5月8日(火) 19日(土)10時に町田交番前の絹の道の道標前よりスタートしました。8日は小雨には降られましたがだいたい順調に歩く事ができました。
ちよっと賑やかな商店街を通ります。町田では評判の乾物屋を商う店の前も通ります。西の新宿と言われたりもしますが、とても便利な街です。
旧称は菅原神社でしたが昭和39年飯縄神社、日枝神社を合祀して町田天満宮となりました。牛を撫で七福神の境内社、赤い鳥居の出世稲荷にもお参りしました。毎月1日は骨董市で賑わいます。
金森の住宅地の鎌倉街道だとされている道路を進みます。
10時半過ぎに金森杉山神社に着きました。祭神は日本武尊で多摩川の西から鶴見川本流・支流の間に多く分布しています。多摩川から東側から元荒川までは氷川神社、元利根川以東は香取神社が多いと説明があり地図を見ながら成程と思うのでした。
庚申塔、日待塔、道祖神、光専神の古い石造物が並べられていました。光専神は咳の神様としてお参りしたと言われています。
又、太平洋戦争で米軍がこの樹を目標に降下し、厚木飛行場を空襲したという御神木を見ました。
10分位で天満宮の階段を上がりました。江戸時代には「時宗久保」との地名で呼ばれていたとの事です。小さな宮の横に有名な「東風吹かば」の石碑がありました。
水分補給をして又、出発しました。鶴金橋の信号を渡ります。鶴間と金森の境の橋という事です。
三回廻って祈願すれば成就するという銀杏の木がありましたが、その様な時間を与えられず、せめて手を触れて大木から気を貰いました。
11時半近くに曹洞宗の常楽寺に着きました。本尊は平安時代の阿弥陀三尊という事です。
数分で八坂神社につきました。宮司は町田市能ケ谷の池田氏でこの方は能ケ谷神社や杉山神社など幾つもの神社の宮司をなさっています。
柏の葉の若葉も美しく茂っていました。若い葉が出てから古い葉が落ちる事から子孫を継ぐという意味で、五月の端午の節句の柏餅の葉はこれでなければならないとの事です。
熊野神社には11時45分頃に着きました。これまでの小振りな神社と違い権現造りの屋根の青と柱の赤も新しく、石畳のある境内もゆったりとしていました。この辺りの地形が熊野那智大社の地形に似ている事から勧請したとの事です。
12頃に昼食を取るフアミリーレストランのココスが見えて来ました。注文してから料理が来るまでちよっと時間がかかりましたがボリユームのある昼食を頂きました。1時にはスタートしました。
2019年度に向けての南町田拠点創出まちづくりという工事が進行中でした。
鶴間小学校を過ぎ川沿いを歩き鶴瀬橋を渡り古義真言宗の観音寺に着きました。
昔は金亀房と呼ばれていましたが宝暦年間に観音堂を建て安置した後、この辺りの大火を免れたので寺号を観音寺と改めたという事です。
塀伝いに進むと新田義貞公鎌倉進撃路の看板が立っていました。上道はまさに鎌倉進撃への道だったのです。
しばらく進むと高札場がありました。慶応4年切支丹の禁止を定めたものが中央の物です。下鶴間村のこの辺りに建っていたとのことです。
大山道(矢倉沢往還)に「是より西大山七里という鶴間村宿の道標がある旧家を見学しました。新田氏所縁の高下家で義貞が剣を捧げている銅像や、入口には阿夫利神社分霊社がありました。
新田軍の大きな進撃路も示されており、私達の歩いた道をおさらいの様に辿って眺めたりしました。阿夫利神社分霊社に今、お参りすると雨が降ると困るので入りませんでしたが、なかなか立派な注連飾りでした。
境川を渡ると五貫目道祖神がありました。元の場所は現在地より300メートル西方の境川橋手前に祀られていて北は世田谷・青山、西は伊勢原・小田原、南は戸塚・鎌倉に通ずる三方分岐点として旅人の道標となっていた道祖神でした。二代目とは云え、とても古そうにみえました。
1時過ぎに厚木街道の横を通り産廃処理業の多い場所を歩きました。日経新聞の横浜別館の大きな建物がありました。
車用と人用の隧道を抜けると若宮八幡神社に着きました。稲荷社には鈎を加えた狐の紋が彫られていました。
2時30分過ぎに歩いた所は、瀬谷から相沢に抜ける場所を牢場坂と呼ばれていました。1449~52年、上杉定正の家臣の山田氏が居を構え牢獄を置いた事から名付けられました。
山田氏が隣村の恩田村万念寺の和尚との賭けに勝ち、梵鐘と半鐘を得たということです。
その時の鐘を持ち帰る際に一つイボが擦り減ったという跡も見て、私達は半信半疑で眺めたのでした。
力士荒磯の記念碑がありました。日清戦争で力士義勇軍として従軍した伊勢ノ海部屋の力士でした。
鷹匠長田白政の立派な墓がありました。源義朝の殺害に直接かかわっていませんでしたが子孫が家康の鷹匠を務め、永井氏と改めるようにと云われ後には大身の旗本になりました。
3時頃、北向き観音堂に着きました。小さなお堂の中に7体の石地蔵が向き合っていらっしゃいました。
近くに浄土宗善昌寺がありました。こちらも瀬谷八福神の一つです。
善昌寺の金の字が光っていました。室町時代の1533年に開山しました。甲斐源氏所縁の岩崎氏が一族を弔うために建立しました。三菱の創始者の岩崎弥太郎もこの一族という事です。
中屋敷跡は公園になっていました。この辺りは緑が多く、大きな屋敷がありました。竹製の塀が長い屋敷があり瀬谷銀行跡とありました。昭和10年鎌倉銀行と合併し16年に横浜銀行に統合されたとの事です。
中屋敷地蔵尊を見て、おもむきのある中屋敷町の通りを歩きました。静かな緑陰の中を進みます。鎌倉街道歩きをしていて嬉しい時を感じる瞬間です。
右手には木造の名主らしき家もありました。名木の欅が何本もあります。市民の散策コースとして親しまれている、この場所に河津桜やミカイドウ、カルミヤを植樹したとの大きな標記がありました。
しばらくして瀬谷神明社に着きました。神殿の屋根に特長があり鞭掛けが突き出している場所を見てたしかめました。
西南の役から太平洋戦争までの241柱が刻まれた忠魂碑がありました。台座は相模国分寺の礎石を譲りうけたとの事です。大正5年の内閣総理大臣寺内政毅の書です。
10分位で日枝神社がありました。拝殿の正面を支えている柱の表面が真っ平でなく内側に三角に刻みこまれている几帳面です。
樹齢300年とも400年とも言われている欅がありました。太平洋戦争の時にこの樹を目標に突入の訓練をし特攻隊で生き残った方がここで戦友を偲んでいるそうです。
金網に囲まれて見え辛かったですが大門大六天の篆書の碑が珍しいものでした。
次に曹洞宗の徳善寺に入りました。六地蔵は山門の脇にありました。二体ずつ三基の六地蔵は大変珍しいとのことです。
平成門との額のかかる大きな門をくぐりました。
義民の碑は税額の不当を訴え明治7年から5年間、裁判で戦った村民の徳を碑として建立しました。
アメリカ軍が3キロに渡って造った海軍道路を横切って瀬谷駅に向かいました。
到着は4時を過ぎていました。相鉄線瀬谷駅には4時15分に着き、町田方面と横浜方面に向かう人に別れました。
前回より幾分、楽ではありましたが長丁場を頑張りました。
皆様大変お疲れ様でした。