第二部13回 早稲田界隈を巡る(午前の部)

11月8日(火)と12日(土)、晴天で少し暑いくらいの両日気持ち良く歩くことができました。 東西線の早稲田口に集合しました。 火曜日は21名のご参加で列が長くなってしまいましたが土曜日は8名で小さくまとまって身軽に行動ができました。

駅のすぐそばに落馬地蔵という変った名のついた地蔵がありました。 三代将軍の家光が狩の帰りにこの辺で落馬しましたが調べてみると付近の川から地蔵が発見されました。 そこでその地蔵を祀ったのでした。

その後、駅の東側にある早稲田大学へと向いました。 10時半頃、大隈講堂の時計台の前に来ました。 大隈重信が唱えていた人生125年説により125尺(37・8M)の高さです。 上部は早稲田大学のWになっています。 塔のそばを右に入ると庭園となっていて大学が開いている時は自由に入る事ができます。 入口にはカフェ125があり学生が楽しんでいました。 庭園の敷地は高松藩松平氏別邸跡で維新後、大隈邸となりました。

入口の獅子像は大学創立100周年記念として台湾校友会からの寄贈です。 その他、韓国、中国の校友会から贈られた像や鐘を見ました。 又、先の戦争で亡くなった4000人余の戦没者を供養した苔むした平和記念碑をながめるのは辛い瞬間でした。

日本庭園の奥の少し高くなっている場所に賢妻の誉れの高い大隈綾子像が立っていました。 江藤新作(江藤新平の次男)や小栗忠順の遺児である国子を育てたとの事で学生達にも慕われていたそうです。 庭園を進むと飛騨の古民家も校友会の寄贈とのことで立派な家屋でした。 どこからも時計台が見えて紅葉に色どられた庭園を楽しむ事ができました。 芝生の庭には子供たちが遊び元の入口に戻ってきました。 戦災でも焼け残った唯一の建物を眺めながら大隈重信像のあるゾーンへと進みました。

浅倉文夫作の式帽とガウン姿の像は大隈講堂と対峙していて黄葉の銀杏の木が彩っていました。 右手に入ったところで坪内逍遙記念演劇博物館を見上げました。 逍遙は東京大学を卒業し早稲田大学教授として研究を進め近代日本文学の基礎を築きました。

早稲田大学に隣接してい天台宗宝泉寺です。 大学の敷地の大部分は宝泉寺の境内で重信像辺りに本堂があったとの事です。 梵鐘は正徳元年(1711)鋳造で仏像が彫られています。 高田藤四郎(日行)は富士信仰の為に高田富士を造りその富士塚が見える宝泉寺に葬られました。 モダンな本堂の右脇に上野寛永寺の灯籠が移されていました。

参道にはきれいな花が植わっていて皆の注目をあびていました。

2,3分で日蓮宗法輪寺に着きました。 門にきれいな花手水が置かれていました。 上に色とりどりの日傘が飾られ実に明るく華やかなお寺です。 寺紋が鶴丸なのは日蓮の母方の大野氏の紋です。

道路の向こう側に大きな朱色の鳥居があります。 流鏑馬像の雄々しい像を見て進みました。階段を上がると朱色の随神門は平成10年の再建です。江戸時代は虫封じの祈祷が有名で明治12年には皇太子(大正天皇)の御虫封祈祷が行われました。夏目漱石は癇癪持ちだったので鏡子夫人は癇癪封じの護符をこの穴八幡から受けていました。 神武天皇遙拝所の碑は橿原神社に向いているとの事です。 狛犬の表情がほほえましく私たちをなごませてくれました。

こちらの最後は出現殿です。 法生寺を建設する際に穴から仏様が出てきました。 高田八幡宮を穴八幡と称するのはこの事からです。 出現殿は穴の上に建築した堂で内側を見る事はできませんでしたがどれも新しく立派な建物です。

す ぐ側の別当寺の放生寺へ入りました。 高野山真言宗の寺です。 境内の松の木が光を発し家光の世継誕生の兆しと云われ男子(家綱)誕生となり将軍家の祈願所の格式を得て葵の紋を許されました。 馬頭観音は三面八臂でした。 水掛地蔵や神変大菩薩にお詣りしました。

昼食は学生の町だけあってボリユムのあるお店が多く定食が苦しいくらいでした。

さて午後の集合場所の側に堀部安兵衛が高田馬場の決闘場に行く途中に5合の酒を飲んだ店の小倉屋がありました。 中を見物して安兵衛の名のある清酒を買いました。 早稲田の卒業生の方は早稲田ビールを買っていました。

午後の部に続きます。

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