第二部九回(前編) 落合・中井界隈を巡る

令和3年の暮れが近づきました。12月11日(土)、14日(火)、17日(金)、総勢35名の方々が元気よく集まり朝10時JR目白駅を出発しました。14日は午前中から雨となり午後まで降られましたが誰もリタイアすることなく楽しむことができました。

目白駅前のクリスマスツリーを眺めた後に右に折れて学習院西西門を眺めました。論語の「学びて時にこれを習う」による命名で孝明天皇から下賜された名です。

コロナの影響でキヤンパス内を見学することは叶わず残念でした。資料のキャンパスマップを見るしかありません。乃木希典は10代院長で学生と寝食を共にした乃木館が現存しているとの事です。

山手線を越えて反対側を歩き10分位で「おとめ山公園」へと入りました。冬紅葉がまだ美しく残っていました。江戸時代には将軍の鷹狩りや猪狩が行われた地です。その為に一般の人は御禁止山(おとめやま)であったのでこのようなステキなひびきの名前となりました。

明治になり東側を近衛家が、西側を相馬家が所有しました。後に相馬家の所有部分を林泉園としました。

隣接しているのは東山稲荷です。東山藤稲荷神社とも藤の大木があったので藤森稲荷とか富士稲荷とも呼ばれていて江戸名所図会にも大きく描かれています。狐の狛犬の台石に蜀山人の書で世話人名が記されています。別名、太田南畝が安永5年(1776)に月見会で訪問しています。

相馬坂の標識を過ぎると文化13年(1816)の庚申塔があります。左ぞうしがや(雑司ヶ谷)との道標で鎌倉街道雑司ヶ谷道を示していた事が解ります。本日の最初に見た学習院の富士見会館辺りの広重の絵にも雑司ヶ谷道が描かれていました。

そして目の前に氷川神社がありました。下落合の鎮守で女体の宮とも呼ばれていました。男体の宮は豊島区高田の氷川神社で会わせて夫婦の宮と称されていました。

七曲坂を過ぎると、すぐに真言宗豊山派の薬王院に着きました。本尊の薬師瑠璃光如来は行基作とつたわっています。東の長谷寺といわれ、長谷寺から譲り受けたと聞く牡丹の冬芽がずらりと並んでいました。また枝垂れ桜の枝がいくつも下がっていました。春にはまた来ようと決心した人もいらっしゃいました。

5分位で下落合弁財天の鳥居をくぐりました。奥に小さなお堂がありました。昭和41年の宅地造成中に出土した横穴墓群には7世紀後半から8世紀初頭と推定された墓三基と人骨、直刀がでました。

江戸名所図会には蛍狩の様子が描かれています。神田川と妙正寺川が合流する場所(落合う)落合蛍の蛍狩の絵から庶民の楽しみであった事が解ります。神田川の「西の橋」渡ると西部新宿線の下落合駅です。

ここから一駅乗り中井駅で都営大江戸線で又一駅進んで落合南長崎駅で降りました。歩くと40分位かかるところを待ち時間も入れて15~20分と短縮することが出来、早めの昼ご飯としました。一日目は駅の右側にある小さな寿司屋に入りました。火曜日、金曜日は左側のスーパーの中にあるフアミレスに入りました。

後編に続きます。

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