓は、十男で勝家の婿となった勝精のもので目立っていました。

16時半過ぎに新義真言宗の西光寺に入りました。足病平癒を祈願する韋駄天像の石仏を見ました。

次に日蓮宗端輪寺の門を潜りました。こちらは大久保主水(神田上水を完成させた)の墓です。負傷したのちは神田に屋敷を構え菓子屋を開業しました。大岡越前守家の墓所もありました。吉宗が将軍になると享保2年(1717)に大岡忠相は江戸町奉行になり越前守の称を受けました。

臨済宗の全生庵へと進みました。金色の観音様が高くそびえています。こちらは山岡鉄舟の墓があります。勝海舟は知謀で江戸を幕末の混乱から救い、鉄舟は豪放さと勤皇の心で江戸を救ったといわれます。

又、三遊亭円朝の墓は鉄舟に可愛がられたとの事で文字は鉄舟が生前揮毫したものという事です。全生庵を後にした時はすでに17時を過ぎていました。

本日、最後に訪れたのは日蓮宗大円寺でした。唐破風が二つある本堂がとても珍しく美しく感じました。大円寺には笠森と音が同じ瘡森稲荷が祀れています。皮膚の病の願をかける時は土の団子をそなえお礼として米の団子を供えるという事です。笠森お仙の碑があるそうです。

17時過ぎ、急ぎ千駄木駅に向かいました。街の灯が目立ち始めていました。皆様、本日も大変盛り沢山の一日でお疲れさまでした。

 

春空や名のみとなりし富士見坂  豊治

弾痕は乳鋲の下に春の寺     慶月

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江戸名所 第十一回  入谷・谷中界隈を巡る(前)

2月火12日(火)、14日(木)、16日(土)4名の新会員が加わり、今回も寒さに負けず元気に楽しむ事ができました。

10時つくばエクスプレス浅草駅を出発しました。

5分位歩くと時宗の日輪寺に着きました。時宗檀林神田山日輪寺とありました。平将門の首塚の祟りを弔う為に建立した板碑は正和2年(1313)のものです。

すぐ横に虚子の弟子で時宗僧の河野静雲の句碑がありました。「あとやさき百寿も露のいのちかな」

10時15分頃、梅の下を通り浄土宗天獄院に着きました。銅造阿弥陀如来座像は129センチと大きく延宝8年(1680)の造立のものです。

又、江戸中期の儒学者細井平洲の墓を見ました。平洲は農家の次男で尾張国出身ですが江戸で私塾「嚶鳴館」を開きました。米沢藩主の上杉鷹山に招かれ教学や藩政改革を指揮したとの事です。後に尾張藩にも招かれ藩校明倫館の総裁となり民衆強化に努めたとの事です。

西浅草八幡神社の赤い柱が見えました。その側から東本願寺の大屋根が見え講師は北斉の富嶽三十六景の一枚を掲げて説明しました。屋根を修理している職人の動きまで描き込んでいる北斉ならではの構図の面白さにもみんなで驚嘆しました。

東本願寺に入る前に私たちは浄土宗清光寺の長谷川一夫の碑と岡崎勘六(書道勘亭流)を見て田沼家の立派な石に刻まれた名は三木のり平の本名(田沼則子)と知りました。

10時40分頃、東本願寺へと入っていき、土曜日は婚礼のお似合いのカップルを見る事ができました。

笠を被った親鸞聖人像と反対側に青銅の蓮如上人像がありました。銅鐘は寛永7年(1630)のものといいますから古いものですが高い塔の中でどうにも拝見する事は無理でした。

憲政碑というのは明治9年(1876)の地方長官会議(知事会議)の開催場所となり木戸孝允や勝海舟などが出席したそうです。

又ここ東本願寺は朝鮮通信使の宿泊所だったそうです。

商店街をちらりと見て、正定寺には玉川上水を作った玉川兄弟の墓があるそうですが前を通過して浄土宗源空寺に入りました。家康から寺領を与えられ徳川三代の菩提を弔う為に鋳造された銅鐘もあります。

墓地に入らせていただきました。東河伊能先生墓はあの伊能忠敬の墓です。師の隣(高橋至時)で眠っているとは心打たれる話ではありませんか。東岡高橋君とは至時の号が東岡で、幕府の天文方となり伊能忠敬に測量術を教えました。横に息子の景保の墓もありますがシーボルトに日本地図や将軍から賜った時服を渡した事で獄死したとの事です。幡随院長兵衛夫妻の墓もあり、このような型はとても珍しいとの事です。江戸時代に起こった光と影のような複雑な思いを胸に墓地を後にしました。

5~6分で通称かっぱ寺といわれる曹洞宗曹源寺に着きました。江戸時代の後期である文化年間(1804~18)に雨合羽商人の合羽屋喜八(川太郎)が水害から住民を救う為に私財を投じて新堀川の治水工事をおこないました。これに義を感じた大川の河童が工事を助け、この河童を見た者は運が開けると伝えられていました。川太郎は河童と共に福の神として祀れていました。

11時35分に臨済宗海禅寺へと入っていきました。尊皇攘夷論を唱え在京志士を指導したとして安政の大獄で捕らえられ獄中死した梅田雲浜の墓、おなじく安政の大獄で捕らえられ獄死した藤井尚弼の墓も並ぶようにありました。大きな亀趺は亀に似ていますが宋代の龍の九つの子供の一人で贔屓(ヒイキ)という名前です。重きを負う事を好んだといいます。又、ここでも金色の河童川太郎像を笑いながら眺めました。私たちは運が開ける河童を見たのですからきっと良いことがあるはずです。

