2月16日㈫は晴天、20日㈯は午前中より雨の降る中、あるき隊の皆さんは頑張り、かつ大いに楽しみました。今回もとても内容の濃いコースだったと思います。 梅ヶ丘駅を9時40分頃出発しました。そして10分位で杓子稲荷神社へ着きました。ここは、世田谷城の表鬼門に当たる場所で、伏見稲荷を勧請したということです。赤い鳥居に杓子稲荷とあり、杓子は食べ物をすくうことから全ての災難から救う御箆大明神として祀られていたのでした。また、日清戦争の時は敵を召捕るという意味で人々に信仰されたそうです。 少し歩くと、国士舘大学の辺りに差し掛かります。福岡の武士たちが作った玄洋社の流れを組み、アジアの文化圏を中心とした考えを広めていく思想で、あの孫文を助けたと言われています。その教育部門が現在の国士舘大学等の姿というのです。随分立派な建物が幾つも立ち並んでいました。 直ぐに、桂太郎の墓が木々の間から見えてきました。松陰の教え子で、遺言通りに松陰のそばに墓を建てたとのことです。 さてとなりの松陰神社の鳥居が見えてきました。毛利家の抱え屋敷の敷地内に造られた吉田松陰を祀る神社です。門下生たちが処刑された松陰の遺体を運び、丁重に埋葬したとのことです。 筆者は講師と共に小伝馬町の刑場跡を訪ねたことがあり、あの陰気な場所を見ていだけに少し救われた気がしました。瓜に卍の吉田家の紋が輝いています。松陰の座像の後ろで紅白の梅が美しく咲いています。松下村塾のレプリカが右手奥に建てられていて我々は当時を偲ぶのでした。 奉献された石燈籠の並び方も主君と臣下をはっきりと示していました。松蔭のお墓には花や榊が供えてあり、徳川家からの水盤や燈籠が傍にありました。やはり松陰が政治に関わっていたとしたら、明治の時代がどうであったかと思った人は多かったのではないでしょうか。 20分位過ごし次へと向かいました。 世田谷城の裏鬼門に建てられた勝国寺を見ました。こちらは江戸幕府より112石の朱印を与えられた御朱印寺です。 10分位進むと石積みが連なっている世田谷城址です。吉良治家が室町時代に築城したとのことで、全盛期には南関東の主要な場所だったとのことです。
御手洗い休憩も兼ねて10分位思い思いに辺りを散策しました。 7、8分で本日のメインの一つの豪徳寺へ着きました。福を招くという招き猫の話を講師が詳しくします。ここで全員の記念写真を写しました。中道のコースの半分程度歩いたので招き猫と撮りたいとの四宮講師の発案に、皆さまご協力をいただきましてありがとうございました。 細工の巧みな五重塔の中心に白い猫がいてとても笑えました。 無名戦士慰霊記念碑の横たわる人の像の胸から木が生えています。いったい何を語ろうしているのでしょうか。5300余人の供養をしているとのことです。 しかし何といってもここでは井伊大老直弼の墓へ行かなければなりません。白梅が満開の前を進むと立派なお墓がありました。とても長い法号です。 後ろには桜田殉難八士の墓もあり、そばで紅梅が咲いていました。 桜田門外の変の際に、直弼と親しい水戸藩の何某から投げ文が届いたにもかかわらず、直弼は警護を増やさなかったという話を聴き、心中が複雑になる私たちでした。そして旧幕府軍と戦い戦死した彦根藩士11名のえい首塚を見上げてから、豪徳寺を後にしました。 安政の大獄を行った者と、その人により流刑から斬首とされた者の墓が世田谷のこんなにも近くにあるのですから、悲しくも不思議な縁を感じずにはいられません。 世田谷線の踏切を渡ります。緑色の昔の車両が駅に置かれていて懐かしんでおられる方もいらっしゃいました。
