鎌倉街道上道 第二十回 深沢から鎌倉

平成28年10月、高崎よりスタートした上道はいよいよ最終回を迎えました。

まだまだ残暑の厳しい9月18日(火)、曇り空の22日(土)モノレール湘南深沢駅を10時に出発しました。

モノレールの下を真っすぐに暫らく歩きました。洲崎古戦場碑がありました。足利尊氏の妻、登子の兄の赤橋守時がここで新田方の堀口貞満、大島守之率いる軍勢との激戦で敗れ自刃しました。碑の足元に彼岸花が咲き始めていました。

モノレールから別れて南下して行きます。臨済宗の大慶寺に着きました。

樹齢700年以上の柏槇が宝塔の両脇にありました。鎌倉末期と言われる小振りの宝塔二基を見ました。

東光寺の鎮守である駒形神社の鳥居を潜りました。石段を上がりお詣りをしました。駒形神社は関東から東日本に多い神社で馬を保護する霊験を尊んで祀るのが駒形信仰とうことです。

奥の赤い鳥居の向こうにやぐらがいくつもありました。やぐらの中に馬頭観音がありました。とても鎌倉らしい風景です。

すぐ側の高野山真言宗東光寺に入りました。本尊の不動明王は平安時代の物と伝わっています。弘法大師御修行像があり私たちは左廻りに四国八十八ケ所のお砂踏みを体験致しました。

街道がとぎれているという方向を眺め梶原1丁目の辺りを歩き進みました。梶原御霊神社に着きました。ぼたんの花を加えている優雅な狛犬を見ました。これは江戸狛犬という事です。

桓武平氏の流れの鎌倉景久が梶原村に住み梶原氏を名乗りました。梶原景時は頼朝の死後に殺害され一族は滅びました。しかし現在も神社として祀られ地名として残っています。石段を上がると景時公没800年忌供養塔があり、秋の供花がちやんと供えられてありました。

さて、ここ梶原1丁目辺りは寺分大工谷といわれ鎌倉時代に大慶寺を修繕した工匠が住んでいたとの事です。寺分という地名で残っています。

長い昇り坂がずうっと続いていました。鎌倉街道は尾根道が多いからだと講師は説明します。

こもれび広場という公園に着き持参のお弁当を広げました。久しぶりのお弁当の美味しいこと。土曜日はしつこいカラスに悩まされました。お菓子を取られた人も、、、。

40分位、休憩しました。広場の中に藤原仲能の墓があり、説明がないとまったく分からないこんもりとした所に木があるだけのものでした。

目の前の葛原岡神社をお詣りしました。桓武天皇の王子の葛原親王の御霊を祀っていましたが、その後、梶原1丁目に移され御霊神社になりました。左手の方に合槌稲荷社というおもしろい名前の神社がありました。これは鍛冶屋さんが向かい合って槌を打つ事からきている名前で、鍛冶屋さんが信仰しました。現在は夫婦円満の神様です。

元弘2年(1332)に元弘の変の首謀者として日野俊基がこの地で斬首されました。終焉の地の碑がありました。1332年6月3日とありました。

尾根を断ち切って造った大堀割を見ました。

ほんの少し行くと日野俊基墓入口とありました。明治17年従三位を追贈された折に室町時代の石を寄せ集めて建立したとのことです。苔むしていて、とても趣きがあり哀れを感じました

急坂を下ると銭洗い弁天があります。頼朝に宇賀福神の夢のお告げがあり、この地の湧き水があったので祀ったとの事です、鎌倉五名水の一つでお金を洗うと何倍にもなるというのは本当でしようか。火曜日には大きな御札を洗った方がいらっしやいました。どうか何倍にも増えます様に。

いきなり広い原っぱの奥に頼朝像があり鎌倉の地を見下ろすかのようでした。

最後の日に相応しい記念撮影をしました。

さて、いよいよ本日の難所の化粧坂を下ります。土曜日は前日が雨でしたので滑りそうでおそるおそる下りました。新田義貞はここから攻めるのを断念して海に廻ったと言われています。何とか全員の方が無事に下ることができました。

 

 