11時45分から15分間、かっぱ橋道具街を自由に歩きました。ゆっくり見られたらどんなに楽しかったことでしようか。金物を手に入れたかったのですが店先の茶筅をひとつ記念に買い集合場所に急ぎました。入谷駅の近くで50分の昼食タイムを取りました。

後編に続きます。

 

 

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第十回 江戸名所巡り 浅草・上野界隈(後編)

 

13時20分頃からお昼を済ませて、下町風俗資料館を見学してから集合しました。火曜日の方は生憎、休館日と重なり申し訳ありませんでした。戦前、戦後まもない昭和の庶民の生活を垣間見ることが出来ました。懐かしいという方が大半でしたが、中には思い出したくないという方もいらっしゃいました。

不忍池の枯蓮の無残な風景を見ながら日向ぼっこをされている方もいらっしゃいました。14時半近くから午後の部のスタートです。前々回(第八回)千住界隈で訪れた曹洞宗円通寺に移された寛永寺の黒門をイメージしたモニュメントがあり黒門の弾痕跡を思い出しました。

上野公園の中に入り西郷像を見上げました。高村光雲作で愛犬のチンは東京美術学校の弟子の作との事です。

黒門のモニュメントのそばに彰義隊戦死の墓がありました。墓の正面の小さな墓石は埋葬場所から発掘されたものです。

清水観音堂の隅に秋色桜の碑を見ました。日本橋菓子屋の娘(9歳)の句を枝に結び付けて置いたのを輪王寺宮が感嘆し、この桜を秋色桜と名付けたといいます。秋色女はお秋の俳号で其角に学んでいたとの事です。その句は「井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔」筆者は花の季節に訪れた事がありますが、それは美しいべにしだれ桜でした。

清水観音堂へ入って行きました。国の重要文化財です。擬宝珠は日本橋のものと同じ作者との事です。天海が京都の清水寺を模して擂鉢山に建立しました。月の松は平成に復元されたものです。清水観音堂から月の松を通して不忍の池を見るのを江戸の人々も楽しんでいたのでしよう。

そして前方に進みますと琵琶湖に見立てた不忍池の真中にこれも竹生島に見立てた弁天堂がありました。しかし、こちらの弁天様は江ノ島から勧請した事が紋で解りました。


 

奥の院には聖天を祀っていました。江戸時代、中国の朱子学が盛んだったことからだろうと講師が説明しました。

鳥塚、ふぐの供養塔、包丁塚等があるのは不忍池が殺生禁断の場所だったことで、殺生をしなければいけない職業の人たちが供養塔を建てたとの事です。

花園稲荷神社には五条天神(医薬の神様)や穴稲荷がありました。山を追われた狐たちを哀れに思い天海上人が穴を掘り住処とさせたそうです。私たちはその穴を見てお詣りをしました。小さな狛狐が可愛いと眺めました。

火曜日は予想外に小雨が降りだしました。浅草の鐘より余韻が美しいといわれる時の鐘を見上げながら次へと進みました。

2〰3分で上野大仏とパゴダに着きました。建立当時は6メートルあったという大仏様は地震や火事で頭が落ち大東亜戦争での供出等で顔のみとなったのです。昭和43年にパゴダが建立されこれ以上落ちないとして合格祈願が多いそうです。

お化け燈籠は約7メートルもあり駿府城勤番の佐久間大膳(1万8千石)が寄進したものです。

東照宮へと入って行きました。牡丹園では寒牡丹の展示がされていましたが私達は先を急がなければなりませんので望遠で撮って先に進みました。

正面の金の唐門の両側に立派な青銅の燈籠がありました。一段と大きな燈籠は御三家からのものです。五重塔が西日に輝いていました。くろがねもちの赤い実がたわわに残っていて皆の目を引いていました。

数分で広い通りに戻りました。子規球場が少し見えていました。ベースボールを野球としたのは正岡子規だという事は有名ですが、ではどうしてでしょうかと講師が尋ねました。子規の本名はノボルだったからです!皆さん、笑いながら納得したのでした。

国立博物館が見えてきました。野口英世の像があります。中央の広い場所は、寛永寺の根本中堂があった場所で噴水が出来ています。

大きなシロナガス鯨のモニュメントを過ぎると両大師開山堂がありました。慈眼大師天海と慈恵大師良源(平安時代の天台宗の僧で厄除け角大師)が祀られています。右に曲がると小さな門は幸田露伴宅の門で谷中にあったものを移築したものです。その門を潜り本坊の表門を見ました。上野戦争の砲弾跡があります。小さい物、にぎり拳くらいの大きな跡等が生々しくて胸がつまりました。この山門は寛永年間のもので国立博物館の建設で現在地に移転しました。

国立博物館の道路をはさんで隣りに、鳥取藩池田家の江戸上屋敷の正門が移築されていました。こちらは以前国立博物館の正門として使用されていたとの事です。この威風堂々とした門こそふさわしいのにと残念に思いました。

京成電鉄の古い駅跡を見ながら右に曲がりました。子供図書館を過ぎ5分位で現在の天台宗寛永寺に入りました。

根本中堂と大きく書かれているのが本堂です。こちらは東叡山寛永寺根本中堂、あの比叡山延暦寺も本堂を根本中堂という事に気づきました。川越の喜多院の本堂を移築したもので葵の紋が金色に輝いていました。上野戦争碑記が大きく建てられていました。丸い石の虫塚は昆虫類の写生画家の増山雪斎が写生に使った昆虫を埋葬慰霊したものです。

まもなく寛永寺霊園の立派な門が見えてきました。外からしか感じ取れませんが一の御霊屋に四代将軍の家綱、十代将軍の家治、十一代将軍の家斉が葬られています。二の御霊屋には五代将軍の綱吉、八代将軍の吉宗、十三代将軍の家慶、その他に天璋院篤姫の墓もあります。