すぐに世田谷八幡宮へ着きました。源義家が1091年に勧請したとされています。また疱瘡の神様を祀り、疱瘡を鎮めようとした昔の人々の苦労がうかがえます。狛犬の子どもが親の尾をくわえていて何とも微笑ましく和ませてくれました。 世田谷線をまた渡り5、6分で吉良家の墓所である勝光院へ着きました。。駕篭が上がれるように石段がとても緩やかで奥行きがたっぷりありました。 10分位でボロ市通りに入りました。 すぐに代官屋敷の閉められた門を眺めながら通用口へと進みました。お天気の良かった16日は大きな蟇蛙が出ていて驚きました。屋敷の玄関や、恐ろしい白州や道沿いあったと石造物の説明を聴きました。重要文化財の大場家の住宅もゆっくり鑑賞したかったのですが私たちは先へ進まなければなりません。 20日は小雨が降っていたのでこれらを急ぎ見てから昼食にしました。今回は大きな店がなくて4,5軒の、寿司屋やカフェ、小さなレストラン等に別れてお昼にしました。 さて、この通りのボロ市祭りは毎年ものすごい賑わいと聞きます。小田原北条家がここに楽市を開いたのが始まりといいますから歴史を感じます。 代官屋敷の後方には、大場家の菩提寺浄光寺があります。そして、5分位で鶴松山実相院へ。定規塀と大きな塔が目立っていました。世田谷城主の吉良氏朝が北条氏の滅亡で下総に逃れている間に家康が江戸に入り、吉良氏は城に戻ることが許されず、ここにて死亡したということです。午前中に城跡を見ていただけに、世田谷という地もいろいろと歴史が動いて今に至ったのだと感じ入りました。 しばらく進むと児童公園の端に大山道参拝人像があり、木漏れ日の下で誠にのどかな格好をしているのでした。
大山道と鎌倉街道が重なっている辺りをしばらく進みます。陸上自衛隊という交差点を過ぎ、衛生材料廠跡も過ぎ、小さな大山道追分の石柱を見ながら行きました。 直ぐに瑜迦山真福寺へ着きました。バラモンのヨガからきていると講師はいいます。皆が健康のために行っているあのヨガが山号になっていて、山号から地名の用賀はきているという話になるほどと皆さんは大きくうなずくのでした。 三椏の花が咲いていました。立派な庚申塔と芭蕉句碑も鑑賞しました。 道の辺の木槿は馬に喰われけり 花も次の瞬間には無くなるという無常を詠んだ句といいます。今を大切に生きなければと感じる次第です。 またすぐそばに、無量寺があります。品川の浜で漁師の網にかかった十一面観音様が本尊で十二年に一回御開帳されるということです。ここにある草木供養塔之碑は、数ある供養塔の中で大変珍しいと講師は言いました。 大空閣寺は新しい寺で、ハモニカ製作所の小林氏が建立した観音と鮮やかで沢山のかざぐるまが印象的でした。 もう3時半近くになっていました。喜楽山慈眼寺の大きな門をくぐりました。鎌倉時代長崎氏が開山したとのことです。20日はもうすっかり本降りになっていて、会員の方々は弱音もはかずぬ講師の話に耳を傾ける姿に感動しました。 となりは瀬田玉川神社です。鈴と鈴緒がなくて、手に持って鳴らす鈴が拝殿前に置かれていて珍しく思わず鳴らしてしまうのでした。 親にそっくりな顔で甘える狛犬の子があまりに可愛くて、私たちは立ち止まりました。 慶長年間に小泉治大夫というひとが造った灌漑用水で、この地の人は治大夫堀、治大夫橋と呼んだそうです。 二子玉川商店街に入りました。今は無くなった玉川線の跡を通り兵庫島へと田園都市線の高架をくぐります。兵庫橋を渡ると河津桜の花でしょうか、一本の桜が咲いていました。多摩川の中州のここは、新田義興(義貞の次男)の供の由良兵庫助の遺骸が流れ着き、この地の漁師が悼み葬った場所です。高級感ただようここ二子玉川で、その名が残る兵庫島の話をいったいどれだけの人が知っているのでしょうか。 若山牧水の歌碑を見て、二子の渡し跡を見て駅へと向かいました。赤レンガの近年の堤防跡の見学し、大きくモダンな二子玉川の駅に到着しました。雨に降られた20日の皆さまも最後まで頑張られました。お疲れさまでした。 堂守りてしだるる梅や寺の雨
渡し跡けぶりて雨や遠き春 幸子
梅香る座像説きをり志
首塚に刻む字美しく春の雨 慶月
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鎌倉街道あるき隊の四宮功講師が、二回目のテレビ出演をいたします! 3月7日(月)テレビ朝日(5チャンネル)羽鳥のモーニングショウ。 9時15分頃からです。お時間のおありの方はご覧くださいませ。 石原良純氏を中山道の板橋から蕨宿まで案内します。