昼食の神田薮蕎麦を味わい、さあ午後の部のスタートです。
神田須田町から15,6分掛けて元の岩本町まで戻りました。弁慶橋跡とありました。あの弁慶ではありませんよと講師が言いました。江戸城普請の大工の頭領弁慶小左衛門がここの掘割に架けた橋です。明治18年に川は埋められ必要がなくなったので廃材を利用して22年に赤坂見附の外堀に架けられ、現在も赤坂に弁慶橋の名が残っています。
明治になって出来た町名の鞍掛橋の交差点を渡ります。次に馬喰町の交差点も進みます。
新日本橋交番の横に郡代屋敷跡の説明板がありました。勘定奉行が関東郡代を兼ねてこの地に居住した時代もありました。
浅草橋の袂に浅草見付がありました。ここでお手洗いの休憩をとりました。
14時過ぎ吉徳の人形のシヨーウインドーを眺めました。江戸最古の人形店で1711年、三河出身の吉野屋が創業しました。明治に吉徳に変更したとの事です。
久月は1835年、武州足達出身の横山家が雛人形の正札販売を始めました。
2,3分で銀杏岡八幡神社に着きました。源頼義、義家が奥州平定へ向かう折、隅田川に流れてきた銀杏の一枝を岡の上に刺して願ったとの事です。都に凱旋する折、その枝が大きくなっていたので太刀一振りを捧げて八幡宮を勧請したといいます。
第一回の日本橋界隈であった店は兄弟が出したという事で、こちらが本店との事です。買い物をすることもなく急ぎ進みます。
直ぐにすがすがしい神社の須賀神社へと入りました。スサノオノミコトと稲田姫が結婚した場所が須賀との事でです。土曜日は御祭りで出店で賑わっていました。
10分位進むと第六天榊神社に着きました。この辺りは米蔵が集まっていた場所で、ここに幕府の学問所と将軍の文庫の書籍を移し、明治に公立図書館を日本で初めて造ったとのことです。
2時半を回ったころ、ここで15分位西に歩きました。私達は疲れを感じていたのですが講師は皆さんに是非見て頂きたい所だというのです。
その場所は鳥越キリシタン殉教記念碑でした。慶長8年(1603)来日した宣教師ルイル・ソテーロが家康に謁見し八丁堀に聖堂と修道院を建て宣教を行った。浅草にもハンセン病院と小さな聖堂を建てました。9年後、直轄領のキリシタン信仰禁止令が出て翌年の慶長8年には、ここの信者たちは小伝馬町の牢に入れられ28名が処刑されたという殉教の歴史があったのです。
マルコ喜左衛門、シモン彦左衛門、ヤコブ弥四郎、ダミヤン茂助、、、、悲しくも堂々と散って逝かれた名前です。ビルの手前に現在の教会の十字架が小さく見えました。
15時、小さな甚内神社の前を通りました。高坂甚内は武田家の再興を図り江戸を乱したという罪で罰せられます。
甚内には瘧(マラリア)の持病があり発作が起きている所を捕えられました。処刑の際に瘧(マラリア)で苦しむ人が我を念ずれば治してあげようと言い残したそうです。旗本の家に祀られ多くの人が参拝したそうです。
直ぐに鳥越神社に着きました。前九年の役で源頼家父子がこの辺で陣をはっていて、水鳥が対岸へ渡る姿を見て大川の浅瀬を無事に渡ることができました。付近の白鳥大明神を鳥越大明神と改め地名も鳥越としたとの事です。
江戸時代より蔵前で営む蛇善の前を通りました。明治17年にこの場所で商うようになり、その名前たちを見てぎょっと致しました。動物性の漢方薬でマムシをはじめ蛇の数々、赤蛙、ムカデ、猿頭や狐の舌等々は何に効くのでしようか。
旧浅草蔵前には天文台跡がありました。天明2年(1782)高さ9・3メートルの築山の上に5・5メートル四方の天文台が築かれ観天儀で天体の角度を測定したそうです。あの伊能忠敬も学んだところです。
蔵前をどんどん橋の方へ歩きました。河岸を埋めて櫛形に船着き場を設けました。年貢米を収納する幕府の米蔵が建てられていました。一瞬スカイツリーが大きくはっきり見える場所がありました。
首尾の松とは寛永年間に隅田川が氾濫した時に家光の前で譜代大名の阿部豊後守忠秋が馬で激流を渡ったので、かたわらの一本の松を首尾の松として賞したという事です。その後は吉原通いを舟で渡る游客がその首尾をこの松に願ったそうです。現在の松は七代目という事です。
通りの反対側に廻り首尾の松の向かい側に来ました。浅草橋御倉跡碑がありました。幕府の御米蔵がすらりと並んでいたのです。
15時40分、本日最後の楫取稲荷神社に着きました。米蔵造営の石を熊本から運んでいたのですが遠州灘で海が荒れ遭難しそうになった際、稲荷の御加護で安全に航海できたのでここに勧請したとの事でした。
お狐はかなり風化していて金網に包まれていました。16時頃、本日の40ケ所を全部巡り終え蔵前駅より帰路に着きました。
今回は余りにも多くの物を見聞し少々頭の中が混乱しております。皆様、大変お疲れ様でした。
「日本の真中の路地や茄子実る」 幸子