盛り沢山の訪問がやっと終了しました。スカイツリーが夕日に浮かんでいます。火曜日は少人数でしたので4時に、木曜土曜は4時半に鶯谷駅に着き解散しました。

浅草も上野も親しみのある場所でしたが知らない所があまりにも沢山ありました。皆様、大変お疲れさまでした。江戸名所巡りも今回で10回を無事終えることが出来ました。ありがとうございました。

寒晴れや敬天愛人西郷さん    豊治

 

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江戸名所巡り  第十回  浅草・上野界隈(前編)

新年おめでとうございます。本年も楽しく元気に江戸名所を巡りましよう。

1月15日(火)、17日(木)、19日(土)合わせて50名の方々と浅草、上野を巡りました。スカイツリーライン浅草駅を10時に出発しました。火曜日は曇り、木、土は冬晴れのお天気に恵まれました。

雷門入口へと進み天婦羅の三定の前を通ります。天保8年(1837)創業で三河から江戸に来た定吉で店名が「三定」です。栗むし羊羹の龍昇亭西村も道路の向こうに見えています。雷門が見えました。外国人でごったがえすいつもの光景です。

広重の絵の提灯は新橋の職人が作ったので橋の字がみえ雪景色がとても綺麗です。現在は雷門の字になっており新橋の字は本堂の提灯に残っています。

 

慶応元年の火災で焼失、その後、昭和35年に松下幸之助の寄進したものでちゃんと名前が入っていて、下側の龍の目にタッチすると縁起がよいとの事で皆で次々とタッチしました。

右側の仲見世商店街の裏の道をスイスイと歩き久米平内堂に着きました。平内は千人切りをしたとも云われています。臨終に際し、これまでに犯した罪を償うために自分の像を埋めて多くの人に踏んでもらいたいと遺言したそうです。「踏みつけ」が文付けとなり恋文と変わり縁結びの神として信仰を集めるようになりました。

その後方にある大きめの濡れ仏の二尊仏を拝見し、東にある弁天堂へ移りました。石段の手前に芭蕉句碑があり「くわんのんの いらか見やりつ 花の雲」の下方に線刻の芭蕉像が刻まれてありました。又、右手には「上野か浅草か」と詠まれた浅草寺の時の鐘がありました。

弁天堂は御本尊の弁天が白髪なので老女弁天と云われているそうです。本日は拝見したいものが多く、少しかけ足の感がありますが急ぎ宝蔵門へと歩みを進め、浅草寺の立派な扁額を見上げてから赤い仁王像を見ました。

裏側に廻ると大草履が新しく奉納されていました。手洗舎の龍に囲まれた沙喝羅竜王像は明治36年高村光雲作で均整のとれた美しさを感じました。

やっと本堂にたどり着きました。又、天井絵は龍と天女です。中国の観光客は日本にこんなにも龍が多いことに、どんな風に感じているのでしようか。ともあれ一人一人しっかりお詣りを致しました。絶対秘仏という聖観音は1寸8分と云われていますが見た人はだれもいません。

 

以前は工事中であった一葉観音に近づく事が出来ましたが美しいと云われているお顔がどうしても分からず残念でした。蓮の花びら一枚に乗り櫂を持たれて笠をかぶったお姿です。

西方にある銭塚地蔵は、庭でみつかった銭の壷を親は元の場所に埋めて働かずに銭を手にするとろくな事はないと息子たちに教え、子供たちはそれに応えて家は栄えたとの事で、その後、銭の壷の上を塚として地蔵尊を祀り金運の仏として信仰されるようになりました。

石橋の下の青い水に泳ぐ鯉たちにぎょっとしながら外国の人と眺めました。石橋は浅草寺に東照宮が造営された時に神橋として紀伊浅野家和歌山藩主が寄進したとのことです。その右手の西仏板碑は源頼朝の家臣の鎌田三郎西仏が建立したもので江戸時代に台風で三つに折れたものを修復していました。

六角堂は本尊が日限地蔵で日を定めて祈願するのです。境内最古(1618)の建造物です。

影向堂と、家光が名付けたという橋本薬師堂にもお詣りしました。

江戸名所図会にもある六地蔵石燈籠はお堂の内にあり図会のようにはよく見えませんでした。

江戸時代に女性の守り神として信仰された淡島堂に女性たちはしっかりと手を合わせました。針供養碑や子供が潜れば虫封じや疱瘡除けになるという石造物を興味深く拝見しました。

南方に少し進んで、半七の碑がありました。中山道の宿場の贄川から出て来て目明しになった半七が記録していたものを元にして、岡村綺堂が書いたものが半七捕物帖です。綺堂の庭にあったガマ蛙の置物が大きくて面白く笑いを誘いました。

三匠句碑は中央に芭蕉の句、両側に宗因と其角の句が刻まれていました。筆者としては右手にある正岡子規の句碑も気になりました。木曜日は瓜生岩子さんの命日で供養がなされていました。

又、本堂の近くにもどり鳩ポッポの碑、迷い子しらせ石標の説明を聞き第一回目の日本橋を歩いた時の一石橋傍にあったものを思い出しました。五重塔は昔は反対の場所にあったそうですが修復の後でとても鮮やかに輝いていました。

15分位のお買い物タイムを取りました。待ち合わせは雷門です。資料にある江戸時代からのお店を中心に見ましたが観光客の多さにままならない歩みでやっと着いた時には丁度集合時間となっていました。

