第二部12回 高田・池袋界隈を巡る(後編、午後の部)

鬼子母神大門のケヤキ並木は都の天然記念物となっていて樹齢600年以上といわれています。地主の長島氏の寄進によるものですが現在4本のみとのことです。

私たちが立っている参道の場所を広重の浮世絵を講師がかざしていました。料理屋の茗荷屋、左に蝶屋、あやめや、むさしやが並んでいます。子供が持っているのは芒で作ったみみずくの人形です。

2、3人でみみずくを買いにいりました。100円円から2000円,3000円と立派になっていきますが我々はみな1000円のものにしました。

10月13日は日蓮聖人の命日で御会式が行われていました。本堂からは読経の声がひびいていました。境内は出店が並びとても賑やかでした。鬼子母神堂は法明寺の飛地にあり、大きく分けると神社ではなく寺院に分類されますが鳥居があり神仏習合の名残と言えます。鬼子母神像は憤怒の像と言われています。

神木は石榴(さくろ)の木ですが実が一個もありません。早くも鬼子母神がたべたのでしようか。山岡鉄舟碑は達筆で「衆生心水清苦堤影現中」と書かれていました。

子育公孫樹は樹齢700年以上で日宥が植えたと云われます。堂々とそびえていました。武芳稲荷大明神は鬼子母神の地主神を祀った古社でお詣りしました

、そして有名な江戸時代から続く駄菓子屋さんへも立ち寄りました。上川口屋といい元は飴屋で天明元年(1781)創業で東京最古の駄菓子屋です。

3,4分で日蓮宗本納寺に入りました。慶安3年(1650)法明寺22世の日相が開基です。狂歌碑、句碑が沢山ありました。井上家墓は宝篋印塔七基で慶長9年(1603)の墓は関東で一番古いとされています。大鳥神社は神紋が福包とよばれる袋紋で見ているだけでなぜか楽しくなります。狛犬の下に蛙がいます。

雑司ヶ谷茄子がきれいな色をしてぶらさがっています。村には百姓村が在り江戸へ野菜を供給して帰りは人糞などを運んできたそうです。

 次ぎの法明寺に向かい初めて2,3分後、ここには橋が架かっていて旧鎌倉街道枝道でしたと講師がいいました。

東京音楽大学の前を通り南池袋にいり大鳥神社から10分後に日蓮宗法明寺に入りました。

江戸時代には末寺が14ケ寺で朱印が10石。弘仁元年(810)に真言宗の威光寺として創建されました。吾妻鏡では源義家以来、源氏の祈願寺でした。正和元年(1312)に日蓮の弟子である日源が日蓮宗に改宗し室町時代に鬼子母神を安置しました。梵鐘には度量衡が描かれていたので江戸時代には鯨鐘と呼ばれていました。

私たちが訪ねた日は御会式の日でお坊様が小走りで動き檀家の人たちはお飾りを引く準備をしていました。火消しのめ組の法被を着た人とすれちがいあの喧嘩で有名な火消しと思い何だかドキドキしてしまいました。5分位で威光稲荷に着きました。神紋が石榴で神社ではなくて寺院の稲荷ということです。

又、5~6分進んだところに本日のメインの一つである日蓮宗本立寺に着きました。

彰義隊に神木隊(榊原家の榊を分解して神と木)として参加し死亡した榊原藩士の碑がありました。本立寺は姫路城主榊原家の奥方の菩提寺となりました。八代藩主の榊原政岑は高尾太夫を1800両で見受けしました。贅沢を禁止した徳川吉宗の怒りを買い越後高田に国替えとなりました。2年後に政岑が亡くなり側室の高尾太夫は菩提寺の本立寺で尼となり供養を続け84歳で亡くなったとの事です。側室の方々の碑に刻まれた同じ戒名の墓が西方の塀そばにありました。

すぐに木立の中に御野立跡碑がありました。この辺りは軍の演習があったところで明治天皇が御覧になったということです。

サンシャインのビルが見えて来ました。東池袋中央公園の暗い片隅にその慰霊碑は在りました。巣鴨プリズン跡に自然石で「永久の平和を願って」と刻まれています。

東京軍事裁判で7人の処刑が執行された場所です。周辺住民の反対があり具体的表現を避けたとの事でした。手元の資料で7人の詳しい罪状が解りました。

サンシャインのビルから池袋駅に向いました。駅を通り過ぎた所に四面塔と稲荷大明神があり柵の中を覗きました。享保6年(1721)に池袋村講中64人が造立したもので追剥ぎや辻斬りに合った人の供養と道標をかねていました。

さて本日最後の池袋水天宮はすぐ正面に小さくありました。田の神の4体はシャモジを持っていて後から見ると子孫繁栄を示していて皆で笑いながらの解散となりました。

両日とも14時40分から45分でとても早く終了となりました。皆様、お疲れ様でした。

裁判

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