第十回 江戸名所巡り 浅草・上野界隈(後編)

 

13時20分頃からお昼を済ませて、下町風俗資料館を見学してから集合しました。火曜日の方は生憎、休館日と重なり申し訳ありませんでした。戦前、戦後まもない昭和の庶民の生活を垣間見ることが出来ました。懐かしいという方が大半でしたが、中には思い出したくないという方もいらっしゃいました。

不忍池の枯蓮の無残な風景を見ながら日向ぼっこをされている方もいらっしゃいました。14時半近くから午後の部のスタートです。前々回(第八回)千住界隈で訪れた曹洞宗円通寺に移された寛永寺の黒門をイメージしたモニュメントがあり黒門の弾痕跡を思い出しました。

上野公園の中に入り西郷像を見上げました。高村光雲作で愛犬のチンは東京美術学校の弟子の作との事です。

黒門のモニュメントのそばに彰義隊戦死の墓がありました。墓の正面の小さな墓石は埋葬場所から発掘されたものです。

清水観音堂の隅に秋色桜の碑を見ました。日本橋菓子屋の娘(9歳)の句を枝に結び付けて置いたのを輪王寺宮が感嘆し、この桜を秋色桜と名付けたといいます。秋色女はお秋の俳号で其角に学んでいたとの事です。その句は「井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔」筆者は花の季節に訪れた事がありますが、それは美しいべにしだれ桜でした。

清水観音堂へ入って行きました。国の重要文化財です。擬宝珠は日本橋のものと同じ作者との事です。天海が京都の清水寺を模して擂鉢山に建立しました。月の松は平成に復元されたものです。清水観音堂から月の松を通して不忍の池を見るのを江戸の人々も楽しんでいたのでしよう。

そして前方に進みますと琵琶湖に見立てた不忍池の真中にこれも竹生島に見立てた弁天堂がありました。しかし、こちらの弁天様は江ノ島から勧請した事が紋で解りました。


 

奥の院には聖天を祀っていました。江戸時代、中国の朱子学が盛んだったことからだろうと講師が説明しました。

鳥塚、ふぐの供養塔、包丁塚等があるのは不忍池が殺生禁断の場所だったことで、殺生をしなければいけない職業の人たちが供養塔を建てたとの事です。

花園稲荷神社には五条天神(医薬の神様)や穴稲荷がありました。山を追われた狐たちを哀れに思い天海上人が穴を掘り住処とさせたそうです。私たちはその穴を見てお詣りをしました。小さな狛狐が可愛いと眺めました。

火曜日は予想外に小雨が降りだしました。浅草の鐘より余韻が美しいといわれる時の鐘を見上げながら次へと進みました。

2〰3分で上野大仏とパゴダに着きました。建立当時は6メートルあったという大仏様は地震や火事で頭が落ち大東亜戦争での供出等で顔のみとなったのです。昭和43年にパゴダが建立されこれ以上落ちないとして合格祈願が多いそうです。

お化け燈籠は約7メートルもあり駿府城勤番の佐久間大膳(1万8千石)が寄進したものです。

東照宮へと入って行きました。牡丹園では寒牡丹の展示がされていましたが私達は先を急がなければなりませんので望遠で撮って先に進みました。

正面の金の唐門の両側に立派な青銅の燈籠がありました。一段と大きな燈籠は御三家からのものです。五重塔が西日に輝いていました。くろがねもちの赤い実がたわわに残っていて皆の目を引いていました。

数分で広い通りに戻りました。子規球場が少し見えていました。ベースボールを野球としたのは正岡子規だという事は有名ですが、ではどうしてでしょうかと講師が尋ねました。子規の本名はノボルだったからです!皆さん、笑いながら納得したのでした。

国立博物館が見えてきました。野口英世の像があります。中央の広い場所は、寛永寺の根本中堂があった場所で噴水が出来ています。

大きなシロナガス鯨のモニュメントを過ぎると両大師開山堂がありました。慈眼大師天海と慈恵大師良源(平安時代の天台宗の僧で厄除け角大師)が祀られています。右に曲がると小さな門は幸田露伴宅の門で谷中にあったものを移築したものです。その門を潜り本坊の表門を見ました。上野戦争の砲弾跡があります。小さい物、にぎり拳くらいの大きな跡等が生々しくて胸がつまりました。この山門は寛永年間のもので国立博物館の建設で現在地に移転しました。

国立博物館の道路をはさんで隣りに、鳥取藩池田家の江戸上屋敷の正門が移築されていました。こちらは以前国立博物館の正門として使用されていたとの事です。この威風堂々とした門こそふさわしいのにと残念に思いました。

京成電鉄の古い駅跡を見ながら右に曲がりました。子供図書館を過ぎ5分位で現在の天台宗寛永寺に入りました。

根本中堂と大きく書かれているのが本堂です。こちらは東叡山寛永寺根本中堂、あの比叡山延暦寺も本堂を根本中堂という事に気づきました。川越の喜多院の本堂を移築したもので葵の紋が金色に輝いていました。上野戦争碑記が大きく建てられていました。丸い石の虫塚は昆虫類の写生画家の増山雪斎が写生に使った昆虫を埋葬慰霊したものです。

まもなく寛永寺霊園の立派な門が見えてきました。外からしか感じ取れませんが一の御霊屋に四代将軍の家綱、十代将軍の家治、十一代将軍の家斉が葬られています。二の御霊屋には五代将軍の綱吉、八代将軍の吉宗、十三代将軍の家慶、その他に天璋院篤姫の墓もあります。

盛り沢山の訪問がやっと終了しました。スカイツリーが夕日に浮かんでいます。火曜日は少人数でしたので4時に、木曜土曜は4時半に鶯谷駅に着き解散しました。

浅草も上野も親しみのある場所でしたが知らない所があまりにも沢山ありました。皆様、大変お疲れさまでした。江戸名所巡りも今回で10回を無事終えることが出来ました。ありがとうございました。

寒晴れや敬天愛人西郷さん    豊治

 

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