11時20分頃、雷門に別れを告げ駒形堂へと南下しました。浅草川を往来する舟から見ると御堂が白駒が駆けて行くように見えて駒かけの御堂が転じて駒形堂になったという説に相応しく感じます。広重の川と空、ホトトギスに駒形堂の屋根を配した絵を観賞しながら吉原の二代目高尾太夫の「君は今 駒形辺り ほととぎす」を思い出しました。この駒形堂を中心とした十町余の川筋が魚介殺生禁断の地であったという事が昭和2年の工事で発見された浅草観音戒殺碑で解りました。

2,3分で駒形どぜうの越後屋が見えました。いい匂いがただよっています。大火で類焼した時(1806)に「とじょう」の四文字は縁起が悪いとして「どぜう」の三文字にしたとの事です。久保田万太郎の句碑「神輿まつまのどぜう汁 すすりけり」が入口脇にありました。実家も近くでこよなく浅草っ子を愛したといいます。

諏訪神社を過ぎ路地に入ると蔵前神社がありました。石清水八幡宮で五代将軍綱吉が江戸城鬼門守護として建立したとの事で勧進相撲が行われたそうです。鏡里や千代の山の名にはかすかに覚えがあり、栃錦は栃若時代を築いた人ですが大関の時代に奉納したのだなあと思いながら見つめました。

すぐに浄土宗正覚寺(榧寺)がありました。大きな榧の木がある草庵を囲碁好きの聖が営んでいて榧の木をかけて囲碁を打ち負けてその木が移されたとの事です。しかしそれが火伏の秋葉権現ゆかりの者であり、あの明暦の大火でも焼けなかったという逸話のある寺です。

少し西に進み川柳横町に入って行きます。柄井川柳の句碑(墓)がある天台宗龍宝寺に着きました。川柳の始祖である柄井川柳は檀家でありこの辺りの名主だったということです。「木枯らしや 跡で芽を葺け 川柳」の石碑が柳の下にありました。

 

丁度、お昼になり疲れも感じてきましたが上野までもうしばらく頑張らねばなりません。

浄土宗誓教寺に入ると左手におだやかそうな顔の葛飾北斎の胸像がありました。右手の墓地に私たちは入れて頂き、お墓を拝見しました。辞世の句は側面に「ひと魂で ゆく気散じや 夏の原」と正面には「画狂老人卍墓」とありました。どなたかが「立派な絵を残して下さりありがこうございました」と手を合わせていらっしゃいました。天があと5年生かしてくれたら本当の絵が描けるのだがと云ったとの事で、享年90歳でした。

真言宗高田派唯念寺は月光院(七代将軍家継の生母)の実家であり寺紋は葵の紋です。大奥年寄の絵島は月光院の右腕と云われました。絵島生島事件を起こした際、絵島は月光院の力添えで高遠藩お預けとなったとの事です。

 

12時半近くに浄土宗永昌寺に着きました。こちらは講道館発祥の地碑があります。嘉納治五郎が学習院教授時代に永昌寺に下宿していた時、住職の許可を得て講道館を起こし門人9人から始めたそうです。

通りを行くと下谷神社の赤い鳥居が見えてきました。奈良時代に創建された江戸で一番古い稲荷との事です。こちらでは横山大観の龍の天井絵を見る事が出来ました。木曜日は神事が行われていて申し訳ありませんでした。色彩は暗いのですが流れるような体の線にうっとりとしました。

門の側に黒田清子様の和歌が貼られていてお正月にお母様と過ごされた頃の思い出の和歌かも知れないと我々は鑑賞致しました。またこちらには寄席発祥の地碑もありました。

13時頃、やっと上野の西郷さんの像が見えてきました。陸橋を登り降りると上野の江戸時代からの老舗がポツポツとありました。

鰻の伊勢栄、櫛屋の十三屋、福神漬けの酒悦。斎藤茂吉、坪内逍遥、樋口一葉、森鴎外の作品に出てくる蕎麦屋の蓮玉庵。薬の守田治兵衛商店、組紐の道明等々をお昼前にかけ足で見て廻りました。

木曜日は運良く蓮玉庵に入る事ができました。お昼のメニユーでかき揚げ付きの蕎麦が千円を見つけました。量はすくな目でしたがとても美味でした。やかんで出された蕎麦湯が印象的でした。

後編に続きます。

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江戸名所巡り  第九回 西新井界隈を巡る(後編)

 

短い時間でしたが、食事と買い物を楽しみました。年末の福引に当たった方もいらっしゃいました。

午後、江戸名所図会にも大きくあります真言宗五智山遍照院総持寺に入っていきました。天長3年(826)弘法大師空海により創建されたと云われています。

山門は江戸後期の建造との事です。塩地蔵は疣取りに御利益があるとの事です。

三匝(サンソウ)堂は別名が栄螺(サザエ)堂といい、堂内が螺旋状になっているとの事です。

稚児大師像もありました。お庭の方へと進み池を一回りしました。

戦争中に供出された鐘が昭和30年にアメリカから返されました。

 

五色の旗の意味を聞き本堂にしっかりお参りをして、光明殿にある珍しい変形宝篋印塔を見て西新井大師を後にしました。

交差点を渡り満願寺へ入りました。入って直ぐの処にたぬき塚があり住職と狸の民話を聞きました。住職の囲炉裏で暖をとっていた狸の荷に囲炉裏の灰を入れたところ、狸が焼け死に可哀そうに思った住職が塚を立て供養したとの事です。

東武線の陸橋を渡り桜並木を過ぎ今度は猿仏塚のお堂の中の庚申塔を見ました。昔、利口な猿が人間の子供の子守をしていて誤って死なせてしまい、その事を悩んで餓死した猿の供養をした塚は、今はありませんが子供の厄除けとして信仰されています。

それから住宅地に入り、午後の部から約1時間過ぎた頃に真言宗来迎寺に着きました。樹齢400年の榎があり、一里塚の木の説明がありました。こちらには未だ新しい舎利殿があり、とても立派な建物でした。庚申塔や地蔵も拝見しました。

