第二部五回  佃島・築地界隈を巡る(前編)

令和2年2月11日(火)、13日(木)、15日(土)の三日間お天気にも恵まれ巡る事ができました。都営日本橋駅10時に集合し5分~10分は早くスタートできました。

地上に上がると左手前方に郵便局の〒マークが見えました。日本橋郵便局です。交差点を渡りそちらに向かうと郵便発祥の碑がありました、イギリスの郵便事業を取り入れ前島密(ヒソカ)は明治4年(1871)に郵便制度を作りました。

首都高を潜り日本橋兜町へと入るとすぐに兜神社がありました。明治11年東京株式取引関係者が創建し昭和2年、現在地に移されたそうです。名所図会では牧野家の庭だったという事で源義家(朝臣)の兜を埋めて霊を慰める小祠を造ったとあります。

 

目の前に東京証券取引所のビルがあります。テレビで見かけるビルにちょっと興奮しながら進みました。周りは色々な証券会社のビルが立ち並んでいます。まさにここは日本経済の中心地なのです。

日本橋川に沿って歩くとすぐに鎧の渡跡がありました。やはり義家伝説で奥州征伐のとき鎧一領を海中に投じて風浪を鎮めたとの事です。江戸名所図会の風景は白壁の蔵が並び渡し船が往来していてとても味わい深いものです。

又くるりと廻り兜町の側に戻り日枝神社に入りました。こちらは山王御旅所で神輿三基が立ち寄る所でした。胸を張った江戸狛犬が印象的でした。

道を挟んで裏に別当寺の天台宗智泉院がありました。あの天海大僧正の発意により開かれたそうです。境内に宝井其角が住んでいたとの事です。猿の石仏は風化していました。地蔵菩薩は関東大震災の犠牲者の冥福を祈る為に日本橋魚河岸の人々が建立しました。

茅場町一丁目の永代通りのみずほ銀行角に其角住居跡の碑がありました。大高源五との関わりも思い出されます。

10時半過ぎに霊岸橋を渡りました。日本橋水門がありました。数分で河村瑞軒(賢)屋敷跡に着きました。伊勢の出で土木家です。明暦の大火の折、木曽より材木の買い付けで巨額の富を得たとの事です。後に大坂の治水の功を建てたという事です。

 

 

格調の有りそうなビラフォンティーヌホテルの前を通り新川大神宮の鳥居を潜りました。小ぶりの美しい紅白梅が迎えてくれました。こちらは霊岸島の産土神で大神宮、神明社と呼ばれています。鞭架けがありました、伊勢上人所縁の神社であり酒問屋の守護神としても崇敬されています。

霊岸島の交差点近くに梅花亭がありました。嘉永3年の創業です。私たちは以前、門前仲町の店でうすいどら焼きや幕末に作られたというアメリカ饅頭を買い求めました。こちらが本店ですが今回はお休みでもあり素通りしました。

亀島橋には瑞軒の土木、海運の功労者の説明板があり、亀島橋を渡ると堀部安兵衛の碑がありました。儒学者の細井次郎太夫の家に居り近所の子供に剣を教えていたとの事です。

すこし行くと小さな芭蕉句碑「菊の花 咲くや石屋の 石の間(アヒ)」がありました。この辺りは石屋が集まっていたとの事です。

鈴らん通りを抜ける手前に八丁堀与力同心組屋敷跡の説明板が立っていました。慶長17年(1612)頃から舟を通す堀が造られ河口から長さ8町(約860M)あった事から八丁堀と名が付きました。京華コミユニティールームシルバ人材センターの建物のまえです。与力は300~500坪、同心は100坪の拝領屋敷があったという事です。生活費を得るために文化人などの町民に貸していたそうです。

八丁堀駅前通りを行きました。東京湾クルージングという小さな舟が進んでいました。河津桜が咲いていて私たちの目を楽しませてくれました。そして埋められた八丁堀あとの下水道局の通路を眺めました。

高橋を渡り越前堀薬局を過ぎると11時半頃に於岩稲荷田宮神社に着きました。四谷怪談の主人公「お岩」を祀った社です。紋は陰陽勾玉巴です。歌舞伎俳優の初代市川左団次の所有地で明治2年歌舞伎役者の願いを受けて創建したとの事です。

5~6分で江戸湊発祥の地に着き水辺の風景が広がっていました。慶長年間、幕府が江戸湊を築港し水運の中心地としました。昭和11年までは伊豆七島などへの航路の出発点として賑わったいたそうです。金の錨が目立っています。

南高橋を渡りました。関東大震災で被災した両国橋の鉄橋を利用して架けたという事です。鉄砲州稲荷神社に着きました。八丁堀の産土神で稲荷番付では西の横綱と聞き私たちもしっかり拝見しなくてはと力が入りました。しかし一番印象に残ったのは富士塚で広重の絵にも描かれています。どなたかが登りたいとおっしゃっていましたが、残念ながら今は禁止されています。お供え物の立派さに驚きながらお詣りをし繆斌(ミユンヒン)慰霊碑(孫文主義の発起人で大東亜戦争の終戦工作を試みた人物)を見上げました。

丁度12時頃に佃島渡船場跡に着きました。佃の渡しの渡賃は一人50文(漁師はただ)で明治9年には5厘となり「5厘の渡」と呼ばれました。

昭和38年に佃大橋の完成により廃止されました。その佃大橋を渡りました。しっかりと区切られた歩道があり車道も広く感じました。左手にはスカイツリーが見えています。右には勝どき橋が見えました。

10分位で月島西中通りの商店街に着きました。もんじゃ焼き屋さんが両側にずらりと並んでいました。迷っていると会員さんの詳しい方が有名なお店に案内して下さいました。人気メニューのもんじゃ焼きを美味しくいただきました。

後編に続きます。

 

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