春の日差しを受けて、街道歩きにはとても良い季節となりました。鎌倉街道上道も早や15回目を迎えました。
3月6日(火)、10日(土)合わせて30名の御参加で武蔵の国府があった場所を歩きました。6日はポカポカ陽気で汗ばむ位でしたが、10日は歩くのに丁度良い気温で、皆様の足どりも軽く進むことができました。
10時、北府中駅を出発しました。左手に古くなった府中市民球場を見ながら進み川越街道の石柱を左折しました。1996年の薮内佐斗司の作品で蛙や童子の展示物をよけながら進み蓮の花や葉の集まる堂々広場を鑑賞しました。
10時20分過ぎに大きな欅の道に出ました。ここはもう大國魂神社の参道です。源義家の美男子の像が建っていました。源頼家、義家親子が前九年の役の折、戦勝祈願で奉納した千本の苗木からこの並木は続いているとの事です。当時の樹といわれているのは正面鳥居の両側の二本だけとのことです。
虚子の句碑や万葉仮名の歌碑もありました。
義家が奉納し現在に至っているという二本の欅が見えてきました。6日には神官の方が注連縄を直されていました。
参道の左手に宮之咩神社の珍しい奉納品を目にしました。穴の開いた柄杓は安産のお礼に納めるとのことです。
そのずっと奥に国府府中跡の赤い柱を見ました。武蔵国国府の国衙跡と推定されています。官僚が仕事を行っていたという場所でしようか。何本もの赤柱が建てられていました。当時を思い描くには少し難しい気もいたしましたが、私たちはその朱塗りの柱の横を通り抜けました。
立派な土俵を見ながら大國魂神社の境内へと戻りました。歴史館を見学しながら御手洗い休憩を取りました。
3月10日には、歴史資料館を出て直ぐに結婚式の行列を見ることが出来ました。雅楽が前を先導し、とてもおごそかでした。
日露戦役記念碑や中門、亀石、鶴石、鼓楼を見ました。
松尾神社には酒樽が奉納されていました。神馬像や東照宮を見ました。住吉・大鷲神社へもお参りしました。
この東照宮は、秀忠の時代に家康の柩を久能山から日光の二荒山に移す折こちらで一泊したとのことで、後世に伝える為に1618年創建されました。
地獄坂とも暗闇坂とも言われた裏道を通り妙光寺の立派な朱の門を見て、少し高くなっている場所へと進むと小さな琴平神社がありました。天狗の団扇の紋です。なぜ航海の神である住吉や琴平があるかは、当時多摩川がすぐ下を流れていてここは重要な物流の拠点だったという事を意味しているのです。
6日も10日もまだ梅が美しく咲いていました。通りに出て天台宗善明寺へと入りました。山門を潜ると美しいお庭が広がっていました。御堂には畠山重忠の愛人の夙妻の死を憐れんで鋳造したという鉄仏が納められているそうです。
ずっと奥の駐車場の隣に依田伊織の墓がありました。1681年府中本町に生まれ神道、仏教、儒教の三教一致を説いたとの事です。
12時頃、古い市役所の建物の前を通り本日のお昼のカフェに着きました。1861年建築の中久本店で、今は黒壁の土蔵造りのカフェと酒屋が一体になっています。火曜日は一階と二階に別々に別れて頂きましたが、土曜日は一階フロアを「あるき隊」の貸し切りとしてもらいました。多くの方がランチと共にコーヒーやデザートも楽しまれておられました。
1時間の休憩の後、ます直ぐ側にある高札場をみました。人通りの多い場所に禁制や法令等を伝える為に板札を掲げた場所です。隣りの御旅所の赤い柱の柵が目立っていました。
藤原秀郷(俵藤太)の創建と伝えられ、武蔵守として在任中の居館として開かれたと伝えられています。後に足利尊(高)氏により再興され、尊氏の院号の名を取り龍門山等持院高安禅寺という立派な古刹です。山門の扁額を見ながら入り、観音堂の三間堂を眺めながら干支八体本尊が並ぶ参道を楼門へと進みました。