中道の大仏の切通しを苦労して下ったことを想い出しました。

緩やかな下りを進むと右手に景清土牢跡がありました。平氏の侍大将で平家滅亡後も生き延びたとの事です。

鎌倉らしい静かな道を進むと臨済宗建長寺派の海蔵寺に着きました。

まるで萩寺のように萩が豊かに垂れていました。鎌倉十井の一つの底脱の井がありました。又弘法大師が掘ったと言われる十六の井も暗い場所に清い水をたたえてありました。

線路沿いに歩きました。十六日記の著者である阿仏尼の墓がありました。

冷泉為家の側室で息子の為相の相続を認めてもらう為に60歳近くの母が京から鎌倉を目指しました。

同じ街道沿いにある浄土宗英勝寺に着きました。鎌倉に残る唯一の尼寺との事です。300円の拝観料を支払い庭を鑑賞しました。尼寺だけあって所々に配置された花や石の置物にも、竹林と共に心ひかれました。開基の英勝尼は太田道灌の末流の娘で家康の側室のお勝です。関ヶ原、大坂の陣には家康に従ったといいます。

鎌倉五山の三位である寿福寺に入りました。門を潜ると長い参道が美しく、心が和みます。頼朝の父の義朝の館があったと言われています。

本堂の方には入る事が出来ず政子と実朝の墓へと進みました。

ずっと奥のやぐらの中にあり母と子は少し離れた場所に供養されていました。

やぐらの中の墓がずらりと並んでありました。

叉、こちらには虚子の墓もやぐらの中で、幼くして亡くなった娘さんのものが両脇に小さくありました。毎年4月8日の命日には寿福寺内で句会が開かれます。

叉、大仏次郎の墓は向かって左手の方にありました。

八坂神社は相馬師常が京都の祇園社を勧請したとのことです。

少し進み岩窟不動尊の小さな祠にお参りしました。本尊は弘法大師作といわれていますがどうも新しいとの事です。。右手にコーヒーシヨップがあり良い香りが漂っていました。

火曜日は川喜多邸は休みでしたが土曜日は人の出入りがあり賑わっていました。

映画製作者で妻のかしこは日本映画の母と呼ばれているそうです。記念館は和風モダンな建物で鎌倉の雰囲気にとて合っていました。又、敷地内にある旧別邸(江戸後期の物)は和辻哲郎氏の居宅を東京から移築したとの事です。

道の曲がり角に鉄の井がありました。この井戸から鉄観音の首が掘り出され安置されていましたが現在、日本橋人形町の大観音寺の本尊となっています。江戸名所巡りで立ち寄りまだ記憶に新しいことです。

道を曲がると八幡宮の脇の通りです。3時少し過ぎた頃、とうとう鶴岡八幡宮までやった来ました。

土曜日は婚礼が何組もとり行われていました。赤橋を渡り源平池の蓮の葉の繁りを見、茶色の蓮の実もできていました。

流鏑馬道を眺め、御手洗いもお借りしました。舞殿で結婚式が行われていました。

大銀杏の場所を見ながら石段を登りお詣りをしました。二年間、無事に歩いてこられた事に感謝しました。

鶴亀石や、権現造りの若宮がありました。最終回は、ここで終わらず左に折れて北条氏終焉の場所を目指しました。

彼岸花がとても綺麗です。宝戒寺は後醍醐天皇が執権の北条氏の霊を慰める為に高時邸の地に足利尊氏に命じて建立させたものです。入口だけ拝見して次に進みました。

滑川にかかる東勝寺橋から見た石垣はまるでお城のように続いていました。

そして広い空地がありました。ここで北条高時に従った千人もの人々が最後を迎えました。恐ろしい名前もそのままの腹切りやぐらを少し離れた処から見ました。

そうして、八幡宮まで戻って来ました。段葛が何事もなかったかのように明るく海へ延びています。

少し早めですが打ち上げ会場に入りました。

上道は新田義貞が攻め上った道として有名ですが、私たちはゆっくり2年をかけて鎌倉に到着しました。また、元気に再会できますように。様々な思い出を胸に別れを惜しみながら解散しました。皆様、大変お疲れさまでした。そしてこのブログを読んで下さった皆さま、長い間本当に有難うございました。

 もののふの都に曼珠沙華白く

 萩の花揺らすは魂の風らしき    慶月

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