鎌倉街道・上道  第四回 神流川から児玉

今年、初めての上道の日、17日(火)、28日(土)はどちらもお天気に恵まれました。本庄駅から一時間に2本のバスが出ています。10時過ぎの鬼石行きバスで約15分の元安保で降り、5分くらいで安保氏館跡に着きました。

安保氏は北武蔵の豪族で鎌倉幕府の有力御家人でした。北条氏に接近し勢力を伸ばした後には足利氏に仕え、小田原北条氏に仕え関東の名族となりました。子孫は日露戦争時の戦艦三笠の砲術長で日本海海戦に活躍したという事です。

次の安保神社には、裸木の御神木がそびていました。

浅間山を右手に、赤城山を背に歩きました。

池上神社への道標がありました。

まずは隣の幸春院に着きました。丹党の安保直実の開基です。こちらは六地蔵塔が有名です。石灯篭の形をした石幢で、六角柱の各面に地蔵菩薩の浮彫がされています。

かっては中央の穴に車石がはめられ念仏を唱えながら回すことで願いが叶えられると言われていました。

大きなサボテンが何故か本堂の前に沢山ありました。

11時20分頃、池上神社に着きました。安保領の用水の堰口に当たるので水の神様を祀っていたとのことです。

雪を頂いた山々の何と美しい事でしょうか。こちらから見る風景が良いとの事で私たちもしばし観賞しました。

八高線を渡りました。17日は写真家の人たちが大挙してカメラを構えていました。赤城山等の山々と列車をカメラに収めるためでしよう。

高橋記念館に11時半すこし前に着きました。高橋家は天保年間に賀美郡一帯の大地主でした。穀蔵を供えた立派な門構えだけがあり当時が偲ばれました。白壁は美しく大きな木が所々に立っていて誰も居ない静かな佇まいでした。

百科事典の平凡社を大正2年に設立しました。

神流川へまっすぐ歩いて行き海洋センターで御手洗い休憩をとりました。

先月はこの対岸を訪れました。神流川の枯れた土手が続いている景の何と長閑な事でしょうか。

もうお昼前になりました。田園の一本道をどんどん進みます。28日は、くっきりと山々が見えました。日枝神社の横の公園の古びたベンチで皆さんそれぞれに持参のお弁当を頂きました。

日枝神社の鳥居は赤くて山王鳥居の形が珍しく、大きな亀石があるのにも注目してお参りしました。

日吉=日枝神社は、比叡山の事で日吉信仰と天台宗の結びつきから別当の長慶寺が創建に関わったと考えられています。

次に長慶寺へと入りました。菊に三諦星は天台宗の正式紋で格式の高さが分かります。

こちらは義民田村埜之助翁顕彰碑があります。中山道の交通量が盛んになり助郷負担が大きなり、助郷反対で1764年の大百姓一揆が起こりました。中心人物の一人として田村埜之助は捕えられ牢死し、墓碑は子孫が確認されたので建立したとの事です。

10分歩くと、桜の木の下がこんもりと盛り上がっている場所にさしかかりました。この小さな塚は、小田原北条氏の攻撃を避ける為、雉岡城を任されていた夏目氏の姫を雉岡城から上州の平井城へ逃げさせる途中、病弱な姫がここ植竹の地で亡くなりました。亡き骸を雉岡城に方に向けて埋葬したという悲話があります。

この辺りの全ての畑に用水が巡らされてあり驚きながら進みました。

14,5分ぐらい歩くと八高線を渡ります。

玉子の自動販売機にまたしても驚かされました。産み立て卵に心が動きますが私たちは立ち止まることが出来ません。

大きな防風林のある屋敷の横を通り、奥の方に板碑がずらりと集められている場所を見ました。

すぐに経力稲荷の赤い鳥居がありました。細い道をどんどん入ると奥にはキツネがずらりと並べられていました。この道が安保神社前からの鎌倉街道だとの説明を聞きました。

この辺りは、しばらく鎌倉街道が続きます。

八日市熊野神社は古くから八の日に物資の交換市が開かれていましたが、延宝2年1674年に交換市で争いがおこり大火となって獅子舞の厄払いが奉納されたとの事です。ガラスの中の本殿ものぞきました。横には御神輿が置かれていました。

龍清寺は真言宗のお寺で南無不動明王の幟が立っていました。樹齢約300年の榧の木が飛竜の名の如く傾いています。塙保己一が幼少の頃、こちらの住職から太平記を読み聞かせてもらったということです。

28日(土)には幸運にも本堂が開いていて中に入らせてもらいました。

御位牌の前に小さな保己一像があり撫でると頭が良くなるというので心を込めて撫でさせたもらいました。

芭蕉句碑の「若葉して御めの雫 ぬぐはばや」の鑑真和尚への思いを偲びました。

14時ちかくに本日のメインともいうべき塙保己一の生家を訪ねました。

門は開かれていましたが、茅葺の家は直系の方が住んでいらっしゃるとはいえ、何も動きがなく静かでした。私たちも静かに拝見させてもらいました。

名字帯刀を許された農家に延享3年(1746)に生まれ7歳で失明。江戸四谷の雨富検校に入門し国学の学者として成長するのでした。水戸藩の大日本史の校正にも加わり盲人の最高位の総検校になったとの事です。

生家の手前を少し入った所に墓があり、最近新しく整備されたとの事です。

明治4年には正四位を贈られました。

14時半過ぎに気持ちのいい道をどんどん歩きます。道が線路沿いとなりました。

小さな雀橋を渡りました。ここから鎌倉街道ということです。

昭和42年3月に架けられたコンクリートの小さな橋ですが、その昔はどんなふうだったのでしようか。

暫らく歩き大通りに出てスーパーやおよしで御手洗いと休憩をしました。

15時半頃に浄土宗の長福寺に着きました。両側の葵の紋の真中に杏葉の紋の屋根が立派でした。

こちらの本堂の下が鎌倉街道という事であす。疱瘡稲荷の中をのぞきました。

こちらの僧侶の呑龍上人は庶民教育に心を砕き、貧困者の子供を引き取り教育したので「子育て呑龍」と呼ばれていたそうです。

法然上人の像のお顔が若々しく感じました。

16時過ぎ、本日最後の雉岡城跡に着きました。別名八幡山城跡とも呼ばれ戦国時代には山内上杉氏の居城として築かれましたが、狭いので上州平井城に移り家臣の夏目氏に守らせていたということです。そこで、本日見たばかりの姫塚を私達は思い出すのでした。

夜泣き石(親子石)の悲しくあわれな話を聞きました。正室と側室の関係にはいつの世もそしてどの国でも悲話が残っています。堀の中にある小さな石を私たちは見つめるのでした。

奥の小さな金毘羅宮にも参りました。きりぎりすの句碑(むざんやな甲の下のきりぎりす)は斜面にあり見えにくく、この句碑も石材店の伊藤さんが寄進したとの事です。

塙保己一記念館は移転していたので次回に廻しバスで本庄駅に向かいました。28日には講師のミニマイクが登場しました。これからは少し聞き取りやすくなるかと思います。

外でのお弁当が続き大変でしたが、美しい山々の風景を眺める喜びも味わいました。

皆様朝早くから大変、お疲れ様でした。

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