鎌倉街道上道 第八回 奈良梨~菅谷

5月9日(火)、5月13日(土)、合わせて31名のご参加で上道の八回目を歩きました。13日は朝から雨でしたが皆さんは、元気良く最後まで楽しまれました。午前10時過ぎに東上線の小川町駅に集合し、15分発のバスで奈良梨まで行きました。

10時半過ぎにスタートです。10分くらいで道端に三面の馬頭観音など石造物が並んでありました。

馬頭尊と文字が刻まれたものや立派な三面が彫られていているもありました。

この辺りは嵐山町といい都幾川渓谷が京都の嵐山に似ているのでこの地名がついたとのことです。

11時40分、曹洞宗の宝城寺に入りました。

閻魔堂を覗くと色のあせた閻魔像があり、どなたかが「可哀そうに」とおっしゃいました。

門を出た所のさくらんぼが甘酸っぱくて2,3粒いただきました。

いちの川の相生橋を渡ります。新緑が川に映っています。お昼近くに天台宗の積善寺に着きました。

706年日照りの時に積善が雨乞いを行うと雨が降ったとの事です。後に荒廃していたのを伯耆国大山寺の裕源和尚が泊まり中興させたとの事です。

木香バラの黄が満開で美しいです。眞子様のおしるしの花です。

庚申塔群や苦非なし地蔵の悲しく不思議な話を聞いて杉山城跡へと進みました。

戦国時代の構築で別名、初雁城ともいわれています。自然の要害として県内でも名城とされています。十以上の郭と土塁や堀が巧みに配置されていて、私たちは必死で登り降りをしました。後北条の時に松山城主の上田氏の家臣の杉山主水の居城であったといわれています。

井戸跡のそばの水溜に山椒魚の卵があり孵化前で私たちを驚かせてくれました。どうかうまく育ちますように。のどかな道をしばらく歩き志賀の観音堂の石仏群を見ました。

聖徳太子像もありました。

13時過ぎ、曹洞宗長慶山東昌寺に着きました。念ずれば花ひらくの碑が目立っていましたが、七福神や様々な観音様を拝見することができました。

門の上の彫刻も細く私たちは注目しました。13時半過ぎに昼食の場所の女性教育会館に入り、チケットを買い遅い食事となりました。セットメニューは700円前後でお安いだけありお肉が少し固めでした。

白雲木の花がきれいでした。午後の部は菅谷館跡の敷地内にある嵐山史跡の博物館を15分間ほど見学しました。

ビデオシアターを見たり、出土資料の展示を見ました。その後、タクシーに乗り合わせて曹洞宗班渓寺へ行きました。

木曽義仲の夫人の山吹姫は義仲の縁を頼り、この地に草庵を建てました。梵鐘には義仲の長男の義高の為に班渓尼(山吹姫)が創建したと刻まれてあるとの講師の説明を聞きました。山吹姫の小さな墓には色とりどりの供花が活けてありました。夫と息子の供養をする日々を思いながら寺を後にしました。

朱の斑渓寺橋はやはり、山吹姫を思い浮かべます。

又、新緑の中を歩きました。川沿にアカシアの白い花が咲きよい香りを放っていました。

15時40分ごろに鎌形八幡神社に着きました。坂上田村麻呂が宇佐八幡宮を勧請し源頼義から頼朝までの源氏累代が源氏の氏神として崇信を受けていたとの事です。

常緑樹の招霊(オガタマ)の木が茂っていました。一円玉の葉のデザインがそうだという事です。

又、義仲の産湯の清水があり、皆で柄杓を取り手にかけてみたり、唇にふれてみたりしました。

金毘羅神社は池の中にひっそりとありました。

八幡神社の額の八が鳩の様に見えて皆で笑いながら眺めました。都幾川辺にはアカシアの花やら又サクランボが実を付けています。

16時30分頃、菅谷城跡に戻ってきました。畠山重忠が築いたもので規模は小さいものでしたが、室町・戦国時代を経て拡張されたとの事で本郭は空堀と土塁に守られています。

重忠像は竹筋コンクリート製ということで直垂に烏帽子の姿が立派で鎌倉の方を向いているところが何とも泣けて参ります。小さな土塁を設けて次の郭が見えないようにしていたり、傾斜をつけた木橋もありました。

緑の中を身持ちよく歩きました。さあ駅までもう少しです。

数分歩いて横穴の円墳の稲荷塚古墳を覗きました。

すぐに武蔵嵐山駅西口に到着しました。5時を少し廻っていました。今日は木曽義仲、義高、山吹姫、そして畠山重忠に触れる旅ができました。朝早くから遅くまで、又土曜日は一日雨の中を本当にお疲れさまでした。

はんざきの孵化前夜なり水場跡   慶月

〈はんざき=山椒魚〉

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