旧家の前が旧奥州街道だったという桐田家の松の木には驚かされました。300年と説明板にありましたがもっと古いはずとの事です。こちらには将軍の鹿狩りの際に勢子が持っていた各々の村を示す旗が保存されています。

桐田家の後ろを右に曲がり日蓮宗の国土安穏寺が見えてきました。日光参拝の折に将軍が立ち寄ったという御成門がありました。

その右手に日蓮の像が見えています。境内を見せてもらいました。ぐるつと廻って山門の天井絵の龍は爪が五本持ち皇帝の龍とされるものでした。また、両側に大草鞋も目を引きました。

冬桜や家光御手植えの松を拝見しました。そして高村光雲作の日蓮像を正面から拝見しました。その迫力に圧倒されました。寺を出てずっと先に日光街道が見えていました。

六六通りを行きブロック塀をささえてある旧家の大きな御屋敷が見えてきました。門が立派で時代劇の中に迷い込んだようでした。今時、これを維持していくのはさぞかし大変だろうと、どなたかがおっしゃっていました。先程、通ってきた桐田家の前からこちらに旧奥州街道が通っていたそうです。

今度は栗六通りとありました。15時頃、真言宗炎天寺に入りました。一茶ゆかりの俳句寺とも呼ばれています。

入口には石田波郷の「日洩れては急ぐ落葉や炎天寺」の句碑が立ち丁度この季節だと思い山門を潜りました。庚申塔を過ぎると蛙の置物や像で溢れた池がありました。「やせ蛙まけるな一茶これにあり」あまりにも有名な一茶の幼くして亡くなった子供たちへの思いが込められているのでしよう。

小林一茶は信濃柏原と江戸を何度も行き来した事から炎天寺の句を詠んでいます。「蝉鳴くや六月村の炎天寺」

「むら雨や六月村の炎天寺」

隣には八幡神社があり源義家が旗を立てかけたと云われる松があります。

すぐに真言宗西光院に着きました。本日最後の訪問場所です。

大師像の横におだやかなお顔が少し大きな大日如来座像がありました。江戸末期の竹の塚村の名主で教育者の河地武胤は無料で村内の子弟の教育をした寺子屋の師匠です。門人が建立した碑がありました。

15時半、竹ノ塚駅へと急ぎました。

いつもよりすこし早や目の解散です。そして本年最後の江戸名所巡りが無事終わりました。皆様、ご協力ありがとうございました。

どうか良いお年をお迎えください。

 

菩提子をお大師様で拾ひけり    豊治

 

佳き句碑のあまたに逢へし年暮るる  慶月

 

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江戸名所巡り 第九回  西新井界隈を巡る(前編)

12月11日(火)、13日(木)、15日(土)、風邪など体調を崩された方がいらっしゃいましたが、大半の方々は寒さにめげず名所巡りを楽しみました。10時に東武スカイツリーラインの五反野駅を出発しました。

しばらくするとゆめロード千代田の商店街に入っていき、甘納豆の店やら蔵造りの質屋が目に留まりました。

つき当りを右に折れ10時15分位に最初の説明があった子育八彦尊道標に着きました。元は荒川堤にあったもので八彦尊は子供の咳の神様です。

その後ろにある石不動祠は竹筒に酒を入れて供え、その酒を耳に付けると耳の病が治るという信仰です。治ったらお礼はまた、竹筒に酒を入れて納めるのです。

5分位で真言宗豊山派明王院に着きました。地元では赤不動と呼ばれていて、建物が赤いからということです。奥に大きな銀杏の黄色がまだ残っていて、色彩的にとても綺麗でした。

頼朝の伯父にあたる志田義広が当地に閉居し祈願寺としました。

弁天池の向こうに小さな弁天堂が見えました。ずっと進むと牛頭観音があり馬だけでなく牛も祀られていました。我慢強く働く牛の姿を私たちは思うのでした。

小泉寧夫算法碑は門人たちが建立したとの事です。こちらでは梅田村出身の和算家が開いた和算塾が盛んだった事を示しています。

そして咳の不動さまのお顔を木曜日、土曜日は扉を開けて拝見しました。

5分位で庚申塔等のある石造物のお堂がありシヨケラや頭の蛇を見ました。欲望や誘惑に打ち勝つ為の石像物を私たちはしばし眺めて進みました。

 

神明宮通りに入り参道を進み10時50分頃に梅田神明社の鳥居を潜りました。

祭神は天照大神で後に神官であった禊教の教祖井上正鐵が神道行法を始め、現在にも受け継がれています。

木曜日に準備していました茅の輪が土曜日にはできていました。奥殿の横に井上神社と井上正鐵の住居がありました。又、禊教の高弟名が刻まれた碑もありました。

直ぐ側には真言宗遍照院がありました。明治7年の宝篋印塔がありました。隣接するように梅田稲荷奥の一角に禊教の井上夫妻の墓が並んでありました。

叉、5、6分位で真言宗大聖寺のボロボロの天水桶を見ました。天保7年、江戸谷中講中が寄進したものです。

11時20分頃、関原通りを進みました。関原八幡宮の八紘一宇の碑は大東亜圏建設の理念として用いられた言葉です。

この妙見堂の地に昭和7年興野の雷神を移し中曽根神社としたそうです。私達は元総理の中曽根康弘氏の顔を思い浮かべながら説明を聞きました。

44分発、土曜日は39分発の東武バスに乗る為にバス停へと急ぎました。十分余裕をもって到着しましたが、バスはかなり遅れてやって来ました。

12時過ぎに西新井大師前に着き一時間のお昼の休憩とお買い物タイムを楽しみました。

火曜日は武蔵屋さんが休みで清水屋さんも貸切でしたので申し訳ありませんでした。木、土はそれぞれ江戸時代から続く茶店のお昼を味わいました。

後編に続きます。

 

