鎌倉街道上道 第七回 赤浜~奈良梨

 

4月11日(火)は生憎の雨の一日でした。しかし雨の中の桜の美しさにしばし佇んでしまった一行でした。15日(土)は晴天で桜散る中をを歩く事ができました。東武東上線男衾駅は、とても新しい駅でした。10時過ぎには、田圃の中へと入って行きました。

家の前を通り小披(オブスマ)神社と出雲伊波比神社に寄りました。

武蔵国男衾郡の立派な標識があり奈良の平城京跡で発見された木簡にその名が記されてあったとの事です。

11時過ぎに前回のアイリス大山の側に残る鎌倉街道に着きました。今日は道路を渡り、反対側を進みます。

すぐに天台宗の普光寺に着きました。延暦寺の直末で14ケ寺の末寺があるとの事です。本尊は補修されていますが平安末期の薬師如来坐像と考えられています。

トタン屋根の下に集められた板碑群は周辺の開墾により出土したもので、この辺りの歴史を物語っていました。

桜の木が大きく満開でした。地味なシキミの花にも私たちは心ひかれました。

11時半頃、三島神社に着きました、三島大社をすぐに連想しまし、話は神様のお使いである鰻に及びました。瀬戸内海の大三島神社は朝廷より「日本総鎮守」の称号を下賜されたとの事です。神社には神鈴ですが、こちらでは室町時代の鰐口が保存されていて道禅の作と言われています。又、大きな椿の木は、今を盛りに咲いていてヤブツバキの下に落椿もそのままにしてあり大変美しい光景でした。三本の内、中央の一本は町の天然記念物に指定されています。

お昼少し前に百万編供養塔の前を通りました。寛政2年とあり一白一力と異形文字が面白く、昔の人の機智を感じるのでした。

つつじの咲く道を進み12時頃に誰もがこんな所にどうしてと思うピザのお店がありました。ピザ二種類とパスタ一種と飲み物がとても美味しくお腹がいっぱいになりました。約1時間、休憩を取り出発しました。

しばらく歩くと花ダイコンのうす紫色が広がっていました。諸葛菜ともいう花にしばし目を奪われました。次は満開の桜が続きます。

それを過ぎると鎌倉街道の細道に入って行きました。

堀割状になっている道を少し上がったところに児泉神社がありました。前に泉が湧いていたとのことです。

隣には天台宗高蔵寺があり比叡山延暦寺の末寺ということです。

山門の赤色が延暦寺と同じといいます。しだれ桜のむこうに見えてきました。

柳沢吉保の子供である吉里が、祖父の供養で立てた信俊夫妻の墓が並んでありました。

歩けば桜というこの季節、大きな桜の木に寄生木というものを見つけました。

高蔵寺の地蔵堂とも云われている今市地蔵堂は北条政子が造らせたとされる「いぼとりの一体地蔵尊」と呼ばれています。暗くて見えづらいのですが、撮らせていただきました。

季語に「山笑う」とい言葉がありますが、まさに山里は美しく春爛漫という状態でした。

室町時代、山内と扇谷の両上杉が高見原で戦ったという高見の集落を通り、小川町に入りました。

山岡鉄舟の故郷で父の小野高福の知行地は小川町竹沢でした。小野氏は、小野妹子の子孫と聞き私たちは、ほおといにしえを思うのでした。

しばらくして能増掘割遺構へと入って行きました。旧鎌倉街道跡が私達にとっては感慨深い道と云えます。約70メートル明るい樹々の中を進みました。

そこを出ると門跡と呼ばれる田口家に出ます。後ろにはこんもりとした森があります。

次に伊勢根掘割遺構へと入りました。約140メートルですが、こちらの木立は太くて密集している様に感じました。

鎌倉街道上道跡の標識に私達は元気が出てきます。

諏訪神社奉祀遺跡の石の小さな祠がありました。貝母の花が咲いていました。

15時近くに普賢寺に着きました。明治16年に大檀家の家を移築して本堂としたとの事です。出世大国様の石像が目立っていました。

すぐ側に萬福寺がありました。時宗のお寺で紋は一遍上人の実家の河野氏の折敷に三です。

これは大三島神社の紋でもあります。馬頭観音が祠の中で大切に保護されています。

15時過ぎに着いた八和田神社は、元は諏訪神社で明治22年に8地区を合わせて八和田神社となりました。御神木の大杉は樹齢800年と聞き驚きました。

奈良梨のバス停に着きました。15時40分頃、バスで小川町駅に到着しました。火曜日は一日中雨で本当にお疲れさまでした。しかし桜の美しさにうっとりしながら歩く事ができた幸せな一日でもありました。

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