第二部7回 田端・王子界隈を巡る(前編)

11月10日(火)、12日(木)、14日(土)の3日間、晩秋の王子界隈を巡りました。先月と同様に少な目のご参加でしたがコロナ禍ですから仕方ありません。10時に丁R山手線田端駅南口改札で集合しました。火曜日と土曜日は快晴、木曜日は曇りで肌寒い一日でした。

階段を上り与楽寺坂を下り右へ行くと、芥川龍之介旧宅跡の札が立っていて現在は住宅の工事中でした。大正3年から昭和2年までの13年間、この地に住み羅生門、鼻、河童等を執筆したとの事です。

坂を下り5分位で次の真言宗豊山派与楽寺に入りました。六阿弥陀第四番輿楽寺の詣標石が門の前にありました。弘法大師空海作の秘仏の地蔵菩薩が本尊です。家光から20石の朱印が与えられ10万坪の境内でした。

阿弥陀堂の扁額の金色の字が印象的でした。そして阿弥陀信仰は女性信者が多かったと聞きました。

又、5分位で次の田端八幡宮に着きました。文治5年(1189)に源頼朝が創建したとの事です。旧谷田橋に架かっていた石や富士塚を見ました。照宮茂子内親王(上皇陛下の姉君)の記念碑がわかりにくい場所にありました。本殿が平成2年に左派過激派により放火されたのも皇室に所縁のあったからではと推測されます。新しい本殿にお詣りをしました。

すぐ隣の別当寺である真言宗豊山派の東覚寺に移りました。

石仏仁王の二体に四角の赤紙が貼られて顔から足まで何も見えません。昔、足を病んだ婆の為に爺が、婆の病んでいる部分と同じ場所の仁王像の足に赤い紙を貼り七日七夜、願掛けをしました。満願当夜に夢枕に二体の仁王が現れ「阿」「吽」と叫び去って行き婆は全快したとの事です。東覚寺で赤い紙を買い願をかける信仰が続いています。

左にある立派な山門を潜りました。本堂の奥の右手に蜀山人狂歌碑がありました。彫りが消えかかりよく分りませんでした。竹の形の中に「むら雀(群雀)さわぐ千声もももこえ(百声)も鶴の林の鶴の一声」で幕府の言論統制を皮肉ったものです。

7から8分位、見学して広い通りに出て西に歩きました。

赤紙仁王通りと大きく表記してあります。日枝神社の特長のある鳥居を右手に見ながら進むと10時50分頃に法華宗大久寺に着きました。宝篋印塔の中に日蓮腰掛石が置かれていました。日蓮四大法難の一つで伊豆に流された日蓮が海の俎石に置き去りにされたところを漁師の弥三郎に助けられたとの事です。慶安3年(1650)の手水鉢の庚申塔がありました。猿の裸体の右の人物らしきものが気掛かりでした。こちらでは石像物を沢山見る事ができました。

5分間の見学で又、通りを進みました。木々の紅葉が美しく気持ち良く歩く事ができ3~4分で上田端八幡神社に着きました。この八幡神社も頼朝が奥州征伐の帰路に鎌倉八幡宮を勧請したのでした。上田端村の鎮守で大龍寺が別当寺です。

その真言宗大龍寺に11時頃に着きました。門も本堂も朱や金色が多くてきらびやかに感じました。葵の紋が目立っています。これは将軍が日光からの帰りに江戸に入る前に休息をとり衣装を直した事から紋を許されたとの事です。左手の石に大龍精舎と刻まれていました。精舎とは出家修行者がいる寺院、僧院の事です。広い墓地の一番奥の小さな竹林があります。その前に正岡子規の墓がありました。妹の律さんの小さな墓が右にありました。左の奥に糸瓜の飾りのあるレリーフの新しい説明板が建てられていました。糸瓜の水は痰を切るのに大切な水であったそうです。子規は短歌と俳句の改新に力を注ぎ人を育てました。残念なことに脊椎カリエスで35歳の若さで亡くなりました。子規の絶筆の三句がすべて糸瓜の句です。

糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな。     痰一斗糸瓜の水も間にあわず。   おととひの糸瓜の水もとらざりき。

北区立田端中学校の鉄筋の目を見張る立派な校舎を見ながら進み5分程で浄土宗円勝寺に着きました。入口に伊佐家の墓の説明板があり、佐藤元次郎の墓がありました。佐藤姓は彰義隊に入った時に名乗った仮姓です。幕府の茶事を務める伊佐三悦の次男で彰義隊に入り戦死しました。伊佐家は石州流茶道(片桐石州の祖)の流れを汲む数寄屋頭(茶道頭)で御三家や大名の茶事を扱っていました。

墓の右には辞世の歌が刻まれていました。「一筋に赤き心を立てとふし捨てる命ハ松ヶ枝の下」

聖学院の校舎が次々と現れしばらく行くと本郷通りに出ます。本日の楽しみな場所の旧古河庭園を目指しました。

田端高台通りの陸橋の傍に入口がありました。ここは明治の元勲、陸奥宗光の別宅の庭園でしたが後に次男が古河財閥の養子となり邸宅の古河家所有となったという訳です。65歳以上は70円で入園できました。洋館と洋式庭園は英国人のジヨサイア・コンドルの設計です。

日本庭園は奥の低地に造られ作庭者は京都の小川治兵衛です。薔薇も見頃で私たちを楽しませてくれましたが何といっても日本庭園の紅葉の見事な事に魅せられてしばし佇んで観賞しました。特に心字池に映えるハゼの木にはうっとりとしました。

25分間、見学してお手洗いも済ませ集合しました。お昼になりましたがもうひと頑張りです。上中里一丁目庚申堂を見ました。詳しい説明が付いていました。

路地を行くとすぐに真言宗豊山派の城官寺に着きました。山門の扁額の字は田中角栄のものです。なかなか堂々とした字だと皆で感心しました。本堂の屋根には鴟尾がありました。多紀柱山一族の墓が広い墓地の中にありました。多紀藍渓は安政年間(1772~81)に将軍の侍医となり子供の桂山も幕府の医官となりました。製薬所を設置したり多くの者を就学させたりし、沢山の医学書を残したとの事です。4面仏灯籠を珍しく眺めました。

多紀柱山一族の墓地です

階段の上に鳥居が見えて来ました。平塚神社へ入っていきました。平安末期の元永年間(1118~20)の創建と伝わっています。源義家が後三年の役(1083~87)に勝利して平塚城に逗留した際に鎧一領と守り本尊の十一面観音像を平塚氏に与えました。義家の死後に鎧塚を造り城の鎮守としたとの事です。これが城官寺の始まりだそうです。銀杏の木の黄葉がみごとでした。

東京病院の前を通り、国立印刷局東京工場を過ぎました。西ケ原一里塚を右に曲がり七社神社へと進み大きな鳥居をくぐりました。樹齢1000年以上と言われる杉の切り株が天祖神社として祀られて居ました。大日如来や千手観音の四仏と天照大神等の三神を合わせて七社神社と呼ばれています。孔子・孟子像もありました。最後には腹籠(ハラゴモリ)の椎を見ました。妊娠何ヶ月だろうかと云うと臨月では?という声も聞こえてきました。

元の一里塚まで戻って来ました。こちらは本郷追分の一里塚の次の一里塚で日本橋から二番目です。当時の場所に両側ともあるのはここだけと説明を聞きました。本当に道の向こう側にもこんもりと榎の木が立っていました。

直ぐに飛鳥山公園へと入っていきました。1時が近づいていました。お待ちかねの昼食の時間です。半分くらいの方は一軒の食堂、半分の方は持参のお弁当を頂きました。木曜日は冷え込んで辛かったですが美味しいお弁当を頬張り午後に備えました。

後編に続きます。

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