江戸名所巡り 第一回 日本橋界隈

 

 

弥生三月、いよいよ江戸名所巡りが始まりました、歴史的な物に触れながら安藤広重名所江戸百景と江戸名所図会を巡る第一部の16回です。老舗での食事や買物も計画に入れているというお楽しみ満載の旅にさあ、御一緒いたしましよう!

3月20日(火)22日(木)24日(土)総勢50名近くの皆様と東京駅日本橋口を出発しました。広場でご挨拶をした後、北町奉行所跡を見ました。芝笹の中に当時の石が置かれ同心や与力の話を聞きました。細い通路の左植え込みには、珍しい黒文字の木があり鑑賞しながら通り抜けました。

工事中の壁面は、1950年代のゴジラ展で第一作目からのポスターが飾ってありました。筆者が見たのはモスラ対ゴジラでザ・ピーナッツが主題歌を歌っていたのが印象に残っています。

常盤橋門跡は未だ修復工事が終わらずに渋沢栄一像だけが目立っていました。幕府崩壊後、外堀に架かるこの常盤橋の御門を残す為に尽くしたとの事で、没後に銅像が建てられたそうです。

常盤橋を渡り、この辺りからの眺めという広重の絵を見ました。

橋を渡った先は一石橋がありました。江戸時代、北橋詰には金座御用の後藤家で南詰には幕府御用の呉服所の後藤家があり、それをもじって五斗と五斗で一石橋と呼ばれ、にぎやかなこの場所には迷子しらせ石柱が建てられていてその名残が偲ばれます。迷子についで溺死も多かったとの事で胸が痛みます。

橋を渡り金座跡へと戻りました。現在の日本銀行です。上空から見ると円という形になっているのが有名ですが、明治時代にバロック式とルネッサンス的意匠を加えた建物との事です。こちらも工事中でした。

向かい側に貨幣博物館があり20分位見学しました。オリンピックが近付きセキュリティが大変厳しくなっていて驚きました。分銅金、天正、慶長大判の本物を観、また千両箱など持ち上げる体験をしました。

延命地蔵の前を通り栄太郎本舗を見ながら進みます。1818年、初代が孫を連れて飯能横町から江戸に出てきたのが始まりとのことです。

漆器屋の黒江屋の二階には日本橋の擬宝珠1658年のものが展示されています。近江から京都に出て萌黄色の蚊帳で成功した西川のビルも見えてきました。

 

日本橋に出ました。美しい字体が見えます。徳川慶喜筆との事です。

桜が咲き始めて何とも華やかな気分にさせてくれます。しかし橋の手前には江戸時代の曝し場があったとの事です。日本道路元標があり、現在は七つの国道の出発点となっています。高札場は石造で瓦屋根で立派に標されてありました。

橋を渡ると日本橋魚市場発祥の地の石碑と乙姫さまのふくよかな像があります。晒し場の対岸に魚市場とは何とおおらかな時代だったのかと感じてしまいます。関東大震災後は現在の築地に移ったそうです。

昔の駿河町にはちゃんとスルガ銀行があります。向かって左手をまず進みます。

伊勢松阪から出て来た三井高利が小さな呉服店を開き、次々と商法を打ち出した越後屋跡に三越があります。イギリス製のライオン像を撫でて、イタリア製の大理石の中のアンモナイトの化石を見ました。現在本館の建物は国の重要文化財に指定されています。

そこで資料にある越後屋と三井両替店との間から富士山がある広重百景の一枚を私達は現在の石造のビルに重ねて眺めました。

千疋屋は1834年に埼玉県千疋村の弁蔵が果物と野菜を安く商った店です。現在は日本一お高いかも知れません。

お向かいの通りも老舗揃いです。日本一よく切れるという刃物の木屋は1792年、鰹節のにんべんは1699年創業。勝男武士とも読めるので武士の進物によく利用されたとのことです。山本海苔店は明治に入り味付け海苔を考案し山岡鉄舟が明治天皇へのお土産にしたという話があります。

角を左に折れると三浦按針屋敷跡があります。領地の三浦からこの姓を名乗ったとの事で家康の外交顧問をしたとの事です。

細い路地に入り現在まで続く日本最古の弁当屋で代表的なお弁当を受け取りました。愛之助さんのサインがありました。1080円、お昼が楽しみです。

神茂も1689年の創業です。佃煮の鮒佐も角にあり「家業に誠実たれ」を家訓としています。

どんどん細い路地を行きこじんまりとしていて明るい「さるや」という楊枝の店にも心を惹かれました。猿は歯が白いという話に私達は本当かしらと驚きました。

とよ田という割烹の高級そうな店構えをながめました。

12時を廻っていました。火曜日は雨の為にお弁当を持ち帰る事にし、思い思いの店を選び昼食を取りました。筆者は小さな麦とろ定食の店に入りました。他の日は福徳神社と薬祖神社のあるコレド室町の広場で弁松のお弁当をいただきました。

味が少し濃くてさすがに魚河岸で働いた人たち向けの味だと感じます。

1時過ぎに午後の部がスタートしました。薬祖神社の建物は新しくこのコレド室町の新しいスペースにピッタリの様に思えました。オオナムチノカミとスクナヒコノカミを薬種商いの神として祀っていて日本の有名な製薬会社の名前がすらりと石に刻まれています。

