第七回二子玉川~荏田

 

3月15日㈫19名晴天の中を、19日(土)12名は小雨の中を、9時40分に二子玉川駅を出発しました。東急田園都市線を左に見ながら多摩川を渡ります。渡り切った場所に「ふたごばし」という大正時代の親柱と二子の渡しの立札が立っていました。IMG_3868IMG_3866

右手に岡本かな子文学碑があり、築山は丹下健三設計で、モニュメントはあの岡本太郎の作品です。純白の羽を広げた鶴のような像が空に向き立っていました。すぐ側に小さな二子神社ありました。IMG_3870

岡本かな子の実家である大貫家は苗字帯刀を許された豪商で明治時代も蔵が17もあったといいます。その大貫家の菩提寺である大悲山光明寺に10時過ぎに着きました。IMG_3886

楠の巨木の下に大貫家の塋域(エイイキ)である墓地が広がっていました。釜形の水盤に金魚が可愛く泳いでいました。IMG_3882

本堂には二子学舎という高津小学校の前身が置かれていたというのです。

そこで講師から江戸時代が進むにつれていかに寺子屋の数が増えていったか、その結果、明治維新以降の日本がスムーズに発展を遂げたという話を聞きました。IMG_3888

舗道のない歩きにくい道をすすんでいると大釜が右手にありました。この大釜は大河ドラマ「黄金の日々」で石川五右衛門が釜茹で使用したといいます。本物の釜茹の刑に使った釜は会津にあったとのことです。

江戸時代になると残忍な刑はなくなり磔獄門が一番重い刑だったようです。

図書館まえには国木田独歩の碑があり溝口の亀屋で泊まり「忘れ得ぬ人々」のモデルとなったと言います。田中屋呉服店の珍しい蔵造りを見ながら高津の信号を渡りお茶の田中屋と進みました。IMG_3893

1751年頃の宝暦年間の創業ではじめは万屋で後にお茶とはかりを売るようになったといいます。IMG_3897

ここで珍しい武州茶をいただきながら店主より量りについて説明を受けました。小さな5尺の桝が1合桝にぴったりはいるのには皆でほおと関心しました。しかし私たちは周りに気を取られもして緑茶、紅茶、羊羹にビスケット、お茶のミルまで購入した方もいらっしゃいました。

講師のメートル法に移行した話は頭を素通りしてしまいました。でも資料にありますから大丈夫です。IMG_4007

 

 

 

 

明和年間から薬屋で今も続いている灰吹屋がありました。土蔵は明治のものといいます。又、二代目の仁兵衛さんは俳句が上手で俳号が老人亭宝水とは笑えます。IMG_4013

大山街道道標を見ながら11時にふるさと館に着きました。ここで御手洗いと資料館内を見ました。IMG_3903IMG_3904納めの木太刀は、三人位で担ぎ大山阿夫利神社へ奉納するというレプリカの大きさに驚きました。

又、一階奥に我国初の人間国宝、浜田庄司の作が展示されていて私たちの目を引き付けました。IMG_4017

ふるさと館の隣は浜田庄司の家との札が立っていました。

11時半近くになっていたでしょうか、石橋がありました。大石橋と呼ばれたこの橋は稲毛郷と川崎郷の二ケ領にわたる用水で二ケ領用水と呼ばれています。1611年からの流れに思いをはせました。IMG_4024

11時半、ここでお昼の場所へと向かいました。地元の会員さんの案内で一部の人は溝口ビル8階のインド料理を楽しみました。IMG_4029

12時半に歩道橋を降りたところに集合し、さあ午後の出発。

午後一番の訪問先は溝口神社。宝永5年(1709)に溝口村鎮守でしたが明治には高津村等も含めた総鎮守となり合祀されている神社も多く中でも松尾神社は酒造の神様で珍しく手を合わせる方々もいらっしゃいました。IMG_3916

IMG_3920樹齢300年以上の御神木の親楠や樹齢500年以上の長寿けやきを見上げ本殿の石造りの珍しさにも驚く私たちでした。

しかい一番忘れられないものと言えば水盤をささえている四人の我慢さんでした。IMG_3914

2、3分で宗隆寺へ。明和3年の古い髭文字の題目塔が迎えてくれました。こちらには浜田庄司のお墓や筆供養塔もありました。IMG_3924

IMG_3927「世を旅に代かく小田の行きもどり」の芭蕉句碑は灰吹屋二代の主人の玉川宝水が建立とのことです。さてここで講師が大変珍しいという日蓮の幼名である善日麿像を示すのでした。おだやかで聡明そうなお顔と上等な衣服に数か月前に見た聖徳太子像を思い出すのでした。IMG_3928

 

 

3分程で栄橋の交差点へ溝口村上宿と下作延村片町の境だったことが名前からわかります。さかえ橋の親柱が残されていました。

又、少し進むと陶芸家浜田庄司の生誕の地の立札もありました。

大山道の道標と庚申塔を過ぎると多摩丘陵特有な道に我々は入っていきます。

はらへりとも呼ばれたという「ねもじり坂」から始まりました。昔はもっと急な坂で野菜や魚を江戸に運んだといいこの坂下辺に食べ物屋さんがあったようです。私たちはこれからその坂を登っていきます。IMG_3944

8分位登ると平らな道に入り笹原子育て地蔵がありました。12年毎のご開帳とのことです。筆者は孫の為にお願い致しました。横に大きな秩父・西国。坂東供養塔が立っていました。

19日は雨がすっかり上がったので、地蔵堂の前をお借りして皆で雨具を脱ぐ事が出来ました。5,6分で庚申塔があり「右大山道」「左やうがすじ道」とありました。

宮前平駅前に八幡神社があり石段が急ですが15日は頑張って登りました。5,60段はあったでしようか。

光背がある庚申塔は珍しいと講師はかたるのでしたが他には拝見するところもなく早々に失礼しました私たちでした。IMG_3951

しかしこの宮があったので宮前平という駅名が付いたのです。この駅で御手洗いと水分補給をしました。

246号を渡り又、登り坂です。坂の上にあゆみが丘の字と横浜のマンホールを見つけました。IMG_3959

横浜市に入ったのです。皆川家のそばには立場があり馬に休息所だったということです。IMG_3961

今は大きな造園業を営んでいるようです。登り切ると住宅地の間から丹沢山系がきれいに見えます。しかしこの辺りは刑場があったという事です、すぐに下り坂になりましたが別名を血流坂という地名とは何と恐ろしい名前でしょうか。

不動の滝という名ばかりちょろちょろの水が落ちていました。IMG_3968

急な石段の上に老馬鍛冶山不動尊堂があり、傍にあった椿の花や葉について、西洋でとても人気がある花との話をしながら一息入れました。小さな石坂供養塔が石段の脇にありました。昔はここから大山がきれいに見えた事でしよう。急斜面にも家やマンションが立ち並んでいます。IMG_3962

3時半過ぎに平坦な道に出て川の側に出ました。ほっとした一行を小さな土筆が和ませてくれました。IMG_3977

荏田下宿庚申堂はなんと婦人たちのためというから驚きました。この辺の女性たちは昔からすすんでいたのかもしれません。造花ですがきれいな花が供えてあります。

民家の中に中宿秋葉常夜燈が立っています。IMG_3985なぜ庭の中にあるのか疑問に思いながら又、246号に出て荏田町の字がどれ程うれしかったことでしようか。今日は多摩丘陵を上がったり下ったりとてもハードでした。ちょうど4時頃、江田駅に到着しました。本日は大変お疲れさまでした。IMG_4051

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