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江戸名所巡り 第八回  千住界隈を巡る  (後編)

千住界隈後編のスタートです。

午後の部は西へと曲がり10分位歩くと曹洞宗円通寺に着きました。左手の空地には観音堂があり百体の観音が安置されていたという事です。その代わりというのでしようか正面に金の観音様が高くそびえていらっしゃいます。

少し進むと上野寛永寺の黒門があり鉄砲の玉の跡が生々しく残っていました。旧幕臣と徳川恩顧の有志からなる彰義隊約4千人は慶応4年2月に結成され5月の上野戦争で討伐されました。死節の墓は幕府軍戦死者の招魂碑です。

また、広い場所にいくつもの石碑が立ち並んでいるのは幕臣とそのゆかりの人々の碑です。小塚原の地名の由来となった源義家の奥州征伐の際に48人の敵の首を埋めた四十八塚がありました。

13時過ぎに素戔嗚神社の大銀杏の黄色を観賞し芭蕉句碑の「行く春や鳥啼魚の目は泪」を観賞し動きのある狛犬や富士塚を見ました。

 

浄土宗豊徳山誓願寺は999年、天台宗の僧恵心が豊徳という家に逗留した事から、その居宅を寺にしたのが始まりとの事です。親の仇をとろうとした子狸の話があり供養塔がありました。

橋の手前には小さな熊野神社の鳥居がみえました。熊野権現は千住大橋の守護神で源義家伝説が残っています。

現在の千住大橋と広重の江戸百景を見比べて前進しました。橋を渡ったところの公園で御手洗いと休憩をとりました。

奥の細道行程表が大きく示されてありました。矢立初めの碑もありました。

 

公園の脇を進むと銀杏の美しい橋戸稲荷社がありました。伊豆長八の鏝絵は有名でこちらにも夫婦狐の鏝絵を見る事ができました。母と子の白狐の美しさにうっとりしました。

狛犬の跳ね方が面白くて私達まで元気がでました。

もと来た道に戻り足立市場の傍を通りました。旧日光道中の千住河原町に元やっちゃ場北詰の説明板がありました。享保の頃、朝市が開かれ、せり声がやっちゃいやっちゃいと聞こえて来たそうです。三十数軒の青物問屋が軒を並べていたとのことですが第二次大戦の勃発により封鎖となりました。

直ぐに浄土宗源長寺へと入っていきました。石井掃部亮吉胤により一族の菩提寺として建てられました。大坂冬の陣の大坂方の武将である矢野和泉守の墓、又、享保年間の医師で寺子屋を開いた多坂梅里の碑もありました。

小さな商店街を通り仲町氷川神社に入りました。関屋天満宮と弁才天を拝見しました。美しい黄紅葉にうっとりです。小さな石柱の一里塚があり、「是より日本橋二里八町」とありました。

信号を渡ればすぐそばに高札場跡がありました。

3,4分で真言宗慈眼寺に着きました。

正和3年(1314)行覚上人が開基で寺紋が立葵なのは弘法大師作の聖観音菩薩を賜り、城北鎮護の祈願所となったからです。猟友会の鳥獣塚がありました。

隣は新義真言宗不動院です。千住宿に辿り着いた彰義隊士の供養塔とも言われてうる六字名号塔がありました。又、相模屋等20数軒の飯盛旅籠の屋号が彫られている無縁塔がありました。

すぐ近くにある東京芸術センターで、午後の2回目の御手洗い休憩をとりました。

十分ほど進むと千住宿問屋場・貫目改所跡がありました。旅行者の荷物が定量以内かを確かめる所です。馬だけなら40貫、人と荷だと5貫まで等々細かい決まりがあったようです。

森鴎外の父が明治12年に橘井堂医院を開き家族で住んでいて鴎外が結婚するまで住んでいたという場所を通りましたが生憎、大型マンションの工事で写真のみでした。

15時前後に新義真言宗金蔵寺に入りました。氷川神社の別当寺で千住宿の投げ込み寺で将軍の日光東照宮参詣の本陣代でもありました。

左に曲がり15時過ぎに浄土宗勝専寺に入りました。こちらも徳川家や日光門主等の本陣代を務めていたとの説明がありました。鎌倉時代に頼朝の家人である新井氏が隅田川から千手観音を拾い勝専寺に納め、これが千住の地名の由来ともされています。

本堂はコンクリート造りに赤煉瓦の建物で明治39年建築です。閻魔堂の閻魔様は寛政元年(1789)の開眼との事です。鐘楼の鐘はかつて千住宿の「時の鐘」であったといいます(現在のものは戦後に鋳造したものです)。

明るい色の通りの商店街を進みました。百円シヨップの角に小さく本陣跡の石柱が立っていました。建て坪が120坪とありますから、まずまずの広さだったのでしようか。

 

宿場町通りという商店街を進みました。古い家屋の絵馬屋の吉田屋の前にある傳馬屋敷横山家もなかなか立派で江戸末期の安政2年の建築との事です。

旧水戸・佐倉道とありました。

おやつの時間が突然訪れました。木曜と土曜はお店が開いていたので槍かけ団子を一本ずつ買い味わう事ができました。

15時半頃、真言宗安養院に入りました。北条時頼の創建と伝えられています。文政11年(1828)の山門を眺めました。芭蕉句碑「ゆく春や鳥啼き魚の目は泪」を見てかんかん地蔵の削られた白いお顔と隣の仲良し地蔵にお参りしました。

