鎌倉街道三浦道  第二回  逗子から鎌倉

12月6日(火)と10日(土)はとても良いお天気に恵まれ26名のご参加で逗子駅を出発しました。img_5878

20分位で最初に訪れたのは岩殿寺です。こちらは坂東三十三観音の第二番札所です。徳道上人と行基の開創と伝えられる鎌倉時代以前からの古いお寺です。img_5880img_5883img_5886石段を上がると爪堀地蔵が二体あります。弘法大師が彫ったとの伝承があります。階段を上がると右手に鏡花の池があります。泉鏡花は、明治35年から3年位逗子に住み、ここが春昼の舞台となったお寺です。 二、三度すれ違った人妻に男は恋をし、寺の裏山の横穴の舞台で芝居をした夢を見る・・・・。img_5888観音堂の裏には、奥の院岩殿観音が安置されています。見上げて通り、そして紅葉にうっとりしながらも急な階段を降りました 。img_5896img_5900下のお庭には慈母観音と慈父観音が並び、キリシタン(常夜灯)塔を見て参道を下りました。早くもボケの花が咲いていて驚きました。img_5902 img_5906通りに出て横須賀線とすれ違いました。歩道すれすれに庚申塔が集められていました。img_5908

img_5909説明板には、この辺りは鎌倉時代には「鎌倉道」江戸時代は「浦賀道」だったと記されていました。

10分位で法性寺です。img_5911img_5912日蓮が、松葉谷の草庵が焼き討ちにあい山沿いに逃げて来た時に、白猿が畑から食べ物を運んだという話があります。まず白猿が扁額を持っている門を潜ります。

img_5915img_5917img_5916私達は又、どんどんと上へと昇りお寺の屋根々々が見える高さまで来ました。お堂の左上に、白猿が食べ物を運んだという窟屋があり中を覗く人もありました。

反対側へ進むと切岸と呼ばれている場所で垂直に切られた岩を見上げ、その岩は右手の方へずっと続いていました。所々に紅葉があり、何とも言えない他にはない風景でした。

img_5921大切岸の脇から名越の切通に入る細い道があります。

img_5923いよいよ本日のメインの一つ、名越の切通しです。

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10分位でまんだら堂やぐら群へと登る石段がありました。すぐに目の前が開け、見た事もない墓地群が現れました。土曜日は近くまで行くことができ、ガイドの方から説明を聞く事ができました。五輪塔を一つ一つはずしていきます。一番下の地輪の中央に穴があり、そこに陶器製の骨壺を入れたという事です。陶器は当時大変貴重のものでよく盗難にあったとのことです。img_6111img_6105img_6110高台から後ろに目を転じれば由比ヶ浜の海がきれいに見えました。

img_6106もとの切通しに戻り、切通しの逗子側の入口まで来て、改めて鎌倉への切通しを歩みはじめる事にしました。高い岩盤の間を進み、細い道や置き石を除けながら進みました。img_5934img_5942img_6115img_6116

10分余りで下に線路が見えてきて鎌倉へと入っていきました。img_5947

img_5949日蓮乞い水と云われる井戸が石柱に囲まれてありました。日蓮が水を求めて杖を突きさしたところ清水が湧いたといい鎌倉五水の一つです。又、すぐ近くに銚子の井の跡碑もあり、こちらは鎌倉十井の一つです。

img_5950img_5952通りを左に入り午前の部最後の長勝寺へ行きました。日蓮が伊豆伊東の配所から戻りここに庵を結んだのがこの寺の始まりといいます。きれいな石畳の両脇にある木々の手入れが行き届いています。img_5954

img_5956img_5961法華堂の前に四天王に守られた日蓮のどっしりとした銅像が立っていました。高村光雲作です。又、2月12日の國祷会と云われる冷水を浴びる荒行の場がそばにありました。img_5960左の脇の紅葉が何と美しい事でしようか。そして講師が皆さまに懐かしい方をお見せしますと言い、連れていかれた一角に赤木圭一郎の胸像がありました。高い場所から東京の方を見ているとも海を見ているとも言われています。

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大町の通りに出て10分位で昼食の場所に着きました。火曜日はスペインの台所というレストランしか空きがなく、入れなかった人はコンビニ前のベンチでおにぎりやサンドイッチなどを頂きました。