福徳神社は850年頃に鎮座したとあり源義家や太田道灌などが尊崇したとの事です。

大通りに戻りすぐに村田眼鏡店の前に出ました。何と一日目の3月20日(火)で閉店するとありました。1615年、鏡師の村田山城守が創業、眼鏡店となってからは宮内庁御用達の高度な技術で知れていました。とても残念ねと皆さんでお店の中を覗き込み通りました。

長崎屋跡は日本橋室町4丁目2番地付近に説明板が立っていました。

船来品の薬種を扱っていて、ケンペルやツンベルク、シーボルト等の医師がいたために杉田玄白や平賀源内等が訪問し外国の知識を吸収する場となっていたとの事です。

公事宿があった事も知りました。公事訴訟や裁判の為に地方から来た人が宿泊できる宿で、長く逗留した大石内蔵助は出る時に100両の御礼をしたと伝わっています。

1分もすると蕪村の居住跡もありました。俳諧師であり画家でもありました。蕪村の句「月天心貧しき町を通りけり」「菜の花や月は東に日は西に」が浮かんできます。

直ぐ隣の石町時の鐘は家康と共に江戸に来た辻源七が鐘付役に任命され、代々その役を勤め1711年の鐘が十恩公園内に移され現在も残っています。

時の鐘通りの美しいマンホールにも私達は注目しました、

通りから一本南に行き、1,2分で佐々木印店です。こちらも幕府が開かれた折に三河から移り将軍や御三家等の印章を造ったという店です。

日本橋からはじめての橋の今川橋跡がありました。当時、今川氏の尽力により架橋できたので名が付いたとも今川氏の屋敷があったからとの説があります。

神田駅のガード下を潜りました。西方の高架の上に徳力の文字が見えます。徳力本店は将軍吉宗の命で金銀の改鋳を始めました。現在も金銀の売買をおこなっていると聞きました。

JR神田駅付近は下駄製造業が多く下駄新道と呼ばれていました。

小さな和菓子屋がありました。二十二代木村庄之助の息子が始め現在は孫の代という事です。次から次へと客が入って行きます。我々も名物の庄之助最中を求めました。愛子さまのお祝い事の時にご用命があるという赤飯もみるみる内に無くなりました。

2時過ぎに神田青果市場発祥の地の石碑を見ました。

あんこう鍋の伊勢原、甘味処の竹村、神田薮蕎麦のお店が次々と現れました。第3回目には神田薮蕎麦の予定です。楽しみです。

筋違見附は現在の万世橋と昌平橋の間にありました。中山道と寛永寺への御成道が交差することから名付けられました。昌平橋を渡ります

2時20分頃、迎高門という門から聖堂に入りました、台湾から贈られた世界一の大きさという孔子像は頭が大きくどっしりした感じがしました。楷書の字を感じさせる櫂の木は孔子廟に植えられる樹で孔子が亡くなった後に弟子たちが植えたそうです。

入徳門は1704年、水屋は1799年の建造で当時のままに残つていました。杏壇門は学問を教授するという意味です。聖堂の屋根の飾りに注目しました。鯱の元になったという不思議な形の飾りが空に映えていました。土曜日は気功をしている集団で賑やかでした。聖堂に隣接して幕府は昌平坂学問所を作りました。明治になり開成所と医学所を合わせ大学校としたとの事です。

聖橋を渡る時に青いドームの屋根が見えてきました。橋を渡り左手に一口(イモアライ)太田姫稲荷神社がここにあつたという印の古木にしめ縄を巻いていました。元宮があった場所を見て紅梅坂を上がりました。

通称ニコライ堂へと入りました。正式名は、東京復活大聖堂といいロシア正教の教会で、大主教ニコライにより1884年から7年の歳月をかけ建てられたとの事です。

300円で教会の内部に入れてもらい説明を受けました。ろうそくを一本ずつ立てて火曜日と土曜日は女性、木曜日は男性の方から説明を受けました。

ニコライ神父の絵が右手に、左手にはローマ帝国兵士姿の若者の聖人の絵があり印象的でした。

十字架の形が八端十字と呼ばれて、下の斜めの棒が足台を表しているとの事でした。

坂を下り5,6分で太田姫稲荷に着きました。道灌の娘が天然痘を患った時に京都の一口稲荷に祈願したら平癒したので感謝し1457年に江戸に勧請しました。家康の入府に伴い移築したとの事です。どなたか太田道灌の山吹が咲いているよとおっしゃいました。

甲賀通りを横切ると小栗上野介ここに生まれるの看板がありました。幕末の外交財政政策をリードした人物でしたが新政府により斬首されました。しかし後の日本にとって大変貢献してくれた人物だと講師は力説するのでした。

次に大久保彦左衛門の屋敷跡と大きなビルの下に石標がありました。二千石の旗本は駕籠には乗れず朱塗りのタライで登城した話が有名です。

3時半頃に本日最後のお茶の水の碑を見ました。二代将軍の秀忠が鷹狩の帰りに立ち寄り御茶を飲んだところ気に入り将軍家御用の水となったとの事です。

本日はJRお茶の水駅で解散です。

江戸時代の社会や暮らしを少し垣間見た気分になりました。

皆様と江戸名所の第一回をとても楽しく終えることができました。

ありがとうございました。

花の陰江戸のなにがし屋敷跡  慶月

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