明和年間に接骨医として開業の名倉医院は広い駐車場の奥にありました。入院施設はなかったので患者専用の宿屋があったとの事です。現在は整形外科名倉本院とあり、よくぞ継続していらっしやると拍手をしたい気分になりました。立派な白壁の蔵もありました。

16時過ぎ日蓮宗清享寺は先程味わった槍かけ団子の名の水戸黄門が槍を立てかけた松があった所で松の碑がありました。私達は綺麗な松の庭を本堂に進みました。解剖人墓は明治3年〰4年に死罪になった11人の囚人の解剖が行われた時の墓です。一人一人の戒名と出身地が刻まれてありました。

長円寺の別当の四丁目氷川神社の狛犬に注目しながらお詣りしました。三管塚とは楠木の下に雅楽の龍笛、しちりき、笙を埋めたもので関東では珍しいとの事です。

目やみ地蔵のおもしろいお堂の絵馬の数々を見ながら本日最後の月松山長円寺へと入りました。

こちらも新義真言宗です。魚籃観音のお堂のそばに綺麗な菊が咲いていました。大日如来像の下部の獅子像に注目して拝見し笑いの中に終了しました。

本日は午後の部が長く、思ったよりも長い行程に感じましたが、美しい黄葉の中を気持ちよく歩く事ができました。

土曜日は4時半になってしまいましたが北千住駅に急ぎ、お別れしました。皆様お疲れ様でした。

 

旅立ちの社は銀杏紅葉かな    豊治

 

冬の蝶遊女の墓はひとまとめ    いさお(坊城先生添削)


 

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江戸名所巡り 第八回 千住界隈を巡る (前編)

第八回江戸名所巡りは、11月13日(火)、15日(木)、17日(土)の三日間共にお天気に恵まれた中で歩く事ができました。先月の三ノ輪駅と同じですが、集合場所は明治通リ改札で10時にスタートしました。

台東区根岸を5,6分進むと天台宗薬王寺に着きました、片膝を立てた如意輪観音の石仏の前を通り、奥の背面地蔵尊を拝見しました。前立の新しいお地蔵さまの後ろに大きく色黒のお地蔵様がたっていらっしゃいました。

明和年間日光街道に面して立っていましたが道筋が変わりましたので地蔵を反転させ向きを変えたとの事です。ところが地蔵は住職の夢に出てきて、古くからの向きが良いと告げたのでした。住職は、急ぎ石工を呼びその夜の内に元の西向きに戻したという事です。

又、5・6分で投込み寺と呼ばれている浄土宗浄閑寺に入りました。

門の左手には小夜衣供養地蔵があり、罪を着せられた小夜衣の霊を鎮めたとされています。小さな豕塚もあります。火伏の豕とされています。

 

首洗い井戸という恐ろしい名の井戸の傍には、石蕗の花が満開でした。父の仇の平井権八を討とうとして、返り討ちに合った兄の首を洗っているところに権八が来て弟まで討たれてしまったという悲しい話がある井戸です。

そしてこの寺は、安政の大地震の際に多くの遊女が葬られたとの事です。菊の供花が美し過ぎて余計に、悲しみが増してきます。生まれては苦海死しては浄閑寺と川柳で詠まれ、新吉原総霊塔に名前が刻まれ脇からは骨壺が見えていました

永井荷風の「震災」の一部が刻まれている荷風碑の向こうにひまわり地蔵がありました。山谷老友会が山谷の日雇い労務者の孤独を慰める為に昭和57年に建立したとの事です。ひまわりを胸にかざしている優しそうなお地蔵の表情が印象的でした。

もう一度遊女たちの塔を見ると髪飾りがいくつも供えられてありました。

目黄不動尊の永久寺には2分で着きました。火曜日は門は締まっていましたが土曜日は中に入れました。慈覚大師作と伝えられる目黄不動があり、江戸五色不動の一つです。お堂の中を拝見しましたが目が黄色には見えませんでした。

すぐに泪橋の交差点がありました。現在、橋はありませんが小塚原刑場で処刑される囚人たちが涙を流しながら橋を渡った、あるいは知人たちが別れを惜しんだという泪橋があった所です。

10分位北上し、その小塚原刑場跡(延命寺)に着きました。江戸時代の刑場で明治初年に廃止されるまで約20万人が刑を受けました。資料にも外国人が写した写真があり、我々は恐ろしい光景を写真で見てしまったのです。これらの刑死者の菩提を弔う為に寛保元年(1741)に造立されたのが、こちらの大きな延命地蔵尊(首切り地蔵)です。脇にはお題目石と馬頭観音がありました。

すぐ傍の小塚原回向院は明暦の大火での焼死者や無縁者の霊を弔う為に造られた本所回向院が手狭になり、ここ小塚原に別院が設けられたとの事です。まず最初に吉展地蔵尊がありました。これは村越家の菩提寺だからという事です、

入ってすぐの処に杉田玄白らが刑死者の腑分けを行った記念碑として、昭和34年に再建されたものがありました。

腕の喜三郎墓、高橋お伝墓、ねずみ小僧墓、片岡直治郎墓がずらりと並んでいました。正面奥の屋根の中にあるお墓は一橋慶喜擁立を計った橋本左内の墓です。井伊直弼の安政の大獄で処刑されました。今年の大河ドラマで西郷どんの青白い小顔の風間俊介が浮かんできました。土曜日には一般の女性がお詣りに来ていました。

その左奥には吉田松陰の「松陰二十一回猛士墓」はあり、こちらは伊勢谷友介のきりりとした顔が浮かんできました。

また桜田門外の変でなくなった桜田烈士墓がずらりと両側に並んでいました。何だか気持ちが沈んできます。しかしながら、ここが江戸であった事を改めて感じながら拝見しました。

