平成28年10月、高崎よりスタートした上道はいよいよ最終回を迎えました。
まだまだ残暑の厳しい9月18日(火)、曇り空の22日(土)モノレール湘南深沢駅を10時に出発しました。
モノレールの下を真っすぐに暫らく歩きました。洲崎古戦場碑がありました。足利尊氏の妻、登子の兄の赤橋守時がここで新田方の堀口貞満、大島守之率いる軍勢との激戦で敗れ自刃しました。碑の足元に彼岸花が咲き始めていました。
モノレールから別れて南下して行きます。臨済宗の大慶寺に着きました。
樹齢700年以上の柏槇が宝塔の両脇にありました。鎌倉末期と言われる小振りの宝塔二基を見ました。
東光寺の鎮守である駒形神社の鳥居を潜りました。石段を上がりお詣りをしました。駒形神社は関東から東日本に多い神社で馬を保護する霊験を尊んで祀るのが駒形信仰とうことです。
奥の赤い鳥居の向こうにやぐらがいくつもありました。やぐらの中に馬頭観音がありました。とても鎌倉らしい風景です。
すぐ側の高野山真言宗東光寺に入りました。本尊の不動明王は平安時代の物と伝わっています。弘法大師御修行像があり私たちは左廻りに四国八十八ケ所のお砂踏みを体験致しました。
街道がとぎれているという方向を眺め梶原1丁目の辺りを歩き進みました。梶原御霊神社に着きました。ぼたんの花を加えている優雅な狛犬を見ました。これは江戸狛犬という事です。
桓武平氏の流れの鎌倉景久が梶原村に住み梶原氏を名乗りました。梶原景時は頼朝の死後に殺害され一族は滅びました。しかし現在も神社として祀られ地名として残っています。石段を上がると景時公没800年忌供養塔があり、秋の供花がちやんと供えられてありました。
さて、ここ梶原1丁目辺りは寺分大工谷といわれ鎌倉時代に大慶寺を修繕した工匠が住んでいたとの事です。寺分という地名で残っています。
長い昇り坂がずうっと続いていました。鎌倉街道は尾根道が多いからだと講師は説明します。
こもれび広場という公園に着き持参のお弁当を広げました。久しぶりのお弁当の美味しいこと。土曜日はしつこいカラスに悩まされました。お菓子を取られた人も、、、。
40分位、休憩しました。広場の中に藤原仲能の墓があり、説明がないとまったく分からないこんもりとした所に木があるだけのものでした。
目の前の葛原岡神社をお詣りしました。桓武天皇の王子の葛原親王の御霊を祀っていましたが、その後、梶原1丁目に移され御霊神社になりました。左手の方に合槌稲荷社というおもしろい名前の神社がありました。これは鍛冶屋さんが向かい合って槌を打つ事からきている名前で、鍛冶屋さんが信仰しました。現在は夫婦円満の神様です。
元弘2年(1332)に元弘の変の首謀者として日野俊基がこの地で斬首されました。終焉の地の碑がありました。1332年6月3日とありました。
尾根を断ち切って造った大堀割を見ました。
ほんの少し行くと日野俊基墓入口とありました。明治17年従三位を追贈された折に室町時代の石を寄せ集めて建立したとのことです。苔むしていて、とても趣きがあり哀れを感じました
急坂を下ると銭洗い弁天があります。頼朝に宇賀福神の夢のお告げがあり、この地の湧き水があったので祀ったとの事です、鎌倉五名水の一つでお金を洗うと何倍にもなるというのは本当でしようか。火曜日には大きな御札を洗った方がいらっしやいました。どうか何倍にも増えます様に。
いきなり広い原っぱの奥に頼朝像があり鎌倉の地を見下ろすかのようでした。
最後の日に相応しい記念撮影をしました。
さて、いよいよ本日の難所の化粧坂を下ります。土曜日は前日が雨でしたので滑りそうでおそるおそる下りました。新田義貞はここから攻めるのを断念して海に廻ったと言われています。何とか全員の方が無事に下ることができました。