土曜日の方々はイタリア、スペイン、中華にお寿司。ちなみに筆者は火曜日のベンチでの昼食の反動でお寿司にしました。 材木座にあった正田家の別邸御用達のお寿司屋さんです。 並2050円、とても美味でした。img_6124午後の部は1時少し廻ってから始まりました。ウルシかハゼの紅葉が美しい道を進み安国論寺へ着きました。日蓮が安国論を書いた庵があった場所であり日朗の霊場でもあります。img_6126img_5969img_5970山門を潜るとすぐに正岡子規のレリーフと歌碑が目に入りました。こちらを訪問し後に日蓮という随筆を書いたそうです。

松葉で巴紋を染めぬいた幕に注目しました。土光敏夫の墓は力強い字ときれいな供花が印象的でした。img_6132 img_5975

細い石段を上がります。ここは、松葉が谷で焼き討ちに合った際にひとまず隠れたという場所で、南面窟といいます。img_5977 img_5978img_5979もう少し上がり、寺院の屋根屋根が見える所に来ました。何と眺めの良いことでしょう。形のいい鐘楼があり、この高台から鐘を打つと海まで届くのではと思われました。img_5980 img_5981稲村ケ崎の半島がはっきりと見え、火曜日には、雪を頂いた富士山がうっすらと見えました。img_5984 しばらく観賞してまた急な階段を降りました。日蓮聖人のお杖が根付いたという山桜の古木が、細い枝を広げていました。 御法窟には、立正安国論を書いている日蓮像があり、硯の水に使用した井戸もありました。 img_5985img_5988img_5994img_5995

7,8分で妙法寺へと進みました。こちらは苔の石段が有名です。日蓮が1253年安房の国から鎌倉へ来て初めて小庵を営んだという所です。日蓮宗の最初の寺院と云える場所です。img_5996img_6000img_6001

300円の拝観料を納め太めのお線香を頂きお参りしました。 本堂の屋根の九曜の紋に注目するように講師は話し始めました。これは、九曜紋の細川家が寄進した事によります。本堂の脇の大覚殿には加藤清正の像が安置されています。赤い仁王門の奥の苔の石段が目に入ってきました。 静寂の中にある美に感じ入りました。img_6004進入禁止の中央の石段を避け、右手の細い階段を上がると法華堂がありました。

img_6005img_6010日叡上人お手植えの蘇鉄を見て鐘楼との間の石段をまた上がりました。 尾根に出て左にすすむと最初にあったのが南の方(日叡の母)の墓、その奥に日叡(護良親王の遺児)の墓が並んで海に向っていました。img_6013

img_6014img_6023img_6020護良親王の墓は、反対の方向に戻り小庵跡よりまた少し上った所にありました。海への見晴らしがよく狭い場所でしたが感慨深いものがありました。img_6018

下る時も細心の注意をはらいます。化粧窟の中の日蓮座像はどっしりとした姿でした。img_6024img_6027

名越家の供養塔と薩摩屋敷事件戦没者の墓もありました。img_6028そして赤い仁王門や苔の石段、残る紅葉を後にしました。

5分程でこちらも日蓮宗の大宝寺です。新羅三郎の館跡で後に子孫の佐竹氏が住みました。頼朝から家紋を扇子にするように言われた経緯を講師から聞きました。img_6036

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三郎義光の墓は小高い場所にありました。資料の系図を見ると三郎の長兄義家の玄孫が頼朝なのです。img_6039

3時 頃に安養院に着きました。政子が頼朝の冥福を祈るために建立した寺で鎌倉末期にこの地に移されました。樹齢700年の槇の木が大きく枝葉を広げて聳えていました。

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政子の墓は思ったより小さく、右にある尊観上人の墓とされている宝篋印塔の方が立派で、これは鎌倉に現存する最古のものといわれています。img_6046

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人丸の墓は扇ガ谷から移されたもので父である平景清を尼となり、菩提を弔ったということです。img_6045

すぐそばの上行寺も日蓮宗で、門の内側にある左甚五郎作の龍を見上げました。桜田門外の変の水戸浪士が逃げてここで自害したとのことで、正五位の大きな墓がありました。img_6167

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別願寺は時宗の寺です。足利持氏の墓はとても大きくて、四方に鳥居形の四門が浮き彫りになっていました。img_6058

八雲神社では、新羅三郎の何十キロもありそうなお手玉石を皆で笑いながら眺めました。img_6062img_6169

元鶴岡八幡(石清水八幡)を頼朝が現在の鶴岡八幡宮へ移したことを知りました。通り道の延命寺にも寄り、若宮大路へと出ました。img_6075

4時頃下馬の交差点で、鎌倉街道あるき隊の三浦道は終了しました。

img_6077本日は、大変魅力的でしたがハードな行程を皆さまお疲れ様でした。img_6112img_6117

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