本日は少し早目のお昼です。

南千住駅前で思い思いの店に入り昼食を取りました。12時半過ぎに午後の部のスタートまで休憩をとりました。

後半に続きます。

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江戸名所巡り 第七回 𠮷原界隈を巡る(後編)

火、木は1時半頃、土曜日は40分位遅くなり2時過ぎにスタートしました。土手の伊勢屋の天丼は、昔、吉原で働いていた人たちが食べていたから味が濃い目と聞きましたが、程よい濃さで天ぷらもさくさく。殆どの方が満足されたようでした。

すぐに見返り柳を見ました。吉原からの帰りの客が髪を引かれる思いで振り返ったという柳です。現在の物は昭和に植えられたものです。信号を渡り反対側をあるきました。

いざいざ新吉原へと心がはやります。男性は叉、格別の思いがあるのでしよう。日本橋にあった元吉原が元和3年(1617)に火災にあい、ここ新吉原に移り昭和33年の売春防止法で終わりを告げられるまで永々と続いた場所ですが、今もその様な部類の店がずらりと並び一般の人の立ち入りを拒む一角となっています。

鉄漿溝(オハグロドブ)の跡の少し残る石垣を見ました。周囲を溝で囲んであり、黒い色で濁っていて臭いもひどかったとの事です。この様な跡を見ると少々生々しくて、美しい浮世絵とは違う哀しくはかない女たちと、華やかな場所を作り上げ利用した巨大な商売の世界、そしてそこへくり出す男達の性(さが)、今では時代劇の世界ですがそれぞれの生き様が想像されて胸がつまる思いがしてきました。

黒いタクシーが出てきました。

そして我々は、たけくらべの悲しい終わり方を思いながら樋口一葉記念館を目指しました。火曜日は休館日で申し訳ありませんでした。記念館では自筆の文章を見る事ができとても美しい字に見とれる程でした。

一葉は、25歳で結核で世を去った後に認められました。菊池寛の撰文碑には、明治文壇の天才一葉の旧居あとなり。一葉の霊欣びて必ずや来たり留まらん。と表し碑を建てましたが、戦災に合い昭和24年に建て直された様です。旧居跡では荒物や駄菓子を売る店を7ケ月程、出していたとの事です。店を出す資金もとても苦労して借金して作ったようです。商売はうまくいきませんでしたがしかし、ここでの経験が「かけくらべ」を生んだと言われています。

2~3分の処に飛不動(天台宗、正法院)がありました。飛不動だけあって空の安全を守る不動ですので飛行関係の人々の信仰を集めています。修行僧が持ち出した本尊が大峰山から飛んで戻って来たという伝説があります。あのハヤブサの関係者の絵馬もあるとの事です。又、落ちないという事から受験生にも支持されているとの事です。落ちない!戻ってくる!素晴らしいではありませんか。

 

5,6分の場所に吉原神社に着きました。万治元年(1658)千葉九郎助が白狐と黒狐が天下るのを見て勧請したそうです。吉原出火の折も無傷だったので人気が出、吉原の世界から一日も早く出たい人々の信仰を集めました。吉原の今昔図が張り出されていて目を引きました。

 

4~5分で弁天池へと進みました。女郎達の絵や美人画の浮世絵も展示されていました。華やかな世界を想像しました。お堂の中には裸の弁天様がいらっしゃいました。周囲は紅や桃色の派手な色で何だか別世界に入って来た様でした。しかし大震災の殉死者追悼の碑が高々とあり悲しい出来事が刻まれてありました。よしの原を埋めたてて造った事や日本橋からここに移転した事、そして廃止となった事までの歴史が記されています。

 

6~7分で広い通りにある鷲(オオトリ)神社に着きました。天の岩戸に隠れていた天照大神へ楽器を奏でると鷲が弦の先に止まつたとの事です。そしてその時、踊っていたのがお多福という事で正面に大きななでおかめがありました。私たちもしっかり願いを込めて、おでこや頬を撫でました。

少し細い道を行き普通の家の入口に見える浄土真宗の大照寺の中の仏足石を見せてもらいました。

 

木曜日と土曜日には大照寺の前に、第18代中村勘三郎の墓にお参りとしました。平成中村座でも次々と企画し精力的に歌舞伎を演じ、はたまたロマンスでも何かと話題になっていた勘三郎の顔が浮かんできました。

大照寺から5~6分で広場の奥の曹洞宗朝日弁才天に着きました。江戸初期、備中松山藩の水谷伊勢守の屋敷に祀ったのが始まりで不忍池を夕日の弁天といい水の谷は東にあるので朝日弁天とよばれたと言います。不忍池のにぎやかさに比べ、こちらは何と寂しいことでしようか。現在は、朝日とは名ばかりだと感じた次第です。

真言宗竜泉寺は中に入れず歩道から見て通りました。

本日最後の千束稲荷に16時頃着きました。樋口一葉の大きな石の胸像が左手にありました。とても美人だったという事です。たけくらべの美登利と共に、この薄幸と薄命の美人を日本人はずっと忘れないでしょう。私達はもう一度、一葉をじっくり見て別れを告げました。

三ノ輪駅には5分位で着きました。本日も盛り沢山で大変お疲れ様でした。吉原の興奮からまだまだ醒めやらないままに帰路についた私たちでした。

 

木斛の紅き実たわわ社脇

千束や枯れ葉一葉舞ひ散りぬ   豊治

 

秋天や飛行機落ちぬ札のあり

吉原の図面買ふ人神の留守    慶月

 

たけくらべの冒頭より

「廻ければ大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝の燈火(トモシビ)うつる三階の騒ぎも手に取る如く‥‥南無や大鳥大明神…..」

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