仁王像の裏側には奪衣婆像があり、私達はギヨッとさせられました。
墓地に入らせていただき太田蜀山人の書体を見せてもらいました。
タラヨウの大きな木がありました。葉書の木とも言われ仏教の経典は初期にはこの葉に書かれたとの事です。
奥の立派な本堂には足利家の家紋である二引両が輝いていました。木曽源太郎義顕の墓が大きく建っていました。木曽義仲の25代子孫で明治時代に自由民権運動家でした。
秀郷稲荷は屋敷跡との伝承です。説明を聞いていた時に頭上では緑の鳥が飛び交っていました。野生化したインコだそうです。
稲荷の脇の足元の悪い階段を降りると弁慶の硯の井戸がありました。義経が腰越で拒まれ、京都を目指す折に弁慶が再度、文を書いた時の硯に水を注いだ井戸とのことです。
分倍が原駅前に新田義貞像があり御手洗いと写真を撮影しました。
5分から6分で高倉塚に着きました。この辺には27基ある古墳の一つです。6日には辛夷の蕾がふくらんでいました。
陣街道は別名を鎌倉街道、浅間道、分倍道とも呼ばれていました。
通りに向いている抱き板碑は、古木になった欅の木に抱きかかえられるように立っていました。1319年、父親の17回忌の供養に建立された事に驚きましたが、説明板には風化がひどく複製との事で納得しました。。
その板碑が境内にあった天王宮八雲神社に入りました。牛頭天王と須佐之男命を合祀して分梅地域の鎮守としたとの事です・
10分ぐらいで分倍ケ原古戦場跡に着きました。きれいに整備されていて遊歩道の脇の樹々は芽吹き始めていました。1333年5月15日、新田義貞勢は合戦に敗れ所沢方面に逃れたが、三浦義勝をはじめ相模勢が加わり16日未明に北条勢を急襲し破ったとの事です。これで勝負がきまり鎌倉幕府が滅亡する事になりました。
ここ分倍が原に今は春光が温かくふりそそいでいました。街道はここで一旦途切れるという道を振り返り中河原駅を通り過ぎました。
西を見ると橋を電車が渡っています。江戸時代、多摩川の鮎は特に有名で日本橋の魚市場に送る為に「鮎担ぎ」が駆けたとの事です。
地蔵堂の前に関戸古戦場跡という標識があり曲がると弓の名手であった横溝八郎の墓がありました。元弘の戦いで戦死した北条方の屍を埋めた墳という事です。
すぐに、関門山地蔵院延命寺という時宗の寺に入りました。ここは藤沢の游行寺の隠居寺のために檀家がなく地元との繋がりもないとの事です。紅白の梅が美しく咲き、お地蔵さまたちが印象的でした。
数分あるき道路の右手を上がり無名戦士の墓という小さな祠と石塔二基を見て急階段を気を付けながら降りました。
15時50分頃に相沢五流・伴主親子の墓が観音寺にありました。京都の仁和寺で法眼の位についた狩野派の絵師で、華道の允中流の創始者でしたが一代限りだったとのことです。
すぐ近くの小山家の中に入れていただき、お庭の奥の安保入道道忍の墓を見せてもらいました。安保氏は北条家との繋がりが強く、安保実光の孫娘は三代北条泰時の後室として入っています。卒塔婆が立てられ供花もありました。
16時過ぎ熊野神社前の交差点です。
鎌倉時代、関所の南木戸があったと言います。関所は霞が関と呼ばれ日本武尊が、都より雲霞を隔て遠い場所というところから付いたとの事です。日本武尊が蝦夷来襲に備えて造った関所という事です。当時の関所は木の丸太が建てられていて馬が通れないようにしていました。
熊野神社の紋である八咫烏の三本足を見て、今年行われるサッカーワールドカップを思うのは筆者だけではないはずです。
4時過ぎに一路、乞田を目指します。16時30分、交差点を渡る手前で本日の終点となり永山駅に向かいます。
10分位で小田急と京王の永山駅に着きました。来月は講師の地元の町田を歩きます。本当の鎌倉街道が三ヶ所残っている所です。どうぞ御期待ください。皆様お疲れさまでした。